東京国際芸術祭2004 10回記念ユーラシアフェスティバル
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Reviews Online -劇評通信-


クロムモリブデン『なかよしshow』

堤広志(演劇・舞踊ジャーナリスト)

「今時のエンゲキをアイロニカルに逆照射する怪作」

●異彩を放つリージョナル劇団

  日本各地で活動する若手・実力派の劇団を紹介してきたリージョナルシアター・シリーズの中でも、今年大阪からピックアップされたクロムモリブデン(以下クロム)は異彩を放っている。「トランス・ナンセンス・バイオレンス」をテーマに、音響、照明、美術等を駆使したステージは、演劇界の王道を行くというよりは、どちらかと言えばエンターテインメント系、なかでもサブカルチャー的テイストのものである。ドラマの内容自体も、「誰にでも親しみやすく共感できる物語」であるとか「地域に密着した地道な文化活動」といったイメージからはかけ離れた、かなり辛辣で皮肉なナンセンス劇となっている。

  劇団そのものは息が長く、いろいろと変遷を重ねて来ているようだ。結成されたのは1989年。大阪芸術大学OBを中心に旗揚げ以降、主宰の青木秀樹が作・演出を担当している。10年後の99年には第20回公演『カラビニラダー雪22市街戦ナウ』で、初の東京公演も実施(※1)。私はこの公演を見ているが、鎖やら金網やら鉄パイプやらを組んだ廃墟のようなジャンクなセット、ストロボや蛍光灯も用いたどぎつい照明、大音量のパンキッシュなノイズとともに、延々と繰り広げられるバトルシーン、それとは不釣り合いなギャグなど、すべてにわたってテンコ盛りのハードコアな絶叫芝居だったように記憶している。だが、今回彼らが「劇団第4期のスタート」と位置づけた『なかよしshow』は、以前のスタイルとはガラッと変わって、キッチュでスタイリッシュな奇天烈コメディとなっていた。

●ウェルメイドではない“シニカルコメディ”

  今回の作品『なかよしshow』はいわゆる劇団もので、公演を間際に控えて問題が続出する、シチュエーションコメディにはよくあるパターンだ。そこでの大きな障害(困難)として台本の検閲(改訂)という問題があり、これは三谷幸喜の『笑の大学』に感化されたところが大だという。だが、クロム版の劇団ものは、単なるウェルメイドコメディでは終わらない。というより、そもそも口あたりの良いコメディなどは、最初から指向していない。自殺や少年犯罪など、昨今の危ない社会情勢を数多く孕ませながら、演劇の常法や劇構造さえも弄んで、今時のエンゲキをアイロニカルに逆照射する怪作となっていた。

  舞台は、落語の音声が流れるところから始まる。恋人にふられたのを苦に、自殺未遂を起こした女子高校生コッコ(奥田ワレタ)が、笑いを取り戻そうと落語のテープを聞いているのだ(その落語がまた、自殺をした故桂枝雀師匠のものであるのは皮肉だ)。そんなコッコを励ますために友達のマリ(金沢涼恵)は、卒業式の直後、男子生徒たちを誘って“劇”を企画し、コッコにも参加させようと企てる。将来の展望などまったくない男子たちは、それぞれに「やりたいこと」を考える。本物の銃で人を殺したいハジメ(森下亮)、まだやりたいことの決まっていないトラノスケ(板倉チヒロ)、誰でもいいからとにかく女性とセックスしたいレンジ(夏)は、「“劇”の中では何でも夢が叶う」というマリの言葉にそそのかされて、参加を決める。現実から逃避したいコッコも「劇の世界では他人になれる」と聞き、それに加わる。

  そして、本番が迫った稽古の日。公演会場となるホールの担当ノノムラ(重実百合)がやって来て、台本の改訂を要望する。劇の内容が、世間を揺るがした「4・22事件」とそっくりなため、自粛してほしいというのだ。拳銃を使用するシーン、女子小学生に悪戯したり殺したりするシーンはもちろん、麻薬、ドラッグ、暴力、セックス、爆弾、ネット犯罪、子供虐待、小動物虐待、ベッカム(!?)など、台本のほとんどを改稿してくれという(※2)。そこへ、当の銃乱射事件が起きた高校を卒業したチカ(冨永茜)が、マリからの出演依頼を受け訪ねてくる。さらに、元警官のアベ(信国輝彦)も、台本が度重なる事件を予見しているため、作者のサクラギについて詳しく訊こうとやって来る。

  こうして集まった面々は、なんとか公演を実現するため、台本の表現をソフトにしようとアイデアを出し合ってみる。だが、どうしても「衝撃的事件」はシュールな悪ふざけにしか思えず(例えば「銃」を「気功波」に、「麻薬中毒」を「切手集め」に、「ベッカム」を「つばさくん」に変更したりして)、その度にすぐ挫折してしまう。はては、台本作者サクラギは実在せず、書いていたのがコッコだったという事実が判明。ふられた腹いせに恋人が銃殺されたらいいのにと思って書いた台本が現実のものとなり、それ以降のシーンは現実に起きた事件を参考に後から書き加えたというのだ。こうして台本の謎が明かされ、改訂することもできず、いっそ自分たちのこの状況をそのまま舞台化してはどうかという意見が出る。しかし、「自分たちのやることがそのまま劇になっていく」とメタな妄想を抱いて、はなはだしく勘違いをし始めた面々は、「この現実の台本は宇宙の果ての神様が書いている」と宇宙の真理を悟った気になって、結局は公演を放棄しようとするのだったが…。

●現実のグロテスクさを笑い飛ばす

  なにより俳優たちの演技が不気味だ。役やシーンによって差はあるものの、まるで人形劇の人形かアニメのキャラクターのように、役柄をスタイリッシュにデフォルメしている。役をあまり自己(俳優個人)と同一化せず、感情過多にならないで切り抜けていく。そうしたカリカチュアライズによって、私たちの生きている現実世界のグロテスクさを痛烈に皮肉り、笑い飛ばしていくのだ。

  そもそもこの作品は、ドキュメンタリー映画『ボウリング・フォー・コロンバイン』(※3)を下敷きにしているという。この映画は、アメリカを震撼させた高校性による銃乱射事件を起点として、アメリカの銃社会や国家の戦争行為までを批判したジャーナリスティックなものだが、舞台で言及される高校での銃乱射事件も、そのアメリカに実在した事件をモチーフとしている。他に昨今日本を騒がしている様々な社会的事件もモチーフとして組み込んでいるのだが、それらの事件や状況へ対して、妙な道徳観や倫理観を振りかざしたりせず、情緒に流れることもなく相対化して描いている。この感覚は、凶悪犯罪や戦争といった事態を前にして、あくまで自分には直接関係のないこととして受け止める日本人一般の態度と、非常に似通っているとは言えないだろうか?

●今時のエンゲキをも批判する

  また、「演劇」という装置を、徹底的に遊び倒しているところにも快感がある。会話の途中で突然、「こうして私たちは“劇”を始めました…」などと観客に向かってナレーションを語り始めること数回。その都度、脇から「誰に言うてんの」「るせー」「うぜー」とツッコませたりする。あるいは、話題がドラマチックな展開になり始めると、照明・音響が場を盛り立てるように変化するのだが、それはスタッフワークを一手にこなすカブトヤマ(床田光世)が、色付きの照明や多彩なBGMを即座に操作しているからで、やはり途中でツッコまれてはすぐに無音&地明かりの状態に戻ったりする。こうして、従来の“演劇的”な仕掛けを逐一バラし、オーソドックスな感動への期待をはぐらかしては、常にドラマ(虚構)に対してのメタな視点を確保しようとする。このバランス感覚は信頼できる。

  “演劇的”な感動への誘惑をストイックなまでに回避していくこの批判的な視線は、今時のエンゲキにも向けられている。例えば、劇中でマリがコッコを演劇に誘うセリフで、「劇の世界には精神を病んだオカシイ人がいっぱいいて、皆で傷を舐めあいながら生きてたりする」とあったり、「お客さんから一人1万円取るとして千人入れたら1千万円、1万人入れたら1億円で、それって結構な額じゃない?」と勘違いもはなはだしい皮算用をしたりする。そうして仲間を集めておきながら、実際の舞台づくりには台本や演出家が必要だということすらもわかってなかったマリは、電話で問い合わせて「松尾とか鈴木とかいう人(松尾スズキのこと)の台本が面白いらしい」などと、もう大変なバカぶりを発揮するのである。これらのギャグは、まさに小劇場演劇に携わる者にとっては苦笑せざるをえないだろう。若手小劇団には、演劇史の流れも先行する世代の偉業も、あるいは演技のメソッドや制作のノウハウさえほとんど継承せずに、ゼロから“劇”を始めようとする劇団も少なくないからだ。

  さらに一番引っかかるのは、台本の改訂についてである。設定では、ホールの公演担当者が、上司である“館長”から台本の改訂を指図されたことから、このドラマの土台となるシチュエーションが生起する。だが、作・演出の青木は、こうした“おいしいネタ”を素材にして、さらなるシチュエーションに発展させることはしないのだ。それは自分たちの公演そのものをも批判的に見ているからだとするのは、ちと穿ち過ぎだろうか? “館長”という役職があるということは、設定の公演会場がおそらく公共のホールだとイメージできる。これまで過激で皮肉なナンセンス劇を展開し、関西演劇界で孤高の存在として知られてきたクロムが、今回の公演のように国際的なフェスティバルの一環にラインナップされて、公的な団体(NPOや財団法人)との共同主催により、また公的な助成や大手企業の協賛を受けて公演するというのも、ある意味では皮肉な話である。本来表現者であれば、台本の改訂など、すんなりとは受け入れられない問題であろう。劇中でも「表現の自由」という言葉は出てくるが、しかしそんな言葉を繰り返すことは「恥ずかしく言えません」とあっさり放棄してしまうのだ。この事態をどう考えればいいのか。社会がそれほど“毒”に対して寛容になったのだろうか? それとも今時のエンゲキは、そこまで力を失いつつあると暗に示唆しているのだろうか? あるいは虚勢されゆくエンゲキの姿をも楽しむ屈折した余裕が、青木にはあるとでもいうのだろうか?

  だが、舞台の終盤、“劇”をすることを諦めかけた一同は、海外青年協力隊が募集しているという戦場での戦意高揚演劇(もちろんそんなものはありません)を行うため、海外に赴く。この段になって、ようやく銃を用いる劇が可能なのは戦場しかないのではないかという、大きな皮肉が浮かぶ上がってくる。しかし、実際の舞台では、そこへ到達するまでのストーリー展開が粗く、説明不足な感は否めない。

●クロムの笑いを考える

  シーン展開の仕方としては、ギャグで話題を繋いでいく、かつての80年代小劇場プームの頃によくあったような“元気な芝居”と同様のスタイルだ(ドラマの内容自体はまったく正反対であるが…)。作・演出の青木は、劇団青い鳥や夢の遊眠社、第三舞台をこよなく愛して観た世代だそうで、ドラマの骨格やシーンの演出にもそうした前世代の影響が見受けられる。しかし、クロムの場合、突発的に持ち出される話題の数々と、それらを茶化しては引っくり返し、ツッコんでは混ぜ返すといったギャグの繰り返しでシーンを延々と見せて行くため、ストーリー自体がどこへ向かうものなのかをなかなか見定められず、見続けるのにはいささか忍耐を要する。

  つまり、劇構造が「劇団の日常(現実)」と「劇中劇(虚構)」の行き来にあり、会話のパターンも話題を提示した後、すぐ断定的なリアクションによって話題を収束させるやりとりの繰り返しで、ドラマが深まって行かないのである。しかも、それをフォローするため舞台の流れをスピーディに進行させようとしているのか、あるいは俳優たちの演技がスタイリッシュなキャラクター設定に留まっているためなのか、力づくで一本調子にネタを披露しているようなところがあり、ギャグも冴えず、全体を通してみると平板な感じがして不満も残る。

  ギャグの種類としては、ボケ&ツッコミを反射的に掛け合うコテコテなもの、ナンセンスな言動で意表を突くもの、シュールなボケ、勘違いからくる脱線など、多様な“笑い”が仕込まれている。それらを手を換え品を換え、様々な手法や場面処理で見せていく演出的手腕は評価していい。しかし、こうした時事ネタやパロディ、あるいは言葉遊びや言葉の取り違えなどを持ち出してきてはストーリーを引っぱって行く作劇術は、当の野田秀樹や鴻上尚史でさえ、現在ではほとんど行わなくなっており、現在では時代錯誤な感じがしないではない。

  一方では、松尾スズキやケラリーノ・サンドロヴィッチ、宮藤官九郎らのように、それ以降の世代でも、現代風俗のパロディやナンセンスな言動をノイジーに挿し挟んでは、ヴィヴィッドな笑いに結び付け人気を博している劇作家もいる。しかし、それらはあくまでドラマやシチュエーションに則った上で、人物の関係性や役柄の心理的流れとリンクした形で“笑い”へと発展させているのであって、単に“面白いギャグ(ネタ)”を羅列するものではない。

  もし仮に、クロムが今のスタイルを押し通すのだとしたら、一つ一つのギャグに磨きをかけ、アメリカのスタンダップコメディやパンチラインのように、個々の笑いを粒立て、屹立させるべきではないだろうか。あるいは、それぞれの笑いの質を見極めながら、表現方法(トーンやテンポ)をその都度大胆に変え、ソープオペラのように演技にもさらなる幅を持たせるべきではないか(笑い声の効果音を入れるとやり過ぎか!?)。そうして個々の笑いのニュアンスを差し出しては観客に吟味させるように、その“可笑しみ”をシェアして、確実にヒットを積み上げて行くほかはないだろう。

  特にクロムの場合、その笑いの質自体が、現代社会や演劇状況を露悪的に諷刺するシニカルかつブラックなものであるため、それらを一方的に言い切られると、観客の中にも同調しきれない者が数多く出よう。そうではなく、観客に悟らせるような形のウィットを含んだアイロニー(皮肉)であれば、笑いのボルテージもより倍増するような気がする。このギャグの展開の仕方をどう捉えて改善(あるいは改悪?)し、表現に磨きをかけていく(独自の道を行く)かが、今後の課題だと思った次第だ。


註)
※1:クロムモリブデン第20回公演『カラビニラダー雪22市街戦ナウ』は、1999年11月6日・7日東京・神楽坂die platze、2000年1月21日〜23日伊丹AI・HALLで公演。戦闘状態の島からの連絡が途絶え、ある男が調査に向かうストーリー。しかし、狂気に満ちたその島は、結局男の作り上げた世界だったといった形の、過激にトンガッたサイバーバンクな作品だった。

※2:『なかよしshow』の劇中で「4・22事件」の全容が詳しく述べられるシーンはないが、断片をつなぎあわせて総合とすると、高校で銃が乱射された「4・22事件」の後、女子小学生拉致監禁やレイプ殺害、インターネットで爆弾の作り方を調べたテロ組織が売名行為としてベッカムを爆殺など、ショッキングな事件が立て続けに起きており、どれも犯人が捕まっていないらしい。

※3:『ボウリング・フォー・コロンバイン』は、アメリカ人ジャーナリストのマイケル・ムーアが監督・主演したドキュメンタリー映画。1999年4月20日アメリカ合衆国コロラド州リトルトンで、コロンバイン高校の生徒である少年2人が高校に乗り込み、銃を乱射、12人の生徒と1人の教師を殺害したのち、自殺して、全米を震撼させた衝撃的な「コロンバイン高校銃乱射事件」を入り口に、「なぜアメリカは銃を捨てられないのか?」とアメリカの銃社会を斬っていく内容。コロンバイン事件の犯人が心酔していたという理由から公演が中止となったハードロック歌手マリリン・マンソンや、当時全米ライフル協会会長であった俳優チャールトン・ヘストン、放送禁止用語連発のお下劣テレビ番組『サウスパーク』の原作者マット・ストーンらに、アポなし突撃取材を敢行する。

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