〜六ヶ所村報告7〜B氏の話 阿部初美
前日よく寝つけなかったせいで、朝は大寝坊した。
泊に行くにもバスはもう午後までなかった。
チェックアウトぎりぎりの時間だったので、あわてて一階へ降りると、朝食の時間もとうに過ぎているというのに、わたしのぶんの朝食は食堂にまだ残されていた。「とっておいたから食べていってね」。食堂のおばさんが言う。ありがたくいただいてから、チェックアウトし、またこの日も原燃PRセンターまで車で送ってもらった。
PRセンターで車を降りてから、少しこの近辺を散策することにした。
PRセンターの前は道をはさんで、運動公園があり、その隣には、この近辺で出土した縄文の土器や住居を展示した縄文館があった。この縄文館に入る。真夏の昼間。人は少ない。縄文の人々は、人間の生活がこんなふうに変わって、この土地に核燃料の再処理工場が立つことなど、夢にも想像しなかっただろう。
この日は幸いにもまた、ここ六ヶ所村で働く中年の男性(仮にB氏とする)と出会い、話をきくことができた。そしてこのB氏との出会いが、わたしに「原子力」をテーマに作品を作ることを決意させたのだった。
「わたしは推進派でも反対派でもないんですよ。でもエネルギーは必要です」B氏は言う。B氏はもともと地元の出身者ではないということだった。
「再処理で働いている人たちと、初めはどう接していいのかわかりませんでした。でも今はね、心からご苦労さまです、と言えるようになりました。実際わたしもこの関係で食べさせてもらってるんです。不安はありませんよ。わたしたちには技術者を信じることしかできないんです。自分には何もできないんですから。しっかりがんばってくださいと言うしかないんです。もう誰にも止められません。やるなら徹底した安全管理でやるしかないんです」
わたしはこのB氏に、ほんとうのことを話した。「原子力」をテーマに演劇作品を作るかどうか迷い、ここに訪ねてきたことを。
「やってもらいたいです」思いつめたようにB氏は言った。
「わたしはね。教えるっていうか、伝える、ってことは大切なことだと思うんです。賛成とか反対とかいうんじゃなく、事実をありのままに伝えてほしいです」
そうしてまたこれからPRセンターに行くと言ったわたしにB氏は言った。
「再処理施設はね、当初の見積もりよりも大幅に予算がふくらんだんです。もちろん工事や試験運転のスケジュールも。なぜそうなったのか、聞いてごらんなさい。ひょっとしたら何かおしえてくれるかもしれません」
わたしは「どうしてなんですか?」と聞いてみた。
彼はちょっとためらってから自らその答えをおしえてくれた。
「再処理工場を建てる技術はそもそも日本原燃にはありません。下請け会社に工事をまかせるんです。そこからさらに下請けに出して、とするうちに、ピンハネがあるから、工事や技術はどんどん落ちて、結局高い技術を持った技術者をよんでやり直しになる。それで10年もかかったんですよ。もちろん予算もそれだけふくれました。死者がでなかっただけましです、いや一人亡くなったんだったかな・・・」
わたしはお礼を言ってB氏と別れた。B氏は「お会いできたらまたどこかで」と言った。名前も住所もきかずだった。「やってもらいたいです」というB氏の言葉は重かった。それから野辺地行きのバスに乗って、真夏の六ヶ所村を後にした。自然の多くのこる美しい村だった。