東京国際芸術祭2004 10回記念ユーラシアフェスティバル
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Reviews Online -劇評通信-


スレイマン・アルバッサーム・シアターカンパニー『アル・ハムレット・サミット』

須藤崇規(東京藝術大学音楽環境創造科)

 黒と赤。立ちこめる煙。シンメトリーに配置された机と椅子。それに当たるスポットライト。サミットを模したものと一目でわかるものの、どこか抽象的で美しい舞台。そして東京国際芸術祭のオープニング作品の舞台にまず現れたのは、スクリーンに映し出された肖像と1948−2004という文字であった。
 
  『アル・ハムレット・サミット』…すでに数々の賞を受賞しているクウェート発の注目作品が、二月十二日 東京国際芸術祭のオープニングを飾った。作品紹介に「ハムレットの大胆な翻訳」とあるように、ハムレットを下敷きに現在のアラブ各国の現状を鋭く批判する、極めて政治的な演劇である。
  今現在も続く中東のテロ、そのはしりが9・11の同時多発テロである。9・11をはじめとするテロリズムに関しては各国で、また国をまたいで様々な論議が重ねられてきたが、文学でそれが十分に語られていたかというと疑問が残る。特にここ日本では、テロというテーマにとりくんだ文学が非常に少ない。そして演劇の世界に関しても同じことが言えよう。物語を軸にした芸術という点で密接に関係しあう文学と演劇は(特に日本においては)テロリズムを語ることをしなかった、というよりはできなかった。ビルに飛行機がつっこむというハリウッド顔負けの「嘘のような」事件とそれに続く数々のテロ、それらの理由を説明することはできるかもしれないが、多くの人々にとっては「透明」なものだ。真実は簡単な図式にはおさまらない透明なものであり、その透明さを描くことは非常に困難である。
  そして当事者のアラブ人にとっても、おそらくテロは透明なのであろう。作品を見て、強く思った。『アル・ハムレット・サミット』はまさに透明なもの、日本人から見てもアラブ人から見ても実は同じように透明に見えるものを描いている。
  さて、その透明がどのようなものであるかは、抜群の演技力をもつ俳優とライブで演奏される音楽、それらに絡み合う映像と舞台美術が、実に饒舌に舞台上で語ってくれるであろう。私はここで、この作品の過剰とも言えるリアリティのありかと、その描かれ方を確認したいと思う。

  言葉が悪いが、言ってしまえばこの作品は嘘である。台詞は非常に詩的、舞台美術も抽象的、さらには舞台上の六つの机に設置されたビデオカメラからの映像が舞台後ろのスクリーンに映されることによって、現実にはありえない状態を作り出している。物語の方に目をむければ、それはシェークスピア作『ハムレット』の翻案。すでにある物語を用いることで、この作品はあくまで作られた物語である、ということを主張する。物語の舞台である国も現実にあるどこかの国を加工したものではなく、アラブ諸国の代表と思わせるような架空の国である。『アル・ハムレット・サミット』は考えれば考えるほど、現実から遠く離れた「完璧な」フィクションなのである。
  もちろん多くの劇はフィクションだが、しかしながらこのフィクションは、現代の中東の政治的問題を強烈なリアリティをもって描きだしている。現実をリアルに描こうとし、現実をそのまま舞台に乗せても、そこには決してリアリティはあらわれない。この作品の舞台上でつくられる虚構は決して現実に忠実に作られたものではないが、その虚構は圧倒的な虚構性をもって現実を写す鏡となる。リアリティを得るためには、嘘をつかなければならない。「嘘のような」現実は今や、嘘をもってしか語れなくなってきている。この作品は「フィクションゆえのリアリティ」という新しい表現のあり方に気づかせてくれたのだ。
 
  さて、この作品の力強いリアリティの理由は、他の視点からも確認できる。
  繰り返し使ってきた「透明」という言葉は単に、はっきり見ることができない、ということだけを意味するわけではない。それは触れることができない。関わることはできてもその存在を動かすことはできないのである。そして、『アル・ハムレット・サミット』の主題であるアラブ社会と西洋社会の問題には、実に大きな透明なものが含まれている。
  原作『ハムレット』では登場していない『アル・ハムレット・サミット』オリジナルの役である武器商人は西洋社会を表わしたものとみなすことができる。そして、その西洋社会の中の透明なものの一つが資本主義である。クローディアスは紙幣をつかみながら「神よ、オイルダラーよ」と自身の信仰対象を告白する。そのクローディアスに近づき、兵器リストのメモを受け取る武器商人を西洋資本主義の権化と解釈することは許されるであろう。
  イスラム原理主義者となったハムレットと、あくまで金を信仰するクローディアスの対立、この対立を裏でセッティングしたのは確かに武器商人だった。そのセッティングの仕方も、ハムレットを初めクローディアス、ガートルード、ポローニアス、オフィーリアと一人一人接触していくという風に実に周到だ(一対一で会っていないのはレアティーズだけ)。そして、武器商人は決して動かすことができない透明なものである。
  言わずもがな、資本主義は近代化する社会の中で人が作り発展させたものだ。それがいつの間にか人を滅ぼす力を手に入れ、人から自立した「透明な」システムとなり、今や世界をおおっている。武器商人がその権化であるなら、「お前はアメリカ人か?」というハムレットの問に、答えないのも当然である。彼はアメリカだけではないのだから。そして最後には武器商人を拒否するハムレットも、武器商人を受け入れるクローディアスと対立することによって、彼との関わりを断つことができなくなる。クローディアスが倒れ、ハムレットが倒れ、それでも武器商人は当たり前のように舞台の最後に現れる。武器商人を受け入れても、拒否し対立しても、どちらにせよ彼の手の内からでることはできないのだ。
  この透明なシステムの問題は、アラブ諸国の問題を越えて私たちに近づいてくる。先に「この作品は完璧な虚構だ」と述べたがしかし、舞台の最後フォーティンブラスの横にたたずむ武器商人は、日本の横にも、私たち個々人の横にもいるのではないか。そして『アル・ハムレット・サミット』は単なるフィクションを越えて、限りなく現実に近くなるのである。

  このように、この作品について特筆すべきことの一つは、「透明なもの」を武器商人という器を用いて可視化しているという点である。恐らく『ハムレット』をそのまま作り替えただけでは描けなかった「透明」を、オリジナルの役を設けることで描いた。資本主義に限らず他にも様々なものが透明になってきている現在、それを語ることは非常に困難になってきている。そして『アル・ハムレット・サミット』はその困難を乗り越え、透明なものを描く方法…「完全なフィクション」とそれをささえる「武器商人という器」という方法を提示してくれたのだ。
 
  『アル・ハムレット・サミット』は確かに政治的な作品である。非常に鋭く重いメッセージは政治的と言われるのが最も適当であり、それこそ注目されるべき大きな特徴であることは間違いない。逆に、映像の使用やその他特異な点が多々みられる演出は、非常に精緻で隙がない素晴らしいものとはいえ、現在進行中の中東問題を扱うというインパクトあるメッセージに比べると、見逃されやすいかもしれない。しかし表現の内容と方法は、この劇評のように文字にすることで分離こそすれ、本来は不可分なものである。そのため、今までなかなか語られることのなかったアラブ諸国の問題というメッセージの強烈さを噛み締めると同時に、非常に困難だと思われる「嘘のような」「透明な」現実の表現をどのように達成しているか、その方法についても同じ様に噛み締める必要があるであろう。『アル・ハムレット・サミット』はここ日本でも確かに大きな価値、二重に大きな価値をもつ作品である。
  そして最後に。数多くの注目作品が並ぶ東京国際芸術祭2004のオープニングを美しく飾ったこの作品に、大きな感謝を捧げたいと思う。
            2004.2.13〜2.15 須藤崇規

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