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2008年02月08日

もくじ

演出ノート 阿部初美(構成・演出)
演劇とはなにか 阿部初美(構成・演出)
阿部初美ロングインタビュー

『アトミック・サバイバー』予告編映像
『アトミック・サバイバー』劇中映画
ポスト・パフォーマンス・トークのお知らせ

(2/22)『アトミック・サバイバー』劇評(日比美和子)

■六ヶ所村報告(阿部初美)
これは2006年8月に阿部が青森県六ヶ所村を訪ねた時のことをまとめたものです。
公開できないところは削除したり書き換えたり仮名にしたりしてあります。
 〜六ヶ所村報告1〜 野辺地から六ヶ所村へ
 〜六ヶ所村報告2〜原燃PRセンター
 〜六ヶ所村報告3〜 A氏の話
 〜六ヶ所村報告4〜大平洋
 〜六ヶ所村報告5〜ウニ
 〜六ヶ所村報告6〜夜
 〜六ヶ所村報告7〜B氏の話

■俳優・スタッフの日記から
 原子力発電所を訪ねる 永井秀樹(俳優)
 盲目の風景 大城達郎(小道具)
 六ヶ所村日記 須藤崇規(映像)
 稽古日記 谷川清美(俳優)
 『アトミック・サバイバー』稽古風景チェレンコフ光チェレンコフ光 その2 田島佐智子(照明)
 福島の原子力発電所 内部美玲(小道具/東工大大学院・建築科)[NEW!]


【同時開催】 
流動的写真集団 hirapress+による写真展 
『 link ―みんなのひかり― 』 
2007年2月22日(木)〜25日(日)
会場:にしすがも創造舎1-1教室および劇場ロビー
(22〜24日:12:00〜19:30、25日:12:00〜17:30)
写真展入場料:無料

2007年02月18日

『アトミック・サバイバー』予告編映像



『アトミック・サバイバー -ワーニャの子どもたち-』
構成・演出:阿部初美 ドラマトゥルク:長島確
出演:野村昇史(演劇集団円)/谷川清美(演劇集団円)/福田毅(中野成樹+フランケンズ)/永井秀樹(青年団)

日程:2007年2月22日(木)〜25日(日)
会場:にしすがも創造舎特設劇場


青森県六ヶ所村や各地の原子力発電所のフィールドワークをした演出家・阿部初美&スタッフ・俳優陣が、「核燃料サイクル」ミニチュア同時中継からアトミック版短編映画『ワーニャ伯父さん』、六ヶ所村ビデオレポートにブレヒトの演劇論まで織り交ぜて、リスクとともに生きるわたしたちを、ユーモアたっぷりに多角的に描くポストドラマ演劇!

2007年02月16日

演出ノート  阿部初美

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原子力エネルギーと核燃料再処理施設。この問題は、賛成・反対の感情的なぶつかりあいに終始しがちで、特に関連施設を受け入れた地元ではどちらかに身をおいたとたんにこの問題を語ることすら難しくなってしまうなどの危うさを常にはらみ、一方、大量に電気を消費するほとんどの都市生活者はこういった事実をほぼ何も知らずに生活しており、そこに問題解決へ向けての発展的な議論になかなか結びついていかない原因があるように思われる。

この複雑で大きなテーマを演劇でどう扱うことができるのか、わたしたちは長い間、迷い、考え続けなければならなかった。しかし、その決意を促したのは、何人かの現地住民の方の「この事実を伝えてほしい」「知ってほしい」という声だった。

そういった声に背中を押され、わたしたちが作品作りで大切にしたいと考えたのは、賛成・反対のメッセージではなく、まず「知ること」、そして「認識を促すこと」だった。これは「精神障害」をテーマにした前作の『4.48サイコシス』とも共通している。今回は核燃料のサイクルと労働を、核エネルギーにまつわるエピソードや六ヶ所村からのビデオリポート、放射能事故時の対処法などをおりこみながら、そして重くなりがちなこのテーマを、ユーモアをまじえて多角的に描きたいと考えている。

タイトルの『アトミック・サバイバー』とは、原子力関連の労働に関わる人々、また施設を受け入れた自治体と住民のみならず、生き残りをかけて原子力発電を“選択し”、そのリスクとも、共に生きる私たち自身のことでもある。

(2007.2.7)

『アトミック・サバイバー -ワーニャの子どもたち-』公演詳細

演劇とはなにか  阿部初美

演劇とはなにか、ということを今回はよく考えさせられている。
わたしなりに定義を試みたいと思う。

まず、演劇には「世界の鏡」としての役割があると思う。
「世界」を描くとき、その本質にどれだけ近づくことができるのか。
ふだん「あたりまえ」として気にもとめずに通り過ぎて見過ごしてしまう物事を、たちどまってよく見ること。何故そうなのかを考えてみること。

「鏡」は認識をうながす作用を持つ。
つまり、自覚、意識化をうながす。
本質的なところにより近づくことができたら、それは深い認識をうながす力を持つことができるだろう。それには、一つの物事を一つの方向からではなく、複数の視点から見ていくことが必要になる。
そして、より意識化されていない、あるいはまだ十分に語られていない物事や、語られることを拒むタブーに近づく必要がある。

しかし、そこに近づくには、当然ながら忍耐力がいる。
作り手は当然ながら、観客にも忍耐を強いるものなのかもしれない。

たぶんそこは、矛盾や葛藤やカオスや、知ることが痛みに直結するようなことに満ちている。
しかし、臭いものにフタをして放置すればどんなことになるかは歴史が語ってくれる。
いかにして問題の本質に近づくか、そしてこれをどのように観客に手渡すか、を考えることがわたしたちの仕事であるとおもう。
わたしはこのように演劇というものを考えている。

今回の、原発のテーマにしても、同じである。
「賛成や反対を問うこと」や「賛成や反対のメッセージを送ること」が目的ではなく、 「より深い認識をうながすこと」が目的である。

そして問いや答えや葛藤や認識や行動は、ひとりひとりの観客のなかそれぞれに生まれるものであってほしい。

(2007.2.7)


『アトミック・サバイバー -ワーニャの子どもたち-』公演詳細

阿部初美 ロングインタビュー


演出家・阿部初美は、TIF2006でサラ・ケインの遺作『4.48 サイコシス』を、日本社会の痛みとして描いた。そして今回のTIF2007では、原子力エネルギーと核燃料再処理をテーマに、リスクとともに生きるわたしたち自身の姿を描こうとしている。なぜこうしたテーマを扱って演劇を作るのか、現代演劇の可能性をどこに見ているのか、話を伺った。


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演劇は嫌いだった
わたしたちの世界と地続きのことをやりたい
リラックスして観るということ
なぜ原発なのか
問題の本質に近づくことで、深い認識を促す
劇中映画について


演劇は嫌いだった


――大学を卒業されてから円演劇研究所に入所されたそうですが、学生時代から演劇活動をされていたのですか?

全然してなかったですね。むしろ演劇は嫌いでした。高校生の時、高校演劇をやっている人とかが周りにいたりしたんですが、何かオタクっぽい人が多くて、ちょっと入っていけない世界という気がしてまして。その頃、演劇を特集してた雑誌があったりもしたんですが、本屋さんでそれを立ち読みして「うわ、嫌だ!」みたいな(笑)。大学時代は、私は美術をやろうと思って美術大学に入ったんです。

当時はまだバブルがはじける前なので、海外からいいものが来てたんですね。その頃情報誌を見てたら、釘付けになっちゃった写真が一枚あって、それが演劇の公演だったんです。タデウシュ・カントールというポーランドの演出家の、クリコット2という劇団の写真でした。そこから目が離せなくなっちゃうくらい、強烈に惹きつけられるものがあって。チケット代がすごく高くて1万円もしました。学生だからそんなお金持ってなかったけど、どうしても観に行きたくて、親に1万円借りて観に行ったんです。そうしたら、そこにあったのはものすごい世界でした。生まれて初めての体験で、「とんでもないもの観ちゃった」と、雷に打たれたような感じでした。カントールは『死の教室』という作品があるように、「死」とか「過去」とか「歴史」とか、そういうものをテーマにしていて、全然理解はできなかったけれども、もう圧倒されて「美術なんかやってる場合じゃないんじゃないか」と(笑)。

それで他のも観てみようと思って、その後すぐ勅使河原三郎さんのダンスを観たら、これもやっぱりすばらしかった。それでピナ・バウシュを観たり…ものすごくいいものをいっぱい観ちゃった時期だったんですよね。それで「舞台というのはおもしろい」と思って、卒業してから舞台の仕事をしたいと思ったんです。ダンスと演劇と両方観ていたんだけど、自分にダンスは踊れない(笑)。スタッフの仕事はあったのかもしれないけど、ダンスというのは踊れる人がやるもんだと思ってたもんだから、じゃあ演劇かな、と。一番最初に観て衝撃を受けたのはカントールだったから、演劇のほうでちょっと(仕事を)探してみようと思ったんだけど、日本で演劇を始めるとしたら一人ではできないし、「どうしたらいいんだろう」と思って、どっか入れるところないかな、何かおもしろいことやってる人たちはいないかなと思ってました。


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そして卒業して、一年間アルバイトしながらいろんな日本の演劇を観てたんですよね。その時、「観るんだったら蜷川幸雄、パパ・タラフマラ、太田省吾、鈴木忠志、唐十郎」とアドバイスしてくれた人がいて、一年間で、大体観に行きました。ただ、太田省吾さんのだけ観られなかったんです。それぞれおもしろかったんだけど、何か自分が想像していたものと違う。「ここに入りたい」というのがなくて。それで、たまたま「さあこの1年でいろいろ観たけれど、どうしよう」という時に、湘南台の芸術監督になられた太田さんの『更地』という台詞劇を観て、「ああ、この人だ」と(笑)。それは太田さんの「沈黙劇」なんかに比べるとソフトな方だったんですけど、太田さんの世界観にすごく共感しました。

それで日本で演劇やるとしたら太田さんのところしかないだろう、太田さんの傍で勉強したいと思いました。でも転形劇場はもうない。だけど調べていったら、どうも「演劇集団円」というところで演出をしたり書き下ろしたりしているらしいということがわかって、円に入りました。そこでは研究所に2年いなきゃいけなかったんですが、演出部で入って、いろんな裏方の仕事とかして、演劇の現場の知識を身に付けていきました。それで3年目になって、やっと太田さんに会えたんです。太田さんが作・演出で、円で上演した作品があって、太田さんが来たときに、タイミングを見計らって「実は私が円に入ったのは…」と話したんです。実は太田さんのところに行きたかったんだけど、転形劇場が解散しちゃったのでここに来たんだ、って。そしたらね、今一緒にやってる谷川清美(女優)も同じ理由だったの。清美さんも徳島にいた頃『ヤジルシ』という作品を観て、「これは何だ!」と思って、転形劇場に入りたくて、東京に出てきて演劇の勉強をしてたんだけど、転形劇場が解散しちゃったので、円に入った。向こうは役者だったんだけど、私と全く一緒の理由でした。

私はその頃、自分が何をするのかわからないけれど、太田さんがやるんだったら太田さんのところに行くって思ってました。それから演出助手として太田さんについて、太田さんを師匠として、演劇のことを勉強してました。


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『4.48 サイコシス』(c)宮内勝


――そのあと、実際に演出家として演出活動を始められたんですよね。

でも、まだ自分が何をやりたいかがはっきりしてなかったんですよね。役者は違うなというのはやってみてわかったことなんですけど。研究所では、演出部の人間も一応演技の勉強をしなきゃいけなくて、それはすごくおもしろかったんですけど、「あ、これは違う」と思ったんです。じゃあ美術大学に行ってたし「舞台美術かな?」と思って舞台美術をやったりしたんだけども、これもあんまりおもしろくないんですよね。

そうこうするうちに30間近になっちゃって、その間に病気したりとかいろいろあって、それでこれからどうしよう、ずっと演出助手やっていくわけでもないし、何をやっていくんだろう、ということを考えなきゃいけない時期が来たんです。それで、とりあえず1本作品を演出してみようと思ったんです。作品を作りたいということは根本的にはあったんですね。『抱擁ワルツ』という作品で、それが初めての演出作品でした。太田さんの傍にずっといたものだから、太田さんの世界はある程度わかっていて、うまくいっちゃったんですよね。それを観てくれた人から「演出してくれ」ってどんどん仕事が来ちゃって、びっくりしたんです。次の年も、その次の年もバーッと仕事が入ってしまって。

そうすると、周りのいろんな人から「おまえどうするんだ、これから演出家としてやっていくのか」と言われるんです。まあ要するに「覚悟がないと出来ないよ」ということなんですけど。私はたまたまやったものが当たっちゃったというか、評価されたという感じだったんですけど、その次に演出をやると、やっぱり演出家ってすごくきついんですよね。本当にものすごくきつい。ただ、太田さんの影響がすごく強かったので、太田さんの作品は自分なりにわかる。だけどやっぱり師匠と同じことをやってもしょうがないですよね。自分なりの何かを見つけていかなきゃいけない。じゃあどうしようっていうのを考えてたときに、ドイツ文化センターの山口さんから「ドイツ行かない?」って話をもらったんですよね。


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『4.48 サイコシス』(c)宮内勝


――それがベルリン演劇祭ですか?

そうです。テアター・トレッフェンという演劇祭の関連企画で、35歳以下のシアターに関わっている人なら誰でも参加できる「若手演劇人の国際フォーラム」という企画がありまして、「行ってみない?」というお話をいただいたんです。山口さんとは、円とドイツ文化センターとシアターXによる『パウル氏 Herr Paul』という作品をやったときにお会いしました。そして、山口さんの上司であるペトラ・マトゥーシェさんという方が、ドイツ演劇を紹介するビデオ上映会を始めたんですね。観に行ったら、ものすごくおもしろくて、毎回足を運んでいたら、山口さんから、「そんなにおもしろいんだったら実際に行って観ておいでよ」という話をいただきました。だけど、そのフォーラムに参加するにはドイツ語ができなきゃいけない。それでドイツ語を習い始めました。

やっぱりちょっと違う世界を観たかったんですね。違うところから、自分のやっている演劇だったり、日本だったりを観てみたかった。それでそこで観たものというのは、これも第二の転機になるぐらいすごかった。


わたしたちの世界と地続きのことをやりたい


ドイツの演劇というのは日本とは全然違っていました。ドイツ語で聞いてるんだけど、言葉がわからないものも多い。でも、言葉がわからなくても、ものすごくおもしろい。びっくりしました。しかも、いろんな方法で成立している。たとえば日本だったら、新劇かアングラか小劇場か、という感じであんまり種類がないんだけど、ドイツではものすごくいろんな手法があって、それぞれがちゃんと成立していて、質の高い作品を提供している。

一番うらやましいなと思ったのは、起承転結がはっきりしてわかりやすいリアリズムでないものでも、お客さんは喜んで観ているし、お客さんが劇を自分たちのものだと思って観ている。違う世界の違う出来事、ファンタジー、自分たちに関係ないものとして観ているんじゃなくて、本当に自分たちのために作られるべきであると考えている。

自分たちのものだと思っているとどういうことが起こるかというと、これは嫌だと思ったらブーイングもするし出て行く。でもこれは素晴らしいと思ったらカーテンコールを何度でも繰り返すし、はっきりしている。批評がエキサイティングなんです。
フォルクスビューネの『巨匠とマルガリータ』という作品を観にいった時に、半分くらいのお客さんが、こんなものは観れないと怒って帰っちゃった。でも、残ったお客さんたちは、帰った人たちに対して反発して怒っているんです。なんでこんな素晴らしい作品なのに帰るんだって。客席が対決しているという感じで、残っている人たちは、最後まで勝負していた。その日の数少なく残ったお客さんによるカーテンコールは凄かったですね。


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わたしはもともと演劇が嫌いだったんですけど、日本の演劇の場合、舞台で起こっていることと観ている自分達の生活が結びつきにくい印象があると思うんです。
小さい世界で自分達の満足のためにつくっているものという印象があって、「演劇をやっている」と言うとそれは趣味だと思われたりしてあまりいい印象がないし、社会的に認められていない。
演劇をよく観てるお客さんの場合、こういう形式はどうだとか、こういう様式はどうだとか、表現形式・方法のこととか表面的なことばかりに話がいってしまい、作品の内容についてはあまり話が出てこない。

もちろん方法も大事ですが、それに不自然さを感じたんです。いかに舞台上にわたしたちの生活、世界と地続きのことを乗せられるかと言うことを、すごく考え始めました。

それが、去年『4.48 サイコシス』をここでやって叶ったんですね。その時は、色んなところに取材しに行ったりして、言葉で言うのは簡単なことなんだけど、本当に貴重な体験をしました。普通、知らない人と共通の話題を持つのは難しいですよね。でも演劇を媒体にすると、同じところで同じレベルで話ができる。みんなそれぞれ自分の立場から話ができる。大体取材しに行く時は、厳しい状況のところにいかねばばらなくて、例えば精神病のある人のところであったりとか、今回だと原発のある村だったりとか、すごく問題が表面化しているところなので、行くのはちょっとしんどいなって感じのこともあります。でもそれは何にも代えがたいというか、そこで聞いてきたこと、見てきたことをどのように表現し得るかというところをすごく考えます。


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『4.48 サイコシス』(c)松嶋浩平


リラックスして観るということ


少し話がずれてきちゃったんですが、つまり、自分達の生きているこの世界で起こっていることを表現していきたい。でも、それをやるためには、演劇の表現方法を変えなければならないと思いました。近代劇のような起承転結のわかりやすい物語方式で、表現するのは難しい。

自分が実際に、劇場で観客として座っていても、物語にリアリティを感じるのはちょっと大変で、何て言うのか・・・自由を束縛される感じがしますね。どうして束縛されるのかというと、まず登場人物の人間関係を学ばなければならないでしょ。人間関係を中心にお話を追っかけているうちに芝居が終わってしまう。たとえば美術館にいる場合は、集中して見るとか、適当に見るとか、自由に過ごせるし、色々思い出したり考えたりしながら好きに見れるんだけど、お話を追っかけているだけだと、そんなことをする時間もなく終わってしまう。自分の生活のことなんかを思い出すこともできない。

よく「ドイツ演劇の影響を強く受けていますね」と言われることがあるけれど、それは何の影響なのかというと、ブレヒトの演劇論なんです。ブレヒトの演劇論の本を読んでいた時に、「あ、これだ!」と思ったことがありまして、ブレヒトは「観客に余裕をもってみてもらいたい、リラックスしてみてもらいたい」と思っていたんです。それをブレヒトは、「非アリストテレス的劇作法」と呼んだんです。

「非アリストテレス的劇作法」とはどういうことかというと、アリストテレスは悲劇の定義をしているんです。観客が登場人物に感情移入する。自分のことのように感じちゃう。そうすると、大体登場人物は障害や葛藤があるんです。それを、たとえば、怒りを爆発させるとか、涙を流すとか、暴力を振るったりすることによって発散する。要はカタルシスですね、浄化される。それを観ている観客は、登場人物に感情移入して、同じように浄化される。悲劇の目的はそれなんだ、とアリストテレスが言っていて、そうしたアリストテレスの論を否定して「非アリストテレス的劇作法」と呼んでいるんです。アリストテレスとは違う方法で演劇をつくりたいとブレヒトは言っている。

でも、なぜブレヒトがそういうことをする必要があったかというと、それはナチスの歴史とすごく関係があるんですね。要するに、あの時代に、多くのドイツ人はナチスを支持していましたが、あとで考えてみるとすごいことしてたわけだから、思考をやめてしまったんですね。つまり感情移入するということは、思考が働かなくなっちゃって、分別がつかなくなるという危険をはらんだものでもあるということなんです。
ブレヒトは共産党員だったんです。ナチスの検閲が随分あって、アメリカに亡命したりしていたんですけど。

「非アリストテレス的劇作法」というのは、ヒトラーや全体主義に対する手段としての劇作法のことです。それは、感情移入させずに観客にみせるということで、そうすると、観客は、登場人物をかわいそうだとか、感情移入せずに、自分なりに批判したり、批評したりして、考えながら観ることができる。
ブレヒトはこういう風に観客に観てもらいたかったんです。

「異化効果」(ドイツ語:フィアフレムドゥング)という言葉があります。フィアフレムドゥングの‘フレムトゥ’は「馴染みが無い」と言う意味の言葉です。異文化に対した時に、「わたしはその文化から‘フレムトゥ’」というと、「わたしは、その文化から離れている、馴染みが無い」と言う意味になります。ここではこの用語が指す「当たり前に見えていることを、違って見えるようにする」と言うことが重要で、要は感情移入させないとか、リラックスして観てもらうことをブレヒトは大事としたんです。人間が考えることを止めずに、批評もできる状況で観るために、「非アリストテレス的劇作法」というものを提案しました。

ドイツ演劇がなぜそんなにおもしろいかというと、ドイツ演劇の中にはブレヒトの精神が生きていて、観客が考えて観られるようにしかけが作られているものが多いんです。日本だと、息をつめて、緊張感を持って観るような作品が良いとされているふしがあるように思うんだけど、ドイツ演劇では、姿勢を自由にして観ていられる。舞台で起こっていることを観ながら色々考えたり、批評しながら観ても良くて、自分が何をしても考えていてもいいと保証されているという感じがあります。

わたしはドイツ演劇を観ていて、そこで初めて、「ああ、わたしは劇場で自由に呼吸もしたいし、姿勢を変えたかったんだ」ということに気づいたんです。よくよくそれを考えてみたら、ブレヒトにたどり着いたんです。そして、ドイツから日本に帰ってきて、ブレヒトみたいな演劇を作りたいと思ったんです。
わたしは日本で生まれて生活してきているのに、なぜブレヒトにこんなに魅了され、影響されるのか。ここの部分を考える必要があるんじゃないかと思います。

ただね、自分で作っていて思うのは、実際は息つめて観るような緊張のある芝居の方が受ける(笑)。


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『4.48 サイコシス』(c)宮内勝


――プロフィールには「ポストドラマ演劇を追求」されていると書かれてあったのですが、それは今のお話と何か関係しているのでしょうか?

ポストドラマ演劇ね。便利な言葉ですね(笑)。今の話とは関連があります。

ポストドラマ演劇という言葉があるというからには、ドラマ演劇という言葉もありますよね。
人間には欲望があるわけですよね。でも、そうそう欲望をかなえることはむずかしい。欲望に対して障害が生じて、そこに葛藤が生じてくる。そして、学習して乗り越えていったり、学習できずに破綻したり。これが近代劇までで、起承転結みたいな筋のはっきりした物語を使って演劇がやってきたことです。

たぶんチェーホフとかベケットあたりから「現代劇」といわれるんですが、欲望と葛藤が薄くなっていくんですね。
例えばベケットに『ゴドーを待ちながら』という作品があるけど、そこでは、2人の浮浪者が2日間ゴドーさんに会いたくて、会いたいという欲望を持ち、待っているんだけど、ゴドーさんを待っていることが遊びになっていっちゃうのね。そこでは待っていること自体は、それ程大きな欲望でもなく、また葛藤も無く、表現されている。それまでの演劇は葛藤というのが大きなテーマなんだけど、それがどんどん小さくなっていっちゃう傾向があったんです。

それは映画の世界でも同じようなことが言えると思っています。ジム・ジャームッシュ監督の「ストレンジャー・ザン・パラダイス」は、ベケットが描いているものと似ていると思いますね。若者の話なんですけど、若い女の子がラジカセを持って若い男の子とかと知り合って、こうしたいとか、こういうところへ行きたいということをやってみるのね。でも実際やってみると、自分の思い描いていた程素敵でもない。どこで何しても変わらない。でも、その子は、それほど落ち込んでいるわけではない。

そうしていくうちに、劇自体が壊れていっちゃうわけですよね。起承転結があって、葛藤があって、クライマックスがあって、山場があって、どうなるの!?というのがなくなっていく。

ドイツの批評家のハンス=ティース・レイマンさんという人が、「ポストドラマ演劇」という著書の中でこれについて詳しく論じています。これまでの近代演劇と区別するために「ポストドラマ演劇」という用語を使っているんですが、いわゆる普通の劇とはちょっと違います、と伝えるのに便利な用語ですね。


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『4.48 サイコシス』(c)松嶋浩平

ドラマを追っていくことがきついことならば、そこで方法としてやってみていることは・・・「第4の壁」を壊すこと。
さっきも言いましたが、劇場の舞台で起こっていることは、わたしたちの世界と地続きのことなんですということ、決してファンタジーではない、どこかの国のどこか遠い話ではない。わたしたちのことなんだということを強く出したい。

演劇では、舞台と観客席の間に「第4の壁」(見えない壁)があると設定されています。普通、第4の壁の向こう側の舞台には、タイムリーな今とは違う空間、違う時間がある。その舞台の上は、どこか、ある場所の未来だったり過去だったりして、観客は客席から舞台を覗き込んでみている。俳優は観客がいないようなふりをして演じる。でも今回は積極的にこの壁を壊すことをやっています。

わたしがみせたいのは、舞台と客席が同じ時間、同じ場所にあることです。俳優は客を見るし、いることを知っているし、話しかけもする。
じゃあそこで俳優はなにをするかと言うと、普通の演劇のように、ひとりの俳優がひとつの役をやって、わたしはこの人だ、とその人物になりきることはない。

役者は、いつも覚醒していないといけないんです。俳優が演じているのは、むしろ「役割」です。たとえば原発の職員になるのではなく、その衣装を着て、なって、演じてみせているだけ。役者は、自分は俳優だってことは忘れてないし、リアリズム的な演技はそこに必要なくなっています。でもこういう体験は誰にでもあると思うんですね。子どものころにやった「ままごと」や「鬼ごっこ」みたいな遊びの中に。

たとえば英語では演劇のことを「プレイ」、ドイツ語で「シャウシュピール」というんですけど・・・「シャウ」は「観る」という意味で、「シュピール」はプレイと同じような意味です。どちらも、演劇という意味の他に、ゲームとか遊びとか戯れるという意味があります。
でも、日本語で「演劇」っていうと、「劇を演じる」というふうになっちゃうけど、英語のプレイっていうと、遊びって意味もあるし、もっと演劇が豊かになれるのに、日本語の演劇は範囲の狭い言葉のイメージにとどまってますね。

だから、今回は「戯れ」を作りたいんです。今回のテーマにこの方法はすごく合っていると思うので、今回はもっとはっきりやりたいですね。今回の舞台である、原発再処理工場やその関連施設内は、普通の人は入れない場所です。だから、その中で行われている作業や、何が起こっているかどいうことはわからない。それをリアリズムでやろうとしても、なんか説得力が無いんですよね。

例えば原発の下請け労働者の話を役者がやる際、リアリズムに表現しようとすればするほど嘘っぽくなっていくんです。ちょっとそれに耐えられない。そこで考え出した方法は、書かれたことを俳優が追体験していく。俳優が追体験すると客も追体験する方法をとりました。そしたらこれが成立するかもしれないと思ったんですね。


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『4.48 サイコシス』(c)松嶋浩平


なぜ原発なのか


――なぜ原子力エネルギーと核燃料再処理をテーマに演劇を作ることにしたのでしょうか?

どういった作品をこれからつくっていこうか、と(ドラマトゥルクの)長島さんと相談していたところ、チェーホフをもうちょっと違ったかたちで描けないのかなあと話していたんですね。ある時長島さんがタルコフスキー的にチェーホフできないかってぽろっと言ったんです。そこで出てきたのが、「サクリファイス」だったんです。これは「核戦争」をテーマにした作品です。
だけど核戦争は冷戦時代の恐怖というか、いまは本当に使うというよりは外交カード的な意味合いが強いんじゃないかという疑問符がでてきました。

そうしたら丁度、去年、チェルノブイリ20周年で、シンポジウムや講演会、映画上演、コンサートが4月くらいにたくさんあった。だから、いま日本の原子力はどうなってるの?て興味を持ったんです。それで、チェルノブイリの映画を観たり、シンポジウムに行ったりしてました。それらのイベントの中に、たまたま「六ヶ所村ラプソディー」のチラシが入っていて、観に行ったんです。それは、青森県六ヶ所村にできた、原子力発電所で使い終わった燃料をリサイクルする再処理施設が試運転されていまして、その村の歴史や人間模様を追いかけたドキュメンタリーでした。本当に衝撃的で、素晴らしいドキュメンタリーでした。

それで、だんだん「核戦争」から、「核燃料」にシフトしていったんです。それについて調べていったら、再処理の問題とか、どんどん問題が出てくる。それで夏に六ヶ所村に行って、現地の方と会ったりしたんです。原子力発電を演劇でできるのかということを頭の片隅に置いて。

難しいのは、核燃料施設がある町村ではそれを大っぴらに語れないということですね。演劇で、原発の問題をテーマに扱うのは相当危険なことなんだとわかってきました。国策だということもあるし、非常にデリケートな問題で、要するにこれはタブーになっているんです。


問題の本質に近づくことで、深い認識を促す


演劇とは何かということを考えた時、演劇は世界の鏡としての機能を持っていると思います。社会の鏡になる。鏡になるってことは映すってことだけど、つまりは認識する。自覚する機能がある。で、いい鏡になるためには、一面的ではダメなんです。ひとつの点から見てたらみえるところが限られてくる。いろんな角度からみたときはじめて立体的になる。どんなふうにいろんな角度からみていって、問題の本質的なところに近づけるか。そこでわたしたちは何をみたり捕まえたりすることができるのか。それが本質に近づけば近づくほど、そしてそれがうまく表現できればできるほど、深い認識を促すことができる力があると思うんです。


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――これはわたし個人の先入観かもしれないのですが、例えばこうしたテーマを作品で扱うとなると、それは原発がいかに危険で恐ろしいかを訴える、いわばプロパガンダ的な作品というイメージを持ってしまいがちですが、そういう立場は取らないということですか?

その通りです。まず自覚とか認識を促すもの、演劇はそういう機能をもつものとわたしは捉えている。今回それを物凄く考えさせられた。というのも、反対、推進派双方から話を伺いましたが全然違う意見だったりするんですね。同じことについて語っているのに、こんなにも違うのかと思いました。

これをわたしは誰に向けてつくっているのかっていると、都市生活者を想定しています。一番電気の恩恵にあずかっている生活者です。でも、この豊かさを支えてくれている人たちを知らない。リスクを背負っている人たちがいるということを知らない。もちろん経済的なメリットはありますが、何かあったときのリスクを負っているのは、そこ(原発のある村)の人たちです。だけど、その恩恵に預かっている都市生活者は、そこからすごく離れたところに住んでいます。

ただこの問題は複雑で、一筋縄ではいかない。たとえば六ヶ所村の住民の方には「反対運動をしないでくれ、底辺の人間のことも考えてくれ」と言う方もいます。要するにこれがないと私たちは生活できないんだと言ってるんですよね。でも決して、再処理工場を喜んで受け入れているわけではない。
福島で作っている電気は東京に送られています。見学コースでPR館にいくときに、タクシーの運転手さんには、「しっかり見て来い」と釘を刺されました。「君達の生活を支えているのはここだよ、ここの住民はそういうリスクを負っているんだ」と。でも、「反対するな」ということも言われました。なぜかというと、その村はかつて出稼ぎの村だったんですね。それが原発ができたことで、地元で仕事ができることになり、そこで家族が一緒に暮らせることになった。それが一番幸せなんだよと。
こういう事実を私たちはどう受けとめていくべきなのか。

――お話を聞いていくと非常に複雑でシリアスな問題なんですけど、もしかしたらお客さんの中には、ちょっと重そうだからと、敬遠してしまう方々もいらっしゃるかもしれません。そういった方々にメッセージをお願いします。

これもブレヒトの影響なんですけど、知ることには痛みを伴うこともあるんです。要するに深い認識をもたらすのが演劇の目的だと言ったけど、本質的なことはなにかというと、そこには知ってしまうとすごい痛みを伴うことがあるんですよね、きっと。知ること自体が怖い、自分の存在自体を脅かすことがそこにあります。それをね、どう手渡すかというのもわたしたちの仕事でもある。やっぱり拒否反応がでちゃったら、もともこもない。
毒にも薬にもなるという言い方がありますけど、ちょっとうまくやれば、毒も良薬にできるけど、でも、下手すると毒になっちゃう。だから今回の場合はユーモアとか笑いの要素がとても多いですね。より多くの人に手渡すことを優先させたいんです。

私は、ユーモアや笑いは生きていくのに必要なものだと思うんです。笑うことをなくした世界はすごく怖いと思います。ユーモアには、希望とか、しなやかさとか柔軟さ、たくましさ、人を惹きつける魅力や、風通しをよくする力がある。それを大事にしながら、今回はそっと手渡したいですね。


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青森県六ヶ所村・原燃PRセンター


劇中映画について


あと、チラシにも書かれている、核燃料サイクルというのがあるんですが、最初ウランの輸入から始まって、ウランを濃縮するんですよね、それから再転換っていってね、固体から粉末にしたり、粉末からまた固体にもどす、こういう燃料を作って、それを原子力発電所で燃料としてつかって、それをまたリサイクルするってことをやっていくんですけど、各地の原子力発電所にはPR館があって、そこにはコンパニオンさんがいて、説明をしてくれる。芝居の中では、PR館をそっくりにやろうと今回は思っていて、高校生が見ても、原子力発電の仕組みがわかるように作ろうとしています。それと推進側がどうPRしていくのかというところ。芝居の中では、俳優の谷川清美がPR館のコンパニオンになりますが、彼女がその現地のコンパニオンさんをそっくりに解説したりPRしたりしていきます。
そのように芝居で見せていく役者が生で舞台上でやるシーン以外に、今回はものすごく映像が多くて、核エネルギーを巡る人間関係、都市と地方の問題などを映像が挟まれていきます。

今回は劇中に短い映画があるんです。チェーホフの『ワーニャ伯父さん』という作品があるんですが、このテーマに対してぴったりリンクする部分・要素があって、ワーニャ伯父さんを引用した映画を3本つくりました。


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チェーホフのワーニャ伯父さん、大学教授のモノローグが『アトミック・サバイバー』の文脈の中では、村議会になるんですよ。
(『ワーニャ伯父さん』では)大学教授が「この土地を売って金になる土地にしようよ」と言うんですが、それを村長さんがそういう提案を村議会でしてると引用されていたりします。
また、アールストロフという医者が、その大学教授の若い後妻を口説く時に、「このあたりの土地はいかに自然を荒らされてきたか」と話し、その医者が『アトミック〜』の中では自然を愛する反対派になっていています。
エレナというその後妻は、こういうことを頭でわかってても、実感が持てない都市生活者になってます。
それから、ワーニャの家ではしょっちゅうお茶会してるんですが、お茶会の中の言葉を引用して、『アトミック』の中でもお茶会をしてみたりしています。


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白黒の映画にしたんですけど、それはワーニャっていう物語を引用している、想起させるところから、ワーニャの映画と取れるかもしれないし、原子力発電の日本の歴史というか日本のアーカイブ的にものしたいということから、白黒映画にしてみました。

それから、「もし、今、放射能事故が起こったら?『放射能防止マニュアル』つき公演」と謳っているんですが、実際にプロモーションビデオをつくりました。歌もオリジナルで作詞作曲してもらって、役者が歌ってます。よくあるミュージッククリップみたいにして、放射能事故が起こったときの対処マニュアルの映像をつくりました。どうしてそんなものを作ったのかというと、東海村を取材したときに、みんな安全を信じていた。だから、事故が起こったときどう対処していいかわからなかったんですね。だから、その反省をもとにすごく勉強してるんだって仰ってたんです。東海村のHPを見ると、実際に対処マニュアルが載っているんです。
それと、スズメバチに刺された女の子がいて、そういう(対処方法の)歌を作ったおじさんがいて、学校をまわってたんだけど、その歌を思い出して、そのとおり対処してたら実際助かったというエピソードがあって。そんな理由から、歌を作ったらいいんじゃないかと思ったんですね。

わたしたちがどうしてそれを作ったのかというと、原発や再処理などの核関連施設で働く人や、施設のある場所の住民は、こんなリスクを背負っていること、それから実際わたしたちもそういう危険に実はさらされているということを伝えたかったからです。たとえば浜岡原発がやられると、日本列島は住めるところがかなり少なくなるだろうということが言われています。原子力発電のメリットはすごくPRされるんだけど、リスクの方はあまり言われないですよね。わたしたちは原子力発電を選択しているという意識が無いのが問題だ、と東海村の原子力研究所の方が仰っていたんですが、それは全くそのとおりだと思います。選択するというのは、メリットの方だけではなく、リスクを含めた選択じゃないとおかしいわけですよね。だから、わたしたちはリスクも背負っているということを意識しなければならないんだと思います。

――ありがとうございました。


●『アトミック・サバイバー』公演詳細はこちら


(2月5日(月) にしすがも創造舎にて)

ポスト・パフォーマンス・トークのお知らせ

『アトミック・サバイバー 〜ワーニャの子どもたち』では、
2月23日(金)19:30、24日(土)19:30の公演終了後、ポスト・パフォーマンス・トークを行います。

■2月23日(金) ゲスト:ヤノベケンジ(現代美術家)

97年より原発事故後のチェルノブイリなどを訪問する「アトムスーツ・プロジェクト」を行うなど、現代社会におけるサバイバルをテーマに作品を発表し続けるヤノベケンジ氏をゲストに迎え、アトミック・サバイバーをつくるきっかけの一つになった作品「森の映画館」の映像や、チェルノブイリの写真を交えたトークを行います。

ヤノベケンジ アートワークス


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「森の映画館」2004 (c)ヤノベケンジ 撮影 青木兼治


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「アトムスーツ チェルノブイリ保育園」1997 (c)ヤノベケンジ 
撮影 Russell Liebman


■2月24日(土) ゲスト:大林ミカ(NPO法人環境エネルギー政策研究所副所長/「自然エネルギー促進法」推進ネットワーク副代表)

坂本龍一によるプロジェクト「STOP ROKKASHO」のホームページ上に、再処理に関する情報を提供するなど、原子力やエネルギーに関する様々な問題に取り組む大林氏とともに、作品をふりかえりながら「考える」トークを行います。

NPO法人環境エネルギー政策研究所

STOP ROKKASHO

[2/14掲載] 劇中映画

劇中映画  阿部初美

今回の『アトミック・サバイバー』は、映像を多用した作品になっています。
たとえばチェーホフの「ワーニャ伯父さん」を引用したオリジナルの白黒短編映画を3つ作りました。
「村議会」「お茶会」「地図」の3つですが、原作「ワーニャ伯父さん」を知っている方は、どこのシーンからの引用かすぐにわかるかもしれませんが、原作を知らなくても大丈夫。
その撮影風景を少しだけ公開します。
俳優は、どのシーンでも違う役を演じています。

「村議会」:写真は村長役の野村昇史さん。核燃料施設の誘致を村議会で提案します。

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「お茶会」:発電所で働く人々のお茶会。

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「地図」:「ワーニャ伯父さん」の中の印象的な、あのシーンより。北千住のクローフィッシュというお店で撮影させていただきました。

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撮影には、たくさんの方にご協力いただきました。ご協力くださったみなさま、どうもありがとうございました。

『アトミック・サバイバー ―ワーニャの子どもたち』劇評  日比 美和子

 阿部初美が構成・演出する『アトミック・サバイバー―ワーニャの子どもたち』は、青森県六ヶ所村にある、使用済み核燃料からウランとプルトニウムを取り出して再利用する再処理工場を取材し、原子力エネルギーと再処理工場にかかわるデリケートな問題について取り上げた演劇。阿部によれば、作品化の決意を促したのは、村の住民の方々の「事実を伝えてほしい」という言葉だという。何かを建設する際に起こるのは、受け入れる施設の問題から、いつのまにか推進派・反対派に分かれてお互いの批判に終始していく事態である。感情的になればなるほど、“あんたはどっち側なのか”が問題になり、小さなコミュニティーであれば、家族・親戚・ご近所さんを巻き込んだ、本来とは別の問題に発展しかねない。それを避けるために、次第に当事者たちは公平な発言の場所を失う。つまり、地元住民は、推進派・反対派の選択を迫られた瞬間から発言すらできなくなってしまう。しかも、それが再処理工場や原子力発電所などの国策であったりすると、事態はいっそう深刻である。ある種のものごとへの沈黙と黙認を生み出すメカニズム。このデリケートな問題を阿部はこの作品においてどのようにあらわしているのか。

 舞台は再処理工場のPR館のコンパニオンに扮した谷川清美が解説する、核燃料サイクルの解説を中心に進められる。世界有数の最高・最新鋭の技術を結集して作られた(はずの)再処理工場や原子力発電所が、舞台上では皮肉にも、うっかりぶつかったら壊れそうな手作り感満載の発泡スチロールやダンボール製の小道具として登場する。そして、そこで繰り広げられるのは、おもちゃのレーシングカーや毛糸のてぶくろ製の人形を用いた、カミロボ対戦で見られる究極のひとりあそびのようなステージである。役者の手元や表情は、役者に密着して撮影する映像スタッフによって、その一挙一動が前面の大型スクリーンに拡大されて映し出されるようになっている。原子力発電所で頻発する不具合や不祥事を、役者のせりふ忘れや演技の間違いと(それが意図的であれ不慮の事態であれ)絡めながらコミカルに筋を進めていくのだが、ふと、そういった小さな“ぽか”の繰り返しが災厄を引き起こすことに気づき、私たちの笑いは、よく携帯電話で見かける(爆)から(笑)へ、そしてついには失笑、苦笑いへと至る。そう、いつも災厄というのは人災であり、小事の積み重ねによって起こるのだ。舞台上で繰り広げられるせりふ忘れや演技の間違いは笑いで済まされるが、原子力発電所や再処理工場といった現実世界では笑えない。現実と虚構の世界それぞれの綱渡りを効果的に演出している。

 また、ときおり挿入されるチェーホフの『ワーニャ伯父さん』を引用したモノクロ映像も、笑いの中にシリアスさを込めて舞台全体をしめている。その中には痛烈な批判も見え隠れする。たとえば、本音の「自分の故郷には(施設が)来てほしくない」が「自然保護」にすりかえられている状況。それを感じたのは、劇中でスクリーンに映し出されるモノクロ映像《地図(チェーホフ『ワーニャ伯父さん』より)》を見たときだ。自然保護を訴えて口説こうとする男性の話をぼんやり聞く女性。その女性の姿を借りて表されているのは、私たちの、原子力エネルギー問題に対する無気力・無意識・無関心と、本音を「自然保護」ということばで飾ることの薄っぺらさへの批判である。

 人間は正否を判断しかねる状況にあっても、何らかの形で正当化しなくては生きていけない。矛盾を抱えながら、ときには巧みに言葉をすりかえ自分をだましだまし生きている地元住民の本音は、あるとき、核燃料サイクルの工程を解説するコンパニオンの女性の、一見自然な案内の中に、迂闊にも吐き出されてしまう。もちろん役者が演じる以上、多少の誇張はあるだろうが、PR館で再処理工場を解説する彼女によれば、再処理工場から出される排気は、150mの排気塔から、蒸留水は沖あい3km水深40mの排出口から“放出”されるので、(微量の放射性物質は)“自然に”“薄まって”いくようになっており“安全”という。このクオテーション・マークだらけの解説を翻訳すると、「本当はそこまでしないと薄まらない放射性物質に怖れているけど、再処理工場のおかげで私たちは生活していけるのだから仕方ない」という本音があらわれる。地元住民は再処理工場を必ずしも歓迎はしていないが、同時にその恩恵にも感謝して生活している。地方の電力に支えられて都会で安穏と暮らし、自然破壊には反対なんて都合の良いことをいっている私たちは、その事実を知らなさすぎた。

 しかし、この作品は原子力エネルギーに対する賛成・反対の意思を促すための作品でもないし、現代社会を一方的に批判する作品でもない。私たちの、ものごとへの無気力・無意識・無関心に対して、ものごとを認識して複数の視点から批判的にみる眼を持つことを提案する作品である。阿部によれば、それがものごとの本質に近づく方法である。

 廃校になった中学校という会場にあって、内容は多少教育的。また、会場で耳にする『放射能対処マニュアル・トロロソング』も小学生でも歌える平易な曲。『トロロソング』は、この歌を覚えていれば、いざというとき対処方法を思い出して助かるかもしれない、という期待をこめて作曲されている。音楽というメディアは、ガンの原因となる放射性ヨウ素や、それを防ぐためにとろろ昆布を摂取する有用性をまじめくさって幾度語るよりも、広く素早く印象に残るプロパガンダ機能を発揮する。効能が捏造されては困るが、全国のスーパーからとろろ昆布がなくなるくらい、この演劇や歌が全国レベルで展開され、原子力エネルギー問題が、私たち自身の問題としてもっともっと認識されればいいのに!


2007年2月22日 19:30開演
日比 美和子(東京芸術大学大学院 音楽研究科 音楽文化学専攻)

2007年02月08日

[2/8掲載]〜六ヶ所村報告1〜 野辺地から六ヶ所村へ

〜六ヶ所村報告1〜 野辺地から六ヶ所村へ  阿部初美

2006年8月7日、仙台駅から朝9時過ぎの東北新幹線と東北本線を乗り継いで、わたしは下北半島と津軽半島の付け根にある野辺地駅に向かった。目的地は青森県上北郡、下北半島の付け根の太平洋側にある六ヶ所村という村だった。

六ヶ所村には、核燃料再処理施設というものがある。各地の原発で使用済みになった核燃料をリサイクルするための施設である。チェルノブイリ原発事故から20年を迎えたこの年は、東京でも多くの関連企画が催されており、その時に知った鎌仲ひとみ監督の「六ヶ所村ラプソディー」というドキュメンタリー映画を観る機会を得、恥ずかしながらそこでわたしは初めて、この村で試運転が始まっている再処理工場の存在を知ったのだった。「六ヶ所村ラプソディー」は、この再処理施設をめぐる六ヶ所村の生活と人々の暮しを追ったもので、その内容はとても衝撃的なものだった。それ以来、青森県の六ヶ所村という村を、そして再処理施設というものを自分の目で見たいと思っていた。この8月に、たまたま仙台で、以前一緒に仕事をした米澤牛さんのリーディング公演『4時48分サイコシス』のアフタートークゲストによんでいただいたのをきっかけに、どうせ仙台まで行くなら六ヶ所まで、と思い立ったのだった。

JR野辺地駅から数少ないバスで六ヶ所村へはバスで約1時間ほど。バスを待つ間、駅の待ち合い所で観光案内などのチラシやポスターを見ていると、その中にまじって、放射能モニタリングの月間報告を見つけた。六ヶ所村だけではなく、青森県の各地でモニタリングしていることを知る。少し背筋が寒くなる思いがした。

ようやくバスが来ると、乗り込んだのはわたし一人だった。車内には甲子園のラジオ中継が大音量で流されていた。バスが出発すると、ラジオ中継のボリュームはしぼられ(たすかった…)、すぐに年輩の男性ひとりと女性ふたりの、あわせて3人が乗り込んできた。みな小柄である。この3人は知り合いらしく、時々話しているが、なまりが強く何を話しているのかほとんどわからなかった。 美しい海沿いの道を通って山へ入るとすぐ六ヶ所村に入ったようだった。
カーブの多い山道でわたしのキャリーケースがおばあさんの方に倒れてしまったのをきっかけに、「どこまでですか?」と話しかけてみると「泊」という答えがかえってくる。泊は六ヶ所村の北部にあり、漁港があるところだが、今では漁業もそれほど盛んではなくなってしまったという。「六ヶ所村ラプソディー」で、再処理工場反対運動のシーンで登場した漁港ではないかと思い、宿はこの近くにとっていた。
おじいさん、おばあさんたちは「病院に行く」と言っていたので、「野辺地からわざわざ六ヶ所まで病院に行くのか?」と思ったのだが、これは大きな勘違いであった。
しかもこの3人と話している間に六ヶ所村中部を通り抜けてしまい、ほとんど風景は見られなかった。話はしていても、なにしろなまりが強いのであまり複雑な話はできず、外国人と話してるようでもどかしい・・・。おばあさん二人は、あたまに手縫いの、花柄のスカーフを巻いていて、これがとてもすてきだった。「すてきですね」というと二人ともはにかんだように笑う。おばあさんは「女性ひとりで怖ぐないの?」と心配してくれた。
「どこに泊まるの?」ときかれたので、「Yホテルです」と答えると、おじいさんは「あすこの社長はよぐ知ってる」というので、「どのくらい前に建ったんですか?」ときくと、「10年ぐらい前かなあ、いい人だよ、神奈川の人だ。」ネットの情報にの同系列のホテルが神奈川にもあったのを見ていたのでそういうことだったのか、と思う。
14時半頃、私の方がさきに宿の前で降りた。お年寄りたちは、バスから手を振ってくれていた。

着いたところは「Yホテル」。ネットで見つけて部屋数が一番多いホテルだった。
しかし「ホテル」、というよりもむしろ「合宿所」みたいな雰囲気で、まわりには自然の他ほぼ何もない。フロントらしきところには愛想のいい感じの40代後半くらいに見える男性がいた。チェックインして、原燃PRセンター行きのバスの時間をきくと、なんだかもにょもにょして、「15時過ぎれば同僚が来るので、車でお送りします」と言う。それでは、とお願いする。原燃PRセンターとは、再処理施設を経営する日本原燃という企業がそのPRのために建てた施設で、わたしより先にここを訪ねた父からその存在を聞いていた。

ホテル一階の奥にはがらんとした「食堂」みたいなところがあり、お食事はこちらで、と言われる。それから2階の部屋に行くと、ユニットバスつきの六畳くらいの和室だった。古い押し入れが開けっ放しで、ふとんが敷いてある。むっとした空気。なんだか押し入れが古くて怖いので閉め、窓を開ける。六ヶ所村も猛暑である。 午後3時になって下に降り、フロントで周辺地図はありませんかと聞くと、「これなら・・・」と出てきたものは日本原燃のパンフレットの中にある、おおざっぱすぎる小さな地図だった。急に思い立った旅だったので地図を手に入れるヒマもなくやってきてしまったのだ。しかたないのでそれをもらうと、ちょうど入り口から「同僚」と思しき男性がやってくる。この人も40代後半から50前後といったところだろうか。 この「同僚」氏が原燃PRセンターまで送ってくれることになった。

(つづく)

[2/8掲載]〜六ヶ所村報告2〜原燃PRセンター

〜六ヶ所村報告2〜原燃PRセンター  阿部初美

さて、この「同僚」氏が、原燃PRセンターまで送ってくれることになった。PRセンターまでは車でも15分。宿を出発するとすぐ左手に海が見えてくる。大平洋だ。後で行ってみようと思いつつ、さっきのバスで一緒だったお年寄りたちの話などしてみると、彼らは野辺地から六ヶ所の病院へ来たのではなく、逆で、六ヶ所の泊から野辺地の診療所に行って帰ってきたところだったらしい。どうりで。あのおじいさん、そういえば船で千葉をまわったことがある、と言っていたが、あの人は泊の漁師だったのではないか、と思うと、泊の漁業についていろいろ話を聞けなかったことが悔やまれた。


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この同僚氏とはあたりさわりのない話をして、PRセンターで降ろしてもらった。入り口を入ると芝生に黄色い花が咲いていて、同僚氏は「これがニッコウキスゲ、六ヶ所のシンボルの花です」という。PRセンターでは、40分コースでコンパニオンさんがついてセンター内を案内してくれるサービスがあるのだが、申し込みが必要で、わたしは申し込みをしていなかったので、この同僚氏は親切にも、PRセンターの方に「急ですみませんが」とお願いしてくれたのだった。PRセンターの方にも急なお願いを引き受けていただき、コンパニオンさんに案内してもらえることになった。センターは17時で閉まる。同僚氏には17時半に迎えに来てもらえるようお願いして分かれ、PRセンターの中へ案内されて行く。

コンパニオンさんはさばさばした、わたしと同世代くらいの女性だった。わたしは内心、どう接していいやら、どきどきしていた。初めにまず3階に上がって、展望台から再処理施設を一望し、ウラン濃縮センターや、再処理工場、低レベル放射能廃棄物処理場の位置をおしえてもらう。それから、2階へ降りて、放射能の種類や放射線の強度検知器を見たり、計測体験をしたり、ウラン鉱石から発電の過程を見たり、再処理やプルサ−マルの仕組みやを学んだり、いかにわたしたちは日常自然から放射能を受けて暮しているかを知ったり、日本中の土地の放射能の濃度を見たり、核廃棄物は最終的にどこにどう廃棄されるのかを見たり、そのほか再処理工場内の安全対策、六ヶ所村や青森県内の放射能のモニター、放射能の単位、再処理に関するありとあらゆることを説明してくれ、質問にも丁寧に答えてくれる。40分コースの予定が、時間を大幅に延長して、閉館時間までつきあってもらえた。ここではかなり集中的に再処理や原発について学ぶことができた。
 わたしはこの時、まだ原発の仕組みも放射能についても、再処理についても、ほとんど知識がなかったのだが、この2時間弱の間に、大づかみの知識を得ることができた。

そしてPRセンターを案内されるうち、身を危険にさらしながら中で働く人たちのことが思いやられてきて、最後に、コンパニオンさんと別れる時、思わず「ここで働く人のためにも、はやく他の安全なエネルギーが見つかるといいと思いました」と言ってしまった。コンパニオンさんは暗黙のうちに厄介な事情を抱えたまま、黙って笑顔でうなずいたような、いないような複雑な表情だった。「最後にお一人でもう一度回られますか?」と聞かれたので、「もう時間がないのでまた明日ゆっくり来ます」と答え、残り5分、館内のお土産屋に行く。ここには六ヶ所や青森の水や海産物などの特産品も販売されている。「放射能汚染」という言葉が頭に浮かぶ。宿では六ヶ所村や周辺地図が手に入らなかったので、下北半島の地図を買って外に出る。

外はまだ、明るい夕方だった。広大な再処理施設のすぐ隣にはゴルフ場の向こうに風力発電の風車がたくさん風を受けてまわっていた。ゴルフ場の芝生をぬけて近づいて歩いていくと、地面にはなにか小動物の糞と思われるようなものがたくさん敷き詰められていて、動物のにおいがした。わたしは糞をふんでしばらく歩いて、またPRセンターの方へ戻ろうとした時、ここ六ヶ所村に出稼ぎにきているある中年の男性と出会った。

(つづく)

[2/8掲載]〜六ヶ所村報告3〜 A氏の話

〜六ヶ所村報告3〜 A氏の話  阿部初美

この中年の男性は「ご旅行ですか?」と尋ねてきた。しばし軽い世間話をした。この人(仮にA氏とする)は誰かに似ていた。名前はとうとう聞かずじまいだった。

A氏は「ところでPRセンターはどうでした?」ときいてきた。わたしはさきほど、PRセンターのコンパニオンさんに話した同じ感想を繰り返した。

このA氏との会話には、初めのなにげない世間話の中にも、すでにお互いに探りを入れている感じがすでにあった。

たとえばこのあたりではどんな魚がとれるのかと私が尋ねると、「最近では海が汚れてきて漁業もそれほどさかんではない」とA氏が答える。「な、何で汚れたんですか?」と過剰に反応したわたしに対してつくろうように「いやあの、外国からゴミが流れつくんですよ」とA氏。

「今回は観光で?」と聞くA氏に「まあ、半分仕事で」と答えると「お仕事はなんですか?」とさらに聞かれ「演劇を」と答えるとすぐに「あああ、わかりますわかります」と、もうそれ以上言ってくれなくてもいいですよ、と言わんばかりだった。やけに大声だった。「?」とするわたしに、「いやほら、着ぐるみなんか着てPRセンターでよく子供向けに劇みたいな催し、やってますよねー」。どうやら着ぐるみショーの劇団の人間と間違われたらしい。めんどうだったし、本当のことを言ってどういう反応がかえってくるかわからなかったので、それ以上説明するのはやめておいた。 
この「わかりますわかります」の言葉は初めて会話する「共犯者」にでも向けられたようなものだった。たぶんA氏はわたしが何しにここに来た何者なのかを探っていたのだ。
再処理施設を経営する日本原燃に雇われたものだと勘違いしたらしい(あるいはそう思いたかったのかもしれない)。このA氏からはたくさんの話を聞くことができた。

A氏には、あきらかに「推進側」の人間だと思わせるものがあった。A氏はえんえんと話しつづけた。
「ここらの発電所の電気は全部東京に送られてます。でもね、実は六ヶ所はおいしいとこ取りなんですよ、再処理工場は原発にくらべたら危険度はぜんぜん低い、六ヶ所は、絶対に原発は作らせないんです、だから原発はとなりの東通村にあるし、六ヶ所は、原発のある村とは絶対合併しない」彼はひそめるように続ける。「でもほんとはね、もっと怖いのはね、実はウラン鉱石の採掘場の方なんですよ、吸っちゃうでしょう、ちょっとずつ、毎日毎日ですからね、ほんとうはあそこで働く現地の人たちが、やばいんですよ・・・いやー、わたしたちだって、実際あれに生活させてもらってますからねー、この辺の六ヶ所の外の村からもたくさんここに働きに来てるんです、だから六ヶ所だけじゃなく、このあたりみんな、あれ(再処理施設)で生活さしてもらってるんですからね。再処理施設も六ヶ所のあの一基じゃ、まだまだ日本全国のエネルギーをまかなうには足りないんですよ、電気の消費量はどんどん増えてますからね、もう一基くらい必要なんですよ」
再処理工場を持つのは世界でも、フランスと日本だけだ。イギリスにもあるが、事故を起こして閉鎖している。その近辺の海は放射能汚染のため、漁業がダメージを受けた。

A氏はつづける。
「フランスはねえ、再処理技術は秘密にして絶対で売らないんです、それで、再処理したものを高く売る、日本はね、逆に世界最高の技術を輸出しようとしてるんです、ロシアやなんかに」
その再処理の技術は「核」も作れてしまうんじゃないのか…。

A氏はさらにつづける。
「現場の人たちはね、おれたちが日本経済を復活させるんだ、まだまだ日本も捨てたもんじゃない、って自負してるみたいですよー」。この「現場の人」の中には彼自信、つまりA氏も含まれていることは口調で明らかだった。
「わかってないんですよ、反対派の人たちは。こないだもありましたよ、グリーンピースが来てね、ちょうどその時イギリスとフランスの技術者も来てて、鉢合わせしたんですよ。そこで、じゃあどうやって生活するのか?って言われて黙り込んじゃいましたよ、グリーンピースも」

このA氏は意気揚々と話を続けたのち、「それじゃ」と言って去っていった。

(つづく)

[2/8掲載]〜六ヶ所村報告4〜大平洋

〜六ヶ所村報告4〜大平洋  阿部初美

17:30に「同僚」氏に迎えに来てもらって車に乗る。
窓の外に、海が見えた。大平洋だ。まだ外は明るい。
ホテルに戻ったら海まで歩いてみよう、と思った。
ホテルにに戻って荷物を置いて、時計をみると午後6時。夕食まであと30分。海に30分散歩に行って帰るとちょうどいい時間だった。
たぶん海までは歩いて5分くらいだろう、そう思って歩きはじめた。
ところがこの5分が予想以上に長い。
後ろから前から時おり車が通りぬけていく。路の両側は林になっていて、人工物はない、つまりもし、一台の車が止まってドアが開いて、連れ去られたとしても、助けを呼ぶすべがない、ということだ。もちろん携帯もない。急に怖くなった。どうしたら、行き交う車の運転手に関心を止められずに海まで辿り着けるか、とっさにあれこれ考えた。
1,怖い顔をして歩く、2,運動をしてるフリをする、3,走る。全部やりながら歩いて、やっと海が見えるところにたどりつく。つかれる・・・。
波が荒い。道もない。工事中のところの土を歩きながら海の方へ、林の中を入っていく。いきなり「がけ」が現れて行く手をはばまれる。もう一度引き返してさらに奥へ。今度はゆるやかな「がけ」。降りていく。
やわらかな赤い土と雑草を踏みながらさらに海への接近を試みる。
急に足元がぬかるみに変わる。ここまで来たからには後戻りはできない。
と、できるだけ雑草の生えたところを、水たまりを避けて進む。紫とピンクを足したような、鮮やかな花がたくさん咲いていた。うれしい。もうひといき。


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いよいよ浜辺に出る。野生の海だ。波が高く荒れている。今にもこっちに襲いかかってきそうだった。津軽三味線の音を思い起こさせる。しばらく立って津軽三味線を聞いていた。
足元に目をやると、小さな美しい貝殻が無数に落ちていた。
ついでにペットボトルやらのゴミ。拾いあげてみると確かにハングルの文字が見える。ゴミを戻して、小さな貝殻拾いにしばし夢中になる。
この海や貝殻も汚染されてるだろうか・・・。でも「六ヶ所村ラプソディー」の映画に出てきたイギリスの再処理工場近くの海が汚染されて、海産物が食べられなくなるまでに数年を要したはず。再処理施設が本格的に稼動しはじめてしまったらいずれこの海もそうなってしまうだろう。でもきっとまだ大丈夫。そう考えながら小さな貝を拾った。
貝は波にあらわれてどれもエッジがまるくけずられていた。
最後に例の花も2、3本摘んで引き返した。あのちょっと怖い殺風景な部屋に飾ったら少しは明るくなるかもしれない。
来た道を、またいろいろ対策を実行しながら、長い長い5分を緊張して歩いてやっと宿にたどりつく頃には、陽もだいぶかげっていた。
部屋に貝殻を置いて花をいけてから下のおくまった食堂に降りていく。
食堂は、セルフサービスのバイキングになっていた。煮物やら、揚げ物やら、たくさんのおかずが並んでいた。
食堂には若い男の子がひとり、もくもくと下を向いて夕食を食べていた。
話すきっかけがないだろうか。少し近くに座ってみよう。
そう考えながら、並んだおかずを少しずつ、食堂のおばちゃんの指示にしたがって、集めていった。

(つづく)

[2/8掲載]〜六ヶ所村報告5〜ウニ

〜六ヶ所村報告5〜ウニ  阿部初美

「青森の人はやさしいから」六ヶ所に発つ前、仙台の俳優、米澤牛氏からそう聞いた。
食堂にいたおばちゃんは、食事について親切にあれこれおしえてくれて、最後にガラスケースの冷蔵庫から、ウニを殻ごとひとつお皿にのせて手渡してくれた。ウニは大好物なので、大喜びだった。
「このへんでとれたんですか?」と聞くとそうだという。板さんが、夕食のためにとってきてくれたそうである。
誰でもとっていいのか聞くと、ちゃんと決まりがあって、その決まりに従って取らなければいけないということだった。愚問であった。
食堂には、おばちゃん、それからカウンターごしに口数の少ない年輩の板さん、それに「同僚」氏が、フロントと食堂をせわしなく行き来する姿。
背を向けて一人食事していた青年は、私が食事の用意を終えた頃には、もう食事を済ませてそそくさと部屋にもどっていってしまった。「絶対話しかけてくれるなオーラ」を強く発していた。
それからまた一人若い20代と思われる男がやってくる。この人も同じようなオーラを発している。それからまた一人、20代くらいの男性。
この人は、明るく、にこにこしている。おばちゃんや板さん、同僚氏ともなじみという感じだ。
話しかけるならこの人だろうと思い、チャンスをうかがっているとさらに、作業着姿の中年男性二人が食堂にやってくる。
この二人は仲間といった印象だが、これも口数少なく、どこか閉じた印象をあたえる。プロの職人といったふうだ。この二人は絶対に他の人と目をあわせようとしない。
みんな黙ってもくもくと食べている。そのうち明るい青年も食事を済ませて去っていってしまった。食堂はシンとしている。
時々、おばちゃんや同僚氏に話しかける私の声だけがやけに響く。
たぶん、ここにいる人たちはみな、再処理工場に何かしらの関係を持っているのだろう。それについては何も語りたくない、わずらわしいことに関わるのはごめんだというふうな雰囲気。
この場で何か話をききだすのは無理だ。そう感じた。
同僚氏に、泊のほうには何か観光できるところあるんですかとたずねた。
彼は「滝とか」などと、あまり気のりしない様子で答える。
「バスで行けたりするんですか?」続けて聞くと、「いい男つかまえて連れてってもらうんですよ」と小声で言う。ここで男をつかまえろというのだ。独身男性が多いのだろう。
食事はおいしかった。ウニは好物なので最後に残しておいた。
新鮮なとれたてのウニはおいしかった。「おいしかったです、ごちそうさまでした」というと、みな、ちらりと笑顔を見せた。泊まり客の中には、放射能汚染を気にして食べない人もいるんだろうな。
ここでのインタビューは失敗に終わる。
明日は泊に行きたい、でも同僚氏の態度からすると、バスで行くのもたいへんそうだった。
昼間ここに着いてすぐ、自転車を貸してくださいと言ってみると「一台、あることはあるんですが、パンク中でして...」と断られた。
ここは足がないと本当に動きがとれない場所なのだ。
唯一、この宿が送迎してくれるのは、工場とPRセンターのみ。
仕方ないので、明日もPRセンターまで送ってもらうことにする。
食堂を出てフロントでお願いすると、フロントの男性は、「かしこまりました」と承知してくれた。

(つづく)

[2/8掲載]〜六ヶ所村報告6〜夜

〜六ヶ所村報告6〜夜  阿部初美

食事を終えて部屋に戻ると窓の外は真っ暗だった。外の駐車場の街灯や各部屋の明かりが林を照らしている。右手には小高い山が黒々としていた。
網戸には、夏の田舎の夜らしく、大小の蛾がたくさんはりついている。
こうこうとした蛍光灯の電球が、タタミや古い押し入れ、真夏にもかかわらず敷かれた厚い布団を不必要に照らす。昼間、この布団に座っていたらダニにさされた。野生のダニかと思うほど、ひどい痕が残った。
「節電にご協力ください」と書かれた小さな紙が、ユニットバスの電気のスイッチのところに貼付けてあった。
テレビをつけると、少し気がまぎれた。地図や、原発PRセンターでもらった資料や、時刻表を見て明日の予定を考えるうち、時間が過ぎた。
ニュースでは、六ヶ所の再処理工場から放射能がもれる事故があり、修理と点検をすませ、試験運転が再開されると報道していた。
どこからか、人の話声がきこえる。
男性の声だ。窓にちかづくとどうも下の部屋のようだった。
しばらく聞き耳をたてていた。相手の声が聞こえないので電話だろう。
内容は聞き取れない。遠慮のない声の調子で、相手は家族ではないかと思われた。男は長い間、話し続けた。
闇の向こうからは、荒い波の音がきこえている。空気はだいぶ涼しくなったし夜もふけていた。
寝るのに電気を消すのがためらわれたが消した。
布団が厚すぎる。おまけにダニもいる。でもかけなければ風邪ひくかも。
ストレスにみまわれながら、目を閉じていた。
車が駐車場に入ってくる音がした。こんな時間に誰がやってくるのだろう。また窓から見下ろすと、車から小さな子供を連れた家族が降りてきて、宿の中へ入る様子が見えた。なんの人たちだろう。

そうこうするうち、うとうとしていた。
突然、目が覚めた。なにかおかしい。
嫌な予感がした。蒸し暑い空気が止まっている。気がつくと波の音がやんでいた。胸騒ぎがした。暗い部屋を見回すと、なにかの気配がする。
耐えられなくなって飛び起きて電気をつけた。しらけた光がまたこうこうと照る。時計を見ると夜中の2時半。
電気をつけても怖さが止まらない。
不必要に明るい部屋で、どきどきしながら、目を閉じ、やっと疲れて眠くなった頃には、空は白んで、また波の荒い音が鳴り出していた。

(つづく)

[2/8掲載]〜六ヶ所村報告7〜B氏の話

〜六ヶ所村報告7〜B氏の話  阿部初美

前日よく寝つけなかったせいで、朝は大寝坊した。
泊に行くにもバスはもう午後までなかった。
チェックアウトぎりぎりの時間だったので、あわてて一階へ降りると、朝食の時間もとうに過ぎているというのに、わたしのぶんの朝食は食堂にまだ残されていた。「とっておいたから食べていってね」。食堂のおばさんが言う。ありがたくいただいてから、チェックアウトし、またこの日も原燃PRセンターまで車で送ってもらった。
PRセンターで車を降りてから、少しこの近辺を散策することにした。
PRセンターの前は道をはさんで、運動公園があり、その隣には、この近辺で出土した縄文の土器や住居を展示した縄文館があった。この縄文館に入る。真夏の昼間。人は少ない。縄文の人々は、人間の生活がこんなふうに変わって、この土地に核燃料の再処理工場が立つことなど、夢にも想像しなかっただろう。

この日は幸いにもまた、ここ六ヶ所村で働く中年の男性(仮にB氏とする)と出会い、話をきくことができた。そしてこのB氏との出会いが、わたしに「原子力」をテーマに作品を作ることを決意させたのだった。
「わたしは推進派でも反対派でもないんですよ。でもエネルギーは必要です」B氏は言う。B氏はもともと地元の出身者ではないということだった。

「再処理で働いている人たちと、初めはどう接していいのかわかりませんでした。でも今はね、心からご苦労さまです、と言えるようになりました。実際わたしもこの関係で食べさせてもらってるんです。不安はありませんよ。わたしたちには技術者を信じることしかできないんです。自分には何もできないんですから。しっかりがんばってくださいと言うしかないんです。もう誰にも止められません。やるなら徹底した安全管理でやるしかないんです」

わたしはこのB氏に、ほんとうのことを話した。「原子力」をテーマに演劇作品を作るかどうか迷い、ここに訪ねてきたことを。

「やってもらいたいです」思いつめたようにB氏は言った。
「わたしはね。教えるっていうか、伝える、ってことは大切なことだと思うんです。賛成とか反対とかいうんじゃなく、事実をありのままに伝えてほしいです」
そうしてまたこれからPRセンターに行くと言ったわたしにB氏は言った。
「再処理施設はね、当初の見積もりよりも大幅に予算がふくらんだんです。もちろん工事や試験運転のスケジュールも。なぜそうなったのか、聞いてごらんなさい。ひょっとしたら何かおしえてくれるかもしれません」
わたしは「どうしてなんですか?」と聞いてみた。
彼はちょっとためらってから自らその答えをおしえてくれた。
「再処理工場を建てる技術はそもそも日本原燃にはありません。下請け会社に工事をまかせるんです。そこからさらに下請けに出して、とするうちに、ピンハネがあるから、工事や技術はどんどん落ちて、結局高い技術を持った技術者をよんでやり直しになる。それで10年もかかったんですよ。もちろん予算もそれだけふくれました。死者がでなかっただけましです、いや一人亡くなったんだったかな・・・」

 わたしはお礼を言ってB氏と別れた。B氏は「お会いできたらまたどこかで」と言った。名前も住所もきかずだった。「やってもらいたいです」というB氏の言葉は重かった。それから野辺地行きのバスに乗って、真夏の六ヶ所村を後にした。自然の多くのこる美しい村だった。


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2007年02月04日

原子力発電所を訪ねる  永井秀樹

12月も終わりに近づいた某日。福島県の第1原子力発電所へ。朝の7時に東京駅発のバスで福島へ。さらにJRで最寄り駅まで。着いたらお昼。駅前の夜スナックであろう店でランチ。パスタランチを食べる。800円程度でパスタにサラダにコーヒーに、なぜか唐揚げもついていて、大満足。
午後1時過ぎから、コンパニオンの方の案内で、原子力発電所を見て回る。もちろん全部は見られないが。

大体原子力を使って、どう発電するのかすらあいまいだったのだが、非常によくわかる。「燃やす」というが、実際に火が出るわけではなく、熱が発生するのだ。こんな初歩的なことでもう感心する。興奮して、ちょっと意地悪い質問などもするがコンパニオンさん丁寧に教えてくれる。知識がちゃんと入っている人で、結構難しいことにも対応してくれる姿に感心した。

さらに実際の作業場の一部をいくつか回る。ひんやりとした建物の地下には「低レベル放射線廃棄物」なるものが黄色いドラム缶に入って保存されている。
缶の表には中身についてのことが書かれており、放射線の量なども記されている。年間自然から受ける放射線量のさらに何十(百?)分の1程度のものだから近づけた。少し高い線量のドラム缶はだいぶ離れたところから見る。「ここ(立っているところ)からもっと近づくとまずいんですよね」というとコンパニオンさんは苦笑。

結局予定の3時間を越える4時間近く見て回ったのだが、痺れを切らせることもなく、やさしく対応してくれたコンパニオンさんには感謝。

夜帰京。10時半を回っていた。ちょっとした旅行だった。

盲目の風景  大城達郎


予定には無かった忘年会に突然の参加、泥酔した揚句に無事帰宅。
・・・嘔吐した形跡があるベッドからはっと目を覚ましたのは、待ち合わせ時間の1時間後であった。

遅刻である。

二日酔いでいささか千鳥足気味の私は、資料を抱きかかえて上野駅に向かった。同行者への謝罪は移動費へと換わり、急いで特急列車に乗り込んだ我々は、私の酔いも醒めやらぬうち、無事に予定時刻に到着。資料に目を通す時間もゆとりもあまりなかった。
福島第一原子力発電所の最寄りであるJR大野駅は、こじんまりとした片田舎の駅舎といった風情。人もまばらで、唯一ある駅前の喫茶店にて、しばし昼食。二日酔いの胃には多少堪えたことを記憶している。自分が着てきたTシャツの色すら記憶に無いという始末に、我ながら呆れてしまった。

そもそも、福島第一原子力発電所に出向くことになった経緯については以下のとおり。
本棚の整理をしていたある日、扇田昭彦氏の『日本の現代演劇』という新書が我が家にあることに気付き、通勤時間を使って読んでみようと思いたった。演劇について私が知っていたことと言えば、大島渚『新宿泥棒日記』に出てくる唐十郎や、『書を捨てよ街へ出よう』の寺山修司といった具合。60年代の新宿カルチャーを調べると大体出てくる人達くらいのものであったわけで、この本を熟読したおかげである程度の演劇界の流れを頭に入れることが出来た。演劇についてはその程度にしておいて、さて次の本は・・と思っていた矢先のこと、小道具の話を偶然にも頂いたというわけである。まさにセレンディピティであった。
テーマは原子力発電所とその労働について(だと私は思っている)。膨大な資料を目の前に些か怯んでしまったが、一体どういうものを作ることになるのだろうかという悩みと、やはり原子力発電所を目の当たりにしないことにはという思いがあり、スタッフの方々のご好意も頂き、福島行きを決意したというわけであった。

これまで無縁だった2つの事象が一気に降りかかって来たことや現在の状況に驚いている間もなく、大野駅を出たタクシーは、福島第一原子力発電所のサービスホールに向かっていた。運転手の後部座席からデジカメのシャッターを切る。ひたすら切る。
サービスホールを「サービスセンター」と何度も言い間違えそうになりながらも、無事に到着。ロータリーを回ると、2人の女性が我々を待っていた。

見学の手続きを済ませ、いざ!という前に、このサービスホールの建物自体がとても明快な構成になっていることに気づく。建物ありきというよりは、展示の順番をそのまま建物として仕立てあげられたものという具合。案内役の女性の後をついて行くと、見学は始まった。2時間の予定。

予備知識は、あまりに断片化し過ぎて曖昧模糊としたままであった。結果、案内役の女性への質問がここから急に始まる。
「えー、あれは一体どういった役目を果たすもので、それが・・(以下省略)」「これは模型とのことですが、実際の大きさはどれくらいになるのでしょうか?」矢継ぎ早に出てくる我々の質問に、独特の訛り混じりの標準語で女性は丁寧に答えてくれた。模型という言わば偽物も、ここでは迫力や不気味さに変わり、真偽の判断がつかないような不思議な物体へと変化する。
ひとまず、粗方見終わったところで、最初から質問が多過ぎたせいか、すぐに原子力発電所の構内へと移動。写真撮影はここから禁止となる。

日曜日ということもあって、構内はガランとしていた。目に飛び込んでくる風景は建物の色が一様であったせいか、説明を受けながらも風景そのものに釘付けとなった。2、3度右左折をし、太平洋へと抜ける下り坂に差し掛かった時、「おお」と声を出した私。つきあたりには、原子炉建屋が無機質な表情で鎮座していた。
ロールシャッハテストのような、不思議な模様に覆われた白い建屋。「これは一体何に見えますか?」という問いかけに、「んー」と黙った私。仮に「落ち葉!」等と言ってしまったらどういう判断を下されるのか、なんて妙なことを考えてしまった。
原子炉全体を制御する管理室を模した部屋に通され、一通り説明を受ける。我々の質問は加速度を増していた。

再び車に乗り込み、原子炉建屋周辺をゆっくりと移動。ここまでで既に2時間が経過。早い。低レベル廃棄物の見学は日曜日とのことで不可だった為、時間オーバーは代替の配慮とのこと。非常に嬉しくなって相変わらずの質問攻め。時には幼稚な、逆に、難解な質問まで全て答えてもらった為、帰り際は恐縮してしまった程であった。

さて、見学コースの最後、様々な模型が展示してあるという施設内を見学。日曜日の弊害は、自動ドアを手動ドアにしていた。重いドアを開けると、様々な機器が鎮座していた。
小道具の資料にこの場は最適であった。相変わらずの不気味さを持つ模型も、スイッチオンでキッチュな建築に見えたり、オーパーツに見えたりとおもちゃ屋に居るかのよう。スケール感のないタービンの模型が、妙に気になった。


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クライマックスは、燃料集合体が入る原子炉のプール。勿論、本物は人間の目に触れるものではないため、こういった形で目の当たりにすることが出来たためか、嬉しさが込み上げてきた。燃料集合体の大きさに驚き、たけくらべをしたあたりでタイムリミットとなった。
夕刻の黄昏が薄暗闇へと変わる頃、サービスホールに無事帰還。色々と用意していただいた資料を確認し、お礼を言って帰路に就いた。


視覚の有無に関わらず、人間の目には見えているものと見えていないものがある。
何かを表現すれば、何かを表現しないことになる。
そして、不都合なことは真っ先に隠される。
こういったことは、日常においても稀なことではない。ただ普段は、無いものは無いものとして、有るものを目の前にしてやり過ごしているだけの話である。
しかし一方で、不都合なことが見えた場合、盲目に徹しなければならない人が多数いるのは確かなのだ。経済成長期の日本が嘗て抱えた問題も、未だに抱え続けている問題も、すべての始まりは善意の盲目の人々によるもの。「知らなかった」という大きなミスが、日本を汚染していったのである。
今に生きる我々の課題は知ることであり、盲目であり続けないこと。これが全てである。


暗くなってしまった帰りのタクシーの車窓からは、行く時とは違う景色が見えた。
そこには、盲目から解放された風景と現実が横たわっていた。

人が人のためにした  映像スタッフ:須藤崇規


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朝10時過ぎに大荷物をもって学校に着いたときにも震えていた。東京より寒い青森にいたから東京に戻ってきたら暖かい、ということはなく、上着を着たままビデオカメラの掃除をしていた。ロケ中もかなり気をつかってはいたけれど、何回も雨の中で撮影をしたし移動中の車の中ではレンズをしっかり拭くこともできなかったから、寝る前に毎日しっかりメンテナンスしていたが、寝床の牛小屋はほこりが多い。カメラにとってはとても過酷なロケで、その分ゆっくりカメラを掃除しようと思い、ゆっくりとレンズをふいていたら日曜日な気分になって、頭の中ではくるりの『男の子と女の子』が流れていた。牛小屋でも『男の子と女の子』は流れていて、ボクが小屋に入ったときにそこにいたのは、木材を切ってる男の子だった。
六ヶ所村についたときは『六ヶ所村ラプソディー』で見た台所や、年とってあまり動かない猫や、二重窓とか、いろんなレベルの懐かしい過去があるから基本異世界で、その異世界感はロケでいろんな場所に行ったり、原発や再処理工場について考えている人について考えたりすることで日に日に増していき、つまりボクにとって夜行バスはほぼタイムマシンだったのだが、『男の子と女の子』を聞いている男の子の存在は、なんというか、時間も場所も文化も生活も地続きなんだということの、一つの証拠になるかもしれない。

演出の阿部さん、俳優の福田さんとボク、六ヶ所にはこの三人で行った。三人とも結構たばこを吸うのだけど、家の中では吸えないから外で吸うことに自然になっていて、しかもどうやらこの家を訪れる人の中では一番たばこを吸う一行だったらしい。ボクはたばこがないと生きれませんというほどではないし、昔は煙が耐えられなかったこともあるから、喫煙スペースがどんどんなくなっていっている状況に対しては別にいいと思っているけれど、「たばこなんて体に毒なだけだからやめてしまえ」と喫煙者や喫煙に対して怒りを持っている人を見ると、ちょっとうなってしまう。このことと六ヶ所村の村中のスピーカーから朝6時と夜8時に音楽がなることの関係について、集団の中での個の扱い方についてと言い換えることもできるかもしれないなと思いながら、朝の七時の東京駅でロケを終わりを祝って三人で話していたら、もう一つ、「そういえば」と思った。
そういえばボクは社会的問題を扱った劇を見た事はあるけれど、社会的思想をメッセージとしてぶつけてくる劇は話できいたことはあっても見た事がない。ある問題や思想を自分と関係づけて考えることができない限り一回限りの催しで終わってしまうし、実際ボクは六ヶ所村に4日間滞在して、その間いろんな人が切実になっている様や真剣に悩んでいる表情を見て、その土地の放射能が多いかもしれない空気を吸っていたし、その土地でとれた野菜や魚をたくさん食べておいしかったけれど、やっぱり自分と関係づけることがほとんどできていないし、つまりはほぼヒトゴトだと思っているということだが、これはボク以外の人でもそうだろうと思ってはいても、どこかもやもやしたものが、とてもある。夜、ときどき電気をつけずに蝋燭を使うのは、単なる罪悪感や責任感の類の気持ちからやってるわけではなく、そのもやもやの所在をはっきりさせようとしていたり、もやもやした気持ちがなくなってしまうのが恐ろしいと思うから。

六ヶ所村では朝6時、正午、夕方5時、夜8時に村中のスピーカから音楽やチャイムがなり、朝6時は起床、夜8時は消灯、ということらしいが、ボクはこのペースで生活することはできなくて、朝は8時か9時くらいに起き夜は9時か10時くらいに寝ていて、普段寝るのが朝の4時くらいだから、8時間くらいずれていたことになる。そのことを青森駅発の夜行バスを待つ間にガストで話していたら、一緒の日程で滞在していた女性が「1日の1/3だったら時差ボケですね」と言って、これは計算上はもちろん合っているけれど、24時間というサイクルを前提に1/3と言うことと、24時間を念頭におかずに8時間というのには、生活の感じ方に違いがあるように思って、ボクはこういうことにおもしろさを感じるし、感じたことの原因になった言葉や1文は覚えていることになるけれど、映像で覚えていることもかなり多い。19日の朝、野辺地駅でその女性と初めてあったとき、艶のある通る声で「こんにちはー」と言った彼女の声と息の白さと帽子の白さと晴れた空、あと思ったより寒くないと思ったことは、いまはまだ鮮明に思い出せて、その映像は自分の眼ではなく想像上のカメラの位置から撮られている。

牛小屋は暖房がなく、だから掛け布団を三重にして寝ないとならないが、とても重い。滞在場所の家の母屋の猫たちは寝てばっかしで、それは14歳だからかもしれないし、一匹については片目が見えないからかもしれない。でも、猫たちはいちばん暖かいところを知っていて、寝るときはそこで寝る。あまり、人間がしないことだ。


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2006年11月23日 22:47
(加筆・訂正 2007年2月16日)

福島の原子力発電所 内部美玲(東工大大学院・建築科)


福島第一原子力発電所のサービスホールで原子炉建家の断面模型を見せられたときの衝撃は大きかった。建築物としては明らかにおかしな大きさと形、壁の厚みをもった巨大魔法瓶(ウランの核分裂を行う場所)がフツウの箱型の建物のど真ん中に配置されている。イチゴ大福みたいなかんじだろうか。不自然で、そもそも何かが間違っているような気がした。ものを作るときの順序が逆転してしまっている感じだった。

実際に発電所の敷地内を案内してもらうと、その模型でみた原子炉建屋は、淡いブルーでペイントされた、プレハブ倉庫でつかわれるような簡素な素材で覆われた無味乾燥な箱であり、放射能で満たされたものすごく危険なものを中にもっていながら、「ここには何もありません」ととぼけた表情をしているように見えた。数分前に目にした22mの巨大魔法瓶なんて、外からでは全く想像もできない。

そのとぼけた箱の横には高さ100mの煙突がある。煙を出すような施設ではないのに、なぜ煙突があるのか尋ねたところ、原子炉建屋内の換気のためだという。確かに、放射能漏れの恐れがあるため、建屋に窓をつくることはできない。納得すると同時に異常さを思い知る。日常生活であれば窓を開ければすむ換気が、窓を作れないことで、こんなにも大きな新たな構築物を生んでしまうのだ。

発電所敷地内にはその他に、タービン用、廃棄物貯蔵用など何個かの箱が並び、遠くまで続く送電線を鉄塔が支えている。この電線は東京まで続いているのか、という質問に「そりゃそうだ」という答え。当たり前のことではあるが、私たちの目に見えないものが、空中をとびまくっている今の時代、電気を250km先の東京まで物理的につながった線で送っているという事実は、私をほっとさせた。というのは、おそらく、ものとして、ここでは送電線という形におちたものは少なからず実感できるからだろう。福島で作られた電気は送電線というホースを通って東京の各家庭に届くのだと。

こんなふうに、原子力発電所内には日常私たちが目にする建築物とは全く異なる原理でつくられた、異様な建築物が建ち並んでいた。敷地自体は人の住む町から車で7分とやや離れている。しかし、敷地内には親子連れを2回ほど見たし、地元の人のために無料で映画鑑賞会等もひらいているようだ。丁寧に説明をしてくれた東京電力のお姉さんは、地元の高校を出てすぐここに就職したのだという。やっぱりここも、人が運営し、人が暮らしている場所にあるひとつの施設なのだ。

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