東京国際芸術祭2004 10回記念ユーラシアフェスティバル
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Reviews Online -劇評通信-


スレイマン・アルバッサーム・シアターカンパニー『アル・ハムレット・サミット』

扇田昭彦(演劇評論家・静岡文化芸術大学教授)

◇はじめに
  2月12日の初日の舞台を見、翌13日の終演後に行われた演出家スレイマン・アルバッサームのトークも聞いた上で劇評を書いたのだが、私の初歩的なミスのため、書き上げた原稿がパソコンの画面から消えてしまった。挫折感の中で気を取り直し、書き直したのが下記の劇評である。出稿が非常識に遅くなったことをおわびしたい。

  『ハムレット』は実に不思議な作品である。この戯曲を脚色・翻案した作品は、何よりも作り手自身(劇作家、演出家)の姿と位置を鮮明に映し出すのだ。通常の翻訳上演以上に、脚色・翻案ものは、作り手の姿を明確に映す鏡となると言っていい。
  日本でも『ハムレット』を脚色・翻案した、いわゆる『ハムレット』ものはすでに数多く生まれている。
  例えば、1990年に初演された上杉祥三作・演出・主演の『BROKENハムレット』は、日本の古代の飛鳥時代に舞台を移しながらも、現代の狂騒的なバブル景気の中で孤独に浮遊する日本の若者の肖像を鮮明な戯画として描いていた。
  あるいは1992年に初演された堤春恵の戯曲『仮名手本ハムレット』を挙げてもいい。明治時代の東京を舞台に、西洋演劇の代表作としての『ハムレット』と、日本の伝統演劇の代表作としての『仮名手本忠臣蔵』との意外な共通点を探る比較演劇論的な秀作である。そしてこの作品は何よりも、アメリカに長く住み、日本の文化と欧米の文化を等距離に眺めうる作者の堤春恵自身の批評家的位置を雄弁に物語っていた。
  スレイマン・アルバッサーム作・演出の来日公演『アル・ハムレット・サミット』(アラビア語上演。日本語字幕付き)も、『ハムレット』の設定を現代のアラブの架空の国に置き換えた、いわゆるアラブ版『ハムレット』ものである。そしてこの舞台を見てやはり私は、「『ハムレット』ものは、たいてい作り手自身の立場を映し出す切実な自画像となる」という持論を再確認した。『アル・ハムレット・サミット』は、何よりもこの気鋭のクウェート人演出家の視点と位置を明確に伝えているように思われたのだ。
  舞台上には6つの机が半円形に置かれ、まるで公的な会議を開催する会場のようだ。机の上には名札、マイク、発言者の映像を映すカメラが置かれている。そして背後には大きなスクリーン。いかにも一見近代国家の会議らしい光景だ。黒い床とそこを走る赤のラインという配色も洗練されている(アブドラー・アルガイス舞台美術)。舞台下手には2人のミュージシャンがいて、場面に応じて生演奏、時にはアラブ風の音楽を奏でる。
  登場人物はいずれも西洋的な衣裳を着ている。クローディアス(ニコラ・ダニエル、レバノン)とポローニアス(モナディール・ダウード、イラク)はまるで大企業の経営者風の背広姿。王妃ガートルード(アマーナ・ワーリー、シリア)は金持ちマダム風の衣裳。オフィーリア(マリアム・アリー、シリア)はキャリア・ウーマンのようなスーツ姿。ハムレット(ケファーフ・アルコウス、シリア)も喪服風の黒っぽい背広姿だ。
  まず、机の並び方が興味深い。左端からハムレット、ポローニアス、クローディアス(中央左)、ガートルード(中央右)、レアティーズ、オフィーリアの順である。つまり、王子であるにもかかわらず、中央の王座からの距離がハムレットはレアティーズより遠く、オフィーリアと同じ位置(末席)なのだ。ハムレットの疎外された位置がはっきり分かる机の配置である。
  劇はこの国の首脳部の会議、あるいは議会の形を取って進行する。多くの物事は出席者の採決によって決まる。クローディアス(ニコラ・ダニエル、レバノン)が誇らしげに語る「新生民主政」の政治体制だ。
  だが、舞台上の会議の実際の出席者はわずか6人。しかも、ポローニアス(モナディール・ダウード、イラク)のセリフによれば、彼の一族と王族は縁戚関係にある。つまり、この国の議会で決定権を握っているのは、ごく少数の王族とその縁戚だけなのだ。それに対応し、中央のスクリーンに頻繁に映し出されるのは、実物以上に拡大した独裁者クローディアスの画像だ。
  つまり、原作に新しいセリフを付け加えることなく、舞台に会議あるいは議会の形式を採り入れることによって、作・演出のアルバッサームは、クローディアスが支配するこの国の政治の実態を鮮明に視覚化して見せた。そして言うまでもなく、この架空の国は多分に現代アラブ諸国の現実のアレゴリーである。
  この作品は原作から多くの登場人物をカットしているが、中でもハムレットの親友ホレイショーの削除は注目していい。孤独なハムレットが心のうちを唯一打ち明けられる存在、ファナティックにならない平衡感覚に富んだ人物がここにははじめから不在なのだ。この作品の後半におけるハムレットの意外な変身は、おそらくこのホレイショーの不在による部分も大きいはずだ。それを見越してのホレイショーのカットである。
  ホレイショーをカットした代わりに、ここには原作にまったく登場しない人物、つまり「武器商人」(英国の俳優ナイジェル・バレットが演じた)が導入されている。「お前はアメリカ人か?」とハムレットに問われても答えないこの謎の男は、英語もアラビア語も流暢に操り、王宮にも自由に出入りし、だれとも親しくつきあう。
  クローディアスによる父王暗殺を暴露するビラをハムレットに渡し、クローディアスへの復讐を用意するのは武器商人だ。同時に武器商人は、フォーティンブラスと戦うための大量の武器・戦車・飛行機をクローディアスに売り渡しもする。要するに、敵味方の区別なく、アラブ諸国の内乱と戦乱を誘発するのが武器商人である。
  こうした典型的な黒幕の悪漢は普通、通俗ドラマを除き、現代の演劇にはあまり登場しない。だが、こうした人物を導入しないと現代アラブ版『ハムレット』は成立しない――そうアルバッサームは考えたのではないか。欧米の巨大資本をあらわす「武器商人」は、現代のアラブでは圧倒的リアリティーをもつ存在なのだ。
  劇の終わり近く、父王の墓に入って40日を過ごしたハムレットは、濃いひげを生やし、イスラム原理主義者のような姿で現れ、観客を驚かす。西欧の大学に留学し、西欧的教養を身につけていたはずのハムレットの驚くべき変貌である。原作のハムレットの形象からは大きく外れた姿である。
  作・演出のアルバッサームはクウェートで生まれ、英国のエディンバラ大学修士課程を修了後、イギリスで劇団ザウムを主宰した後、故国に戻ったという経歴を持つ。先進国の大学で学んだ後、さまざまな問題を抱えた故国に戻ったという点では、ハムレットの歩みと重なる演出家だ。
  だが、このアラブ版『ハムレット』では、社会改革の情熱に燃える青年ハムレットは、最終的にはイスラム原理主義者になってしまう。過激な宗教的情熱のとりこになってしまうのだ。このハムレットには、原作のハムレットの特色だった、物事の比較を愛する懐疑的批評精神、演劇と諧謔を好む精神はもう跡形もない。それと同時にオフィーリアも、この劇では川で溺死する代わりに、何と自爆テロで死んでいく。
  こうした一種無残とも言える変貌には、アルバッサーム自身の無念で切実な思いが込められていると見ていい。社会改革を目指す青年たちにとって、イスラム原理主義以外に、選択の幅があまりにもないアラブ諸国の現実への無念さである。アルバッサームは『ハムレット』の構図を自在に変奏しながら、彼自身のアラブの見取り図を描いて見せたのだ。
  幕切れに登場するフォーティンブラスも衝撃的だった。ポローニアスを演じた太めの中年俳優モナディール・ダウードが2役で演じたのだが、勝利宣言をするこのフォーティンブラスが語るセリフ(むろんシェイクスピアの原作にはない)が印象的だった。
  「老人は死に、若者は忘却し、この国は栄えるだろう」
  戦争の惨禍を知る老年世代は次々に退場して行き、次代を担うべき若者たちは歴史の記憶を陽気に忘却し、その上に国家の経済的繁栄が築かれるというのだ。これはほとんど第二次大戦後の日本を語っているようなセリフである。
  その後でフォーティンブラスは「今こそ夜が開け、創生されるのだ」と言い、「大イズズ…イズズ……イズズ」と意味不明の言葉を口にする。私自身、意味が分からなかったが、これは終演後、「大イスラエル」を暗示しているのだと教えられた。つまり、勝利者フォーティンブラスの背後には「大イスラエル」になろうとしているイスラエルがいて、それと結びついた「武器商人」がいる。原作と比べて格段に複雑な政治・経済の網の目の中にある現代版『ハムレット』である。
  2002年に英国で初演された時、この作品は英語で演じられた。だが、今回、東京国際芸術祭とアルバッサームの劇団が共同製作したこの新版『アル・ハムレット・サミット』では、セリフはアラビア語になり、シリア、レバノン、イラク、サウジアラビア、そしてイギリスの俳優たちの混成軍によって演じられた。期せずしてアラブ諸国のスタッフ、キャストの合同公演が東京で実現したのだ。これは東京国際芸術祭が与えた効果と言っていい。ベテランの俳優たちのうまさにも私は感心した。
  昨年9月末にブリュッセルで見たアルカサバ・シアターの『アライブ・フロム・パレスチナ』に続き、アラブ演劇の面白さと奥の深さを実感した夜だった。

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