東京国際芸術祭2004 10回記念ユーラシアフェスティバル
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Reviews Online -劇評通信-


ブッシュシアター『アドレナリン・ハート』

谷岡健彦(共立女子大学講師)

宗教、ドラッグ、物語

テーブルと椅子のほかには取りたてて目立った装置のない舞台に、二人の男女がやって来て、それぞれ自分についての物語を語り出す。服役経験のある黒人男性のエンジェルと、区役所に勤めているシングルマザーのリー。やがて二人の物語は絡み合い始め、二人は、ときにダイアローグで場面を演じ、ときにモノローグで第三者的なコメントを加えながら、ある夏、彼らに起こった出来事を語ってゆく。1972年以来、数々の新人劇作家を輩出してきたブッシュ・シアターの芸術監督マイク・ブラッドウェルは「われわれの劇場に来る観客は新しい物語を、そして、それが新しい語り口で語られるのを求めている」と述べているが、今回、彼自身が演出を担当した『アドレナリン・ハート』(ジョージア・フィッチ作)は、形式的斬新さに目を奪われたとまでは言えないにしても、新鮮な語り口が印象的な作品であった。
もちろん、その新鮮な語り口で語られる物語そのものも興味深い。舞台となっているのはロンドン北部のイズリントン地区。ここ数年、急速に開発が進んだエリアで、目抜き通りであるアッパー・ストリートには洒落たブティックやレストランが軒を連ねている。ガイドブックもだんだんこの地区にまとまったページを割くようになってきており、ロンドンの新しい観光スポットの一つと言ってよいだろう。しかし、そのアッパー・ストリートから枝分かれする、もう一つの大通りエセックス・ロードに入ると、周囲の様子は一変する。ゴミが道端に散乱し、路上の自動車は壊されている。汚れた建物のエレベーターの中に入ると小便の臭いが鼻につく。『ロンドン−パンとサーカス』の著者ジョナサン・グランシーの言葉を借りれば、「ここはヴィクトリア朝時代どころか、むしろ中世に近い」。このようにイズリントンは、かつて、この地区の住人であったトニー・ブレアの政権下で貧富の二極化がすさまじく進行した地区であり、彼の信奉するニュー・レイバーリズム(New Labourism)なるネオリベラリズム(Neoliberalism)の矛盾が顕著に表われている地区なのである。この劇の主人公ふたりがどちらの通りに近い人間であるかは言うまでもないだろう。エンジェルが語るところによれば、彼は、アッパー・ストリートのお洒落なブティックでは「万引きするんじゃないかとジロジロ見られる」男だし、二人の子供を抱えたシングルマザーのリーが裕福であろうはずがない。
このように希望のない境遇に閉じ込められて、エンジェルは「出口が見つからない」と苛立ち、リーは「すごい詩を書いて、旅行しながら楽しく過ごす」ことを夢想する。リーはよく医者に「全身を包み込むような経験に夢中になり過ぎる」と注意されるらしいが、これも退屈な生活からの彼女なりの「出口」なのだろう。彼女はそうした経験を最初、宗教に求め、熱心に教会へ通う。ところが、エンジェルと出会ってからは、リーは彼に縋るようになり、さらには彼がくれるドラッグに溺れてゆく。「宗教はアヘンである」と言ったのはマルクスだが、その言葉をもじって言えば、リーにとってドラッグは宗教なのである。たちまちジャンキーになってしまったリーに向かって、エンジェルは「お前は生まれつきのヤク中だ」と罵るが、リーの薬物中毒は決して「生まれつき」ではない。ネオリベラリズムが進行する社会では、いったん「負け組」へと入れられてしまった者にはまともな「出口」などほとんどなく、ドラッグは限られたチョイスの中の一つなのである。マルクスからの引用を続ければ、宗教と同じくドラッグもまた「現実の不幸の表現」、「現実の不幸に対する抗議」なのだ。
このように、この劇は、ロンドンの中でもふだんわれわれの耳にあまり届くことのない地区・階層に住む人々の物語、少なくとも『ラブ・アクチュアリー』のような映画の中では決して描かれることのない人々の物語を伝えてくれるのだが、この作品はそれだけでは終わらない。『アドレナリン・ハート』が新鮮なのは、物語を語ること自体が「出口」になりうることを巧みに提示していることなのである。劇の終わり近くで、リーは薬物中毒のリハビリ・センターで、他の患者から「注意を引くために(黒人男性との恋愛という)作り話をしているのではないか」と疑われたと言うが、この台詞によって、この劇全体が、二人の薬物中毒患者が自分を取り戻すために他人の前で語っている物語という様相を帯び始める。エンジェルが語る、これからはカウンセラーとして困っている人を助けながら新しい恋人と堅実な生活をしたいという物語も、すごい詩を書きたいというリーの物語と同様、非現実的な空想かもしれず、「自分をだまし続けること」にすぎないのかもしれない。しかし、冒頭でリーが、男に捨てられた女の役をカメラの前で演じることで「これは自分の実人生だ」と悟ったと輝かしい表情で語るように、物語を語ることが自己認識への一歩となることもあるのだ。そして、このように語られる物語が他人に共感を持って聞かれ、承認されるとき、そこにかすかな「出口」が開かれるかもしれない。人が人前に出て話をし、他人がそれを聞く――演劇はこういうシンプルな形式の芸術である。しかし、このシンプルな形式に備わる可能性は決して小さなものではない。先週の『アライヴ・フロム・パレスチナ』もそうだったが、この『アドレナリン・ハート』も演劇という形式が持つ可能性とその力強さを教えてくれる作品だった。

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