演出ノート 高山明
『雲。家。』は、通常の意味での「戯曲」からはかけ離れている。いわゆる「戯曲」の特徴を何一つ持たず、ただ「わたしたち」という主語をもつ言葉が、24の断片を紡ぎ出していくだけである。そこで「わたしたち」が狂ったように追求するのは、「わたしたち」の「家」はどこにあるのかということ・・・ 母語はわたしたちの「家」になりうるのか。 身体は、民族は、国は、故郷は、歴史は、大地は、生は、死は、そして「わたしたち」自身はわたしたちの「家」になりうるのか。
こうして「わたしたちは眼を見開き、常にわたしたち"だけ"を探し求める」のだが、その途上で「わたしたち」は何を捏造し、何を排除するのか? その行く末に「わたしたち」は何を見出し、何になるのか?
『雲。家。』にあるこうした批判的問いかけをわたしたちに向けられたものとして受けとめ、「家」としての答えを追い求めず、敢えて問い続ける姿勢を共有することにこそ、"外国"での上演は不可能といわれる言説を逆手に取り、この戯曲を"外国語/日本語"で舞台化する可能性があるのではないか——