東京国際芸術祭2004 10回記念ユーラシアフェスティバル
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Reviews Online -劇評通信-


ヤーン・ カンパニー『ロメオ+ジュリエット』

乗越たかお(作家・舞踊評論家)

 スロヴァキアを代表するヤーン・デュロヴチーク。彼に関する基礎情報については、インタビューした拙稿があるので、そちらをご覧戴きたい。
http://www.anj.or.jp/tif2004/event/rome.php

  ボブ・フォッシーが好きだというヤーンは、この『ロメオ+ジュリエット』においてダンス、テキスト、映像をふんだんに使ったパフォーマンス・アートを実現している。
  舞台上では役者が思い思いにストレッチをやっている。そこにヤーン自身がディレクター役で登場し、
「『ロメオとジュリエット』をやろう。『憎しみ』をテーマに」
と宣する。現実と劇は交錯していく。たとえばベンヴォーリオがキャピュレット家の人間ともめるシーンを演出家であるヤーンに見せるシーンがあるのだが、ここでは「予算が足らなくて役者を雇えないから」と客を舞台に上げたりする。
  タンツテアターというよりも「とてもダンスが充実した演劇」といった趣き。ここではシェイクスピアのテキストも、バレエで有名なプロコフィエフの曲も使われていない。
 

●ダンスとして見る

  ダンス公演としてみると、二つに分けられる。ひとつは冒頭の乱闘シーンなどにみられる群舞で、ミュージカル風である。わざとそういうテイストにしているのだが、腹回りの太い役者も混ざっているのをみると、明らかにテンポを合わせるための振付であり、「遅い武富士」といった印象を与えてしまう。  まあ本作では「ジューリーエーット!」と絶叫しまくるキャピュレット夫人がなかなかに良い味を出しているのだが、彼女は他の出演者に「どうせダンスしか能がないんだから」と言われたりするのだ。ダンスだけじゃないんだぜ、というのが彼のスタンスだろう。

  しかしソロやデュオでは本領を発揮する。
  バルコニーのシーンではロメオとジュリエットの愛のダンスが、リフトとグラウンド(床を使った動き)を多彩に使いながら繰り広げられる。ジャズダンス風の群舞と違い、こちらはバレエのテクニックをベースにしており、しなやかさと優美さ、そして時に荒々しいリフトが折り込まれ、若い二人のほとばしる激情が伝わってくる。しかし本作が『ロメオとジュリエット』を「憎しみをテーマに語る」という性格上、脳天気に愛し合うなかにも苦みを漂わせているのが、振付家としての手腕だろう。
  また二幕が始まった直後、ジュリエットの朧のような4人の女性ダンサーは白眉の美しさを見せた。大きな白いゆったりとしたシャツ、下は黒い下着のみ。一列に並んだ椅子の上で、ユニゾンで踊る。すらりと長い足をのばし、ふっと立ち上がり、静寂の中に吐息がさやかにわたっていく様は、これからのジュリエットの運命を見事に暗喩していた。

  1月には彼の『火の鳥』を現代舞踊協会が上演している。参考までに書いておくと、次のような作品だ。
「外の世界を知り自由に目覚めた若者が、古い因習に囚われた人々の中に帰ってくる。古い人々は重い衣装を着て長靴を踏みならすように踊るが、若者は白いレオタードに裸足、そしてバレエのテクニックを使い、軽やかに踊る。しかしかつては若者もまたこの集団の一員だったため、恋人(白いドレスに黒い長靴!)や家族との激しい葛藤と衝突がある。だがやがて人々も重く古い物を脱ぎ去り、自由になっていく。ただ一人、父親だけを除いては……」
  というもの。こちらは2、3のセリフがあるのみで、純粋なダンス公演である。若干展開が速すぎるところもあるが、内容をダンスで語りきっていく手腕は見事で、両者のバリエーションもゾクゾクさせられた。


●「憎しみ」はどこへ行くのか

  本作がバズ・ラーマン監督の映画『ロメオ+ジュリエット』(96年)にインスパイアされているのはヤーン自身が語っているとおりだ。タイトルも「&」ではなく「+」であり、両家の衝突をニュース番組で報じるところなども同じだ。
  ヤーンはバズの映画を見た後に原作を読み返し、「ピュアな愛情を持っている者は死に、生き残っているのは憎しみを持っている者ばかりだ」ということに驚き、今回の舞台のテーマに据えたという。
  じっさい『ロメオとジュリエット』は、まあ間抜けな話だ。僕もそう思っていた。むしろその真価に目覚めたのはバレエのガラ公演でバルコニーのシーンを見たときだ。あのシーンだけでいいよ。「究極の愛」なんぞは、成就するまでで十分。
  さてそのあと、ヤーンのいう「憎しみ」はどこへ行くのだろう。

  インタビューでも触れたが、この舞台で特徴的なのは、
「顔のアップで出てくるのは両家の代表と牧師。彼らは登場人物に様々な影響を与えるにも関わらず、自らは絶対に傷つけられない位置にいる。彼らが見守る先で、人々は愛し合い、死んでいく」
というもの。これはまさにヤーンの意図したところだという。実際に舞台では、両家の代表同士が「金持ち喧嘩せず」で「世間体があるので表立ってはいがみあっておかなきゃいけませんが、まあ仲良くやっていきましょうや。だいたいあの跳ねっ返りのティボルトには困ったもので」などという相談までしている。
  この構図で思い出すのは、有名なジョージ・オーウェルの小説『1984』に出てくる「ビッグ・ブラザー」だ。彼らはトーキング・ヘッズ(モニタの中、上半身だけで話す)存在で、人類を管理している。
「自分たちの手の届かない連中によって自分たちの運命が決められている」
という状況は、イラつくものだが、政治的な状況に翻弄されてきたスロヴァキアの人々にとっては、よりダイレクトな問題として受け入れられるだろう。「平和なんてむかつくだけだ」「誰にも責任なんてないんだ」という言葉の端々にもにじみ出ている。
  たださしあたりの「豊かさ」を享受して、巧妙に管理される居心地の良さに慣れてしまっている日本の観客に、その切実さはどこまで伝わるだろうか。


●その水の中を泳げ
(以下はラストに関するネタバレあり)

  この作品のラストシーンの秀逸さは特筆すべきだろう。
  舞台前面には高さ20センチくらいの水槽が5つ置かれている。一人死ぬたび、ディレクター役のヤーンによって赤い液体が注ぎ込まれるのだ。本作ではティボルトとマキューシオが死ぬ(正確にはその役をやっている役者が現実社会で死ぬ、という設定)。ロメオとジュリエットは死期を迎えると水槽に立ち、足下に赤い液体を注がれる。
  役の上でも演出家であるヤーンは、神のごとく次々に死を与えていく。
  それにしても『ロメオとジュリエット』で二人の死を「立ち往生」で見せたのは初めてだろう。四角い照明で照らし出された彼らの視線は、まっすぐに観客を見つめ返している
  そして舞台上にはもうひとつ、まだ透明な水が張られた水槽が残っている。それは観客一人のためのものだろう。
「人生が小さなプールだとするなら、その色はもう決められている」とヤーンは語りかける。「それでもあなたは泳いでみたいですか?」
  むろん、泳ぐ他はない。生きるとはそういうことだ。その水がどんな色でも、どんなに濁っていても。
  しかし自分がどんな水の中を泳いでいるのかについては、つねに刮目しなければならないだろう。さもなければ「モニターの向こうにいる誰か」に、赤い死の水を注ぎ込まれてしまうことになる…… それは遠いスロヴァキアではなく、すでに我々の周りに起こっていることではないだろうか?

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