東京国際芸術祭2004 10回記念ユーラシアフェスティバル
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Reviews Online -劇評通信-


ラビア・ムルエ&リナ・サーネー『FaceA/FaceB』『魂と血をもって』『BIOKHRAPHIA−ビオハラフィア』

河野孝(演劇ジャーナリスト)

 マーシャル・マクルーハンは「電気の時代にあって、私たちは全人類を自分の皮膚として着るのだ」とメディアについて語った。我々は日々の出来事を自分の目で見ているように思っているが、「9.11テロ事件」の衝撃でさえテレビというメディアを通じて自分の体験として定着させているのである。直接見ているというのは錯覚であり、実は極めて限られた身近なものしか自分の目は見ていないのだ。
  映像を使った今回の作品を見てメディアという問題を考えさせられた。メディアによる記録は我々の人生とどうかかわってくるのか、メディアの再生的媒質による生きた現実への侵略、アラブ・イスラム社会でのセクシュアリティーの問題、政治的・人間的レベルでの暴力と自由……これら3作品は多くの問題性をはらむ。それぞれ個人の独白を基調にして、言葉への集中力をとぎすませる。自分を対象化してみるような上演形式は、何気なくやりすごしていた日常の表層をはぎとり、我々が知らない間に負っていたいくつもの傷跡を白日のもとにさらけだすのである。
  [FaceA/FaceB]「魂と血をもって」はビデオ作品。演出家・映像作家のラビア・ムルエが、悲惨な内戦で幾多の人間の流血を目の当たりに経験したレバノンの出身ということを抜きにしては作品について語れない。[FaceA/FaceB]では遠く離れて暮らす兄弟のために隣人から借りてきたテープレコーダーに家族の声や歌声が録音されている。ナレーターは「その声は僕が12歳のころのものだ」と言う。まさに、1967年にベイルートに生まれたムルエの個人史だ。1975年、内戦の始まったころレバノン南部に両親と疎開したころの思い出など、当時の社会状況をエピソードとしてつづっていく中で、聞く者の記憶と共振しながら内戦下のレバノンで生きようともがいた人間の暗闇(くらやみ)の底からの叫びが伝わってくる。
  突然、スクリーンに流れるコメント。「このテープの声の人たちはみんな死んでしまった。理由は人それぞれだが、今のこの瞬間まで生きているのはナレーターであるこの僕だけ」。死や戦争という重いテーマを極めて個人的な視角から求心的に鋭く切り込む。
  「魂と血をもって」はデモ隊の行列を映し出し、心臓の鼓動、身体の震えなど生体感覚について語る参加者の言葉をつなげていく。デモ隊の無数の顔の中に作者は自分の顔を探そうと躍起になる。そこにいる人たちと「私」は明らかに違うはずだが、そのデモを見ているほかの誰かが、「私」がその人たちと違うと信じてくれるだろうかという怖れから解放されることはない。
  しかし、この2作品合わせて言えることは、レバノンという国が、キリスト教徒やイスラム教スンニー派、シーア派、ドルーズ派などの勢力に分かれ、各派が民兵組織を持って主導権を争っていたこと、そこに革命後のイランが志願兵を送り込んできたこと、レバノンを属国化しようとする隣国シリアの思惑、南部レバノンに安全地帯を設置しようと狙うイスラエル、兵力分離のために派遣された国連軍などが同時に存在するモザイク国家の体をなしていた歴史的背景を知らないままに、日本人の一般観客がこの作品を理解するのは難しいのではないかという印象を強く感じた。
   [BIOKHRAPHIA−ビオハラフィア]は、同じくベイルート出身の演出家で女優であるリナ・サーネーが、カセットテープに自分の声を録音したインタビューの問に対し、答える形式を取っている。ビオハラフィアは造語。BIO(ギリシャ語で人生とか生命)とKHRA(アラビア語で糞、排泄物)に分けた部分を、BIOGRAFHY(自叙伝)という言葉に掛けて合成した。質問はだんだんとエスカレートし、個人の内部に立ち入ったサディスティックな尋問へと変質していく。ここに登場している女優の生身の体と肉声も、映像としての彼女と録音されたテープの声に代替されていく。メディアが本当の現実に代わり、現実を構成・捏造していく過程を巧みに可視化しているといえる。
   タイトルに込めた思いは、こちらが勝手に想像すれば、内戦で分断されたレバノンの「糞ったれの現実」に生きることは、「糞まみれの自叙伝」を語らなければならないということなのか。だが、我々もみすぼらしい自分の人生を語ろうとすれば、程度の差はあれ、「糞まみれ」にならざるをえない。現在の日本に生きていても、似たようなビオハラフィアは書けるだろう。それゆえに、この作品の持つ射程はレバノンという特殊な場所に限定されず、普遍性を持つ。日本でもセルフポートレーの写真が流行ったが、演劇を通じたセルフポートレー的自己描写につながる作品だ。
   舞台には女優リナ・サーネーが彼女本人として登場する。テレビ画面のフレームのような枠の向こう側でマイクを前にして立ち、手元のラジカセを操作しながら、自問自答を進めていく。途中で何回か問答が行き詰ると、テープを停止し、巻き戻し、再生してやりとりを再開する。問答の内容は知的であり、滑稽であり、自虐的でもある。また演劇についても茶化している。この中でリナは「敵は、私達の作品を、挑発的で攻撃的と考えている。西洋に影響されすぎだと批判する。私達はアラブのアイデンティティーの支配に苦しんでいる。実際には、人々はこのアイデンティティーをそれほど誇りに思っているわけではない」と非難に反論する。「アル・ハムレット・サミット」同様に、この作品でも西洋的価値とアラブのアイデンティティーの分裂というテーマは避けられない。
   権力は細部が公に表現されることを嫌うが、個人の細部については知りたがる。テープの問は、女優が結婚して主人と何回セックスしたか、オルガスムに達したかなどと、微に入り細に入り質問する。アラブ世界でセックスについておおっぴらに触れるのはタブーに近い。検閲や通念に対し挑戦する作者の姿勢が、「セックス、宗教、軍隊について話せないとしたら、演劇は何について話せばよいのでしょう?」という答えにうかがえる。
   後半、透き通っていたテレビのモニター画面に水が注ぎ込まれ白濁してくる。今度はそこに女優の顔が映し出され、本人に代わって答え始める。まさに、メディアの支配が確立された。そうこうするうちに、そばに座って眺めていた女優本人がラジカセの停止ボタンを押して会話は中断。女優は小さな空きビンを何本か持ってきて、テレビモニターの下についた蛇口を開き、白濁した液体をビンに詰める。女優はこのビンを売り物として並べる。中身は水と混ざって白濁する地中海沿岸国の特産品アラク酒のようだ。観客は、ここでパフォーマンスが終わったのかどうか戸惑いを感じ、しばらくは気まずい雰囲気が流れる。演じ手からは終わったというサインはない。これが何を意味しているのかはよくわからないが、問答の中で女優は「私は演劇であるもの全てを拒否する」と言っており、突然の終わり方は既成の演劇観への批評なのかもしれない。メディアはまたアルコールのように我々の意識を濁らせ、酩酊状態にいざなう力を持つ。我々はこのストップボタンを押す勇気を持つことができるのか、と問いかけているように思えた。

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