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Port B 高山明ロングインタビュー


演劇以外の活動に携わるアーティスト・職人・批評家らを中心に演劇的実験を繰り返し、「演劇とは何か」を問いつづけているPort B。今回の東京国際芸術祭では、「外国での上演は不可能」といわれるエルフリーデ・イェリネクの戯曲を日本初上演する。
Port Bの演出家・高山明は何者なのか? Port Bは何を企んでいるのか?
Port B出演者の暁子猫、ドラマトゥルクの林立騎とともに話を伺った。
(聞き手:TIFスタッフ宮崎・増田)


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ヨーロッパでの放浪生活
自分たちが素材にかきまわしてもらう
人に任せた方が絶対にいいものができる
東京でしか作れない演劇を作りたい
人が集まる場として演劇を機能させたい
お客さんに作っていってもらいたい


ヨーロッパでの放浪生活


宮崎:高山さんのプロフィールを拝見すると、20代のときに渡欧されて放浪生活をされていたと書かれてあります。どういういきさつでヨーロッパに渡ろうとされたのか、またそこでどのような経験をされたのかをお話いただけないでしょうか。

高山:最初に渡欧したきっかけというのは、実はドイツ語なんですよ。ドイツ語を勉強していて、僕が習っていた先生の紹介で、フライブルクという、スイスとフランスの国境ぐらいにある小さな学生の街に行きました。そこに行って、ドイツ語を勉強するためにとりあえず語学学校に入ったんです。フライブルク大学という結構優秀な大学があったから、そのまま大学に進んで、ドイツの哲学を勉強しようかなと思ってました。それが語学学校に入って3ヶ月後くらいに、たまたま街を歩いていたら、ピーター・ブルックの『妻を帽子と間違えた男』のポスターがあってですね。おもしろそうだなあと思って、シュトゥットガルトに行ってその舞台を観たんです。

そもそも演劇なんて大して関心がなかったんです。だけど、書くことがすごく好きで、戯曲を書いてたんですね。戯曲の形式みたいなものがすごく好きだったので、演劇ってどういうものなんだろうなとは思ってました。あと、日本にいたとき、ピーター・ブルックの「何もない空間」という本がすごくおもしろかったっていうのと、大学の授業で見せてもらっていた、タデウシュ・カントールの『死の教室』、それが僕にとっての「演劇」で、あとはあんまり興味なかったんです。

だけど、そのピーター・ブルックの芝居がすっごく良かったんです。本当に衝撃的でした。で、たまたまその晩に、ちょうどパリに行く予定を立てていて、夜行列車に乗ってパリに行ったんです。パリに着いて駅でふらふらしてたら、同じ電車に乗ってシュトゥットガルトからパリまで帰ってきてた人がいまして、それがブルックのところで役者やってるヨシ笈田さんだったんです。「あれ、あの人昨日舞台にいたな」と思って話しかけたんです。「すごくおもしろかった」とか。それでホテルまで一緒にタクシーに乗って、演劇の話をしました。演劇やってるのかと聞かれて、やってないけど戯曲は書いてる、いい機会だから見てくださいみたいなことを図々しく言って、あとから戯曲を送ったんですね。そしたら手紙をもらって、いまちょうどベルリンのシャウビューネ劇場で稽古してるから、もし興味があったら見に来ないかみたいなことが書いてあって、まあちょっと覗いてみるかな、みたいな感じでベルリンに行って、そこから足を踏み外したというか・・・。

その後はもう、語学学校も大学も一切行かないで演劇の世界に入っちゃったんですね。笈田さんがやってらしたシャウビューネでは、一本演劇を作るといろんな人が集まるので、そういう人たちとあまり当時できなかったドイツ語で話したりして、「こういう企画があるんだけど、覗いてみないか」と言われて行ったり。
今思うと、ドイツ語があまりにもできなかったから、逃げ場が欲しかったのかなという気もするんですけどね。ドイツの新聞を読むと、文化批評や文化欄の一番トップに演劇がくるんですよ。だから「演劇で結果が残せれば、ドイツ征服かな」みたいな感じで…。

一同:(笑)


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高山:ただ、あまりにも演劇のことを知らなかったから、それから3ヶ月半くらい、ヨーロッパ中の演劇を見て回ったんです。ベルリン各都市、ドイツ、フランス、スイス、イタリア、イギリスに行って、フライブルクのアパートにもほとんど帰らずに年間400本くらい観ましたね。演劇祭に行けば、一日3本、4本観れるから、そういうのを観て、照明や音響の仕組みなどをノートをとって勉強しました。そのうちに、「これは結構簡単に作れそうだな」と思ったんですね。

それで、皆に「自分は演出家なんだけど、演出させてもらえないか」と嘘を言ってまわったんですけど、なかなかやらせてもらえない。しょうがないから、たまたま学生劇団で演出家が問題起こして辞めちゃったというところがあって、そこでマックス・フリッシュの『ドン・ファンあるいは幾何学の愛』を演出することになったんです。それが登場人物が15人くらいいる大変な劇で、ものすごく難しかったですね。それがうまくいってたらまた別の展開があったのかもしれないんですけど、うまくいかなかったんですよね。簡単にできると思ってたのが、実は難しくて、下手すると舞台がめちゃくちゃになるんだ、というのを肌で感じました。本当に恥ずかしくて、穴があったら入りたいというのはこういうことだと思いましたね。でもお客さんの中で、部分的に面白いと思ってくれた人がいて、次の仕事が入ってきたんです。「次はうまくいくだろう」と思ってやる。ちょっとましになった。そうやって何となく繋がっていったんですね。僕が良かったのが、フライブルグという小さな学生ばっかりの街にいたことですね。勢いだけで何とかなっちゃうところもあるし、街の演劇人とか、わりとみんな知り合いになっちゃう。いい場所でやらせてもらっていたこともあって、結構お客さんは満員でした。これがベルリンだったらたぶんダメだったと思いますね。

それで1年半くらいやったんですけど、さすがに限界を感じたんですね。これは真面目に勉強しないとダメだなと思いました。勉強していないと、同じことを繰り返すしか出来なくなっちゃうんですね。新しいことがなかなかできない。失敗したくないという変な根性もついて、毎回同じような舞台作っていたんですね。

その頃に大きな出会いがあって、当時会った、ハンブルクのドキュメンタリーの映画監督から本が送られてきたんです。その本をちょうど開けるか開けないかの時に、また郵便が来たんですね。同じ日に2つの郵便物があったんです。映画監督から送られてきたのが、ベンヤミンの「ベルリンの幼年時代」。もう1つは、京都にいる僕の友人から送られてきた「『ベルリンの幼年時代』を読む」という修士論文だったんです。それが同じ日に来たんです。お互い全く知らない人から。それで「これはたぶん読まなくちゃいけないんじゃないだろうか」と思って読んだら、それが僕にとってすっごくおもしろかった。

年間400本とか芝居を観ても、自分が本当におもしろいと思えるものってそんなにないんですね。それは僕の語学力とか、演劇を観る力のなさに関係しているのかもしれないけど、自分の正直な感覚はなかなかごまかせない。「あんまりおもしろくないなあ」とか思いながら観てたし、自分が作るものもおもしろくない。

だけど、その本を読んでいたら、こういう演劇だったら作ってもいいなと思ったんです。「ベルリンの幼年時代」というのは、ベンヤミンが幼少時代にすごしたベルリンのことを個人的なものとして書いているんだけど、その個人的なものが社会につながっている、あるいは時代を映す鏡になっている。しかも構成が僕にとってすごく魅力的で、コラージュなんですね。断片を自分で組合わせて積み木を作っていくような本の読み方ができた。そういえば、最初に衝撃を受けたピーター・ブルックの『妻を帽子と間違えた男』も、積み木細工みたいなものだったんじゃないかと思ったんです。それで、僕の中で演劇をやり続ける動機が見つかりました。


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それからまた演劇をやり続けるんですけど、それが難しくて。いろんなところに「演出させてくれ」と100本くらい手紙を書いたけど、ほとんどダメでした。でも1つだけ、子ども劇場から返事が来たんです。すごくいい劇場で、やってもいいなと思ったんだけど、面接で落ちちゃった。
それが不思議な面接で、ある日「来い」って言われて行ったら、そこに役者が全員揃っていて、舞台の上に乗せられて「何か喋れ」と言われたんです。実はちょうどその前の晩に、大衆の前で死刑になる夢を見まして。その夢というのが、台に上がっていったら死刑執行人がいて、僕の首に縄をかけるんですよ。そしてその人が「旅先では、手紙を書けよ」と一言言う。それで綱をものすごい上げられて、でも全然苦しくないので「あれ、これ抜けられるんじゃないかな?」と思って縄を抜いて、30メートルくらい上から落ちて、着地するとそこは舞台なんです。で、大観衆が拍手喝さいしてるという夢でした。「これはいい夢みたなあ」と思ってたらそれは正夢で、その翌日に正に舞台に立たされていたわけです。で、その夢の話をしたら、見事に落ちた。

一同:(笑)

高山:それで行くところがなくなっちゃって、演劇もダメだな、自分は何も作れないんだなという感じになった時期がありまして…労働ビザもとれなかったし、全然行ってなかった大学からも電話がかかってきて、「テストを受けなかったら、もう退学だ」と言われて。嫌で嫌でしょうがなかったけど、ビザの問題もあったからテストを受けて…。

そのとき、何か変な病気にかかっちゃったんです。まず眠れない。それから精神的なものだと思うんですけど、喘息。たぶん寝てないからだと思うんですけど、妄想まで出てきて。幻覚、幻聴がすごかったんです。そこらじゅうにいろんなものが見えるし、いろんなものが聞こえるし、電車なんかに乗ってられない。たとえばリンゴの袋なんか持った人見ると、爆弾持ってるんじゃないかなんて思い込んだりね。体重は減っちゃうし、栄養失調みたいになっちゃうし。

それで何かのきっかけでパリに行って、ホテルに泊まったら、外に出られなくなっちゃったんです。妄想がひどくて、幽霊もいっぱい見ました。すごく苦しかったですね。ホテルに窓があるんですけど、ちょっとでも動いたらそこから飛び降りちゃうって思い込みがあって、動きがとれなくなっちゃったんですね。でも、ある時とにかく窓開けてみようと思って、パッと窓開けたんですね。
そしたら日の出がもうすぐという時間で、窓の下に修道院みたいなのがあるんですよ。その屋根が八角形で、何となく丸いんですよ。その丸いところに日の光が少しずつ当たっていく。壁を見ていると「あ、これは壁だ」という感じがある。自分が立っている目の前に窓枠があって、その窓枠を見ていると「あ、これは窓枠だ…」という感じがある。自分の妄想や幻覚・幻聴の強度よりも、そういう「ものの強度」というのをすごく感じました。「そこにものがある」ということが、自分の幻覚や幻聴の強度よりもはるかにすごかった。何かある種の神秘体験みたいな感じでしたね。

たとえば演劇でストーリーとか、物語の豊かさとか演技だとか、そんなものよりは、そこにただあるものを出現させる。普段はベールに覆われて見えないんだけど、そのベールを取り払って「あ、コップがある」とかそういうことの強度というものを演劇で探りたいなあと思ったんです。

僕らの演劇はよく動きがないとか身体性がないとか言われるんだけど、そこに何かある、人がいる、時間がある、そういう感覚を舞台上に出したいなと思いました。それは僕の中で、『妻を帽子と間違えた男』や「ベルリンの幼年時代」、それから後にすごく影響を受けることになるグリューバーの舞台における「声」や、マルターラーの舞台における「時間」ともすごくつながっていて、そういう体験を舞台上でちょっとでも実現させることができれば、ああこれは演劇やっていてもいいかな、という感じがしたんですね。

ただ、自分だけで続けるのは無理があるなと思って、演出助手になりました。もうかなり歳の人だったんですけど、すごくキャリアのあるパリの演出家がいまして、そのドイツ人について勉強させてもらったんですね。で、大きな劇場でオペラやったりしたんですけど、そうすると「あ、なるほど演出ってこうやるのか」とかわかってきました。そこで自分の課題として思っていたのが、テクニックとか方法をそのまま真似るのは絶対やめようと思ってたんです。何がおもしろくないのかとか、どういうことに自分が不満を感じるのかということ注意してみようかなと思って、ノートにいっぱい書き出してた。でも、ずっと演出助手やってると、さすがに飽きてきちゃうんですね。それで自分で作ってみようと思って作ると、不思議なことにその演出家と同じようなものしかできない。もう発想からして完全にコピーなんですよ。テキスト読んだ瞬間に、こういう形で舞台にしようっていうイメージが完全に先生の色に染められてる。しかも本人よりも出来が悪い。いつの間にかにものすごく吸収しちゃったんでしょうね。逆にそれくらいやらないと学べないのかもしれないんですけどね。でもとにかくそれが辛くて、もうその人のところで演出助手をやるのは辞めようと思いました。

その後、これまで自分が書き溜めていた問題を整理しないとどうにもならないと思って、戯曲を書いてみようと思ったんです。おもしろくなるための方法みたいなノートはいっぱいあるので、それを全部ぶちこんだ戯曲を、大体二週間くらいで書いちゃったんですね。
そしたらまた新しい展開があって、それを笈田さんのところに送ったら、プロデューサーを紹介されて、そのプロデューサーから連絡があってロンドンでやろうとかいう話になりました。結局それは断っておじゃんになっちゃったんですけど、そのプロセスの中で、「あ、これはもしかしたらまたやっていけるかな」みたいな感じが湧いてきたんですね。

その後しばらくドイツにいたんですけど、なかなか労働ビザとれなくて、パリに引っ越そうかなと思ったんです。先生がもともと主にフランスで活動していた人だし、そっちに行こうと思って、荷物を全部パリの友人宅に送ったんですね。それで、一時帰国のつもりで日本に帰ったんです。そしたらそのまま日本に居着いちゃった。あの荷物はたぶん全部とられたんじゃないかなあ。


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自分たちが素材にかきまわしてもらう


宮崎:それからはずっと日本で活動をされているんですよね。

高山:そうですね。ドイツにいたのは通算5年くらいかな。帰国したのは98年くらいだったんだけど、それでゼロの状態に戻ったような気がしました。でも、ゼロからでも全然できるなという感触をすごく強く持ったんですね。それはたぶん戯曲を書いたせいだと思います。逆に、何もないところからいろいろやっていこうと思えました。で、最初シアターXで俳優ワークショップをしばらくやって、ついてきてくれた人たちと2002年にPortBを結成したんですね。

ワークショップをやると、最初はいっぱい人が来るんですよ。だけど、だんだん「いつ舞台に立てるのか」という話になってくる。これは日本の演劇事情にも通じるところがあるんだけど、俳優の問題というのは結構大きいですね。彼らはあまり時間がないんですよ。舞台に立つことが次の仕事につながっていくから、すぐにでも舞台に立ちたい。だから1つの舞台を長い時間をかけて作っていくというのがなかなか難しい。テレビや映画に興味のある人も多かったし、舞台に立つのが1年、2年先ということになると、あまり残らないですね。やってることもかなり特殊だったし。それでPortBを結成するときに思ったのが、いわゆる「俳優」じゃなくて、一緒にプロセスを共有してくれるような人と、プロだろうが素人だろうが関係なくやっていこうかなということでした。そうしたら、残ってくれた人が特殊技能を持ってる人だったんですね。映像だとか、音楽だとか。彼女(暁子猫)ももともと歌手だったし。

最初から「Port Bとしてこういう活動をしたい」というのではなくて、与えられた状況、あるいは与えられた枠組み、予算的な条件に合わせて、こういう中で何ができるだろう?と考えていくのが、僕にとってはすごく良かった。
思い通りのことなんて出来るはずがないんです。役者にこうして欲しいと思っても、全然違う答えしか返ってこない。こういうことをしたいなと思っても、予算的には全然出来ない。そういう、普通だったら足かせと感じるようなことがすごく新鮮だったし、おもしろかった。
その中でいろいろ工夫すると、自分がイメージしていたもの、こうしたいと思っていたものよりも、上手くいった場合に、もっともっとおもしろいものが出来るんだなという発見をさせてもらって。これはもう、この方向でいこうと思いましたね。上手くいかない、不自由な状況を逆手にとるような方向でいこうと。

よく「演出」というと、全部知ってて、皆に指示を出してという、教える立場みたいに思われるけど、そうじゃなくて、たぶん状況の中で一番最初にかきまわされる側じゃないと、やっててもおもしろくないんですよ。たぶんかつて僕が同じことの繰り返しになっちゃったというのは、僕のイメージみたいなものを、誰かにやらせるとか、何かを使って実現しようとしていたから。そうなると、個人の力なんてたかが知れてるから、同じことの繰り返しになってしまう。そうじゃなくて、役者さんとか状況とかドラマトゥルクが、僕を組み立てる。僕がかきまわされて毎回違う形で演劇を作って、それが舞台に反映される。だから今は「ネタが尽きる」とかいうことは全然ないですね。やればやるほど違うものが出てくる。素材が違うので当然違うものが出てくる。ただそれを最終的にまとめなくちゃいけないので、そこでちょっとした個性が出てくるのかもしれませんね。

枠組みとか状況とかすべてひっくるめて、自分たちがかきまわされている。毎回新しい発見があるし、「こんなの出来ちゃったぞ」という感じがありますね。この間の『一方通行路』もそうなんですけど、最初からああいう企画をしようとは思ってなかったんですよ。街を歩いていて、この店おもしろいな、いいな、そういう風に自分たちのほうが刺激を受ける受容体みたいになる。そうすると、街を見てそれを自分で組み立てていくんじゃなく、街から自分たちが組み立てられたという感覚になる。そうすると、そんなに悪いものにならないし、わりとおもしろくなるんじゃないかなと考えているんです。


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『ホラティ人』(c)Yuichiro Tanaka


宮崎:暁子猫さんと林さんは、どういういきさつでPortBに関わることになったのでしょうか?

高山:まず彼女は、前に劇団みたいなのに関わっていたときがあって僕もたまたまそこに関わって、出会ったんですよね。僕がちょうどドイツから帰ってきてちょっとしてからだったかな。

暁子:そう。確か一時帰国暮らしのときかな。私は大学時代からなんとなく演劇との関わりがあって、当時は興味があった歌の活動を中心にしていたんですが。98年くらいかな。

高山:ドラマトゥルクの林さんの場合は、僕らが『ホラテイ人』というのをやっていたときに、たまたま当時いろいろと協力してくれていた平田さんという慶応の人に、僕がドイツ語のできる人が欲しいって言ってたら、林さんを紹介してくれたんです。最初は、彼はパフォーマーだったんです。

そうしたらね、やっぱり彼は相当できる人で、もちろんドイツ語もできるんだけど、それ以外のほうが演劇には結構重要だったりするんですよね。
ドラマトゥルクというのはとても誤解されてて、たとえば翻訳者なんて思われていたりするけれど、翻訳者は他にちゃんといて、それでドラマトゥルクがいるっていうのが普通なんですよ。どういう仕事をやるのかというのも曖昧でね、僕はなんとなくドラマトゥルクとかそういう仕事の経験も多少あるけれど、十人いれば十人なりにいろいろいるんです。それで僕が感じたものを「こういうのもありだよ」みたいな感じで林さんに伝えると、彼が勝手に自分でいろいろやってくれる。まだドラマトゥルクってもの自体確立されていないけれど、それを彼は活動のなかで、自分で作っている感じがあるから、そういう能力をもっている人こそドラマトゥルクなんですよね。そうじゃないと本当に務まらないし、型があってこの型の中で何かやるっていうことじゃないんです。彼はすごく向いていて、『ニーチェ』から本格的にドラマトゥルクをやってもらっています。


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『ニーチェ』


宮崎:林さんは、それまで演劇活動などはされてたんですか?

林:いやいや。いまだに劇場でお芝居みたのって10本ないくらいですよ。全く演劇とか関わりがなかったんですけど、もともと人から「こういうことしてみない?」って誘われると断るっていう習慣がなくて、最初に高山さんに声をかけてもらったときも、いきなりメールがきて、「出てください」と言われて、「じゃあ出ましょう」という感じでした。それで稽古場に行ったら、これはこの人たち面白いことやってるなって思ってびっくりして、すっごく急な参加だったんですけど、ついでだからと思って結構厚かましくちょこちょこ口出したりしてたんです。でも別に煙たがられることなく、そういうの受け入れてくれる態勢なんですよね。それで関わるようになっていきました。

まあドラマトゥルクといっても、ドイツでのドラマトゥルクの歴史的な意味も現代的な意味も、もともとそんなに詳しくないですし、日本で今どういうふうに受容されているかとか、どういうふうに求められてるかってことに関しても特に詳しくはないんですが、Port Bにおけるドラマトゥルクというのはどういうものであったらいいのかということは常に考えてます。

今のところ僕が考えてる一番おおまかな定義というのが、出来上がったものに関して責任を持つのは演出の高山さんなんですよ。でも出来上がらせるのは僕の責任。
Port Bって本当に沢山いろんな人がいて、もうしっちゃかめっちゃかなんです。高山さんがこれやれって言って、じゃあ皆がこれやりますというのじゃなくて、もう皆がいろんなアイディア出すし、これも出来るしあれも出来るとか、これがやりたいとかいっぱいでるんですよね。いろんな方向性にぶつかりあいが起こってる。
皆にはやりたいことをいっぱい言ってもらって、それを初日までにどうにかお客さんに観てもらうかたちに仕上げるのが僕の責任。でもお客さんに観てもらったものに関しての責任は高山さん、みたいな感じ。今はそうやって取り組んでます。

高山:例えばスケジュールについても、ここが今遅れてるとか、ここを詰めてかなきゃまずいよとか、そういうのを彼が全部チェックしてます。今日の稽古は僕ら3人ですけど、映像の人とかはまた別の活動してるわけですよ。今日もたぶん池袋とか行ってインタビューや映像を撮っているし。僕はそれに全然立ち会わないし、彼らは勝手に考えてやって、こういう成果が出たとかいってそれを持ってくるんですよ。そういう感じだから、全体の進行がどうなっているか、僕はわからないんですよね。それを彼は今、全部分かってる。

暁子:今回、「出演」となってるのは私ひとりだけなんです。でも今回は特に、すごくいろんな要素が多層的にある。

高山:ドラマトゥルクってきっとプロデューサーでもあるんですよ。各プロジェクトごとにその制作状況がいかにどういう状況でって判断していく、そして最終的な舞台の出来に関しても、こういうとこが弱いからあそこはちょっとまずいんじゃないかなあとか、わりと少し全体を引いて見渡してくれる。今回の公演はものすごく多様な要素があるので、ドラマトゥルクなしには絶対に成り立たない感じですね。


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『一方通行路 〜サルタヒコへの旅〜』(c)読売新聞


人に任せた方が絶対にいいものができる


増田:僕は前回の『一方通行路』のときにお手伝いさせてもらって、Port Bの中を見させてもらったんですが、内部でもすごく有機的に人が結びついてるっていうのが凄く印象にあります。それがPort Bを象徴する高山さんだったり、繋げている林さんだったり、もしくは看板女優の暁子さんだったり、もしくは誰に象徴されるかわからないけどいろんな人たちをまとめて「Port B」という感じは強いですね。わりと演劇とかアートとかでありがちなのが、アーティストが自分を中心としてやっていく集団だと思うんですが、Port Bは集団のありかたとしても独得というか変わっているなあと思います。

林:毎回作るときに、キャストというのかメンバーは10人程度なんですけど、途中のプロセスでもうその倍どころじゃない人に関わってもらってて、今回も本当にいろんな人と一緒にやってるんですよね。だから「僕らがつくってます」とか「僕らがアーティストです」というのではなくて、本当にPort Bというのはひとつの流動的な場所みたいなもので、そこに毎回いろんな人が集まって、結果として作品というのが閉じられたものじゃなくて、場所としての公演が生まれる、そしてお客さんがいてまたそこに場所が生まれる。そういう活動なんじゃないかと僕は思います。

高山:あと、人と人との結びつきというのはね、媒介がけっこう重要だと思うんですよ。集団のありかたとしてね。これが僕だったらだめなんですよ。物でもないし作品でもない・・・皆の間に何かがあって、それを通じてこの人と結びつくという感じ。人と人との間に空間がすこしあると、組織として集団として、あるいは人間関係として距離をとれますよね。ここで作るんだっていう皆の共通の理解というのもできるし、それはすごく大事じゃないかなって思ってます。
もちろん素材として『雲。家。』というテキストがあるんだけど、テキストと自分たちがやってることのその間くらいにPort Bがあるんじゃないかな。だから皆が何か関わってくれるんじゃないかと思います。中心になるのが結構空っぽなのが可能性みたいなところですね。それが個人になったりしないのが結構いいんですよね。大体どんな劇団とかでも中心が個人になっちゃうんですよ。あれはどうしてなんだろうね。

暁子:Port Bは「プロジェクト方式」だというのをプロフィールに書いていた時期もあったけど、一個一個でかなり新しいものに変わったりしています。ひとつひとつ、新しいプロジェクトにしっかり向かいあって・・・例えば今回だったら、私はこういうのやりたいからこういうふうにやってるとか、それに向かってすっごく調べたりする人もいるし、素材に対してそれぞれのアプローチをしていますね。

林:皆、職能というか専門があるんですけど、それでもその専門しかやらないというわけじゃない。専門を持ちつつ他のものに手をだしたりね。そうしながら公演ができあがっていくのを皆が楽しんでるんだと思う。もともとのフィールドにとどまっているんじゃなかなかできないようなことってすごくあって、皆が専門からちょっと出て、はみだしながらひとつのものを作っていくのはなかなか新鮮で。毎回皆新しいことをやってるんですよね。だから毎回面白いんだと思う。

増田:本当にプロセスを共有してるってかたちで実現してるから理想的ですよね。

暁子:演出がそういうのを固定してないからというのもありますね。

林:いや、それが一番大きいですね。演劇といえば、誰だって「演出家が中心になるものだ」って前提がありますよね。だから高山さんがたった一点の中心になるのではなくて、あえてそういうやり方をとってるからいいんじゃないかな。

暁子:演出というものがどういうものかというのを探りながらやっているだろうし、皆がそれぞれの仕事を作っていっているし、私自身も毎回これっていうのはなく、毎回作っているような感じですね。探りながら作っていって、それでなんかみんなが共有してって。

増田:そういう意味では特別なコラージュができあがっていってるんですね。

高山:それは自然にうまくいってます。人工的にやろうとすると失敗する。それは自分でもわかってます。運とか偶然というものが大事なんです。

宮崎:高山さんの発言を伺っていると、本当にそういうものに導かれていますよね。

高山:本当に大事だと思いますよ。何かね、良い作品を作りたいってあんまり強く思いすぎると、絶対コントロールしたくなるんですよ。そうじゃなくて、本当は人に任せたほうがいいんだよね。人に投げた方が絶対にいいものができる。そうしたら偶然とかいろいろ生まれてくるから、それが生きるんですよ。Port Bを始めてからは、そういう意味でちゃんと然るべき時に然るべき事件が起きたりだとか、ハプニングが起きたり偶然が起きたり出会いがあったり、ちゃんと機能していると感じますね。こちらがそれを排除しないで、それに流されてればいいかという態勢になっていれば、マンネリに陥ることもなくできていくんじゃないかなって気はしますけどね。


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『Museum: Zero Hour J.L.ボルヘスと都市の記憶』


宮崎:PortBの公演をみると、一方で高島平や隅田川をフィールドワークしてつくった舞台や、11月に大好評を博した巣鴨地蔵通りでの“ツアー・パフォーマンス”『一方通行路』のような作品があり、一方でブレヒトやハイナー・ミュラーの「演劇(的)テキスト」に取り組んだ舞台があります。なぜ、非常に対照的なこの2つ方向性に並行して取り組んでいるのでしょうか?

高山:それは偶然という要素が強いですね。『一方通行路』にしても、『隅田川』をやる時に、たまたま猿田彦の本を参考で読んだんですよ。読んだ瞬間に、「これは街歩きのパフォーマンスだな」という感じを持って始めたんですね。最初に直感のようなものがあって、それをフォローしていくと作品ができちゃう。だから今、形として一応二つに分かれているけれど、どっちにしても僕が「こういう路線を作りたい」というよりは、何か出会いみたいなもの、その出会いに対する反応が、一個は前衛的な舞台、もう一個が街の中でのインスタレーションみたいなことをやるということになってますね。

暁子猫:結果的にこういう形になってきたというか、最初からこういう風にいくと決めてたわけでは全然ないですね。

林:やっぱり、僕らは素材を「支配する」というよりは僕らの方が影響を受けてかきまわされるというのが好きなんです。そう考えたとき、「街」もいわゆる「難解なテキスト」も、僕らの力じゃどうにも支配できない。いろんな刺激を受けて、僕らが思ってもみなかったようなものが立ち上がってくるという部分があるんじゃないかな。だから偶然のようで、僕らの基本的な考え方が反映されているのかもしれない、という気もしますね。

暁子猫:最初に『Museum: Zero Hour J.L.ボルヘスと都市の記憶』をやったときに、「ボルヘスをやろう」ということは決まっていたんですけど、それをどういう風にやるかはわからない。それが、急に「高島平だ」ということになって。私は行ったこともなかったんですけど、「高島平をぶつけたらおもしろいことになるんじゃないか」ということで、フィールドワークをすることになったんです。

高山:ボルヘスをやるときにも、なぜボルヘスなのかという理由はあまりなくて、ただ夢を見ただけなんですね。ある日夢におじいさんが出てきて、「次は何をするんだ」と聞かれたんです。僕は夢の中で「ボルヘスをやる」って答えたんです。今までそんなことは全然考えたこともなかったんですけど。それで目が覚めて、「あれ、じゃあ次はボルヘスかな」みたいな感じで・・・。

一同:(笑)


東京でしか作れない演劇を作りたい


高山:たぶん、高島平というのが何で思いついたかというと、ルネ・ポレシュという演出家がいて、彼が日本に来たら、東京を案内するという約束をしていたんですよ。どこを案内しようかなと考えていたんですけど、あまり思いつかない。自分は東京で演劇を作っていながら、あんまりそういう意識はないんだなと感じましたね。逆に東京でしか作れない演劇みたいなものを、どれだけ意識して作っているんだろうと思うと、全然ないなと自分で思ったんです。それでボルヘスに高島平をぶつけようと思ったんですね。何で高島平なのかはよくわからないし、忘れちゃったんだけど。

でもPort Bの活動は、僕がドイツで勉強していたこともあってドイツ的と思われているかもしれないけど、僕の気持ちとしては日本でしか、あるいは東京でしか作れないような演劇を作りたいという気持ちはすごく強い。逆にドイツの状況はある程度わかるので、ドイツだったらもっと上手くできるというようなものがいっぱいあるんです。これは一番のネックなんですけど、日本の現代演劇の状況は貧しいんです。これはお金的にもそうだし、もしかしたら人材的にもそうかもしれない。でも、だからこそ出来ることがあると僕は思ってます。J演劇…ジャンク演劇ですよね、僕はそういう言葉で括るのはあまり好きじゃないけれど、でもあれは一面ではすごく真理を突いてるなと思っていて、感心するところもあります。日本でやっている以上、ジャンクじゃなきゃ絶対ダメだぞ、というのは僕もすごく共感しています。でもその出し方みたいなのはだいぶ人によって違うし、その出し方を「ゆるいシーン」とか「だらだらした感じ」とか、そういう風に一元化してほしくない。だけど、その根本的なコンセプト自体は賛成してます。


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『一方通行路 〜サルタヒコへの旅〜』


宮崎:日本において、演劇が「ジャンクでしかありえない」というのはどういうことでしょうか?

高山:そうですね・・・、たとえば制作面で言うと、「いい舞台」と言われるもので、ドイツの劇場から日本にくるものはお金がかかっているように見えるし、実際すごくお金がかかっているんですね。それと同じ土俵で作ってもね・・・。それから彼らには教育システムがあって、公共劇場や私立劇場に入る役者は限られている。そういう役者が朝9時から17時まで稽古して、ほぼ毎晩公演がある。そういうのを繰り返していたら上手くなるんですよ。そういう、本当のプロの俳優というのが学校で作られて、劇場に入ってからもどんどん成長していく。しかも演出家が次から次へと交代して、どんどん新しい役をふられて、3ヶ月に1本は新しいものをやる。それはやっぱり役者は育ちますよ。しかも1回作って終わりじゃなくて、レパートリーシステムだから何回も繰り返し出来るわけですよ。悪い面もあるんだろうけど、「製品を作る」という意味では、日本に比べたらかなりいい環境です。日本の場合はなかなかそうはいかない。それを真似して、ジャンクじゃないものを作ろうとしたら、たぶんヨーロッパというかドイツには絶対かなわないと思う。100年経ってやっと追いつけるかなと思うけど、その時はやっぱり向こうも進んでるだろうから、たぶんいつまで経っても追いつけないですね。

でも全く発想を変えると、彼らが豊かだからこそ見えないものというのがきっとある。たとえばチェルフィッチュのような身体だとか、あれも一つの方法だと思うんですよ。

僕らの場合は「リサイクル」みたいな感じで、あるものを全然違うものと組合わせると、日常とまったく違う姿を見せてくれる。身体だとか、声だとか、たとえば街もそうだと思うんです。巣鴨の商店街はいわゆる「綺麗な街」という感じでもないし、商店街なんて普段見慣れてるように見える街が、ちょっと仕掛けを作って、多少能動的にお客さんが動くようにすると、街が化けてくれる。それを化かしているのはお客さんなんですよ。そういう枠組みさえ作れば、パリやウィーンみたいな美しい街には全然追いつけないけど、ああいう巣鴨の商店街でも、演劇的にすごくおもしろいものに化けさせることができるぞというところで、ジャンクという言葉を使いたいなと思います。それは舞台でも同じだと思うんですね。舞台装置にしても、役者の身体にしても、声にしても、全然向こうの人と違う環境で、東京でしか生まれないものを作れるんじゃないかな。


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『一方通行路 〜サルタヒコへの旅〜』(c)読売新聞


人が集まる場として演劇を機能させたい


宮崎:今のお話と関連しているかわからないんですが、以前に高山さんが仰っていたことで、非常に印象深かったのが、「自分は一個の完成した作品として観るなら、演劇よりも映画の方が好きだ」ということです。

高山:それは大事なことなんです。この間の『一方通行路』のようなパフォーマンスなんですけど、よく街頭パフォーマンスというと、パフォーマーがパフォーマンスをしているところをお客さんが観るだけですよね。それはただ場所を外に移しただけであって、やっていることは全然変わらないじゃないかと思うんですね。だったら劇場でやればと僕なんかは思います。だとしたら、お客さんの参加によってがらっと変わる、お客さんに喋ってもらったりとか、お客さんが見る、聞く、歩くというのが演劇の実質になるような体験って、もしかしたら普通の演劇を観ているときでも、起こっていることなんじゃないかと思うんですね。というのは舞台上の作品が完結したものとしてあるんじゃなくて、それをお客さんがその場でしかも同じ時間を共有して体験するというのが演劇の特殊性だと思うんですね。映画だったら同じフィルムを世界各国で見られる。それは撮られた過去だと思うんですよね。それが演劇の場合、生身の身体がそこにいたりだとか、いろいろあるわけですね。

演劇というものはかなり古いと思うんですよ。これだけインターネットが発達していて、いまロンドンやニューヨークで何が起こっているのかリアルタイムで観れる時代に、わざわざ同じひとつの場所に足を運んで、いなくちゃいけない。しかも動けない。それってかなり時代遅れの形式じゃないかなと思うんだけど、逆にそこに可能性が在るんじゃないかなと思います。いまインターネットなどを見ててたまに思うのは、近い人と、すごく遠くの人しかいないんじゃないかな。たとえばmixiとかですごく近くの友達とコミュニケーションして、それ以外見ない。あるいは、ニューヨークとかものすごく遠くの街が好きだけど、逆に近くものに対して関心が薄いとか。裏を返すと、ベルリンは素晴らしいといったって、ベルリンに住んだら素晴らしいことばっかりじゃないわけです。隣の人の足音がうるさいとか、いろいろある。だけどインターネットだとそういうことは感じないですよね。そういう距離感が狂った世界に僕たちは生きてるなと思います。僕はそういう距離感を大事にしたいなと最近思っています。

すごく近い身内でもないし、すごく遠い人でもないし、わりと近いんだけど身内じゃない人が集まるような場として演劇を機能させられたらと思うんですね。インターネットの世界とは違った距離感覚、肌が触れ合わないんだけどわりと近くにいるというところで、どういう共同体、集団が生まれるのかなというのは、これからの演劇活動で大事にしていきたいところですね。

だからお客さんってすごく大事なんです。『一方通行路』はそういう意味で、お客さんと一対一でコミュニケーションできる貴重な機会でした。本当はお客さんって一人一人考えていることも違うし、みんな違うはずなんだけど、つい演劇を作っていると「お客さん」って集団で捉えてしまう。それが嫌で、「作品」があって「お客さん」がいて、という変な二項対立を崩したいなというのがありますね。


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『Re:Re:Re:place 〜隅田川と古隅田川の行方(不明)〜』(c)Yuichiro Tanaka


宮崎:もうひとつ、印象に残ったことがありまして、これもまた以前に高山さんが仰っていた、「橋がかかりそうでかからないところに演劇の可能性を見る」という言葉です。それは今回の作品にも関係していますか?

高山:関係しそうですね。今回の『雲。家。』のキャッチコピーとして「ポルト・ビー、”翻訳”不可能性の溝に挑む」というのがメインパンフレットに書いてあるんですけど、僕は本当は「ポルト・ビー、”翻訳”不可能性の溝にはまる」としたかった。

一同:(笑)

高山:普通「溝」というと、そこに橋をかけるとか、つなぐとかが多いんだけれど、僕らPort Bが意図していることはそれとはちょっと違っていて、「溝」があったらその「溝」に「はまる」という方が合っているんですよ。

たとえばヘルダーリンという詩人がいて、彼は詩人としてだけでなく翻訳家としても非常に評価が高かった人なんです。当時の文脈で言うと、ヘルダーリンがギリシャ悲劇をドイツ語に訳したものは、ドイツ語としてはめちゃくちゃで、構文も変で、僕なんかいまだに読めない。でもそれをベンヤミンはすごく高く評価したんです、ドイツ語の新しい可能性を開いたって。それを知って、なるほどなあと思いました。
普通、翻訳という作業は、ドイツ語を日本語の文脈に移していかに美しい日本語にするか、あるいは日本語らしい表現にするかということが評価の基準になりますよね。でもそういう翻訳だけじゃなくて、逆に日本語をドイツ語の文脈に移すことによって、今までの日本語になかった表現に生まれ変わらせることになるし、きっとベクトルが逆になると思うんですね。

素材のほうに僕らがかきまわしてもらうっていう僕らの創作姿勢と同じように、ドイツ語に日本語をかきまわしてもらうほうが生産的かなあと。そういう意味で溝を上手く接合したりつないだりっていうよりは、溝に「はまる」。溝にはまったら、なにか出てくるかもしれない。そっちのほうがたぶんやってておもしろい。


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『シアターX・ブレヒト的ブレヒト演劇祭における10月1日/2日の約1時間20分』


宮崎:この『雲。家。』という戯曲は、チラシの記載によれば外国人排斥や愛国心といったテーマを扱っているとのことですが、今回このテキストを舞台化しようと決断なさったのは、日本を含む世界各国で若者を中心とした右傾化が進んでいるといわれる状況や、あるいは日本におけるさきの教育基本法改正と密接なつながりがあるのでしょうか?また、今回の作品の中でもそういった政治的な問題がクローズアップされることになるのでしょうか?

高山:たぶんそういう問題はすごくあるんですが、僕らのスタンスとしては政治的な問題をいわゆる大文字の問題としては扱いたくないということがあるんです。例えば演劇体験というものを、これは演劇じゃなきゃ体験できないというものにするためには、大文字の政治で「こういう問題を扱っています」ってお客さんに伝えるだけで終わっちゃったら勿体無いと思うんです。それだったら論文を書けばいいし、それだったら僕だって社会運動を仕事にします。

そうじゃなくて、僕らはあくまで演劇を通して何かをやっていかなくちゃいけないと思うし、演劇をどういうふうに利用するかというのは、本当に真剣に考えていかなくてはいけないと思います。僕が一番安直だと思うのは、社会的な問題をテーマにしてそういう舞台を作って、「これが問題です」で終わったら、たぶん何も変わらないんじゃないかなと思うんですよね。

たとえば今の日本人という言葉で表現するとしたら、日本人から見たら、アメリカ人とかヨーロッパとかアフリカ人とかのほうが、まだ僕らも寛容だと思うんですよ。逆にやっぱり関係が難しいのが隣の国、例えば中国だとか韓国だとか北朝鮮、あるいはもろもろのアジアの国だと思うんです。実際問題になっているのはアジアの国との関係の方じゃないでしょうか。

じゃあそういう人たち、そんなに遠くはないんだけれども身内ではない人たちと、こういう戯曲やこういう製作の場を使ってコミュニケーションをとるほうが、ここで作品として政治的な問題をアピールするよりも重要なことなんじゃないかなと思います。実際、若者はひとりひとり差があるわけですが、今回はそういう人たちにも何人か実際に来てもらって、「どういうこと考えてるの」とかそういう話し合いを持つ、演劇ってそういう場として機能する余地がどうやらまだあるみたいなんですよね。

だからそういうものとして利用する気持ちはすごく強くあって、そういうのが小さい意味での政治じゃないかって僕は思うんです。できるだけ大きな物語としての政治に回収されないようなかたちで、最終的に見えなくてもいいから、途中のプロセスでそういう政治的な問題をちゃんと扱っていく活動ができたらいいなと思いますね。そういうプロセスが全然無いまま、最終的な舞台で政治的な問題を扱っても僕は全く無意味だと思うし、それだったら社会運動をしたほうがいいと思います。


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お客さんに作っていってもらいたい


宮崎:PortBのこれまでの公演をみると、高島平や隅田川をフィールドワークしてつくった舞台や、11月に大好評を博した巣鴨地蔵通りでの“ツアー・パフォーマンス”『一方通行路』のような、とても親しみやすく身近な作品がある一方で、非常に前衛的で難解なテキストに取り組んだ『ホラティ人』や『ニーチェ』のような舞台があることがわかります。今回の『雲。家。』は明らかに後者に属しているようで、チラシを拝読してもかなり難解な作品になるのではないかという印象を強く受けます。
そうしたときに、たとえば『一方通行路』のような企画には気軽に参加してくれたお客さんが、今回は観に行っても難しくてわからないかもしれないと考えて、行こうか迷っていることもあるかもしれません。そのような場合が仮にあるとして、そういった方に何かメッセージをいただけますか?

高山:それは本当に大事な問題ですね。僕らは同じ問題を扱っているつもりなんですけど、ただお客さんが参加してそこでやるっていうと、そもそも歩かなくちゃいけないし、聞かなきゃいけないし、見なきゃいけないし、そうじゃないとパフォーマンスが成り立たないって前提があるんですね。本当は観劇行為はそもそもそういうものかもしれないんだけど、でもそれが劇場の舞台になった瞬間に、もう答えがあってわかるもの、あるいはわかりやすいかわかりづらいかどっちかだ、みたいなのがあると思うんです。

でもたとえばこの間の『一方通行路』は、わかるわからないってあんまり問題にならないんですよ。自分が作りゃいいんだから。本当は観劇ってそういうものだと思うんです。だから『雲。家。』を観てくださるときも、別にわかるわからないじゃなくて、お客さんが作ってもらえたら楽しいんじゃないのかなっていう舞台は作れるような気はしているんですよね。観て、わかるわからないとかっていうよりは「あ、この音とこの音が結びつく」「こういう感じだなあ」とか勝手に自分でイメージを作ってもらったりね。今回はお客さんは動かないけれども、座りながら作っていってほしい。

たぶんね、これは意味はわからないですよ。僕らも必死になってテキストを読みましたけど、とても全部はわからないし、訳わからないところもいっぱいあるしね。でもそれを精一杯の形に、これだったらいけるって形にしてお客さんに提示したい、共有したいと思うんですよ。でも料理をするのは、お客さんなんだよね。料理・・・料理と言うより食べるのかなあ。

暁子:私たちは素材を出すのかな。

高山:でも料理してないって思われたらやだなあ(笑)。難しいところだな。

一同:(笑)

増田:僕は前回の『一方通行路』で、Port Bを好んでるお客さんたちを多少垣間見れて、お客さんたちもスタッフと同じように、Port Bに愛情を注いでるのを感じました。高山さんの先輩がいらっしゃってて、そのときに高山さんとお話されてたのが印象的だったんですが、いつもわかんないなあって思ってて毎回勉強してから行こうかなって思うんだけど、まあでも毎回わかんないんだよね・・・でも今回はまた全然違った趣向で面白かったというようなことを仰ってて、わかりづらさや難解さというようなものを超えてお客さんに伝わってるものがあると思います。

暁子:私たちのパフォーマンスは、難しいと言われることもあるんだけど、そうじゃない見方をしてくれるお客さんも結構いて、ふだん演劇を観ない方たちから、おもしろかったと言ってもらったりしています。だから、わかるわからないじゃないところで観てもらえたらなと思います。それがまたひとつの演劇の可能性というか・・・。わりと日本だと、演劇の可能性というのが一般的に思われてるよりも、もっとあるんじゃないかなと私自身感じたりするんです。

高山:そうですね。僕もそう思います。

宮崎:ありがとうございました。


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(2007年1月31日(水) にしすがも創造舎にて)

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