東京国際芸術祭2004 10回記念ユーラシアフェスティバル
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Reviews Online -劇評通信-


北九州芸術劇場プロデュース『音楽劇FAUST≪ファウスト≫』

堤広志(演劇・舞踊ジャーナリスト)

「端麗にして現代的な音楽劇」

  2003年8月にオープンした北九州芸術劇場は、「観る」「育つ」「創る」をコンセプトにした公立劇場だが、その「創る」にあたるオリジナル・プロデュース作品が『ワルプルギスの音楽劇 ファウスト』だ。今回東京公演は、世田谷パブリックシアターとの提携で上演されたものだが、実質的には地域と東京の公共ホールが四つに組んで挑んだ、新しい製作スタイルの舞台といえる。それゆえ首都圏・地域を問わず、今後の日本の公共事業として製作される舞台芸術の在り方を考える上でも、多いに意義のある試みと言えるだろう。


  ●重厚長大な“難物”への挑戦

  開館を記念する作品として選ばれたのが、誰でも名前ぐらいは知っているであろうゲーテの名作『ファウスト』なのだが、実際に活字で読んで原作を読破したことのある人はどれほどいるだろうか? 恥ずかしながら、かくいう私もその分厚いページ数に畏れをなして、まったく手を出すことさえなく過ごしてきたシロモノである。ドイツに古くからあった伝説をもとに、文豪ゲーテ(1749〜1832)が死の直前まで、60年の歳月をかけて執筆した1万2千行に及ぶ大長編戯曲であり、原作をそのまま上演すれば10時間以上、日数にすれば最低2日間はかかるであろう超大作である。特に第2幕では、帝政国家の命運を左右する社会的な大事業や、はたまた絶世の美女ヘレナを訪ねた古代ギリシャへの時空を超えた旅など、荒唐無稽にしてスケールの大きな場面が連続する。そのため、大抵はファウストとマルガレーテの恋を描く第一幕のみの上演となる場合が多く、全幕を完全に通して上演するケースは稀というよりも皆無に近い。だから、2000年にドイツの演出家ぺーター・シュタインが、ハノーファー万博で史上初の完全ノーカット版全幕上演を実現し、話題となったのも記憶に新しいところだ。

  こうした“難物”を全幕上演するには、演出家にとってもプロデュースする側にとっても、相当の勇気と決断力、そして粘り強さが要る。今回の白井晃演出版では、プロデューサーでもある能祖将夫が脚本・作詞を担当し、原作に忠実に、かつドラマの整合性に配慮しながら枝葉を刈り込んで、3時間以内に収めている。1幕と2幕で各70分、合間に20分の休憩を挟み、トータル約2時間40分というコンパクトさ。しかも、セリフ主体ではなく、楽曲を多用した音楽劇として“聴かせる”のであるから、その実現にはよほどの苦労があったと思われる。だが、困難の甲斐あってか、これが実に端麗にして現代的な、完成度の高い舞台にまとまっていた。


  ●全幕を通して伝わる原作本来のテーマ

  あらゆる学問を究めながらも、人生の満足感を得ることのできない老学者ファウスト(筒井道隆)の前に、悪魔メフィスト(石井一孝)が現れる。ファウストを誘惑できるかどうか神(壌晴彦)と賭けをしたメフィストは、死後の魂と引き換えにこの世のあらゆる快楽を約束しようとファウストに持ちかける。ファウストも、満足して「時よ、とまれ。お前は美しい」という言葉を漏らしたなら、自分は喜んで滅びようと約束する。

  メフィストは魔法の力でファウストを若返らせ、“第二の人生”を送らせるべく世間の享楽の中へ引っ張り出す。そこでファウストは、純真無垢な乙女マルガレーテ(篠原ともえ)と出会い、恋に落ちる。その結果、マルガレーテは妊娠するが、日頃から貞節を説くマルガレーテの母親(大崎由利子)や、ふしだらな妹を責める兄ヴァレンティン(河野洋一郎)は、期せずしてファウストの手にかかって死んでしまう。やがて私生児殺しの罪を犯したマルガレーテは、牢獄の中で半ば狂女となりながら死刑を待つ日々を送る。ファウストはマルガレーテの救出に向かうが…。

  第二幕。罪の意識に苛まれるファウストに、メフィストは「忘却の水」を飲ませ、新たな欲望へと誘う。財政難に悩む皇帝(壌晴彦)の城で、メフィストの魔法の杖を使って大量の紙幣を出現させたファウストは、皇帝のさらなる要望から、史上最高の美女ヘレナ(床島佳子)を求めて、古代ギリシャの世界を遍歴していく。時空を超え、夢の楽園アルカディアで結ばれたファウストとヘレナ。二人の間には息子オイフォリオン(内田滋啓)も誕生し、満ち足りた生活に思えたのだが…。

  なにより全幕を通し、簡潔にしてスピーディに場面を展開してみせていて、原作の本来持つテーマである「人のため、社会のために身を捧げることが、魂の救済に繋がる」というメッセージが、よりクリアにわかりやすく伝わってくる。原作に忠実でありながらも、時代考証の厳密さや音楽的色彩の余剰をできうる限り削ぎ落とすことで、普遍性のある、そして現代の観客にとっても示唆に富んだ、硬質な大人のファンタジーとして仕上がっているのだ。


  ●現代的感性に訴える演出

  演出の白井は、近年多くの海外作品に取り組んでいるが、こうした現代的な感性に訴える舞台づくりが実に上手い。ちょっと思い返しただけでも、ポール・オースターの小説を劇化した『ムーンパレス』(2001年 ※1)、フィリップ・リドリーの戯曲を翻訳上演した『ピッチフォーク・ディズニー』(2002年 ※2)や『宇宙でいちばん速い時計』(2003年 ※3)、そしてサン・テグジュペリ原作のテアトル・ミュージカル『星の王子さま』(2003年 ※4)など、いづれも人生の孤独や哀切を、清澄にして瑞々しい感性で描き、端正な秀作となっていた。

  もちろん、人生や死の問題を題材として扱った演出作品は、それ以前の遊◎機械/全自動シアター時代にもあった。しかし、それらは得てして劇作家・高泉淳子の世界観が色濃く反映され、家族や親子といった人間関係の中で描かれる家族のドラマが多かった。子供時代の追憶や、家族の間に沈澱していた愛情心理の屈折が、現在の恋愛や将来の人生に強く影響していったり、あるいは末期に及んで人生を懐疑的に振り返るといったように、ノスタルジックかつメランコリックなタッチで描かれる傾向が強くあった。それらはその時々の時代思潮、例えば「今の自分は本当の自分ではない」といった80年代的な自分探しの旅や、その後のシンデレラ・コンプレックスやピーターパン・シンドロームといったモラトリアムな態度、そして90年代バブル崩壊後の家族回帰のムードなどと奇妙に符合する部分もあり、どれも主人公の立場や感情に寄り添った形のストーリーとなっていた。同時に実際の舞台では、主演女優も兼ねる高泉本人の造形する、個性的で魅力的なキャラクターがドラマの流れを牽引し、白井本人も俳優として出演していたこともあって、彼が“演出家”としての美意識や力量が強く前面にアピールすることはほとんどなかった(※5)。

  白井が現在のように、演出家としての意欲をより明確に強く打ち出したのは、2000年に公演した『S-エス-記憶のけもの』(※6)からだろう。「母親に愛されたことがなかった」というトラウマを抱えた青年の苦悶と、それを見守る人々の姿をシリアスに描いたこの作品は、それまでの高泉が描いた家族共同体(疑似家族を含む)的な意識からは乖離しており、舞台のスタイルも繊細かつナチュラルな演技とクールなスタッフワークで、より現代的で洗練されたものとなっていた。

  高泉が、同じ時代や体験を共有する“家族”という人間関係の中に、あるいは家族への憧憬を呼び起こすような“疑似家族”的な人間関係の中に、ドラマを描いたのとは対称的に、その後の白井が演出している一連の作品群には、生い立ちや社会的背景を異にする個人と個人との邂逅、あるいは個人と社会との対峙を描いたものが多い。劇作家としての高泉は、自身の生い立ちや体験に基づいて主観的にドラマを創造していくタイプの作家であることはよく知られたところだが、白井の演出家としての資質は、むしろ価値観や倫理観、人生観を即座には共有できない人間たちの存在を相対化して描くことによって、個人の感情を突き放しながら、それでも人生の意味をつぶさに見極めようとするところにあるのではないだろうか(※7)。

  彼が演出を手掛けるようになったドラマでは、登場人物が常にシビアな問題を抱えており、その呪縛からは逃れられず、他者との出会いのなかでその現実認識はより深まっていく。だが、発展性のない状況でも、互いの立場や感情を確認し合うことで、万に一つの心の安息を得ることができる(かもしれない)。そこには、「大人になることへの夢」も「子供時代へのノスタルジー」も、はたまた「自己実現への希望」や「人生への諦念」、ましてや「家族の絆」などというものはなく、子供であろうと大人であろうと、ただ痛くて哀しい(時に残酷な)シビアな現実があるばかりである。

  「現在の自分ではない、本来そうありたいと願う自分の姿」を夢想した80年代的なドラマではなく、「今ここにある自分(現実)」を直視しようとするドラマの在り方は、90年代以降の劇作家に顕著なものである。横道にそれるといけないので、ここで詳しくは触れられないが、あるいはノンフィクションやドキュメントといった手法を組み込むドラマツルギーは、その最たるものかもしれない。白井は劇作家でこそないものの、演出する作品を選択する眼においては、極めて現代的な感性が宿っていると言えるだろう。今回の『ファウスト』についても、同様のことが言える。なぜなら、ファウストは「自分の人生をやり直したい」と夢想するのではなく、「今のおのれの欲望を満足させたい」がために、メフィストの力を借りて若返り、「新しい違った人生を生き直す」のであるから…。


  ●「音楽劇」の黄金トリオ

  さて、この『ファウスト』は一般的なミュージカルと違って、「音楽劇」と銘打っている。製作側の意図としては、原作が音楽的要素に彩られていることを踏襲したためということだが、しかし、これは以前から白井らが、独自の「音楽劇」を手掛けてきたという伏線があって成立する企画だ。

  「芝居創りをする時、どうしても音楽があって、その音楽の雰囲気からのシーンのイメージを考えてしまう」「一曲の音楽の力には、百の言葉も色あせてしまうものだ」とは、白井が『オーマイパパ』(※8)の初演パンフレットに書いた言葉だが、この姿勢はその後も一貫している。当時、遊◎機械/全自動シアターの10周年を迎え、それまでやってきた活動の成果として、「ミュージカルでもなく、だからといってストレートプレイでもない、遊◎機械ならではの音楽劇」として『オーマイパパ』は創作された。ジャズ好きであった白井は、すでに『ア・ラ・カルト』(※9)でコラボレートしていたジャズ・バイオリニストの中西俊博を音楽監督に迎え、ミュージカルではなく、ジャズの楽曲に乗せた“ジャジカル”(造語)を創ってみたいとも述べている。そして、その白井と中西との出会いの場となった『ア・ラ・カルト』を手掛けたのが、当時こどもの城(青山劇場&青山円形劇場)のプロデューサーであった能祖であり、その後も彼らは、『イーハトーボの音楽劇 銀河鉄道の夜』を3人で、『ムーンライト』や阿呆劇『ファルスタッフ』を白井と中西で、テアトル・ミュージカル『星の王子様』を白井と能祖で、それぞれ劇場や製作はまちまちだが「音楽劇」として手掛けている。

  今回の『ファウスト』は、その黄金トリオが久々に揃って取り組んだ、渾身の「音楽劇」であるから、出来の悪かろうはずがない。劇を進行する上で有効な場面を選び、現代的な音楽を挿入して再構成していて、ドラマの中での音楽的効果、演技と演奏の調和、スタッフワークなどに目を見張る(耳を澄ます)ものが連続し、最期まで飽きることがない。

  楽曲そのものは、音楽監督・作曲の中西がドライでシャープな音づくりに挑んでいて、好感が持てる。曲数にして40曲、そのうち歌詞付きの歌は7曲あまり。『ア・ラ・カルト』などで披露してきた最も得意とするバイオリンの甘くセンチメンタルなメロディはほとんどなく、『きまぐれJAZZ倶楽部』等でのジャジーでお洒落なスウィングや、テレビドラマやCMなどでもよく耳にしたポップでコミカルな曲調も排して、あくまで『ファウスト』の作品世界に忠実に、現代的な音調に徹している。なかにはビョークやウテ・レンバーのアルバムにあるような、ヨーロピアン・アヴァンポップ的な曲想やアレンジもあり、また2幕の古代ギリシャの場面では、ギリシャの民族楽器ブズーキを使用した民族音楽風の楽曲づくりに挑むなど、音楽通を楽しませてくれる工夫が随所にある。

  こうした作品の世界に沿った統一感は、中西の楽曲のみならず、舞台上での音楽の扱い方や歌唱法にも徹底して共通している。歌そのものは情緒的に歌い上げるような熱唱型のスタイルではなく、セリフの延長のように自然な発声で、言葉を音階に乗せていく。そのため、芝居(演技)と楽曲との継ぎ目が気にならず、違和感なくドラマに集中できる。また、俳優の歌声とコーラスの声質の違いにも、デリケートなまでに入念な融和が計られており、歌の巧拙で興醒めするようなこともない(声楽指導:満田恵子)。一方、コーラスの東京オペラシンガース(ソプラノ:上田桂子、アルト:三宮美穂、テノール:吉田知明、バス:寺本知生)も、確かな発声とテクニックを駆使しながら、決して“歌い過ぎ”ることなく、ドラマの荘重な奥行きを醸し出している。

  つまり、楽曲や歌唱テクニックの問題以前に、歌や音楽はドラマ(劇世界)に従事するものという一貫した心構えがあり、俳優、歌い手、スタッフが一丸となって、その統合に取り組んでいるのだ。そうした共通認識が、破綻のないアンサンブルとなって「音楽劇」として結実している。このあたりが、音楽性ばかりを優先して、直情径行な楽曲をただ並べ立てただけの、粗い構成に陥ってしまいがちなオペラやミュージカルの新作ものとは大いに違う点だろう。やはりそれは、長年にわたって独自の「音楽劇」を模索してきた白井・中西・能祖トリオならではの実に完成度の高い熟練の仕事と言える。

  また、楽曲だけでなく、映像や舞台転換とシンクロしながら、人物の心理と効果的に響きあうME(ミュージック・エフェクト)やSE(サウンド・エフェクト)のようなフレーズも数多くある。このあたりのサウンド・デザインになってくると、コンピュータープログラム(音楽)の井野健太郎か、あるいは音響家の山本浩一との共同作業になってくるのかもしれない。ともかく、“音”に関してのこだわりとスタッフ間の連携プレーが、実にスムーズかつ徹底したものであるところは驚愕に値する。

  さらに、音響の仕事一つ取ってみてもそうだ。セリフや歌は全般にわたってワイヤレスマイクを通したものだが、役者のセリフに楽器の生演奏やコーラス、さらに打ち込まれた楽曲など、さまざまな音源からなる音声が飛び交う、かなり厄介な舞台のはずだ。楽曲自体も、リズミカルであったり扇情的であったりするようなミュージカルとは違い、淡々と訴えかけてくる抑えた曲調のものが多い。それらを総合して、よりエモーショナルな響きとして観客に届かせなければならないという、矛盾するような音響設計をしなければならないはずなのだが、それがなんら支障なく、すんなりと耳に響いてくる。劇場の付帯設備だけでなく、特設のスピーカーなども用いながら、苦心して生み出した“音”を細心の注意を払って、確実かつ効果的に伝える努力が垣間見えるのだ。


  ●統一感のあるアンサンブル

  音楽が饒舌になり過ぎず、清雅なトーンを保っているように、俳優の演技も感情過多にならずに、ストレートでピュアな感情表現となっていて、統一感がある。

  主役の筒井道隆の素朴で誠実な演技には、自然と感情移入でき、安心してドラマに身を委ねられる。大抵ファウスト役を演じる場合、依怙地であったり偏屈であったりする“老人”の場面と、メフィストの魔法で若返った“青年”の場面とのギャップを表現しようとするものだが、筒井はそうした作為的な役づくりはしない。それゆえ演技そのものがドラマの夾雑物となるようなこともなく、素直に受け止めることができるのだ。技巧的な俳優は数多くあるが、巧まずして観客を味方につけ、共感しやすい心持ちにさせる俳優は稀であり、演劇界にとっても主役を担うタイプの舞台俳優として、まことに得難い存在と言えるだろう。

  石井一孝のメフィストは、“容貌怪異な悪魔”というよりは、「ファウストの悪友」といった感じで、親しみやすく人間味がある。容貌やルックスは言うに及ばず、演技や歌にも欠点がなく、過不足なく自分の仕事をこなしている。ファンにとっては、もう少し彼の歌をたっぷりと聴きたいところだろうが、この作品はミュージカルではないので、いたしかたない。

  マルガレーテ役の篠原ともえが、出色の出来だ。メディアで活躍する「明るくにぎやかな“バラドル”」といった一般的イメージからは想像もつかないほど、清楚で一途なマルガレーテ役に徹し、好演している。資質的に備わっている彼女の高潔さが、効果的に役に昇華して、女優としての真価がより発揮された舞台と言えるかもしれない。特に1幕の最後、牢獄に囚われて半狂乱となっていく場面は、その哀切さが胸に迫る。今後女優としてのキャリアを語る上でも、代表作として残る演技だろう。

  脇を固める俳優陣も手堅い演技を披露している。神役の壌晴彦は荘厳によく響く声で威厳を示し、代わって神父役の場面では慇懃にして狡猾な雰囲気を、そして皇帝役ではくだけた横柄さをコミカルに展開して、それぞれの場面を見事に演じ分けている。

  マルガレーテの母役の大崎由利子も手抜かりがない。娘に純血を説き、戒めの言葉を吐く厳格な態度、その一方での哀れみを誘う優しい表情など、母親の感情を的確にアピールしていく。今年出演の舞台では、年頭にあった青年団リンク・地点『ある夏の一日』(ヨン・フォッセ作/三浦基演出)での繊細かつ情感溢れる演技が圧巻だったが、小劇場とはスタイルも劇場の空間も違うこの「音楽劇」に十全に対応できていてる。そのキャパシティの広い演技には感服する。

  マルガレーテの隣人マルテ役の峯村リエもいい。NYLON100℃のナンセンスコメディなどでトボけた風合いを出して面白い女優だが、マルガレーテに恋愛をけしかける場面では悪気のない凡俗な言動に説得力があり、またメフィストに誘惑されるくだりでは女心の機微を丹念に追っていて、いじらしくさえある。

  他にも、画中の佳人のような佇まいで、歌もしなやかにこなしているヘレナ役の床島佳子ら、それぞれの役割を過不足なく演じる芸達者が揃っている。


  ●気鋭のスタッフワーク

  ビジュアル面についても、レベルの高いスタッフワークが行われている。舞台美術を手掛けるのは、『S-エス-記憶のけもの』『ピッチフォーク・ディズニー』『宇宙でいちばん速い時計』『星の王子さま』など、これまで多くの白井作品を手がけてきた松井るみ。説明的なデザインではなく、常にその空間に身を置いた者の生理的な感覚さえ計算しているかのように、作品世界の精神性を透徹した理解の下に造形するクレバーな仕事ぶりは、今回も同様だ。上下(かみしも)と舞台奥、そして天井が灰色の壁面で囲われた、一見すると現代オペラにあるような幾何学的で簡素なセットである。しかし、上下の壁は可動式になっており、また天井も上前(かみまえ)から下奥(しもおく)へ対角線状に切り込みが入っていて、セパレートに昇降できるようになっている。さらに、半透明のビニールシートを張った巨大スクリーンが、その天井の切り込みに沿って斜めに張り出すように開閉する。こうして巨大な天井や壁面をさまざまに移動させて、場面ごとに違った空間をダイナミックに出現させる。なかでも、マルガレーテの幽閉された牢獄のシーンでは、恐ろしいまでに天井を降下させて閉塞感・圧迫感を出すと同時に、呵責の念に苛まれて精神に異常をきたしたマルガレーテの心理をビジュアル的にサポートして、効果も絶大である。

  舞台セットに天井があるため、照明のプランニングはかなり困難だったと推測される。通常は照明機材を吊り込むため、舞台上方に天井を設けることはほとんどない。だが、今回は天井だけでなく壁も可動式で、場面が目まぐるしく転換していくため、照明を吊り込める場所が極端に制限されるはずだ。照明の高見和義は、舞台上方の照明を極力減らし、舞台袖と舞台前面のフットライト、そしてシーリングからの照明をフル活用して、明るさよりも陰影を強調して、絵面の効果を出すようなプランニングをしている。

  そこで威力を発揮しているのが、上田大樹による映像だ。シーンごとにさまざまなイメージショットをプロジェクションし、舞台上のパフォーマンスとリンクさせて、役の心理を倍加させていく。たとえば、牢獄に囚われたマルガレーテの場面では、マルガレーテ役の篠原のフルショットが闇の中に浮かび上がるように、寒色系のシックな色調によってホリゾント(舞台奥の壁)に投影される。その画面には、傷のついた古い映画フィルムを見るような流線(引っ掻き傷)が走るように加工が施されており、さらに念の入ったことには、その流線とシンクロしてノイズが「ジジジ」と鳴るのである。

  白井は以前から、映像のプロジェクションを演出に取り入れていたが(※10)、それらは動く背景、もしくはシーンとシーンの合間のブリッジのような使用に留まっていたような気がする。今回映像をここまで効果的に活用しえたのも、やはり長年の試行錯誤の積み重ねがあってのことだろう。感心なのは、そうした映像のプロジェクションと舞台照明との明度の差がなく、また照明も前明かり(客席側からの照明)が多いわりに、壁やホリゾントに直接明かりが当たったり、出演者の影が落ちたりしないように、十分な配慮がなされていることだ。また、ホリゾント自体もバックライトを当てれば、紗幕のような使い方もできる薄手の布を張ったもので、たとえばマルテが自害する場面では影絵のようにシルエットを大写しにするなど、さまざまに趣向が凝らされている。舞台美術・照明・映像・音響など、ここでもやはりスタッフ間の連携があり、スタッフワークをまとめていく白井の演出家としての手腕が感じ取れる。


  ●公共ホール同士のネットワークを

  こうして見てきてわかるように、『ファウスト』はスタッフ・キャストが各々の役割を最大限にはたしながら、一丸となって仕立て上げた舞台と言える。北九州芸術劇場という地域の公共ホールの開館事業として製作された舞台ではあるが、実質的には単なる一過性の“開館イベント”などではなく、創り手側の意欲と情熱が十二分に感じられる、普段でもあまり観ることのできないクオリティの高い作品となった。こうした舞台の製作や鑑賞の体験の積み重ねが、公共ホールにとっても重要だろう。その意味で、今後の公共ホールの舞台製作事業の一つのモデルとしていただきたいプロダクションである。

  また、今回の世田谷パブリックシアターとの提携のように、公共ホール同士の協力体制は、今後もより発展させてほしい事柄だ。日頃から質の高い舞台に触れる機会を市民に提供することが、公共ホールの一つの使命だと考える時、事業予算や人材の面からいっても、一館では良い舞台をそう度々は製作することはできないかもしれない。ネックワークを活用しながら、優秀な舞台がいろいろな地域をツアーして回れるような体制を増やしていくことは、演劇界にとっても質の向上や活性化に繋がるのではないだろうか。



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※1):『ムーンパレス』は、2001年6月21日〜7月1日新国立劇場小劇場にて上演。アメリカの作家ポール・オースターの小説の舞台化。白井は、この『ムーンパレス』を含む2001年の舞台演出活動全般に対して、第9回読売演劇大賞優秀演出家賞を受賞。

※2):『ピッチフォーク・ディズニー』は、遊◎機械オフィス+世田谷パブリックシアター提携公演として、2002年5月24日〜6月23日シアタートラムにて上演。イギリスの鬼才フィリップ・リドリーの処女戯曲の日本初演。出演は萩原聖人、山本耕史、吉田メタル、宝生舞。白井の演出家としての才能がより広く演劇界に認められるきっかけとなった作品で、白井はこの作品と遊◎機械/全自動シアター『クラブ・オブ・アリス』で、第10回読売演劇大賞優秀演出家賞を受賞している。

※3):『宇宙でいちばん速い時計』は、遊◎機械オフィスプロデュースとして、2003年10月3日〜20日シアタートラムにて上演。出演は鈴木一真、浅野和之、富浜薫、小栗旬、草村礼子。

※4):テアトル・ミュージカル『星の王子さま』は、TBS主催により8月6日〜20日東京国際フォーラムホールCで上演。サン・テグジュペリ原作を「テアトル・ミュージカル」として音楽劇化。出演は宮崎あおい、保坂尚輝、ROLLY、EPO、すまけいら。音楽監督を宮川彬良、舞台美術を松井るみが担当。

※5):遊◎機械/全自動シアターは、早稲田大学演劇研究会の出身者により、1983年劇団として旗揚げされ、当初は集団創作による作品づくりを行っていた。その中から、高泉の当たり役ともなった山田のぼる少年を主人公とする『僕の時間の深呼吸』などのヒット作が生まれた。91年初演の『ラ・ヴィータ』より、高泉淳子の戯曲を白井晃が演出するというスタイルが定着し、徐々に劇団制からプロデュースの形態へと移行。その後、高泉・白井各々の独自の企画も増え、2002年の『クラブ・オブ・アリス』をもって、高泉・白井コンビによる作品づくりにひとまず区切りをつけ、それぞれの発展的活動を目指して、遊◎機械/全自動シアターの最終公演とした。なお、白井の演劇人としての軌跡をわかりやすくまとめたものとして、かつて筆者が企画・編集を担当した戯曲雑誌『せりふの時代』(2002年春号Vol.23)での取材記事「演劇人写真館/白井晃 硬質なドラマを求めて」(取材・文/土井美和子)があるので、参照されたい。

※6):遊機械スペシャルプレゼンツ『S-エス-記憶のけもの』(2000年)は、2000年4月7日〜20日青山円形劇場で公演。記憶する能力を失ってしまった繊細な青年(萩原聖人)の部屋に、「妹」だと名乗る若い女性(西田尚美)が訪ねてくる。彼女のことが思い出せない青年の記憶の中に、「かつて母親に疎まれ、愛されたことがなかった」というトラウマが蘇り、苦悶する。そこへ青年を助手として雇っていたライター(白井晃)が現れ、兄妹の家族の過去が明かされる…。S(SUBLIMINAL:サブリミナル=潜在的記憶)を題材に、精神に病を持つ者の救済を痛切に描いた作品。劇団青空美人の木村宏昌を脚本に迎えたほか、松井るみによる半透明のビニールシートで全体を覆った無機質な舞台美術、萩原がそのビニールの膜をナイフで切り裂く鮮烈な冒頭のシーン、そして繊細にしてナチュラルな演技で展開するシリアスなドラマなど、遊◎機械/全自動シアターとはまったく違った、白井の演出家としての新しい方向性を印象づけた。

※7):演出家としてさまざまな劇作家の作品を手掛けるようになってきたことに関して、白井は筆者の問いに対して「いつも死と死の間に挟まれた、この生というものは何なのかっていうことを考えてる」と述べたことがある(男性ファッション誌『Men's EX』2003年4月号での「M.E.AFTERHOURS/『オケピ!』白井晃インタビュー」において。ただし、このコメントは実際の掲載記事には反映されていません)。

※8):遊◎機械/全自動シアター『オーマイパパ』は、1993年7月1日〜25日銀座博品館劇場、7月29日〜8月1日大阪近鉄劇場、8月3日〜5日名古屋テレピアホールにて初演。中西俊博との、芝居と音楽との初の本格的なコラボレーションとなった作品。その後、1998年9月23日〜26日かめありリリオホール、10月1日〜10日シアターコクーンでも再演された。なお、再演版『オーマイパパ』での白井と中西の間の共同作業がうかがい知れるものに、演劇誌『演劇ぶっく』(1998年12月号No.76)の音楽特集「総力特集ライヴ・ドライヴ」内での拙稿「遊◎機械/全自動シアター『オーマイパパ』座談会:白井晃・花山佳子・中西俊博」がある。また、同号では『オーマイパパ』も含めた「音楽劇」についての考え方を記した拙稿「Breakthtough Musical『RENT-日本版-』ミュージカルではない音楽劇の新たな可能性」の掲載もあるので、併せてご参照ください。

※9):『ア・ラ・カルト〜役者と音楽家のいるレストラン』は、1989年より毎年12月青山円形劇場で行われている恒例公演。芝居とジャズ演奏によるオムニバスで、年末のレストランを舞台に給仕や予約客、不意の来訪者などが様々なドラマが繰り広げる。

※10):白井が映像を舞台で活用した作品には、『S-エス-記憶のけもの』『星の王子さま』などがある(映像:高羽泰雄)。また、『アナザデイ』(1999年)では、舞台上のライブパフォーマンスを俳優がビデオカメラで撮影し、スクリーンに投影して、複数の視点を導入する試みもあった。

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