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Artist Interview


Artsit Interview 〔1〕 ファミリア・プロダンクション(チュニジア)
アラブ演劇の最高峰と評されるチュニジアの演出家が初来日!美しい地中海の国チュニジアの内部に潜む、社会の諸問題を炙り出すジャイビ氏の作品創作への闘志が垣間見られます。<仏リベラシオン紙より抜粋>

『ジュヌン-狂気』 演出家 ファーデル・ジャイビ

劇作家、演出家、また教育者でもあるファーデル・ジャイビ。1976年、妻であるジャリラ・バッカールとともにチュニジア初の民間劇団を設立した。民衆演劇の闘志であり、明晰な人物に特有のエレガンスも持ちあわせる。


創作の過程で、身体の訓練をとても大切にされているように思いますが。

作品『ジュヌン−狂気』は、奪われた言葉(パロール)の復権を想起させる舞台です。主人公ヌンは若い精神病患者で、彼の言葉は幼いころから父権的、家族的、社会的、政治的な鉛の覆いの下に置かれています。そんな彼が、自分自身の言葉、それもほとんど読み書きのできない青年としては驚くほど詩的で預言者的な言葉を回復した瞬間、彼の身体もまた同様に表現しはじめるのです。私は壊れた身体を扱うこと、身体が形成されていない役者、さらにはプロではない俳優と一緒に仕事をするのがとても好きなんですよ。 

               
登場人物を演じる俳優たちは、どういった演劇トレーニングを受けてきているんでしょう?

(c) Dali LAMOUCHI  

チュニス高等演劇学院(Institut superieur d’art dramatique de Tunis)という学校です。まあ私の考えでは、まったく疑わしい「詰め込み教育」をしているところですが。逆に2人の大女優、ジャリラ・バッカール(精神療法医)とファトゥマ・ベンサイデン(母親)は、特別の訓練なく自分自身で経験を積み上げてきた女優たちです。ヌンを演じるモハンマドアリ・ベンジェマは一風変わった経歴の持ち主で、モデルをしてみたり、ダンサーをかじってみたり・・・ある舞台で私と出会うまで、連続TVドラマでエキストラをしていたんですよ。 身体の話に戻ると、私は今回の作品で、打ちのめされ、締め付けられた身体を見せたかったんです。


『ジュヌン−狂気』の中に、今日のチュニジアのメタファーを見ることができますか?

(c) Dali LAMOUCHI  

『ジュヌン』はメタファーではなく、明らかに今日のチュニジアそのものです。もちろん、あまりに単純化する見方には注意が必要でしょうが、『ジュヌン』と同質のものは、この国には存在しません。私は何かを恐れているからこう言うのではなく、知的誠実さゆえに言っているんです。  公の自由は保証されておらず、ジャーナリズムは抑圧されている。だが一方で、私のように働くことのできる人間もいる。これは力ずくでもぎ取った自由、そして黙認されている自由です。
私の公演はすべて、指導委員会、つまり検閲にかけられます。 私たちの劇団は民間の独立したカンパニーですが、3分の1は国からの補助金をもらっている。
従ってチュニジアの国家権力は、何も悪びれず我々を(芸術家を弾圧する独裁国家ではないということを国際的に示すための)ショーウィンドーとして扱うことができるわけです。

 『ジュヌン−狂気』は実話に基づいた作品ですが、あなたのアプローチはリアリズム演劇からは程遠いものですね。

(c) Dali LAMOUCHI  
ジャリラのテクストと私の演出は叙情的で叙事詩的、バッロク的な次元に開かれています。私は、演劇がある意味「行き過ぎ」の場であって欲しいと思っているのです。 『ジュヌン』のテクストも実は多様で、主に3つの言語に立脚しています。まず、ベドウィン語。これはヌンの家族が話す農民の言葉で、ヌンの母親は純粋なベドウィン語を話しています。ヌンの兄弟たちは都会言葉を退化させた田舎訛りです。一方ヌンは、チュニジア訛りのアラビア語を話す。これは、ここ30年もの間、ゴチゴチに硬直した正則アラビア語(フスハー)によって押しつぶされてきたチュニジア固有のアラビア語です。現代の正則アラビア語は、啓蒙の世紀(18世紀のフランス)に演劇が民衆に押し付けた古典フランス語と同じようなものでしょう。 また精神科医はチュニジア方言で自分を表現する一方、精神病院で死去した「呪われし詩人」、Munaouar Samadahを引用することで文学的アラビア語へと舞台を導いていくわけです。

あなたの演劇をどう定義されますか?

市民権の演劇。抵抗の演劇。「いま、ここ」での演劇。
私の名づける「チュニジア人種(Homo Tunisianus)」は、自分自身ではめったに熟考せず、「他者」、厳密には西洋モデルを通してそれに近づくことを夢見てきた人種なのですが、そんなチュニジア人の真ん中にこそ存在する演劇、「すべての人にひらかれたエリート主義」の演劇とでも定義しましょうか。
今日、その西洋モデルとは特にアメリカのことを指しますが、エジプトのTVも大きな悪影響を及ぼしており、エジプト訛りのアラビア語を話し始めたチュニジア人もいるほどです。
(元宗主国の言葉である)フランス語での言語活動は、アーティストや知識人にとってある種の「逃げ場」となり得るものでしょうが、チュニジアでも他地域と同様、難しくなってきているのが現状です。



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