東京国際芸術祭2004 10回記念ユーラシアフェスティバル
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Reviews Online -劇評通信-


スレイマン・アルバッサーム・シアターカンパニー『アル・ハムレット・サミット』

谷岡健彦(共立女子大学講師)

テロリストとしてのハムレット

  非英語圏のカンパニーがシェイクスピア戯曲を上演しようとするとき、しばしば視覚的要素、それもその国の伝統文化と結びついたエキゾチックな要素を前面に出したスペクタクルが志向される。昨年、蜷川幸雄が演出した『ペリクリーズ』はその好例だろう。クウェートの劇団がアラビア語で『ハムレット』の翻案劇を上演すると聞いて、中東風のエキゾチシズムにあふれた舞台を期待する向きもあっただろうが、そのような期待は小気味よく裏切られることになった。スレイマン・アルバッサーム・シアターカンパニーの『アル・ハムレット・サミット』は、その洗練されたヴィジュアルに目を奪われる作品だが、それは少しもエキゾチックではなく、きわめて「都会」的(メトロポリタン)であり、決して大がかりなスペクタクルを組織することを意図されたものではない。「政治的アラベスク」という副題が付けられたこの劇は、華麗な装飾(アラベスク)が施されてはいるものの、その本質は濃密な台詞劇であり、シェイクスピアの原作の台詞を借りれば、まさに「言葉、言葉、言葉」の劇なのだ。そして、この知的に組み上げられた舞台は、アラブ世界にエキゾチシズムを期待する現代のメトロポリス文化の心性自体をも、その批判的視線の中にとらえているのである。
  それは端的にこの劇のハムレットの人物造型に表われていよう。この劇でハムレットはしだいに狂信的なイスラム原理主義に傾倒し、最終的に「テロリスト」としてクローディアスに刃向かうことになるのだが、ここでオリジナルのハムレットが一般にどのような人物としてとらえられてきたかを思い出してみるとよいだろう。ルネサンス期のイギリスで書かれた彼は、内面に葛藤を抱えた最初の近代人のひとりとして、近代西洋の個人の一類型としてとらえられてきたのではなかったか? この近代西洋の典型的人物が、こともあろうに、西洋が自らとは決して相容れるところがない絶対的な他者として表象する「テロリスト」と重ね合わされる。何しろ、この劇のハムレットの台詞にはオサマ・ビン・ラディンの演説からの引用も含まれているのだ。このようにして、この劇の作者スレイマン・アルバッサームは、イスラム世界を異質なものとして簡単に切り捨ててしまう思考(エキゾチシズムもその一つ)を鋭く批判する。アルバッサームの考えによれば、西洋が、自らが「善」であることを保証するために「悪魔」化している「テロリスト」も決して近代西洋とは無縁のものではなく、むしろ近代西洋が産み落としたものなのだ。
  実際、この劇でハムレットは西洋への留学から帰ってきたばかりという設定になっており、当初、彼は自分の生まれた国にとくに愛着を抱いているわけではない。ハムレットは言う。「もうおれの血はこの国の暑さに順応できない」。こうした「西洋かぶれ」のハムレットが、劇が進むにつれて原理主義的傾向を強めていくのだが、そのきっかけとなるのが、アメリカ人の武器商人から手渡されたビラであることには注意すべきだろう。ハムレットは、イスラム原理主義を「自然に」身につけるのではない。ちょうどシェイクスピアの『ハムレット』において、先王の亡霊という他者から復讐という想念を吹き込まれるように、彼はイスラム原理主義を西洋人の手から受け取るのである。シェイクスピアのべつの劇にたとえて言えば、このハムレットは、『テンペスト』のキャリバンのように、西洋人から「悪口を習う」のだとも言えようか。まさに鬼子としてのイスラム原理主義が近代西洋から産み落とされるさまがここに描かれるのだ。
  一方、ハムレットが反発するクローディアスは、ハムレット以上に、西洋的な思考、とくにその世俗主義になじんだ人物である。ハムレットに先王殺しを暴かれ、苦境に立たされた彼は次のように祈る。「神よ、オイルダラーよ。(中略)私はあなた以外の神を持たず、その姿に似せて造られました」。この祈り文句が示すように、クローディアスはとても厳格なイスラム教徒とは言えない。彼が信仰している神はイスラム教のそれではなく、金銭なのである。そして、彼はこのように資本主義に心を奪われ、世俗的な欲望にまみれた自分を、汚れた存在として意識している。「私は汚辱を十分に学び、汚辱を喰らいました。汚辱の芸術家です」。それゆえ彼は、「この地を清めてやる。浄化してやる」と叫ぶハムレットにとっては打倒すべき対象となるわけだが、この世俗的なクローディアスと宗教的なハムレットは、実のところ、見かけほど遠く離れたところに立っているわけではない。二人の間にある違いは、西洋的なもの、より正確に言えば、欧米主導の世界資本主義に対して、国家の「繁栄と秩序」のために汚辱を忍んでそれに迎合するか、断固拒否するかの違いだけであって、結局のところ、二人は世界資本主義が産み出す現象の表と裏にすぎないのである。この対立が、クローディアスとハムレットがともに倒れるというかたちで終わった後、再び武器商人が舞台に姿を見せるのは示唆的である。凄惨な殺戮の後も世界資本主義はまるで何ごともなかったかのように生きのびるのだ。
  そして、そこに立つ、もう一人の登場人物フォーティンブラス。実は私はこの作品の英語版をエジンバラで二年前に観ているのだが、このフォーティンブラスほど今回、印象が違って見えた登場人物はなかった。べつに台詞や演出が大きく変わったわけではない。私を含めた日本人を取り巻く状況が変わったのだ−−われわれは自衛隊をイラクに派兵し、このフォーティンブラスの側に立って参戦することになったのだから。あるいは、世界情勢が変わったのだ――イスラエルとパレスチナのような紛争が世界全体に拡大するようになったのだから。いずれにせよ、四百年も前に書かれた戯曲を、その大枠となる骨組みは変えることなく巧みにアップデートして、現代世界とはげしく共振する作品を作り上げたスレイマン・アルバッサームの力量に感嘆せざるをえない。

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