東京国際芸術祭2004 10回記念ユーラシアフェスティバル
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Reviews Online -劇評通信-


毛皮族『DEEPキリスト狂』

須藤崇規(東京藝術大学音楽環境創造科)

『DEEPキリスト狂』のDEEPなところ2
   ---創造神の毛皮---

  3月26日、『DEEPキリスト狂』を見た。初日に一度見たのだが、それから20日以上がたち、この作品がどのように変わっているのかが気になっていた。
  初日に見たこの作品は、出来がいいとは言いがたいものだった。しかし、その中には確かに魅せられるものがあり、作品の完成度は公演一ヶ月の間に高まるだろうと期待していたのだが…二回目に見た時、様々な不安点が解消されていたのかというと、なんともいいがたい。

  とにかく体を張ったものが多い。それらのネタは、最初の数回はインパクトもあり、観客も気持ちよく反応する。しかし、ハイテンションな舞台に慣れたころから次第に笑えなくなってきてしまう。いかにおもしろい格好をしようと、いかにバカなアクションをしようと、どれもワンパターンに見えてしまうのだ。そのワンパターンに見えるネタが繰り返され、そのたび物語は中断する。再び進みはじめるとまたすぐに中断。何回かある歌とダンスのシーンでは、決して上手いわけではないが、それが終わるまではネタはないのだからその分安心して見ることができる。
  エロナンセンスとあるが、実際は少しのトップレスと沢山の下着姿、それとファックという言葉の連呼くらいだろうか。それほどエロという感覚は覚えない。これも先ほどの笑いの問題と同じで、慣れるということが問題になる。トップレスの江本が歌う舞台の冒頭はそれは強烈なものだ。しかし作品後半、ソロのダンスシーン(?)の中で再び上半身裸になった時、体を張ったエロはそれほどの強烈さをもたない。
  物語そのものをとっても、それはどうも的を得ない。マイケル・ジャクソンを持ち出しても、それは現実のマイケルを一人の傍観者として勝手に料理してみました、という印象が強い。同じくキリストやマリリンというモチーフにも同じことが言えよう。特に現実を批判することもなく、肯定することもなく、皮肉ることもしない。笑いのためのネタがシニカルに響くことも、ままあるが、それは最終的にはどこにも帰結することがない。
  簡単に何点か挙げてみたが、このように作品の「演劇」としての質はそれほど高いものではないように思う。上記の問題点を解決することで、より「演劇」らしくなるだろう。


  しかし、解決してしまったら毛皮族らしくないではないか。

  劇団とは劇をする集団である。当たり前だ。ダンスと演劇の浸食を代表に、劇とは何かと問われてもすぐに答えられない状況ができているが、「では劇団って何なのか」と言うのは、なかなか問われない。毛皮族はこの問をたてるのにうってつけだ。
  演劇は何かを表現するための方法である、と断定しても異論はないだろう。表現されるものの深さ・広さ、それは全くもって多様だし、それほどはっきりしていない場合もあるだろう。どのように表現するかも様々だろうが、いかなる場合でも演劇は表現なはずだ。
  では、毛皮族は何を表現してるのか。『DEEPキリスト狂』をひとつ見ても、いろんなことが考えられるし、どんな説をたててもそれほど的外れではないだろう。しかし、毛皮族は何よりまず先に「毛皮族」ありき、である。

  ここからは、かなり根拠のない個人的な憶測になってしまうが、毛皮族は「毛皮族という世界」を語るための劇団である。だからむやみやたらなハイテンションや、苦しい笑いやエロはやはり必要だ。それは語られる対象としての「毛皮的世界」に、すでにあるのだから。毛皮族は「エロナンセンス」で何かを表現しているわけではない。「エロナンセンス」を表現しているのだ。「エロナンセンス」とは、表現の対象なのだ。
  「世界としての劇団」をさらに考えるなら、毛皮族の写真集『緊迫・毛皮族』がいい例になる。劇団の写真集というのも珍しいが、写真という表現は毛皮族に実にぴったりだ。劇団自体がすでに一つの世界を形作っているのだから、演劇以外の表現で語られるのもそれほどおかしいことではなかろう。劇をやらなくても劇団でいられる劇団は、そうそうないはずだ。
  加えて『DEEPキリスト狂』で使われる主題歌『ワンダフルワールドロケンロール〜毛皮の聖獣学園天国〜』。そう、この作品には主題歌があるのだ。しかし、そこで歌われるのは『DEEPキリスト狂』という作品についてというよりは、毛皮族について、といった内容だ。舞台の始めと最後に出演者全員が振付きで歌うこの主題歌は、自己言及的な賛歌と言っていい。
  以上を前提に考えると、先ほどの物語についての問題も納得がいく。マイケル・ジャクソンとキリストというテーマは、もともとから現実云々の問題ではなく(語られる対象ではなく)、「毛皮的世界」を表現するのにうってつけの方法だったのだ。舞台上の嘘っぽいマイケル=キリストは、現実とリンクすることなく、毛皮的世界の特徴の一つである「嘘っぽさ」のためにある。
  毛皮版性訳聖書の冒頭は「神は「毛皮あれ」と言われた。こうして毛皮があった。神はその毛皮を見て、良しとされた」と、書いてあるのだろう。毛皮族はそこから始まっているのだ。

  表現するものとしての劇団ではなく、表現される世界としての劇団。
  私が『『DEEPキリスト狂』のDEEPなところ1』で書いた「前衛」という意味はここにある。芸術に携わる者が「前衛」ときけば、それはどこか昔っぽいイメージを思い出させるものだ。それは時代の最先端にいる、ということを意味するだけではない。諸分野で時期にかなり差はあるが、20世紀中旬を中心にわき上がった「実験的」な試み、「前衛」という言葉はそれをも意味する。それを受けて、やはり毛皮族には「前衛」というのが似合うように思う。

  前述の物語に関する説に反するようだが、『DEEPキリスト狂』で江本純子が扮するキリストは、やはりそれなりの記号的な意味がある。劇中、彼女は「キリスト=江本純子」という台詞を言うが、それはまさにその通りの意味である。毛皮族の信者(リピーターとも言う)にとって、江本はまさに神なのだ(正確にはキリストは神の子だが…)。そして、それを積極的に認めようとする姿勢がこの台詞には見られるのではないか?再び毛皮版性訳聖書をもってくるなら、「初めに神はエロとナンセンスを創造された」とでもなるのだろうか…

 
  さて、『DEEPキリスト狂』の劇評というより、毛皮族についての憶測・仮説まじりの小論になってしまった。この「毛皮的世界」をめぐる説が的を得ているかというと、少々怪しいかもしれない。しかし、前回同様わがままを言って個人的な意見を言わせてもらうと、『DEEPキリスト狂』を見る限りは大きく外れているとも言えないと思うのだ。
  「毛皮的世界」はクセの強さにかけてはどんな世界よりも上回る。決して万人に受け入れられるものではない。しかし、今回の一ヶ月公演を経て毛皮族信者はさらに増加しただろう。この劇団の活躍は今後も期待できる。
  しかし、不安がないわけではない。「毛皮族世界」が信者という一部の人だけのためにあるのならば、それは拡大すると同時に閉じてゆく可能性もある。それは果たして毛皮族にとって吉となるのかどうか、それはまだわからないだろう。思えば、今回の東京国際芸術祭への参加は、そうして自ら創造する世界に閉じつつあった毛皮族を、外に引っ張りだすという意味があったように思う。それが果たして、どのような結果に終わるのか、興味深いところである。

  毛皮族が「毛皮的世界」を語りつづけ閉じてゆくのか、それとも「演劇」をして外に開いてゆくのか(いまさらという感じもしないではないが)、それとも「毛皮的世界」と「演劇」は共存できるのか…この劇団を今後見守るにあたって、この点が重要になるだろうとおぼろげに感じる。

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