東京国際芸術祭2004 10回記念ユーラシアフェスティバル
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Reviews Online -劇評通信-

 

5周年特別企画 国道、書類、風呂桶。『いちごの沈黙。/コイナカデアル。』

坪池栄子((株)文化科学研究所 研究プロデューサー)

◎ リージョナルシアター・シリーズ

  3月6日、リージョナルシアター・シリーズ5周年特別企画「国道、書類、風呂桶。─短編二作同時上演─」のゲネプロを見た。このシリーズは、地域を拠点に活動する小劇場に、東京公演の機会を提供する目的で1999年にスタートしたものだ。

  リージョナルシアター・シリーズを東京国際芸術祭の主催団体と一緒に企画したのが、「財団法人地域創造」である。演劇ファンにとっては耳馴染のない団体だと思うので、少し紹介しておく。

  東京にいるとあまり実感がないが、80年代後半から90年代末にかけて、日本全国にたくさんの公立文化施設が誕生した。年間100館ペースで新しいホールや美術館が開館していた時期もある。ちなみに、1999年現在で、ホール・劇場を合わせると全国に約2500館あるという。そういう公立文化施設を活性化してまちづくりに役立てようと、94年に設立されたのが、この財団だ。

  くしくも90年代後半は、京都の鈴江俊郎、松田正隆、大阪の深津篤史が岸田戯曲賞を連続受賞、北九州の泊篤志、弘前の長谷川孝治が劇作家新人賞を受賞するなど、地域演劇に注目があつまった時期でもある。それまでも、関西では、80年代に大阪芸術大学を中心にした学生演劇ブームがあったが(現在、東京の演劇界やマスコミでたくさんの人材が活躍している)、こうした小劇場演劇の波が、各地に広がったのが実感できるようになった。

  こうした状況を踏まえ、地域創造では地域の小劇場の広報と育成を目的としたリージョナルシアター・シリーズをスタートさせた。この経緯については、財団のホームページに詳しい(http://www.jafra.nippon-net.ne.jp )。

◎鈴江の「ボクのいる風景」/深津の「オンナのいる風景」

  過去4年間に参加した地域劇団は延べ23団体。公演だけでなく、アフタートークやシンポジウムなどで地域の演劇についての紹介もしてきた。そのOBたちと新作短編づくりを試みたのが、今回の企画である。

  大人の短編をつくりたいという制作者側の要望に応えて、「大人、ビター、ノスタルジー」から連想する単語をみんなで出し合い、3つのキーワード「国道、書類、風呂桶」を決定。鈴江俊郎と深津篤史が、それをもとに書き下ろし、はせひろいちと泊篤志が演出した。

  このプロセスからもわかるように、普段は劇団単位で活動しているリージョナルOBたちが交流するための「試演会」といったテーストだった。東京では、かつては考えられなかったほど若手劇団同士の交流が盛んだが、地域では難しいこうした機会を提供したということなのだろう。

  俳句の会には、参加者が同じ季語を使って俳句をつくる「兼題」というのがある。季語が同じ分、読み手の資質がよくみえるのだが、今回の短編も同じだった。二人の作家の違い──「ボクのいる風景」を描く鈴江、「オンナのいる風景」を描く深津──がよく表れていた。ただし、初顔合わせの演出家が、本人でさえ無意識に演出しているかもしれないその風景を、今回の試演会で実現できていたかというと、かなり厳しかった。
 
  鈴江×はせ「いちごの沈黙」(会社のご褒美旅行で国道沿いのランプの宿にやってきた男1人、女2人の会話劇)。この作品の「ボク(男)」が離人症のように観察している周囲の出来事(彼にとっての社会)はどこかチグハグ。彼にとってのリアルは大嫌いな虫が飛び込んでくることぐらい。それでも最後、一人雨漏りのする部屋に残って、傘をさしたままつぶやく。「俺頑張るよ。絶対頑張るよ。頑張る頑張る。頑張る頑張る。頑張る頑張る・・・」。

  私が鈴江作品に目覚めたのは、2000年のリージョナルに参加した時の「素足の日記」だった。机をひっくり返し、ものを投げて暴れても、不思議なほど現実感がない。テーブルの脚に抱きついて自分の存在を消すかのように縮こまっていく「ボク」を見ていて、その引きこもっていく身体感覚が快感だったのを覚えている。

  しかし、今年1月、ザ・スズナリで上演された劇団八時半の新作「久保君をのぞくすべてのすみっこ」では少し違っていた。人気漫画家の事務所に出入りする登場人物たちは、自分の人生に向き合おうとすればするほど「挙動不審」になっていく。引きこもりから挙動不審コミュニケーションへ・・・。

  芥川賞を受賞した「蹴りたい背中」じゃないが、今回の短編の「ボク」も社会(人)に向き合おうとして、精神的な自暴自棄=身体的な挙動不審を続けていた。その究極の風景が雨のラストシーンになるのだが、はせ演出では、こうした鈴江作品の内面世界をうかがい知ることはできなかった。

  深津×泊「コイナカデアル。」。かつての自分の家の風呂桶で、妻に捨てられた(妻を捨てた)男が暮らしている。そこに若いオトコとオンナが引っ越して来る・・・。鈴江作品の鍵を握るのが「ボク」だとすると、深津作品で重要なモチーフになるのが「オンナ」だ。今回の新作では、風呂場の排水口に耳を当て、階下に住む新婚さんのセックスを盗み聞きするオンナが登場する。

  このオンナのモチーフは今の深津の女性観であり、この短編は、俳句に例えると、「風呂桶」という兼題で作者自身の恋愛感を詠んだものという気がする。オンナ、一緒に暮らしているオトコ、捨てられた(捨てた)男が、男女関係の過去、現在、未来をスケッチしていく。

  どこか裏切りを含んだしたたかなオンナの佇まいに比べ、捨てた、捨てられた(戯曲では「忘れもの」という言い方をしているが)で悶々とする男とオトコ。戯曲を丁寧に具体化した泊演出では、こうした人間としてのあり様を評価(昇華)はしていなかったので何とも言えないが、この恋愛の先にあるものを見たいと思った。

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