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『ブレヒト教育劇』ノート(2003.10)  高山明

ブレヒトは権力構造のモデルを舞台に提示した・・・その典型としての『教育劇』は既にアクチュアリティーを失っている・・・等々、よく耳にすることではある。が、本当にそうなのだろうか? ブレヒトがその程度の人ならば、もはや演劇史的な価値しか持たないし、今更改めて取り上げる意味もないであろう。人物であれ事象であれ何であれ、与えられた決まり文句で括ってハイッ了解!という“消費者的態度”こそ、ブレヒトが突き崩そうとしていた「受容」の一形態なのである。というのも、ブレヒトは、舞台によって“生産”された作品を観客が“消費”するという「受容」の在り方を問題にしていたのであり、その二項対立を“止揚”するような「受容」形態を模索していたからである。つまり、ブレヒトの演劇においては、舞台上で生起する事柄が作品なのではなく、舞台と観客との関係が作品の質を決めるのだ。(異化効果や叙事的演劇といったブレヒト特有の方法も、舞台と観客の関係性そのものを変えるための手段として考案されたものに他ならない。)「受容」を問題としたブレヒトを「受容」するのであれば、まずは当の「受容」に対する批評意識を持つことが大前提になると思う。

この「受容」の問題に関して、ブレヒトはとりわけ初期の『教育劇』で実験を繰り返したわけだが、ハイナー・ミュラーがブレヒト演劇の核心と評価し、また、ブレヒトの不徹底を批判したように、『教育劇』は最も革新的な演劇であったにもかかわらず、ブレヒトの転身によって十分展開されぬまま終わった。私たちに残された課題は、従って、諸々の事情があったにせよブレヒトが中途で投げ出してしまった『教育劇』の「その後」に挑戦すること、歪んだものになることを承知で、現代における『教育劇』の可能性を探ってみることではないだろうか。もちろん、そこで問われるのはブレヒトではなく、ブレヒトの何をどのように「受容」し、今、ここに、現代の観客相手に新しい「受容」の形を創造できるか、という私たち一人一人の在り方である。

モデルを与え観客を一つの方向に持っていく演劇、と近代的な誤解を受けかねない『教育劇』であるが、実は、その可能性は全く逆の方向を向いているように思う。これは自分の頭で『教育劇』に取り組んだ者ならば実感できる事柄であろう。一見単純に見えるテクストが、舞台化を前提としたところで付き合い始めると、矛盾の束のような様相を呈してきて、どうにもならないような気持ちにさせられるのだ。そこで気付くのは、本来の『教育劇』は上演不可能なのだという事実、つまり、舞台があって、その上に作品があって、客席には作品を消費する観客がいて、というような上演を成立させない為にこそ、『教育劇』は書かれたのである。劇場ではなく学校や工場で、プロの役者ではなく生徒や労働者によって、役は入れ替わるべきものとされ、演じる側と見る側の区別はなく、相互の交換可能性が求められる「演劇」。これは、差異を生じさせながら反復されるプロセスそのものが「上演」であるような「運動」と言ってもよい何かであろう。しかもブレヒトは、観客が一つになることを望むどころか、逆に、分裂すべきものと考えていた。ここまで来れば、上の誤解がいかに的外れなものであるかがはっきりするだろう。『教育劇』は一本の線に従わせることを意図した「中心化された演劇」ではなく、観客に「観客」であることを止めさせるような「運動」のなかで、多くの線が交錯することを可能にするような“場”であり、そのテクストは、新しい「受容」形態を作る為の、文字通りの台・本なのではないか。『教育劇』におけるこの「受容」形態が、あるいはそこを突こうとした姿勢が、『教育劇』を“教育劇”たらしめた要因と考えられる。私たちはそこにもまた、ブレヒトの更なる可能性を読まなければならない。

ブレヒトの『教育劇』がいかに観客の存在を重視しているか、これは上に述べたことからも明らかだろう。そして行き着いた先は、逆説的なようだが、観客の否定、正確に言えば、「観客」という在り方の否定であった。(しかし観客という存在は保持される。)「観客」の否定とは、単純に演じる側への移行という事もあれば、考える人として舞台作りに参加するという場合もあろう。しかし、それらはブレヒトの野心からすれば大したことではなく、究極的には、一人一人の日常生活にまで「演劇」を拡張し、連鎖させることを目指していたように思えてならない。その為の「異化効果」であり、その為の「引用可能な演技」ではなかったか。つまり、当たり前と思われる事柄を距離をもって捉える方法を学び、引用することのできた「演技」を自他の行動に関係させることで外側から観察する視点を確保すること。観客には、劇場を出た後の日常において“も”、観客的な在り方を排し、「演技者」として生活することが求められている。更に進んで、この姿勢は日常生活内部で「演劇」を作り/観察することへと連鎖していくべきものだろう。(各人が「観客」であることを止め、日常生活での自他の行動を「演技」として作り/観察していたならば、例えば“ナチズム”という“演劇”はあそこまで興隆しなかったはずである。大衆一人一人の無意識な観客的態度が“アウシュヴィッツ”を生んだとは言えないだろうか。)ここで問題になっていることを社会的な観点から捉え直すと、生産者・消費者という二項対立のなかで、常に消費者に留まるような観客的在り方から、二項対立を“止揚”したところで、作り手/批評家を同時に兼ねるような在り方への転換である。この転換を誘発するものとして「演劇」が機能するならば、確かにそれは“教育的”であると同時に“政治的”な『教育劇』と呼ばれるに相応しいものだろう。消費されるものとしての大文字の「教育」や「政治」ではなく、それらの概念が上のような意味で「異化」された時はじめて、ブレヒト『教育劇』は真に“教育的”/“政治的”な「運動」となる可能性を持つのだ。もちろん、ここにも根っこのところで「受容」の問題が絡んでいる。つまり、「劇場」での新しい「受容」形態は、「劇場」外での「受容」の際も引用され、応用されうるものでなければならず、その「受容」の内実とは、通常受け身のイメージで捉えられているようなものではなく、「わたしが世界との関係をどう結ぶか」=「世界を、わたしを、どう創っていくか」という極めて批評的/創造的なものなのである。

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