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2008年03月08日

もくじ

演出家 マルク・ヴァイル レクチャー

『コーランに倣いて』劇評 河野孝(演劇ジャーナリスト)

2007年03月08日

「コーラン」から彩り鮮やかな詩的世界を紡ぎ出す―――イルホム劇場


 「エヴゲニー・オネーギン」「ボリス・ゴドゥノフ」などオペラにもなった名作で有名なロシアの文豪プーシキン。そのプーシキンが、イスラムの聖典コーランに触発されて長編詩『コーランに倣(なら)いて』を書き、中央アジア・ウズベキスタンのイルホム劇場がこの詩に基づいて舞台を作ったというので興味をそそられた。同劇場の初来日公演にあたり、3月4日、松本市の「まつもと市民芸術館実験劇場」で上演された舞台を見た。

 全体の印象は、イランやトルコなどシルクロード特産の、彩り鮮やかな模様で織り上げたオリエンタル絨毯を見たという感覚が強烈に残った。プーシキンのロシア語詩、コーランから引用されるアラビア語、ウズベク語の詩歌で紡いだ詩的なテクスチャーに、ビデオ映像、歌と楽器のライブ演奏、ダンスなどが複合的に絡み合った刺激的なマルチメディア・パフォーマンスになっている。伝統だけでなく、音楽や身体的な動きに近代都市のたたずまいが加味されて、時間的な深みも感じさせる。それでいて内容は、イスラムの価値観が支配する社会での人間の原罪、神と人間のあるべき姿、宗教的寛容の問題を問い直す神学的な思考作業が作品の中核にある。

 映画作家でもある詩人が、ビデオカメラで映画の撮影をするという設定をとり、預言者、偽預言者、中年の男、普通の女、ナイトクラブの女、初舞台の女優といった人物が登場する。プロローグで、「心の渇きに苦しめられ、私は暗い砂漠をさまよっていた」という詩句を登場者それぞれが、思い思いの語り口で話す。この後、第1景(スーラ)の「メッカへの道。誘惑」から第9景までと続き、エピローグ「(神を)忘れるな」で終わる。

 舞台後方に6枚の可動式パネルがつるされ、舞台上には鏡が付いた三角形の台が二つと椅子一つくらいしかない。預言者とおぼしき男が、台上に横たわり、心臓がえぐられている。パネルには、切開手術中の心臓がアップで映し出され、ドク、ドク、ドクと激しい心拍音をたてている。「天使は剣で私の胸を切り裂き、震えおののく心臓を取り出すと、炎をあげて燃えさかる石を、口を開けた胸の中に押し込んだ」というプーシキンの詩が唱えられる中で演じられるのだが、神の聖霊をうけとる聖なる儀式のように見える。

 この作品の初演は2002年2月。二年余にわたる制作過程の終盤で、2001年9月に米国で「9・11事件」が勃発した。イスラム保守派からはコーランを舞台にのせること自体の是非を糾弾され、反イスラム派からはテロとの関連づけをされて批判される事態に直面したという。しかし、旧ソ連時代、「不同意の演劇」と呼ばれたイルホム劇場の芸術監督で演出家のマルク・ヴァイルはこの圧力に屈しなかった。

 舞台を見ると、確かに問題になりそうな個所がある。第3景「預言者の妻たち」など女性を取り扱っている場面では、男が女性にベールや着物をかぶせて隠そうとするほど、パネルには女性の衣服がはぎとられ裸になっていく映像が映し出される。その対照的な描き方が面白いが、女性を蔑視的に扱う宗教観に対し、裸体によって女性本来の美しさを強調するのが狙いである。もう一つは「信仰の戦士」をテーマとした第7景。イスラムでは「戦で斃れた者は幸いだ、楽園に召されるからだ」と聖戦(ジハード)での殉教死を説いている。イラクなどでの米軍に対する自爆テロはこうした信仰に基づくものだが、これに対し、死は結局、単なる死にしか過ぎないという懐疑的な見方を示しているように見える。

 『コーランに倣(なら)いて』は初演後、海外では2002年5月にドイツの「ルール芸術祭」に招かれ、モスクワや米国ではロサンゼルスなど数都市で上演している。けれども国によっては、企画した主催者が国内のムスリムに配慮し上演を敬遠することもある。

 イルホム劇場は、演出家マルク・ヴァイルが1976年、タシケントに創設した独立系のロシア語劇団。アラビア語の「イルハーム」に由来するイルホムは「インスピレーション」を意味する。ヴァイルは1952年タシケント生まれ。サンクト・ペテルブルクのボリショイ・ドラマ劇場のゲオルギー・トフストノーゴフ、モスクワのタガンカ劇場のユーリ・リュビーモフのもとで演劇を学び、ウズベキスタンに戻った。

 ウズベキスタンがソ連から独立する動きが高まった時、タシケント市内ではロシアの文学者ゴーゴリやゴーリキーらの像が破壊されたが、プーシキンの像は破壊を免れた。プーシキンはモスクワの名門貴族の出だが、母方の祖父がピョートル大帝に寵愛されたエチオピア人奴隷で、非ロシア系の血が混ざっていたことが、親近感を呼んだのかもしれない。また、タシケントには世界に5つしかないコーランの原本(羊皮紙)の一つが残されているということで、コーランをテーマにした舞台を作るべきお膳立てがあったのだ。

 この舞台を制作した背景には、ソ連崩壊後のウズベキスタンのアイデンティティーを考えるという動機があった。ウズベキスタンの宗教は、イスラム教の中でも世俗的性格が強いスンニー派が多数派を占めている。政治の方は、1990年に共産党第一書記だったカリモフが大統領に就任し、そのまま長期政権が続いている。中央アジア五カ国の中でも人口は2700万人と最大で、首都タシケントは約300万人が居住する大都市だ。政情は比較的安定しているが、過激派イスラム武装組織の反政府運動も活発で、将来、テロ活動が拡大する懸念はぬぐいきれない。

 ウズベキスタンは歴史的に東西文明の十字路に位置する。国内にはチムール帝国の首都だったサマルカンドがある。イルホム劇場の現在の団員は、ロシア系を中心に、ウズベク系、ウイグル系、朝鮮系などさまざまな民族から構成されている。演出家のヴァイルという姓が、ドイツ系のようなので聞いてみると、ナポレオン戦争の時にロシアにやってきたドイツ人が家族のルーツだという。演出家は「コーランは偉大なる歴史、文化の一部で、素晴らしいアイデアが盛り込まれている」と認めるが、「国民すべてに通用するアイデンティティーを探すのは不可能だと思う。それよりも、人間とは何かを理解すること、互いに憎しみ合わず笑うことの在り方を求めることが大事だ」と指摘する。世界的にも複雑で独自性のある文化・地理環境の中で、ものごとを眺める座標軸にぶれがないことが、質の高い舞台作りにつながっているといえる。


河野孝(演劇ジャーナリスト)

2007年03月05日

イルホム劇場 演出家マルク・ヴァイル レクチャー


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●イルホム劇場 プーシキン原作『コーランに倣いて』公演詳細はこちら


――本日はウズベキスタンのイルホム劇場という劇団の演出家であるマルク・ヴァイルさんを招いてレクチャーを行います。国際交流基金では、来年の3月に東京国際芸術祭、それから松本市民芸術館で彼らの公演『コーランに倣いて』を招いて上演いたします。今回は演出家のマルク・ヴァイルさんと、舞台監督のイーゴリ・ラタノフさんをお招きしておりまして、日本にまだ紹介されていない中央アジアの演劇を皆さんにお話していただく機会を持ちたいと思いました。
マルクさんは1952年に旧ソ連のタシケントに生まれまして、20歳位から演出をされて、76年にタシケントに戻られてイルホム劇場を創設されました。当時のソ連の体制の中で出来た初めてのインディペンデントな劇団で、そのこと自体は非常に画期的なことだった筈ですが、そのことも踏まえてお話いただけると思います。イルホム劇場はタシケントの市内に劇場を構えておりまして、毎年9月から6月までのシーズン中に、ほぼ毎晩公演を行うほか、年に数回海外公演をこなし、また、若い演出家たちの養成コースも持っています。そのコースにはウズベキスタン国内だけでなく、周辺の国からも留学という形で若い人たちが学びに来ています。上演だけでなく教育も含めた幅の広い活動を展開している、名実ともに中央アジアを代表する劇団と言えると思います。
今日は中央アジア演劇研究会ということで、全体の司会を鴻英良先生にお願いいたします。

鴻:いまお話があったように、来年の3月に東京と松本で、国際交流基金の企画として、イルホム劇場『コーランに倣いて』という作品を上演いたします。その公演に合わせていろいろなシンポジウムやトークを企画されているのですが、その準備のために今回来日された演出家のマルク・ヴァイルさんに話を聞く機会を国際交流基金の方で設けて下さいました。

我々現代演劇研究会というものを知らない方もいると思うので説明させていただきます。現代のアジアの演劇について考え調べるという研究会が、3年にわたって国際交流基金の協力のもとに開かれておりまして、2ヶ月に一回のペースで研究会を開いています。アジア各地、場合によってはアフリカ、南アメリカのなどの地域から演出家や批評家が来日した時に話をしてもらいながら、現代のアジアでどのような演劇が展開されているのかを調査しているグループです。今日はグループの研究会としてもレクチャーをしていただこうということで開催されたわけです。

マルク・ヴァイルさんはウズベキスタンの首都タシケントで現在活躍されている方ですが、実際にタシケントもしくはウズベキスタン、あるいは中央アジア全体、かつてのソビエト連邦の地域でどういう文化が展開されてきたのか、具体的に演劇がどういう活動をしてきたのかということは、例えば東京周辺に住んでいる人にとってはあまり知られていないことだと思いますので、今日はそのような話をしていただきたいと思いお願いしてあります。
具体的にはマルクさんは演出家ですので、自分の演劇活動について話していただきたいと思っていますけれども、それと同時にタシケントというソビエトで人口4番目の都市でどのような文化的な活動が行われているのか、演劇を中心にしながらそういう問題を話していただきたいと思っております。

内野儀:言語的にはマルクさんはロシア語、ウズベク語ですが、今日は英語から通訳いたします。私はイルホム劇場のあるタシケントにいって実際作品を見たことはあるのですが、イスラムの文化あるいは中央アジアについてはほとんど何も知らないも同然ですので、今日専門家の方がいらしているようでしたら補足などざっくばらんに参加していただければ、マルクさんがやられていることがより正確に伝わると思いますのでお願いいたします。


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マルク:英語で失礼します。次にくるときには日本語で話せるようになっていると良いのですが(笑)。

私がやってまいりました地域、特定するならイルホム劇場における活動について、その地域の社会状況、芸術状況というのは非常に大きなトピックですので、まず一般的な状況を皆さんに説明させていただいて、その後に皆さんからのいろいろな質問をうけるというかたちで、個別的な問題についてはお答えできればと考えています。

私が属している世代がソビエトの時代からゴルバチョフのペレストロイカの時代を経過して次の段階に移っていった、大きな変革期を二つとも経験した最後の世代になるかと思います。そこで具体的にどのようなことが起きたかということも、実体験として知っています。1989年にベルリンの壁の崩壊からソ連の崩壊になりますが、イルホム劇場そのものが、ソビエト時代と独立後の新しい時代という二つの時代への考え方や二つの時代に呼応するメタファとしてとらえられるような劇場であると思います。

タシケントはモスクワ、サンクトペテルブルグ、キエフに続くソビエトで4番目に大きな都市です。ロシア帝国、ソ連の時代に発展してきた地域です。特に第二次大戦中は、戦争から遠く安全な場所であったために、文化的な意味での首都という役割を果たすようになり、文化的な学校や教育施設、劇場などがタシケントに移動してきました。

私の世代はポストスターリン世代、スターリン政権が統治していた時代の後の世代ということになりますが、これは大変重要な要素です。というのは共産主義のシステムに属さなくても良い、また政権に反抗することによって投獄されるような恐れを抱かなくても良いという環境の中で育った世代ということだからです。この点で、ポストスターリン世代ということはとても重要な意味を持つと思います。

私たちの世代はペレストロイカ世代といっていいでしょう。ペレストロイカはよくゴルバチョフが一挙にもたらしたように思われていますが、文化人、芸術家は、ゴルバチョフが最終的に全体化・拡大化するような意味でのペレストロイカというものに向かってずっと準備を整えていて、それが結果としてゴルバチョフのペレストロイカにつながったのです。そういうわけで1976年にはすでにイルホム劇場は成立していたのです。

もちろんイルホム劇場が10年後にペレストロイカが起きることを分かっていたわけではありませんが、とにかくイルホム劇場は独立しており、政府とは関係のない自由なことを発信している劇団で、私たち若い世代で自分たちの独立したメッセージを自分たちの視点で、自分たちの言葉で表現したいという世代だったのです。

70年代はとても興味深い時代で、ポストスターリンの時代というのは、主流文化や重要な知的な活動というものはモスクワを中心にしか起こっていないという時代でした。劇場で言えば日本でも有名なタガンカ劇場というものがモスクワにありましたが、全て重要なことはモスクワで起きているという認識が一般的な時代でした。

その後70年代後半から80年代にかけて状況が大きく変わり、ブレジネフの時代になりますが、要するに何も変わらない、何も起きないという時代、つまり社会・文化状況が停滞する、モスクワ中心の文化が停滞するという時代が来て、新しい動きはその周囲から起こることになります。それは例えば私たちのようなモスクワから遠く離れたタシケントであったり、リトアニアであったり、70年代終わりから80年代にかけては新しい演劇の動きがモスクワではなく周囲からおきるようになってきました。


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ペレストロイカよりも10年も前になぜ独立系の劇団、イルホム劇場を立ち上げたのかとよく訊かれますが、それに対しては、若かったんだ、システムに対して疑問があって、クレイジーだったし、言いたいことがあったんだと答えるのですが、そういうことができた背景にはモスクワにおける文化の停滞状況がありました。もちろんモスクワではオルタナティブなことをやろうとすると統制、コントロールがありますが、モスクワから遠く離れていたので可能だったと答えることにしています。とにかくやりたいからやったのだし、そういうことができる状況だったということです。

発足当時、タシケントの政府はソ連政府のようにうるさくなく、我々を抑圧する機会を失ったようで、若い連中が何か言っているのだったらやらせておけばという態度で好きにやらせてくれました。劇場が成立してから6年後の1982に中央政府に近いモスクワの知識人たちがイルホム劇場の話を聞いて、何故そのような団体を許しているのだという話になり、そこで初めてタシケントの政府がびっくりするということになったのです。モスクワの知識人たちは、基本的にはシステムに対する不同意やオルタナティブなものの提示に対して極めて敏感で嫌っていますが、タシケントで私たちが有名になるとその活動が雑誌などにいろいろ紹介され、それがモスクワの知識人たちの目に入って「何だこれは」ということになったのです。

すでにこのような噂が広まっている1982年にモスクワで初めて公演を行い、スキャンダルとなりました。モスクワでは200席の小さな劇場で1000人の観客を前に公演を行いましたが、劇場の周りには馬に乗った警官が取り囲んでいて、何かあったら踏み込むぞという態勢のなかで公演を行いました。

その後モスクワの政府は驚き、タシケントの政府にイルホム劇場の芸術監督などを全員取り替えよという命令を送ったのです。というのは、モスクワで我々が公演した作品は―スターリン時代には当然ありえなかったわけですが―政治体制に対して忠誠を誓う目印になるようなものが全く無く、今の共産主義政府の政治システムに対して羊のように従うという態度がまったく見られないものだったからです。

タシケントに帰ると我々の9〜10あるレパートリー作品のうちの5つを上演してはいけないという手紙がきていました。その手紙には芸術監督を更迭し、新しい芸術監督を選べという命令もかいてありました。それで非常に奇妙なことが起こることとなります。つまり政府がつくった劇団ではなく、私が芸術監督としてつくった劇団なのに、その芸術監督を変えるというのはどうすればいいのかということです。この質問を政府側にしました。そしてずっとどうやって芸術監督を変えるかという議論が続きました。政府は消防隊の人たちを送ってきて火事が起きたら大変だ、この劇場はよくないと言わせたり、劇場をオープンしてはいけないといったりしていましたが、朝7時に彼らが帰ると10時にはドアを開けて公演をするということもありました。このような奇妙なシュールな小話的経験がものすごく沢山あり、ソビエト時代において独立した劇場であるということはどういうことかを説明する話には事欠かないのです。

もう一つ、ソビエト時代のことをお話ししておくと、ペレストロイカ以前に私たちの劇団の役者たちは10年間全く無給で仕事をしてくれました。私たちのところはレパートリー劇場なので年間のシーズンの間に9〜10の作品を上演し、一週間に5,6回違う作品を公演していたにもかかわらず10年間も無給で仕事をしてくれたのです。もちろん芸術家は理想主義者であり、今でもそうですけれども、これほどまでにがんばってくれたのは今ではとても考えられないことではないでしょうか。ペレストロイカは民主主義を持ってきてくれただけではなく、お金の誘惑も同時に持ち込んでしまったからです。


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ペレストロイカによって設立から11年後にようやくイルホム劇場は劇団として正規に登録されます。そして今日同席しているイーゴリさんが、初めてプロフェッショナルに劇団を組織化するときに来てくれたマネージャーで、劇団の形態を整え、サインや印、銀行との関係などを全て整えてくれた人です。その時にはこれで俺たちもお金が沢山入ってきて金持ちになるぞと思ったのですが、残念ながらそれから20年経った今でも金持ちにはなっていません(笑)。

ペレストロイカ以後にはイルホム以外の劇場はペレストロイカ以前にはとても上演できなかったような劇を上演していましたが、私たちにはそれはあまり意味がありませんでした。なぜなら私たちは以前からやっていたからです。ですから、ペレストロイカ以後私たちは極めて実験的な劇団に変貌し、全く台詞の無いパフォーマンスの作品を3年間上演し続けました。この時期に演劇というのは言葉だけではないということに気づくことになり、私たちの劇団の歴史にとって、とても重要な時期となりました。いろいろな動きを中心としたり、沈黙をどのように表現するかなど、さまざまな実験を行いました。

ペレストロイカ時代がイルホム劇場にとっての第二期となりますが、現在まで続く第三期というのは1991年の独立以後ということになります。独立期というのは存在的危機の時代といったらいいのでしょうか、ある国に生まれたとして、その国がある日突然別の国になったということですから。

ソ連というと、とても広い領土とともに想像される国家であり、例えば「自分の仲間」という時にはリトアニアやグルジアの人も自分の仲間、同じ国の人間という想像の中でありえたわけですが、それが突然小さなウズベキスタンという範囲だけがあなたの国ですよといわれることになったわけです。自分の存在のあらゆる面について問いが生じてしまうと言っていいと思いますが、我々は何者なのか私は誰なのか、タシケントに生まれたけれどもウズベキスタンをどう理解すればいいのか、ウズベキスタンは「自然」な国家なのか、歴史的な国家なのか。これは事実で言えば歴史上捏造された国家であって、スターリンが1924年に作ったにすぎないわけです。それ以前はそこはただ広大な空間広がっている中央アジアのトルキスタンと呼ばれているひとつの地域に過ぎなかったのです。ところがスターリンが1924年にウズベキスタン、タジキスタン、カザフスタン、キルギスタン、トルクメニスタンという5つの共和国に分けたのです。

多くのタジク人はサマルカンドやブハラというところに住んでいて、言語はウズベク語、タジク語というのはトルキスタンにより近いウズベク人あるいはウズベク語とは全然違います。独立後やってきたのはより新しい嘘、ウズベキスタンは5つの国家としてより明るい未来が待っているのだというソビエト時代とあまり変わらない嘘だったのです。知識人たちはこの新しい国家にどのようなアイデンティティーをつくりあげていくかということを徐々にプログラムとして立ち上げていかなければならないということで、多民族国家である共和国の国境は絶対的なものではなく、とてもデリケートなバランスの上に国境を位置づけようと考えていました。

しかし実際に政治家や権力者たちは「徐々に」や「時間をかけて」ということに耐えられるはずも無く、即座にウズベキスタン、ウズベク人というアイデンティティーを打ちたてようとしたのです。つまりウズベキスタンという国は他と違って唯一歴史的な正当性を持っている国であり、それはつまりトルキスタン系の人たちが正当な国民であり、その人たちが重要な国民としてこのウズベキスタンを明るい未来に向かって建設していくのだという極めて排他的なの枠組みのもとに政治的な拘束が作られたのでした。それは当然のごとく周囲の4つの共和国との間にさまざまな軋轢を生み出す元凶となりました。例えばキルギスとウズベキスタンを行き来するにもビザが必要ですし、私の親戚がタジキスタンの山間部に住んでいるのですが、こんなに近くなのにタジキスタンとの直行便もないのです。冷戦期は巨大な壁が東と西に建っていましたが、それが取り払われたとたんに今度は5つの共和国それぞれの間に自ら壁をたててしまったのです。

そういう政治のレベルでおきていることに対して私たち芸術家は、5つの共和国のある地域それ自体が自然な一つの地域と考える時、つまり別の国の人は別のアイデンティティーというのではなく、全体が自然に形成されていったのだということを考えた時に、人々とのつながり、芸術家とのつながりは非常に重要であり、不可欠であると思っています。


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2006年はイルホム創立30周年目のシーズンになります。ポスト独立の時代、当初は理論ができて新しい世代の演劇を作り、紹介していくのが目的でしたが、30年目の今はそういうことではなく、むしろあらゆるものを許容する、つまり先ほど言ったような、現実に起こっている政治的なばかげた状況に対抗するようなもの、個人や人間がどうありうるのか、政治的に強制されているビジョンとは違うオルタナティブなビジョンをあらゆるチャンネルを通して提示するような作品に開いていこう、そしてその中で人々と芸術家とのより強固な関係を構築するという方向に大きく転換することになりました。

劇団が作られた最初は、新しいメッセージを持った新しい劇作家の作品を紹介していましたが、ここ数年はむしろこの地域全体の文化に根ざしたもの、または何らかの関係を持つようなものということで、『コーランに倣いて』や、スーフィー教を扱った”Flights of Mashrab”など、中央アジアのそれぞれの地域がどのように歴史的に展開してきたかということを題材とした作品をつくっており、この方向へ大きくシフトしているということが言えると思います。

ご清聴どうもありがとうございます。困難な歴史や複雑な状況があって説明するのもなかなか大変だと最初に申しましたが、何か質問がありましたらおっしゃっていただきたいと思います。

鴻:今のお話を聞いての感想なんですが、1982年のモスクワ公演がきわめてスキャンダラスなものになったということと、ちょうど70年代の終わりから80年代の初めのブレジネフ時代におけるモスクワ文化の停滞とは関係があると思うんですが、ちょうどこの頃、タガンカ劇場でリュビーモフがいろいろな作品を上演しようとしたところ、検閲のためできなくなっています。それがきっかけで、リュビーモフは83年に亡命しています。それから、84年にタルコフスキーが事実上、亡命を宣言しています。イタリアで「ノスタルジア」という作品を作った直後に、記者会見で「もうソビエトでは映画は作れない」と言っているんですね。ちょうどその頃、非常に重要な芸術家が次々と亡命していくようなシチュエーションが、モスクワで起こっていたんですね。
ですからその頃に、タシケントやリトアニアなどに新たな動きが出てきた。そしてその中にマルク・ヴァイルさんがいて、そういった全体的なシチュエーションの中で彼の活動が始まったという話は、私としては非常に腑に落ちました。

それと、ウズベキスタンの独立以降の、つまり中央アジアの文化的な状況という大きな話もしてくださいましたけど、そこで彼が地域の問題を焦点に据えて新しい作品を作られたということでしたが、それが今度日本で上演される『コーランに倣いて』であり、もうひとつは”Flights of Mashrab”であったわけです。前者はコーランというイスラムの聖典を扱っており、後者はスーフィー教というきわめて神秘的な宗教を扱っています。そういう新たな展開をするかたちで新しい作品を作っているときに、宗教的なテーマというのが、かなり重要な場所にあるということの意味を補足していただきたいと思います。

マルク:9.11の後に宗教の問題が出てきたわけですが、我々にとっては独立直後からその問題がありました。いまや一方で国家の歴史というものが修正主義的に書き換えられようとしている側面があり、その中で宗教的な対立というのが前景化しているという現実があります。実際に血が流れるような事件が起きていて、それはどういうことかというと、共産主義的な社会システムというものが、宗教的な社会システムへと代替されようとしているということです。私はそういうことに対してきわめて強い危機感を抱いています。

ウズベキスタンでは、ソビエトから独立することによって「これで自由だ!やった!」というような楽観主義的な言説が一方にある中で、ソビエトが崩壊するや否や、宗教というものを利用して、サウジアラビアであったり、トルコであったりが、ウズベキスタン政府と新たな権力構造というものを取り結ぶような動きが、加速的に出てきています。今まではモスクワの政府との関係であったものが、複数の権力中枢といえるものとの関係を作り出そうとするような動きが加速されて、そのときに宗教というものがきわめて重要な役割を果たすようになったということです。つまり宗教というものが様々な場面で利用され、操作されています。

要するに、独立後に何が起きたかというと、以前のソビエトの時代では、ロシア人とムスリムとユダヤ人とルーマニア人とアルメニア人が一緒に住んでいて、多民族国家というものが実現していました。しかし独立後になって、石を投げられて「お前はムスリムとしてちゃんとした信仰をしていない」と責められるといった、いろいろな迫害が起こっています。これはまるでホラー映画のようだと思います。というのは、徐々にそうなっていくならわかるのですが、ある日突然そうなってしまったという、非常にシュールレアリスティックな状況が起こっているからです。

他宗教に対して寛容ではないというのは、むしろ歴史的な事実に反していて、この中央アジアというのは基本的には多宗教的な地域であって、ムスリムももちろんいるわけですが、ゾロアスター教徒もいて、スーフィー教もあったりという状況でした。たとえばブハラという地域ですが、ここにはスンニ派がいたり、ムスリムとユダヤ人が一緒に住んでいたりして、べつにお互い抗争もなかったわけです。このように歴史的には多宗教を許容する地域であったにも関わらず、独立によって、そういった歴史がなかったかのように、突如として政治的な意図性によって対立が煽られる形になったということです。

ウズベキスタンというのは、基本的には平和を好む土地です。それはどういうことかといいますと、たとえば独裁政治が出てきたりしても、すぐにそれに対して「闘わなきゃ!」という感じにはならないぐらいにのんびりしている土地柄があったのですが、それが90年代以降においては本当に極端なことが起きていて、非常に硬直した場所に変わりつつあるのではないかと思います。


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この『コーランに倣いて』の原作者のプーシキンという人は、真にコスモポリタンな芸術家だったと思います。というのは、彼は一方でロシア帝国のルーツを持ち、一方でアフリカのルーツを持つという、白人と黒人の雑種的な存在であり、宗教的なことにも民族的なことにもきわめてセンシティブな感覚を持っていた人でした。しかしこの『コーランに倣いて』では、コーランを書き換えるという非常に野心的な試みを行っています。

『コーランに倣いて』を演出するにあたっては、コーランそのもの、またそのコーランに「倣う」ということをどう考えるかというのが非常に大きな意味を持っています。90年代の最初から原理主義的な動きというのはありましたから、この作品が反発を引き起こす恐れは十分にありました。この作品をやるかどうかということについては我々の中でも議論になったわけですが、演劇の中でこれを扱うことはできると考えて、上演することに決めました。しかし実際に作品が完成するまでには、二年半かかっています。途中で二回くらい途絶するということがありましたけれど、ちょうど9.11の一月前に完成し、上演するに至りました。しかし今でもこの作品の上演を恐れている芸術祭はいて、たとえばリンカーン・センター・フェスティバルの芸術監督は「リンカーン・センターではこの作品はできない」というようなことを言っていたそうです。

芸術作品を作るだけにも関わらず、こうして政治的な文脈が入ってきてしまうというのは、かなり例外的な状況だと思います。タシケントでも若い人々はずいぶんこの作品を観に来てくれています。知識人も喜んでくれています。パキスタンやバングラディッシュの方もこの作品を観に来て気に入ってくれましたが、「パキスタンやバングラディッシュではこの作品は上演できない」といったことを言われました。私としてはとにかく、これは『コーランに倣いて』という名の作品であり、それ以上でもそれ以下でもない。それを分解して、ああだこうだ言って欲しくない、そう思います。

参加者:マルクさんの劇団の、俳優やスタッフは宗教の違う方々が混じっていらっしゃるんでしょうか?

マルク:半分はムスリムですが、仏教徒もキリスト教徒もいます。

参加者:さっきお話いただいたような、中央アジアの宗教の対立ですとかを、劇団の皆さんはどのように考えていらっしゃるのかお伺いしたいのですが。

マルク:外の影響はほとんどないと言っていいと思います。『コーランに倣いて』の時は、このような作品を上演して大丈夫だろうかという声が上がりましたが、基本的には、外で起きていることが劇団の中に影響を及ぼすことはありませんでした。1989年に我々は演劇学校を作りましたが、今の劇団における構成メンバーの85%はその学校の卒業生です。もちろん競争はありますが、我々には長年一緒にいる家族的な意識があります。今は第6スタジオと呼ばれる、6番目の新しい世代が出てきています。その世代はさまざまな地域の出身者により構成されていて、いわばイルホムがひとつの宗教になったといっていいかもしれません。


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参加者:イルホム劇場では演劇学校も始められて若い世代が育っているということですが、マルク・ヴァイルさんの次にイルホム劇場のリーダーとなるような、次世代の演出家候補はいるんでしょうか?

マルク:ソヴィエト時代には誰も聞かなかった質問ですね(笑)。しかし興味深い質問です。
国立劇場や公立劇場の場合、芸術監督というのは任期によって変わっていきますが、ゼロからはじめた演出家がある場合は必ずしもそれがあてはまるとは限りません。たとえばスタニフラフスキーがモスクワ芸術座を任期によって辞めるとか、そういうことは考えにくい。そういうわけで、イルホム劇場の場合も私がゼロから始めたという意味で、自然にこうなっていきました。ただ、若い世代を育てて、このカンパニーが発展していくことはもちろん考えています。

だから、全体主義的に劇団を統制して、反民主主義的に運営しているというわけではないのですが、今の段階で私がいなくなれば、この劇団は無くなってしまうだろうと思います。今の私の主要な関心は、作品を作ることではなくて次世代の演出家を育てるということにあります。ですから、中央アジア全体から若い才能を集めて、ラボをやっております。


参加者:お話の中で、ペレストロイカ以降、独立劇団として認められたと仰っていましたが、何にどういう形で認められたのか、ウズベキスタンの劇団であるためには何か認可が必要なのか、お話いただけますか。

マルク:独立劇団としての登録が必要なので、我々は登録をしています。ウズベキスタンはまだ日本のようにNPOという制度もありませんので、我々は独立劇団として、チケット収入の中から税金を払っています。以前、首相に「芸術というのはお金にならないものだから、NPOとして認めて欲しい」と言ったら、「ひとつ認めたら、次から次に認めざるを得ないのでそういうことはできない」と言われてしまいました。しかしNPOになってしまうと、今度は入場料を取ることが出来ないんですね。どうしようもないです。

鴻:ということは、登録をしていなかったソビエト時代は、イルホム劇場は非合法の存在だったということですか?

マルク:モスクワで上演した時、ソビエト政府が認可している劇団のリストに我々は入っていませんでした。だから「こいつらは一体誰だ」という話になったわけです。何年も劇団として活動していて、レパートリーもあって、演劇学校もあるのに、そういう劇団がオフィシャルな劇場で上演するためには何も功績がないんですね。だから我々はいわゆる文化省が行うこととは関わりをもたないでやってきたということになります。


参加者:先程、非合法の状態でしばらく演劇活動をやってらっしゃったということですが、非合法でありながらどのような広報をして、どのような場所で、またどのような劇場で活動されていたんでしょうか?

マルク:最初に始めたころは、青少年のレクリエーション協会のような組織にスペースを貸してもらいましたが、そこはレストランの地下の野菜貯蔵庫でした。そこを起源にして始めて、だんだん劇団が大きくなって、そのレストランは私たちのものになりました(笑)。モスクワの事件で悪名が高くなってしまった時、その青少年協会の人々は「知っていたら絶対貸さなかった」と言って地団駄を踏んだそうです。


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参加者:この『コーランに倣いて』という作品は、オルタナティブなビジョンを訴えるというご趣旨ですが、マルクさんはこの作品を通じて何を伝えたいと思っていらっしゃるのでしょうか?

マルク:メッセージは非常に明快でシンプルです。自分の中に神を見出すべきだというものです。宗教と神は違います。そのためにもこのコーランというものをもう一度読む必要があると思います。そのことによっていわゆる宗教とは違う神を自分の内に見出すということが可能ではないかと思います。

参加者:先程、共産主義なシステムが宗教的なシステムに取って代わっていることに非常に危機感を感じているということを仰っていましたが、ウズベキスタンというのは非常に世俗主義的で、社会慣習レベルではイスラム教が強くても、どちらかというと原理主義を防ぐのに一生懸命という印象があるのですが、現在はそれ程危機感を持つべき状況なのでしょうか?

マルク:仰っていただいたように、ブハラやサマルカンドなど、基本的にウズベキスタンは宗教に関して寛容といいますか、世俗化している面があります。しかしながらある種のリスクがあります。一方で原理主義が台頭し、一方で貧困が大きな問題があります。貧困というのは「食べるためにはこれしかない」という物語を与えられると、そこに飛びついてしまうということがよくありますので、そういう意味では原理主義の挑発にのってしまう危険性というものが常に存在していると言えます。

鴻:そろそろお時間なので終わりにさせていただきたいと思いますが、ぜひイルホム劇場の本公演、シンポジウム、ポストトークにいらしてください。

内野:またタシケントには直行便も出ていまして、シーズン中であれば毎日イルホム劇場の公演が行われていますので、ぜひタシケントにも行かれてみるといいのではないかと私は思います。

マルク:東京、松本では招待券は出せませんが、タシケントでは招待券を出しますのでぜひいらしてください(笑)。


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