観客をひとつの方向にアジテートする演劇、と誤解を受けかねないブレヒトの『教育劇』だが、その可能性は全く逆を向いているように思える。ブレヒトは舞台の観客による「受容」を問題にしていたのであり、その「受容」の内実とは、「"わたし"が世界との関係をどう結ぶか」=「世界を、"わたし"をどう創っていくか」という極めて批評的/創造的なものなのである。
J.L.ボルヘスと高島平。このどうやっても出会いそうにない二つをぶつけてみる。そこに何が生まれるのか。問題となるのは「都市の記憶」、あるいはそこに内在する「死」であろう。高島平という「地層」を発掘するなかで、また住民の方々との幸運な出会いのなかで、私たちもまた、とるに足らないもの、捨て去られたもの、虐げられたものの収集に努めた。東京という都市の一郭に眠る記憶の地層が、どんな形をとって現れ、私たちを迷子にするのだろうか。 記憶への旅。Museum: Zero Hourへようこそ。
ローマを救った英雄であり、かつ実の妹を殺した殺人者でもあるホラティ人は、民衆の厳格な思考と言語によって判定され、賞賛されると同時に処刑される。 そこに生じる二項対立のメカニズム──切る、分ける、裁く、絶つ…その行き着く先は? 割り切っても割り切れない残余とは? 〈言語/思考〉と〈身体/共同体〉の問題に対するミュラーの問いに挑む。
この作品の出発点である謡曲「隅田川」は、出会えない能だといわれる。この能の舞台としての隅田川、そして梅若伝説は、実はこの東(あづま)の地でも鐘ヶ淵と春日部という二つの土地に根を下ろしている。それぞれに隅田川と(古)隅田川が流れており、どちらにも梅若塚やゆかりの碑などが存在しているのだ。 歴史上いく度かの河川(線)の引き直しを経て、もはや連絡することなく、いまこの瞬間も同時に流れている二つの隅田川を巡り、書き換え、置き換えられ、移植され、映し重ねられてゆくさまざまな夢、「都市の記憶」が浮かび上がってくる。産業革命とともに紡績と鉄道がさまざまな"糸"と"線"を川筋に交錯させてゆくこの土地に、吸い込まれていった無数のウメワカ(梅若/埋若)丸の、さて行方やいかに‥
哲学者ニーチェと思しき人物とその家族を描いた『ニーチェ 三部作』は、稀代の哲学者が晩年に精神を冒されて戻った実家を舞台とし、ニーチェ、母、妹が登場する。気宇壮大な哲学思想は、実家での生活のなかで歪められ、書き換えられ、その「継承者」となった妹により次の世代へと「伝達」されていく。時は十九世紀から二十世紀への変わり目、家族という私的な時空間を舞台にした『ニーチェ 三部作』だが、二十世紀から二十一世紀への転換を経験した私たちは、この作品をどのようなアレゴリーとして読み解き、書き換え、今の時代に切り開いてみせることが出来るのだろうか。