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“Museum: Zero Hour”制作プロセスに関するノート(2004.11)  高山明


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まえがき
1.フィールドワーク
2.裏方・表方の分化を廃止
3.素人性
4.「演技」


※ この原稿はIn Transit演劇祭(ベルリン)参加に向けて提出した資料です。

 公演パンフのなかでも述べられていることだが、“Museum: Zero Hour”を制作するにあたり、その出発点にはボルヘスのテクストがあった。個人的に好きな作家だったことも理由の一つだが、次のような夢を見たことが直接のきっかけになっている。その夢のなかで、私は書店で本を探していた。すると見知らぬ老人に話しかけられる。次は何をやるのかと尋ねられた私は、ボルヘスに材をとった「エクスターシス」という舞台を作ると答えた。

 夢のお告げではないが、私は早速その準備に取りかかった。しかし、公演パンフに述べられているような理由で、ボルヘスの作品そのものを舞台化することには興味を失った。そのことで、逆に、今回の舞台制作を貫く方法が決まった。つまり、ボルヘスの作品を舞台化するのではなく、ボルヘスのテクストに内在する「イデー」やボルヘスの「身振り」を抽出し、それに私たちなりのアクション(広い意味での)をぶつけてみる。全く異なって見えるものでもいい。というより、異なったもの同士のぶつかりあいこそ尊重しなければならない。そこに何が生まれるのか。(これはPortBの制作においてこれまでも実際にやってきたことだ。今回はこの点を意識的に追求したと言える。)

 制作プロセスには幾つもの出会いや偶然があるものだが、次に述べる出会いは“Museum: Zero Hour”制作に一つの転機をもたらした。ルネ・ポレシュの来日である。私は彼に東京を案内する約束をしていた。しかし、ステレオタイプな東京のイメージをなぞってもらうのは詰まらないし、ならばどこを案内すべきか? 正直私にはよく分からなかった。東京は茫洋としていて、雲を掴むようなのである。私は、東京という大きな流れのなかでそれを相対化する視点を持っていない自分に気づいた。また、東京で活動しているのに東京でしか出来ない舞台制作の在り方を模索していない自分に情けなさを覚えた。この経験が、ボルヘスのテクスト中にある「都市」、「忘却」、「記憶」といったイデーの幾つかと、「東京」とを結びつけるきっかけになった。私たちは、ボルヘスのイデーと東京との出会いを実現させる為に、東京という都市で、「フィールドワーク」という名のもとに、「収集」、「分類」、「旅」、「探求」といったボルヘスの身振りを「模倣」/「演技」することを課題に据えたのである。 

 しかし、東京と一口に言っても巨大な都市である。全体を扱おうとすれば抽象論に終わる。そこで「フィールドワーク」の対象として私たちが具体的に選んだ場所は、東京郊外の「高島平」という地域だった。高島平は1970年代の高度経済背長期に開発されたニュー・タウンである。その中心には巨大な高層団地群がそびえ立ち、一時は3万人が居住していた。ホワイトカラー憧れの住居、都市計画の成功モデル、自殺の名所、幽霊の出る所など、様々なイメージが交錯し、かつてはマスコミも頻繁に取り上げる特別な場所であった。しかし、建設から30年が経過した今、高島平は、団地住民の少子化・高齢化が著しく、建物の老朽化も進み、もはや特別でなくなっているどころか、忘れられた場所ですらある。そんな土地を「フィールドワーク」し、その成果を「稽古」に反映させていくなかで、初めに抽出したイデーが解体されるほどまでに私たちは試行錯誤を繰り返すことになった。そうした作業を振り返り、今回の制作プロセス特有のポイントを以下にまとめたい。


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1.フィールドワーク

 この方法は前回の「約1時間20分」を批判的に発展させたものでもあった。「約1時間20分」では、「記録者」という受容者/創作者を設定し、第三部で第一・二部を受容した成果を発表してもらった。しかし、これは「上演」という枠組みのなかに収まった演出上の仕掛けであり、その意味で受容と創造が結びつく在り方をモデルとして提示したに過ぎない。(※ベルリン演劇祭「国際フォーラム」での発表原稿を参照のこと。)今回はそのモデルを「上演」の外に、つまり制作プロセスにまで広げた。単なるモデルを生きた活動に変容させる為である。「上演」という在り方への懐疑は、必然的に、既成の「稽古」への反省を促す。というのも、このような姿勢で演劇に臨めば、上演と稽古の関係を変える必要に迫られるからである。つまり稽古は、上演という本番に向けての単なる準備であってはならない。目的のための手段という発想を逆転し、上演という口実のもとに準備プロセスそれ自体を充実させていくのだ。(もっとも、最終的には目的・手段という図式をさえ無効にするような「上演でない上演」が理想だろう。)そこで制作に関わる者全員がまず何より「受容者」/「探索者」になることを目標とした。

具体的には、まず高島平へ車で出掛け、辺りを走り回ることから始め、大体の地理をつかむと、今度は地図とカメラを手に町中を歩き回るようになった。何度も足を運ぶうちに、見えなかったものが見えてくる。すると自然に私たちの好奇心も刺激された。町はずれの公園に立つ石碑、訪ねる人も疎らな資料館に保存された文献や地図、休憩で入った喫茶店にあった地元住民向けの新聞、それから街角の広告に至るまで、私たちにとってはすべてが資料になった。古今にわたるいろいろな情報を得たわけだが、これを直線的にたどれば、高島平のいわゆる「歴史」になるだろう。団地という箱を並べただけののっぺらぼうの町に見えていた高島平が、幾重もの見えない時間の「地層」を含んでいることが分かった。そうした資料を「記憶」、「忘却」、「身体」、「住居」、「死」、「痕跡」、「建築」といった様々な観点から解体・分類し、ボルヘスに留まらずフーコーや日本の民俗学者や社会学者の著作を参考に、それぞれの観点を深めていった。

こうした知的な作業に併せて、私たちは団地の内部に入っていく。はじめは入居希望者の振りをしてモデルルームを見学したり、団地の構造の特徴などを実地に見て回ったりした。それから団地住人の何人かにコンタクトをとって、彼らが実際に生活している「家」を訪問した。何度か訪ねるうちに信頼関係が出来てくる。それからビデオカメラを置き、彼らにインタビューを行った。(この時の映像の一部は上演で用いた)。粘り強く交渉して出演も了承してもらった。それが決まると、今度は高島平団地内の集会所を「稽古場」として利用する機会を設け、住民の方々を交えて舞台の方向性を探っていった。こうしたプロセスは、外側から見ているだけでは分からない、また、資料に接しているだけでは掴めない「高島平」の肌触りのようなものを感じるのに大変有益だった。こうした生の感覚は、しかし、上記の知的作業による「組み立て」を裏切ることも多く、そのたびに私たちは掻き回され、混乱し、そのことで逆に、「高島平」を知的作業による枠組みの中に閉じこめてしまう過ちを避けることができた。そのような作業を初日直前まで、約4ヶ月間続けたわけである。


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2.裏方・表方の分化を廃止

 1のフィールドワークを行ったのはいわゆる「裏方」ではない。制作に関わる全員が参加し、幾人かの例外を除いて、すべて舞台に立った。(制作に関わっていない人も何人か出演したが、彼らは「ゲスト」であり、いわば「レディメイド」であった。)今回のプロセスでは、そもそも裏方・表方という区別を設けなかった。フィールドワークもそうだが、公演のプロデュースも宣伝も装置や衣装の製作も、それぞれに中心となるリーダーはいたが、それだけやれば済むというものではなく、皆いくつかの役割を掛け持ちしていた。テクストの作成、美術、演出に関しても、私が方向性を出し、最終的には責任を持ってまとめたにせよ、皆のアイデアや作業の成果があって初めて成立したものだ。また私自身、テクストの作成、美術、演出などという分野にこだわらず、ほぼすべての作業に関わった。

分業制の進んだドイツほどではないにせよ、こうしたやり方は日本でも珍しい。通常アンサンブルを持たない日本の劇場では、俳優は公演ごとに集められ、役とテクストを与えられ、過酷な日程の中でセリフや振りを覚え、舞台に立ってまた次の制作へというのが普通だし、裏方は裏方で職人的在り方に終始している。無数にある小劇団の場合も同じメンバーによるアンサンブル形式はあっても基本的な在り方は変わらないように思う。私はこうした演劇の制度をなぞることに満足できないし、そもそも活動として面白くないと思う。これはまた個人的な問題ではなく、日本の演劇をつまらなくしている大きな構造的要因でもある。俳優や演出家を養成する教育システムもない。劇場や劇団に対する助成も不十分。かといってビジネスとして機能しているわけでも全然ない。このような状況なのに、欧米から輸入したシステムや演技を上っ面だけ真似したり、劇団特有の「伝統芸」が然るべき批判的検討の跡も見られぬような形で踏襲したり、なかには“自己流”に勝手をやって面白い成果を挙げている人達もいるが彼らは例外的な存在で、似たり寄ったりの演技や演劇が増殖を繰り返していく。いわゆる演劇人は、演出家、俳優、舞台監督、美術家などといった「専門家」であることに安住し、演劇制作のなかで(実は演劇「生産」のなかで)、例えば演出家は「演出家」という「役」を演じ、俳優は「俳優らしい演技」に自己を同一化することに躍起という状況。日本の演劇界においては、「専門家」という安住すべき居場所などイリュージョンに過ぎないのに、大抵の人はそれに気付かず(あるいは気付こうとせず)酔っぱらっているように思われる。だから「演劇」という制度をなぞる舞台ばかりがシミュラークルに「生産」されることになる。何もなければ何もないなりに、ゼロから始めるからこそ、「生産」から離れたところで、いろいろと工夫しながら作れるチャンスがあるのではないか。せっかく現代演劇などという、制度的に未完で、経済的に無価値で、芸術的にも「ジャンク」なものに関わっているのだから、社会全体を覆う「生産」や「仕事」の在り方をなぞるのではなく、制作プロセス全体を各個人が引き受けるような試みが要請されるように思うのだ。だいいちその方が面白い。こうした制作プロセスへの関与、そこでの創意工夫は、「受容者」であることを目標にした各人に、結果的に「作り手」としての自覚を促した。そういう人達こそ、私にとっては「パフォーマー」なのである。 


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3.素人性

 1の「フィールドワーク」、2の「裏方・表方の分化を廃止」、いずれも日本演劇界の常識から外れたものだ。そのうえ時間もかかるし、労力もいる。するとただ舞台で自分を表現することを望むような「俳優」からは敬遠される。日本の俳優のほとんどが社会的に見れば「フリーター」、つまり失業しているのに、彼らのほとんどは自分が俳優であるという自意識を手放そうとしない。(言うまでもないが、彼らの中にもすばらしい俳優はもちろん存在する。)しかしそもそも「俳優」という専門的な在り方自体を疑問に付す私たちにとって、「パフォーマー」の条件は以下のようなものだ。@上のような制作プロセス自体に興味を持ち、自分で考え、工夫し、探求する姿勢があること。A自分が舞台に「在る」ことに対しても責任を持てること、少なくともその資質が認められること。(ただしAに関してはトレーニングが必要で、その内容に関しては後述する。)この条件では、いわゆる「俳優」ははじかれる場合が多い。私にとって台詞や振りの上手下手などどうでもよいのだ。実際に今回の舞台に立った者のうち、「俳優」は1人だけ、その人も全くのアマチュアである。他は文芸批評家、木工職人、歌手/ヨガ教師、ダンサーといった人達だった。意図して集めたわけではないが、一芸に秀でた人の方が先の条件で問われている姿勢を身につけているのかも知れない。この5名に私を加えた6名が「パフォーマー」で、「ゲスト」として迎えた高島平団地の居住者(60代〜80代の女性に日替わりで登場してもらった。尚、ゲストが女性のみだったことには訳がある。彼女たちは主婦であり、高島平団地内で真に生活してきた人達である。男達は東京中心部に働きに行くため、高島平団地は生活の場というより寝に帰る場所であった。)、ボディービルダーが1名という内訳であった。つまり、出演者全員、一般的には演技の「素人」である。しかし、1、2のプロセスを全うした人は、「受容者」/「創作者」という在り方をすでに実現しているわけで、いわゆる「素人」と呼ぶべきでないだろう。「演技」を専門としていないだけの話だ。しかし、未だに役への同化がよい演技の基準とされるような日本の状況からすれば、そんな技術もないし、既成の演技など意に介さない彼らの方がよほど新しい演技の在り方に開かれていると言える。逆に、彼らの在り方は無言のうちに「果たして演技をする必要などあるのだろうか?」という問いを私に突きつけてきた。また、「ゲスト」に至っては演技をする・しないということは問題にさえならず、舞台上にそのままいるだけで「高島平に住む人」や「身体を建築する人」という「記号」と化し、舞台上に引用された「レディメイド」として機能するのである。従って、彼らもまた「素人」という範疇には収まらない。


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4.「演技」

 フィールドワークや資料・文献の探求や話し合いや地元の人達との交流といった作業は、私たちにとって舞台制作の要になるものであった。しかし他方で、一般的な意味での「稽古」もまた重要であったことを付け加えねばならない。それは私たちの「演技」の在り方を問う実験であった。

「果たして演技をする必要などあるのだろうか?」という先ほどの問いは、実は前々から抱いていたものである。実際のところ日本には演技の為の伝統も教育システムもないし(少なくとも確立されているとは言い難い)、例えば欧米の演技をモデルにしたところで大した成果が得られるとは思えない。いくら日本が欧米化されても、身体や言語や生活習慣の違いは決定的で、いくら頑張ったところで地に足のついた表現にはならないだろう。かといって能や歌舞伎といった伝統演劇における演技は閉じられた世界のもので、私たちには無縁である。それは基本的に古い形の継承だから、すさまじく見事ではあっても、ショーケースのなかの美術品を見るようなもので、皮肉なようだが、欧米化された私たちの生活まで揺るがすような力はない。(演技や演劇が抱えるこの問題は、根本的には、「近代化」/「欧米化」された日本社会に内在する問題の反映に過ぎない。)私はどちらにも組みすることができないので、根無し草のように漂わざるを得ない。私はこれをプラスに捉えている。というより、本当はプラスもマイナスもなく、これが現実なのだ。この現実に向き合うことで、初めて欧米や伝統といった私たちにとっての他者を他者として「受容」できる可能性も出てくるだろう。真の「受容」は輸入や物真似ではなく「創作」に他ならない。だとすれば、この地点から出発してこそ、真にグローバルであると同時に、日本の現実との対決を通してしか生まれない演技なり演劇なり文化なりが実現するのではないか。話を演技に限定すると、だからこそ私は演技というものを一から洗い直す必要を感じるし、「新しい演技」を見つけたいとこだわるのだ。これが私の試行錯誤の出発点である。簡単にその内容を振り返ってみたい。

一般的に人が演技というとき、プロセスを通じて積み重ねてきたものを「同化」し、それを外に向かって表現するというイメージがつきまとう。あるいは、与えられた素材を「同化」して、自分自身が変容する技と言ってもよいだろう。だから「同化」されたものの豊かさとそれをどれくらい自分のものとして表現できたかという技術レベルが常に問題になる。私はこうしたイメージに従わない。むしろ逆の方向で行きたいと考えている。プロセスのなかで出会った人達を含めて、自分が収集した素材は外部のモノであり他者である。その他者性を出来るだけ自覚する。素材を「同化」して表現する必要などない。ただし同化は生きていく為に必要な「技術」であり、避けようもなく身に付いた習性だろう。例えば普段暮らす部屋を部屋として意識することがないのは、私たちが部屋を「同化」し、それが身体に内化されているからで、いちいち違和感をもっていては普通に生活できなくなる。だからこそ私たちは意識して「同化」することを避け、外部の素材とどのような関係を結べるか、また同時に、他の人が共有できるように、どのように素材を提示することが可能かを探る。そこで私たちは「引用」や「展示」というドキュメンタリー的方法を「演技」の要とした。素材は高島平の地図や資料や人やボルヘスのテクストであったが、私たちパフォーマーの身体や身振りや声も動くオブジェとして舞台上に「展示」される。二つの「間」を結ぶ関係性こそ観客によって知覚されるべきものだろう。では「間」には何があるのか? 舞台上の空間や時間がある。それらは実体ではなく関係性そのものであるから、何らかの接触や抵抗やといったきっかけがなければ姿を現さない。引用され、展示される素材とパフォーマーの身体や身振りや声がそれぞれ独立しながら関係を結ぶとき、空間や時間はそれとして際だつことになる。関係性の結ばれ方によって、それらは観客に変容するものとして知覚される。そのとき舞台に立つ人の「存在」も際だってくるという逆転が生じる。逆に、豊かで自然で違和感のない「上手な演技」はかえって舞台の時空間を覆い隠してしまいかねないように思え、私たちの目指す舞台にはそぐわない。

しかし、ただ舞台にいるだけでは何も生まれない。上に述べたことを実現するため、私たちは「トレーニング」に半年の時間を費やした(これは以前よりPortBが継続してきたことだ。)特別なことをやったわけではない。まず、立つ、座る、歩く、声を出す、呼吸するという日常的な動作を徹底的に洗い直した。メンバーの中にヨガの教師がいるので、主にヨガを参考にしながら自分の身体に意識を集中し、各自が試行錯誤を繰り返した。並行して、そうした日常的な身体の動きを空間や時間との結びつきのなかで探っていく。厳密には分けられないが、空間的には配置や方向や重心やスピード、時間的にはリズムやテンポやタイミングや中断といった要素に関係づけて、身体やその動きをマテリアルに確かめていくのだ。それから声を出来るだけ独立させる為の発声練習。以上の作業には、身体の内部・外部を敏感に感じる「受容体」としての身体感覚が不可欠で、その点でヨガや舞踏の発想が役立った。舞台上での身体運動は、こうしたプロセスの成果をささやかながら形にしたものである。

こうした作業は、日常生活の延長であると同時に、日常生活での身体やその動きを異化する側面を持っている。いわば、「演技」によって日常生活における身体や身振りを洗い直し、また、日常生活における身体や身振りによって「演技」を試験するのだ。こうした作業を通じて、パフォーマーの身体は「生活」と「演技」が交差する場所になる。しかも私たちの制作プロセスは、見方を変えれば、稽古を「現実」に開き、「生活化」する試みにほからならず、フィールドワークも分業の廃止も素人性もそれゆえになされた。展示や引用といったドキュメンタリー的方法によって高島平やボルヘスが報告されたが、それは同時に、プロセスを含めた私たち自身のドキュメンタリーでもあった。そこでは、パフォーマーは彼らのままでありながら、彼らではないような在り方で「存在」した。演技そのものが絵柄として立派な表現になることよりも、展示や引用といったミニマムな行為のなかで、「表現」を極力排除した貧しさやむき出しの存在感こそが重要なのだ。 

「ゲスト」についてはどうだったのか。最後に補足してこのノートを終わりたい。彼らには私のある合図によって6つのテクストを朗読してもらうことにした。彼らにはその部分しか練習してもらわなかったし、全体像を見せることもなかった。どのゲストも一回きりしか出演しない。しかし、彼らは最初から最後まで舞台上に居続けなければならない。全体像をなぞることが不可能になることで、いつ来るか分からない次の合図が出されるまでの「間(あいだ)」、彼らはその場その場をどう過ごすかというところに投げ出されることになる。つまり「間」を埋めるのではなく、その「間」にどう「存在」するかが焦点となるわけだ。その意味で、彼らは「レディメイド」であると同時に、私から見れば「演技」するパフォーマーなのであった。


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