東京国際芸術祭2004 10回記念ユーラシアフェスティバル
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Reviews Online -劇評通信-


クロムモリブデン『なかよしshow』

須藤崇規(東京藝術大学音楽環境創造科)

 開演前の会場には落語が流れている。その中舞台にまず現れるのは、手にポータブルプレイヤーを、頭にヘッドホンをつけた少女。劇が始まる前に場内に流れている落語は、実は彼女が聞いているものだった。現実と劇の境目をつけることなく、いつのまにか劇は始まる。

  クロムモリブデンの『なかよしshow』は架空の劇団なかよしのメンバーを中心とした物語である。劇中の劇団が劇をする、という設定のもと、クロムモリブデンのテーマである「トランス・ナンセンス・バイオレンス」が繰り広げられる。
  この劇の舞台となる「劇中の現実」では「銃乱射事件」や「小学生女子児童拉致監禁事件」が相次いでいる。「現実」にも同じような事件はたしかにあった。そのため最初は「劇中の現実」は「現実」とさほど違いがない世界なんだと錯覚してしまうだろう。
  意外にも重要なのはベッカムだ。来日したベッカムが大阪城観光中に死亡する(テロの関与も示唆される)という事件、これはもちろん「現実」では起っていない。ベッカムは生きている。ベッカムという固有名によって「劇中の現実」と「現実」は違う世界なんだということが、はっきりと観客に理解されるようになる。
  劇団なかよしの初公演となる『キルキルハイスクールパニック銃殺銃殺銃殺 そしてまた銃殺 あるいは銃殺』という「劇中の劇」は「劇中の現実」の事件…「銃乱射事件」や「小学生女子児童拉致監禁事件」…を真似たものである。この「劇中の現実」と「劇中の劇」の奇妙な一致をめぐって、物語は進行していく。

  舞台の初め、高校の卒業式を終えた「若者」たちはとても機械的だ。繰り返しが多い台詞を棒読みし、動きをシンクロさせる少年たち。落語をきくことで笑いを取り戻そうとする自殺未遂経験有の少女。その少女を救おうと、彼らを劇に誘う少女。そして彼らは、「劇」の世界へと入っていく。
  ところが、彼らの劇はまさにナンセンス。銃を携帯するカップルと、銃を持ちながらカップルの注文をきくマクドナルドの店員。手のひらサイズの銃を連発し、パンっ!という音がホールに響く。このように楽しそうに銃を撃つ瞬間は、彼らが最も生きて見える瞬間だ。彼らはもう機械的ではない。「劇」の中では実に生き生きとしている。
  ちなみに、この「劇中の劇」を練習するシーンはアニメ版エヴァンゲリオンの音楽で始まる。それも次回予告で流れる曲だ。この曲は後の練習シーンでも繰り返し使われ、そのたびにナンセンスな「劇中の劇」の練習が行われる。次回予告の曲から始まるこれらの不可解なシーンは、何かの予告?それともそれは深読みのしすぎ、なのだろうか?
(余談だが、まさに若者だった頃にこのエヴァの消費した私としては、やはり『なかよしshow』から「若者」というテーマを拾わずにはいられないのだ。)
  
  このように、「なかよしshow」は劇中劇という方法をつかって「劇中の現実」と「劇中の劇」を描く。それはショートコントの連続のようだ。先のマクドナルドのシーンはもちろん、銃のポイ捨てやロード・オブ・ザ・ガン、そしてことの発端となった恋、恋のもつれによる愛憎劇…。そして、やはりどれもナンセンスだ。唯一シリアスに見えた愛憎劇ですら、最後は笑いをとってしまう。
  彼らは試行錯誤するものの「劇中の劇」をなかなか完成させることができず、劇団のメンバーにも焦りの色が見えてくる。完成させることができなかったら彼らは「自分の人生を生きる」ことになるのだ。「暇で暇で死にたくなる」自分の人生。彼ら「若者」にとって、「劇」とは現実逃避とほぼ等価なのである。

  「若者は現実をリアルに感じれない」ということがよく言われる。あらゆるものに関してただの傍観者でしかない、という感覚。「若者」はそれを当たり前のように感じており、自分から積極的に世界に関わることができない。
  実際の若者がこう、というわけではない。様々な人間がいる一世代を指し、カギ括弧をつけることで生まれた概念である。しかしまた、的外れだ、と言い切ることもできないだろう。世間をにぎわせた若い文学賞受賞者の著作(『蹴りたい背中』. 綿矢りさ. 河出書房新社)や、新しい雑誌を歌う文学誌(『ファウスト』. 講談社)の存在、その他若者の消費物(ビデオゲーム、ライトノベルetc)、またその消費の仕方、そしてなにより大都市にあつまる中高校生を見ると、やはり世間一般の「若者」認識は失当とは言いがたい。
  『なかよしshow』の「劇中の劇」では、殺人という自身にとって未知のものが抽象的なものとして処理される。抽象化することで人を殺せるようになる。「若者」は現実逃避することで作り出した世界=「劇」の中でしか積極的に行動できないのだ。しかし、積極的で生き生きとした行動も、それが続くことで次第に「諦めの結果」のように見えてくる。そういえば、観客の笑いをとるユーモアもどこか、乾いてはいなかっただろうか。
 
  さて、劇団なかよしの「若者」たちは最後には救われることとなる。「劇の創作に苦心する現実」を「劇中の劇」にすることで、彼らは「劇中の現実」にもある真理を見いだすこととなる。その真理とはこのようなものだ。

  …神様が台本をつくって、地球を舞台に私たちを動かしている…

  この救いも、「若者」の世界観に実に近い。それは、悲観的にみれば諦めでしかないが、この運命論的な思想に救われ動き始める者=登場人物をはじめとする「若者」もいる。台本がすでにある世界は終わっているも同然だがしかし、救われた「若者」にはニヒリズムの姿勢は全くない。自分たちが誰かに動かされている=全ては神様のせいである、ということを救いと感じる彼らは、やはり圧倒的に受動的であり、なおかつそのような状態を全く悲観的に見ていないのである。
  救いの後、神にむかって「オレたちをダウンロードしろ!」「オレを削除してくれ!」「オレたちを上書きしろ!」という少年たちは叫ぶ。その叫びの一つ「全てを初期化しろ 終了だ 再起動だ!」という台詞は印象的かつ象徴的だ。彼らは救いによって再起動した。そして、その結果「劇中の現実」でおこった「銃乱射事件」の謎はあっさり放棄され、かわりに現れるのは作品中最高のエンターテイメント性をほこる銃殺ダンスである。殺人を越え、戦争すら抽象化してしまうさらにナンセンスな世界。救いとはすなわち、徹底的な現実逃避なのかもしれない。

  繰り返すが、実際の若者と一般認識としてある「若者」は必ずしも一致しない。ある世代を指して「若者」と一括することは、やはり現実とのズレを伴う。そして、そのようなズレさえ『なかよしshow』は意識しているようだ。「なかよし」は「show」である。「リアルにやったら何のシーンか分からないじゃないすか」という銃殺を愛する少年の何気ない台詞が観劇後も響く。「劇中の現実」と「劇中の劇」の終わりなきループは、「現実」と「劇」の間にもあるのだ。
  …神様が台本をつくって、地球を舞台に私たちを動かしている…これに救われる若者が「現実」にどれだけいるかはわからない。しかし現実の有り様がいかなるものでも、『なかよしshow』と「現実」のループは切られることはない。この作品と「現実」を重ねれば重ねるほど、この作品は「show」であることを主張し、また「現実」を切り離して見れば見るほど、この作品は「現実」を引き込もうとする。
  『なかよしshow』はやはり「トランス・ナンセンス・バイオレンス」だ。

2004.2.23 須藤崇規

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