東京国際芸術祭2004 10回記念ユーラシアフェスティバル
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Reviews Online -劇評通信-


毛皮族『DEEPキリスト狂』

須藤崇規(東京藝術大学音楽環境創造科)

『DEEPキリスト狂』のDEEPなところ 1
    ---劇評の前に---

  1969年『I Want You Back』でデビューし、瞬く間に音楽シーンのトップへと登り詰めたジャクソン5のボーカルは、若干11〜12歳の黒人の少年だった。1982年、彼は世界で5000万枚を売り上げるアルバム『スリラー』を作る。音楽はもちろんのこと、それまでにないドラマ性あるPV(制作費は80万ドル!)によって業界に大きな影響を与え、まさに怪物アーティストへと進化した。そしてその時、彼は白くなっていた。
  去年2月から3月にかけてテレビで放送されたドキュメンタリー番組(※)では、彼の自画像を見ることができた。手元に録画したものがないので記憶に頼るしかないのだが、その自画像はキリストを模したものだったように思う。股間だけを隠し、天使が舞う中、磔に処されたマイケル・ジャクソン。彼は黒人から白人へ、自画像ではイエス・キリストになり、そして『DEEPキリスト狂』ではノー・キリストになる。

  3/4 下北沢駅前劇場 毛皮族『DEEPキリスト狂』の初日である。
  各シーンの中には多くのダンスシーン、また役者による歌唱が入り、ミュージカル調に仕上がっている。しかし、舞台から突きでた花道と小劇場独特の雰囲気、そして観客と舞台の近さを考えると、それはむしろストリップ劇場を思い起こさせる。現に、舞台にまず最初に表れたのは十字架を背負い、胸を曝け出したイエス・キリストだった。
  作・演出を手がける江本純子はイエス・キリスト/ノー・キリストを一人二役で演じる。その他の役者も一人二役三役は当たり前にこなす。このような作品では、観客は役を混同しないように見なければならないが、この作品の場合それが実に難しい。物語は必ずしも時系列に沿って語られるとは限らないし、一人二役に見えて実はそうではない…実は二人の人物は同一人物だったということもある。また衣装替えがとても多い。衣装替えがある際に衣装だけが替わったのか、それとも役が替わってるから衣装も替わったのか、これに注意しないと混乱することもあるだろう。
  また、この作品の中には多くの「ネタ」が仕込まれている。単に笑いをとるための「ネタ」だったり、大きな伏線になってるものだったり、とにかく台詞中に「ネタ」が多い。ストーリーを進めるための台詞よりも「ネタ」の方が多いのでは、と思ってしまったほどだ(実際は「ネタ」とそうでないものとを厳密に分けることは不可能に近い。それらは互いに補い合っていると見た方がよいのだろうが)
  以上のように『DEEPキリスト狂』のストーリーと「ネタ」を一回の観劇で完全に把握するはかなりのコツがいる。この作品はヴォリュームたっぷりなのだ。
  しかし、ここでわかりやすくストーリーを要約し解説し解釈するのは、一ヶ月公演が始まったばかりの作品に対して、配慮に欠けるというものだ。
  ここでは作品を直接解説・紹介することはあえて避け、別のアプローチをもって『DEEPキリスト狂』を考えてみる。それを受けての『劇評の前に』である。


  物語はその構造の内に意味をもつというのが、古くからの通説である。少々古い例になってしまうが、物語の分析の古典とも言える『民話の形態学』(ウラジミール・プロップ; 大木伸一訳,1972.9,白馬書房)で、著者はロシア民話百編の構造分析を試みている。百編もの民話はどれも類似したモチーフをもち、しかもそれは一定の順序で表れ、物語の意味はモチーフの機能とそれがおりなす構造にある。端的に言うと、『民話の形態学』ではこのようなことが書かれている。
  この古典のように、物語の構造を紐解くことで作品の理解を深めることは可能だろうし、またこのような方法こそが正当である作品も多い。実際、映画やテレビの中の作品の多くは、物語の構造を見ることがそのまま作品を理解することにつながる。
  しかし『DEEPキリスト狂』という作品は、そのような構造分析だけで解釈しきれる作品では全くない。さらに言えば、舞台にあらわれる多くの記号は、象徴的に解釈することこそできても、その解釈は多義にわたり、ただ一つの正解というのはない、またあったとしてもさほど意味がないように思われる。
  仮に、この場を使い、「マイケル・ジャクソン本人がしたように、イエス・キリストとマイケル・ジャクソンを重ね、ハリウッドが生んだ聖母マリリン・モンローを登場させることで、彼らにまつわるゴシップをアイロニーたっぷりに描いている」だとか、「マイケルというスターのゴシップをキリストの愛にしてしまうことで、新たなお伽話をつくったのだ」とか言うこともできるかもしれない。しかしそのような方法だけでは『DEEPキリスト狂』を噛み締めることはできないように、私は思うのだ。

  『DEEPキリスト狂』は「赤ペンを引きすぎて何が重要かわからなくなった教科書」のような作品だ。または「とても苦い薬を飲むために使ったオブラートが、なんだか変な味がしてかえって飲みにくくなった」ような作品だ。
  確かにこの作品は非常にエンターテイメント性が高い。エンターテイメントです、と言い切ってしまうことも容易だろう。しかし単なるエンターテイメントと割り切るには、少々強すぎる「中身」があるようにも思う。この作品には「教科書」や「苦い薬」が確かにある。問題は、そのように重要な「中身」の周りに「赤ペン」や「オブラート」があり、それらが「多すぎ」たり「変な味」がしたりするということだ。
  わざわざ分かりにくい比喩を使ったのは、「赤ペン」や「オブラート」よりも適切な表現が、自身で課した制約(作品の要約等はしない)の範囲内で見つからなかったためだが、実は私自身が戸惑っているせいもある。
  若輩者の私は、昨今の演劇界を知っているとは胸を張っても言えない。しかし、毛皮族の観客中最も多いと思われる10〜20代の中の一人として感じたことを素直に言わせてもらうと『DEEPキリスト狂』は何かの前線にある。演劇という括りの中にこそあれ、その何かが果たしてエンターテイメントなのか、その対局にあるものなのか、またはそれらとは全く違う次元にあるものなのか、判断するのがとても難しい。

  奇しくも私は先に「お伽話」という言葉をつかった。ある読者には親しみをもって楽しまれ、ある読者には説話的な観点から読み解かれたり、内に秘めるメッセージ性を解かれたりする「お伽話」。まったく逆のベクトルを同時に抱える「お伽話」。『DEEPキリスト狂』という作品の代名詞として一番ふさわしいのは、TIFパンフレットの作品紹介にもあるように「お伽話」だろう。ディズニーランドを一人で借り切ったり、自宅にメリーゴーランドを作ったり、「僕はピーターパンなんだ」と言ったりするマイケル氏は、思えば自分を主人公にした「お伽話」を作っているように見える。

  さて、『劇評の前に』ということで書かせてもらった訳だが、なにせ一ヶ月公演だ。私が見たのは初日だが、公演が進めばまた違った舞台を楽しめるのでは、という期待がある。その時はもう少し突っ込んだ劇評を書ければと思う次第である。

※ )『Living with Michael Jackson 〜マイケル・ジャクソンの真実』 2/24放送
   『裏切られたマイケル・ジャクソン〜未公開テープが語る真実』 3/8放送
    (共にフジテレビ)

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