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『雲。家。』作品紹介


2001年のカンヌ映画祭グランプリ受賞作『ピアニスト』の原作者として、そして何よりも2004年のノーベル文学賞受賞者として知られる作家、エルフリーデ・イェリネク。彼女が1988年に発表した僅か40ページばかりの作品『雲。家。』は、通常の意味での「戯曲」からはかけ離れている。登場人物の指定や舞台設定への言及、また作中のト書きといった、いわゆる「戯曲」の特徴たる一切をこのテキストはもたない。ただ「わたしたち」という主語をもつ言葉が、24に区切られた断片をひとつまたひとつと紡ぎ出すだけである。

そこには「対話」もなければ「物語」もない。一貫した筋のようなものさえない。だが問題はその「わたしたち」の独言が扱う内容にある。それは人種差別、外国人排斥、自民族の優性の強調、隣国に対する侮蔑、郷土愛、愛国心、そして祖国のための死といった、かつてのファシズムか、あるいは今日の極右のアジビラを思わせるようなものを含んでいるのである。そして、例えばこれがたんに1988年の状況に対してイェリネクが突きつけた言葉であったなら、彼女による現代批判として片付けることも可能になるのだが、そのような身振りを許さない根深さをこの作品は秘めている。

この極右思想を連想させるテキストは、実はその大部分を高名な詩人や哲学者たちの言葉の引用、あるいは「使用」(部分的に言葉を変えること)によって織りなされている。近年殊に評価が高い詩人ヘルダーリンや、ドイツ観念論哲学を代表するフィヒテとヘーゲル、そして20世紀哲学最大の巨人ハイデッガー。ドイツ語圏の人間であれば誰もが偉人として認識しているであろう人物たちが、それぞれに祖国を思い、郷土を思って発した、美しく、思慮深く、そして心から誠実であったはずの言葉が、文脈を移され、またその中の一語を変えられて組み合わされただけで、全体として極右思想を思わせる文章になっているのである。希望として生み出されたものがここに悪霊として回帰する。『雲。家。』は当然右傾化に対する批判としても読めるが、さらに深いレベルにおいて問題となっているのは、こうして夢と悪夢が常に背中合わせにならざるをえない人間の言語と思想そのものだろう。

イェリネクは、この『雲。家。』によって1988年、ドイツの演劇専門誌『テアター・ホイテ』が選ぶ年間最優秀劇作家賞を受賞した。(彼女が同賞を受けたのはその時点ですでに二度目だったが、以後今日に至るまで、通算五度の受賞歴を数える。)従って『雲。家。』は、発表当初より極めて高く評価されていたと言ってよい。しかしより一般的な意味でこの作品が注目され、名声を得たのは、1994年にハンブルクでヨッシ・ヴィーラーが演出した際だった。日本でも二度(1997年/2005年)の演出歴をもつヴィーラーが舞台化した『雲。家。』は、その年のベルリン演劇祭に招待作品として出品され、1994年の年間最優秀演出に選ばれた。そしてのちにこの舞台はドイツ・フランスの合同出資で成り立つ教養専門チャンネルARTEによって独仏でテレビ放映され、その際には作家イェリネクとヴィーラーの『雲。家。』舞台化プロセスを紹介する30分の特集番組が合わせて制作されている。イェリネクの『雲。家。』は、テキストとして、また舞台として、極めて深刻で根深い問題を考えるきっかけを与えつつ、しかも専門家と一般の観客とを問わず最高の評価を受けてきた作品と言えよう。


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