演劇とはなにか 阿部初美
演劇とはなにか、ということを今回はよく考えさせられている。
わたしなりに定義を試みたいと思う。
まず、演劇には「世界の鏡」としての役割があると思う。
「世界」を描くとき、その本質にどれだけ近づくことができるのか。
ふだん「あたりまえ」として気にもとめずに通り過ぎて見過ごしてしまう物事を、たちどまってよく見ること。何故そうなのかを考えてみること。
「鏡」は認識をうながす作用を持つ。
つまり、自覚、意識化をうながす。
本質的なところにより近づくことができたら、それは深い認識をうながす力を持つことができるだろう。それには、一つの物事を一つの方向からではなく、複数の視点から見ていくことが必要になる。
そして、より意識化されていない、あるいはまだ十分に語られていない物事や、語られることを拒むタブーに近づく必要がある。
しかし、そこに近づくには、当然ながら忍耐力がいる。
作り手は当然ながら、観客にも忍耐を強いるものなのかもしれない。
たぶんそこは、矛盾や葛藤やカオスや、知ることが痛みに直結するようなことに満ちている。
しかし、臭いものにフタをして放置すればどんなことになるかは歴史が語ってくれる。
いかにして問題の本質に近づくか、そしてこれをどのように観客に手渡すか、を考えることがわたしたちの仕事であるとおもう。
わたしはこのように演劇というものを考えている。
今回の、原発のテーマにしても、同じである。
「賛成や反対を問うこと」や「賛成や反対のメッセージを送ること」が目的ではなく、 「より深い認識をうながすこと」が目的である。
そして問いや答えや葛藤や認識や行動は、ひとりひとりの観客のなかそれぞれに生まれるものであってほしい。
(2007.2.7)