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『アトミック・サバイバー ―ワーニャの子どもたち』劇評  日比 美和子

 阿部初美が構成・演出する『アトミック・サバイバー―ワーニャの子どもたち』は、青森県六ヶ所村にある、使用済み核燃料からウランとプルトニウムを取り出して再利用する再処理工場を取材し、原子力エネルギーと再処理工場にかかわるデリケートな問題について取り上げた演劇。阿部によれば、作品化の決意を促したのは、村の住民の方々の「事実を伝えてほしい」という言葉だという。何かを建設する際に起こるのは、受け入れる施設の問題から、いつのまにか推進派・反対派に分かれてお互いの批判に終始していく事態である。感情的になればなるほど、“あんたはどっち側なのか”が問題になり、小さなコミュニティーであれば、家族・親戚・ご近所さんを巻き込んだ、本来とは別の問題に発展しかねない。それを避けるために、次第に当事者たちは公平な発言の場所を失う。つまり、地元住民は、推進派・反対派の選択を迫られた瞬間から発言すらできなくなってしまう。しかも、それが再処理工場や原子力発電所などの国策であったりすると、事態はいっそう深刻である。ある種のものごとへの沈黙と黙認を生み出すメカニズム。このデリケートな問題を阿部はこの作品においてどのようにあらわしているのか。

 舞台は再処理工場のPR館のコンパニオンに扮した谷川清美が解説する、核燃料サイクルの解説を中心に進められる。世界有数の最高・最新鋭の技術を結集して作られた(はずの)再処理工場や原子力発電所が、舞台上では皮肉にも、うっかりぶつかったら壊れそうな手作り感満載の発泡スチロールやダンボール製の小道具として登場する。そして、そこで繰り広げられるのは、おもちゃのレーシングカーや毛糸のてぶくろ製の人形を用いた、カミロボ対戦で見られる究極のひとりあそびのようなステージである。役者の手元や表情は、役者に密着して撮影する映像スタッフによって、その一挙一動が前面の大型スクリーンに拡大されて映し出されるようになっている。原子力発電所で頻発する不具合や不祥事を、役者のせりふ忘れや演技の間違いと(それが意図的であれ不慮の事態であれ)絡めながらコミカルに筋を進めていくのだが、ふと、そういった小さな“ぽか”の繰り返しが災厄を引き起こすことに気づき、私たちの笑いは、よく携帯電話で見かける(爆)から(笑)へ、そしてついには失笑、苦笑いへと至る。そう、いつも災厄というのは人災であり、小事の積み重ねによって起こるのだ。舞台上で繰り広げられるせりふ忘れや演技の間違いは笑いで済まされるが、原子力発電所や再処理工場といった現実世界では笑えない。現実と虚構の世界それぞれの綱渡りを効果的に演出している。

 また、ときおり挿入されるチェーホフの『ワーニャ伯父さん』を引用したモノクロ映像も、笑いの中にシリアスさを込めて舞台全体をしめている。その中には痛烈な批判も見え隠れする。たとえば、本音の「自分の故郷には(施設が)来てほしくない」が「自然保護」にすりかえられている状況。それを感じたのは、劇中でスクリーンに映し出されるモノクロ映像《地図(チェーホフ『ワーニャ伯父さん』より)》を見たときだ。自然保護を訴えて口説こうとする男性の話をぼんやり聞く女性。その女性の姿を借りて表されているのは、私たちの、原子力エネルギー問題に対する無気力・無意識・無関心と、本音を「自然保護」ということばで飾ることの薄っぺらさへの批判である。

 人間は正否を判断しかねる状況にあっても、何らかの形で正当化しなくては生きていけない。矛盾を抱えながら、ときには巧みに言葉をすりかえ自分をだましだまし生きている地元住民の本音は、あるとき、核燃料サイクルの工程を解説するコンパニオンの女性の、一見自然な案内の中に、迂闊にも吐き出されてしまう。もちろん役者が演じる以上、多少の誇張はあるだろうが、PR館で再処理工場を解説する彼女によれば、再処理工場から出される排気は、150mの排気塔から、蒸留水は沖あい3km水深40mの排出口から“放出”されるので、(微量の放射性物質は)“自然に”“薄まって”いくようになっており“安全”という。このクオテーション・マークだらけの解説を翻訳すると、「本当はそこまでしないと薄まらない放射性物質に怖れているけど、再処理工場のおかげで私たちは生活していけるのだから仕方ない」という本音があらわれる。地元住民は再処理工場を必ずしも歓迎はしていないが、同時にその恩恵にも感謝して生活している。地方の電力に支えられて都会で安穏と暮らし、自然破壊には反対なんて都合の良いことをいっている私たちは、その事実を知らなさすぎた。

 しかし、この作品は原子力エネルギーに対する賛成・反対の意思を促すための作品でもないし、現代社会を一方的に批判する作品でもない。私たちの、ものごとへの無気力・無意識・無関心に対して、ものごとを認識して複数の視点から批判的にみる眼を持つことを提案する作品である。阿部によれば、それがものごとの本質に近づく方法である。

 廃校になった中学校という会場にあって、内容は多少教育的。また、会場で耳にする『放射能対処マニュアル・トロロソング』も小学生でも歌える平易な曲。『トロロソング』は、この歌を覚えていれば、いざというとき対処方法を思い出して助かるかもしれない、という期待をこめて作曲されている。音楽というメディアは、ガンの原因となる放射性ヨウ素や、それを防ぐためにとろろ昆布を摂取する有用性をまじめくさって幾度語るよりも、広く素早く印象に残るプロパガンダ機能を発揮する。効能が捏造されては困るが、全国のスーパーからとろろ昆布がなくなるくらい、この演劇や歌が全国レベルで展開され、原子力エネルギー問題が、私たち自身の問題としてもっともっと認識されればいいのに!


2007年2月22日 19:30開演
日比 美和子(東京芸術大学大学院 音楽研究科 音楽文化学専攻)

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