東京国際芸術祭2004 10回記念ユーラシアフェスティバル
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Reviews Online -劇評通信-


アイホール Take a chance project 共同製作作品 山下残ダンス公演『透明人間』

乗越たかお(作家・舞踊評論家)

 スロヴァキアのヤーン・カンパニーもそうだが、今年の東京国際芸術祭の「ダンス公演」は、「いわゆるダンス」ではなく「ダンス?」というものばかりだ。というのもの無理はなくて、今のコンテンポラリー・ダンスは周辺芸術を採り入れるスタイルがもはや主流といえる。テキスト、映像はもちろん動き自体もダンスというよりは日常的な仕草だったり、ほとんど動かなかったりとバリエーションはあきれるほど広い。
  そんな中「ダンスを語るダンス」と銘打たれているこの作品は、笑って見つつも心地よいザラつきと余韻を残す良作である。
 
  冒頭は女性(夢月)が出てきて、マイムと手話を合わせたような動きをする。一応ストーリーはあるようなのだが、技術的にプロのパントマイムというわけでもないので、若干意味不明な印象があった(初演でものこのシーンはあり、夢海という役者が演じたが急病のため代打、ということらしい)。
  夢月が引っ込むと、山下が出てきて舞台中央のギリギリ一番前に置かれたマイクの前に立つ。舞台上には何もない。山下は朗読を始める。山下が読むテキストは、あらかじめ客席にも配布されているので、事前に読んでおくことができる。
  それはたとえばこんな感じだ。

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  男性が飛行機に助けを求めている。女性がダンス料理とオーケストラの指揮をした
あと電球を取り替えている。キリンがダンスしている。キリンのお腹をなでて安心させ
て、若い女性が獲物におそいかかる。
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  舞台上では山下の後ろで男女二人がテキストに呼応するように動いている。舞台下手前の女性は「女性がダンス料理とオーケストラの指揮をしたあと電球を取り替えている。」というあたりは多分にマイムの手振り。次にはいきなり「キリンが」という飛躍がくるのだが、ここは舞台上手奥の男性が手を挙げてキリンの首のような格好で足をパタコンパタコンと動かす。女性はそのままの位置で「キリンのお腹をなでて安心させて」、やおら男性に向かってダッシュし、「若い女性が獲物におそいかかる」で飛び込んでいく……

「読み上げられる文章に合わせて面白い動きをする」というのは、たとえばコメディの手法としては昔からある。観客もすぐに、ああそういう趣向なのかと理解できる。だがそれだけならば5分も見ていれば急速に飽きてくるものだ。
  しかし今回、約1時間の舞台を成り立たせていたのは、朗読とダンスの関係が次第に浸食し合い、時に逆転するようなスリリングな緊張をはらんで動きと空間を紡ぎ出していく展開を見せたからである。
  言葉が動きに隷属するような瞬間があるかと思うと、言葉の山下がダンスに干渉したりといったやりとりが展開されていく。
「上着を脱いでへそから入る。ズボンを脱いで前を見せる。ここは銭湯じゃないんだビンタを食らう」
などは動きの楽しさを言葉が増殖させているわけだが、
「私蝶々。ちがうだろお前。ちがうだろお前。ちがうだろお前。ちがうだろお前」
と畳みかけるように言うとき、言葉はダンスを追い立てていく。
  さらに山下は自分自身もダンサーと絡んだりするが、過剰にエスカレートすることなく「朗読とダンス」という基本線を外さなかったことは、舞台に一貫して心地よい緊張感をもたらしていた。

  この作品自体は03年5月に伊丹アイホールのtake a chance projectで初演された。僕は未見だったが、そのときには今回より30分ほど長く、朗読もゆっくり目だったそうだ。今回は言葉を厳選し、さらに「3倍くらいの速さで読んだ(山下)」という。
  たしかにテキストは良く練り込まれており、緩急があって笑いが絶えない。ダンスも空間を立体的に使って一面的にならぬようにアイデアが工夫されている。山下自身の声も聞き取りやすく、最後まで声が割れていなかったところを見るとちゃんとした練習をしているのだろうが、どうにも「うまさが見えない」ところがいい感じだ。これで変に流暢になって綾小路きみまろみたいになってもしょうがないしな。
  山下自身、ぬぼーとした雰囲気ながら目が笑っていない、人が良さそうにみえるが迂闊に手を出すとえげつなく噛みつくウツボのような感じがあり(いずれも舞台上からの勝手な印象&憶測)、それが特異なテイストを加味していた。
  出演者も動きと共に演技を要求されるなか、非常にキレが良く動いていた。日本の「いわゆるダンスの人々」は驚くほど顔の表情を作る訓練をしていないので、演技を必要とされるシーンでいきなり馬脚を現したりする(最近は改善されてきているが)ものなのだが、この公演では演劇畑の人も多いようだ。

  初演の時にはタイトルにある『透明人間』の話だったらしく、資料によると「透明人間にダンサーがつまずく」「透明人間とダンサーがデュオを踊る」というセリフもあったそうだ。今回そういう箇所は全て削られている。そもそも朗読されるテキストに「透明人間」という言葉自体が出てこない。ただ一番ラストで、
「音のないところに音楽が聞こえる。光のないところにダンスが見える。人がいないところに人が立っている」
と語られるのみ。これは優れていると思う。これによって透明人間は「ネタ」から、「不可視の存在感あるなにか」に転化され、誰もいなくなった舞台に不思議な余韻として「実在」することになったからである。

  残念だったのは冒頭に手話/マイムを踊った夢月のシーンだ。最初にも言ったが、まるでとってつけたような印象を与える。
  彼女が所属している劇団夢幻とは聾唖者の集まりなのだそうだ。観客には彼女が聾唖者ということはわからないが、みているうちに「あるいは」という勘は働く。しかしだからこそ、彼女こそソロではなく、山下とのコラボレーションをしてほしかった。
  この作品の眼目である「朗読(音/意味)とダンス(動き/意味)の拮抗」のただ中へ、「聾唖者と朗読者」、つまり「音の聞こえない者」と「音を発するしかない者」との出会いがあったなら、この作品は、また違う高みへいったのではないか。
  山下が動きで干渉することもできただろうし、山下の「声」を「空気の振動」と捉えて夢月が反応することもできたかもしれない。この両者が対等に渡り合う瞬間を見たかった。ウツボの目を持つ山下ならばなおさら、お涙頂戴でない、真にグッとくる舞台を作れるはずだ、と期待しておきたい。

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