東京国際芸術祭2004 10回記念ユーラシアフェスティバル
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Reviews Online -劇評通信-


ク・ナウカ『ウチハソバヤジャナイ』

須藤崇規(東京藝術大学音楽環境創造科)

「おかしいのはどっちもだ」

  今回のク・ナウカは「二人一役」ではなかった。
  これは前もってパンフレット等で知らされていることだ。それゆえ「何故?」という疑問をもっていた人も多いだろう。
  ク・ナウカが発行する『美をメハニハ(第6号)』で、ク・ナウカ代表宮城聰はその理由を書いている。「『ウチハソバヤジャナイ』をめぐる往復書簡メール」の一節。

「十四年間ずっと追求してきたことに、惑溺するのではなく、相対化したいから。手法は、目的ではありません。その混同が起らないよう、相対化の作業がときには必要だろうと思います」

  言われてはたと気がつくが、ク・ナウカ=「二人一役」と簡単に連想してしまう私は、ともすると手法と目的を違えていたのかもしれない。観劇前に『美をメハニハ』をざっと読んで(これは来場者に配られる)こんなことを考えていた。

  そして観劇後、なるほどと思った。そして、少々震えた。
  『『ウチハソバヤジャナイ』をめぐる往復書簡メール』(以下『書簡メール』)は宮城聰と演劇エッセイストのうにたもみいち、そして明治大学助教授の野田学の三人によるメールのやりとりを収めたものだ。そこで三人が確認しあう、今作品の(ク・ナウカと宮城にとっての)意味である「相対化」、これが実際の舞台とぴったり一致するような感があり、少々気味が悪いほどだった。もちろん、それは気持ちいい気味悪さなのだが、自身のいる空間的・時間的な位置をしっかりと自覚し、それに対する行いをしっかり実践するというのは並大抵ではできない。それを宮城は行う。否、行ってきた。おそらく、これからも行うのだろう。
  観劇後の震えは「いいもの見たな」という震えであると同時に、「これからも宮城聰はやるんだ…!」という期待と畏れが入り交じったものだった。

  さて、同じく『書簡メール』の中で宮城はこうも語る。うにたもみいちの「なぜ、演出が前半後半で分かれる?」という問いに対する答えである。

「僕自身も、厳しく問われる場に身を置くべきだと思ったから(…中略…)僕という演出家のものの見方をも相対化されるような仕掛けを、考えたのでした」

  演出家の思惑はこうだが、ではそれは舞台ではどうだったのか、観客から見て演出家の交代はどう見えたのか。私個人の感想で言えば、予想していたよりも違和感がなかった。演出家がかわるという思い切った案に期待はするものの不安も感じていたのだが、それは全くの杞憂だった。またしかし、両演出家の違いが出ていないのかと言うと、もちろんそんなことはなく、脚本に対するアプローチの違いはかなりでていたと思う。その違いを含めた上で、バランスの良い一つの作品になっている。
  『ウチハソバヤジャナイ』は極端な喜劇だ。中心人物である高野正五郎は決してそば屋ではなかった。しかし、そば屋であることを否定しながらも周りにひっぱられながらどんどんそば屋になっていき、そば屋であることを認めてしまった瞬間、周りから見放されるというナンセンスな喜劇である。もちろん笑いどころは満載であり、また重要なのだが、この「笑い」に対してのアプローチの違いが宮城&外輪の両演出家間の大きな違いであった。
  一つの作品全てを演出しあうわけではないため、個々の部分を取り出し実際に比較することはできないが、宮城の「笑い」は外輪の「笑い」に比べ、徹底して笑うためにあるという印象を受ける。再び『書簡メール』を引用するが、宮城は「自分は古典的な(あるいは秋田実的な)ギャグの構造については、わりと知っていると思います」と言う。落語や漫才の笑いは意外と構造的であるが、宮城が演出した前半部分では、その構造に関する知識と、その知識からくる演出が非常に冴えていた。対する外輪は、音響による笑い声等を利用するなど、宮城と重なる部分をもちつつも別のアプローチを用いた。しかし、一見「笑い」をとるために使ったように感じる笑い声の効果音等が、物語が進むにつれて妙に意味深に響くようになる。それは観客席よりもむしろ、舞台上で苦悩する高野正五郎にむかって放たれているようだ。外輪が演出した後半部分では、物語が佳境に入るということもあいまって、「笑い」は単なる目的ではなく、『ウチハソバヤジャナイ』の世界を創る一つの手段にすぎないのだ、と繰り返している様に見える。
  宮城の演出が「(ク・ナウカの)相対化」のために純粋に「ナンセンスな世界」を作っていたと見ると、外輪の演出は「(宮城聰という演出家の)相対化」のために「ナンセンスであるがためにナンセンスでなくなるような世界」を作ったように見える。この違いが単に演出家の違いからくるのか、それとも脚本自体に内包されているものなのかは判断が難しいが、今回の『ウチハソバヤジャナイ』はそのような違いを止揚したところで完成されたものだと言っても、失当ではないだろう。

  それにしても「おかしいのはどっちだ」とは、その質問がおかしいではないか。高野正五郎もマチルダも、やっぱりおかしい。宮城も外輪とやはりおかしい。結局「どっちもおかしい」のだ。そしてなにより、この『ウチハソバヤジャナイ』を経てク・ナウカはどこに向かうのか、それが気になる。少なくとも「二人一役」を中断した今作品が、ク・ナウカの歴史における必然であることは間違いないようだ。

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