『素晴らしい事が終わるとき-歴史とわたしとバービー人形-』ポスト・パフォーマンス・トーク
(2月3日)
トーク出演者:
大久保聖子(TIF)
シェリー・クレイマー(劇作家)
工藤千夏(演出家)
吉田恭子(アーツ・ミッドウェスト)
大久保:お待たせいたしました、ただいまから『素晴らしいことが終わるとき 歴史とわたしとバービー人形』のポストパフォーマンストークを始めたいと思います。わたくし東京国際芸術祭の大久保と申します。よろしくお願いします。では早速ご紹介したいと思います。作家のシェリー・クレイマーさんです。(拍手)演出の工藤千夏さんです。(拍手)通訳はアーツ・ミッドウェストの吉田恭子さんにお願いいたしします。(拍手)そして今日はもうお一方ゲストをお呼びしております。シェリーさんのバービーちゃんです。
シェリー:(人形を見せながら)バービーです。よろしく(笑)
大久保:私はこの作品を2年前にプレイライツセンターのプレイラボというリーディングのフェスティバルでシェリーさんご本人が読んでいらっしゃるものを見て、こんな興味深い力強い戯曲を書いている方が今のアメリカにいるということにとても喜びを感じました。そしてぜひ日本で紹介したいと強く思いました。昨年は無理だったのですが、今年念願の来日をしていただくことができて本当に嬉しく思っています。シェリーさん、この戯曲が書かれた背景についてお話いただけますか?
シェリー:書かずにはいられなかったのです。9.11の後、9.11について書かないということはあり得ないと私は感じました。ではどう書くのか、というジレンマはありましたが、私の表現としてはこういう形になった、ということです。
大久保:この作品ではバービー人形とお母さまの思い出を一緒に語っていますが、この2つを組み合わせようと思ったのはどうしてですか?
シェリー:実際に母が亡くなった後に家の整理をするために実家に戻ったのですが、その時に実際にバービー人形も出てきました。その思い出が甦ってきてそこに私が浸っているちょうど同じ頃、中東の歴史についても知りつつあって・・・戯曲に書かれているのとほぼ同じ状況に、私も実際にあった、ということです。
大久保:この作品は2004年に書かれてから全米の劇場で何回かリーディング公演を重ねてきています。今回日本で上演した新しいバージョンには、最初に書かれたものから付け加えられたり削られたりした箇所が随分ありましたね。この3年間の間にどのような変化を遂げてきたのでしょうか?
シェリー:この戯曲は2004年に書き始め、2005年に書き終えました。改稿にあたっては、休憩なしで90分以内におさめたい、ということと、はじめは私が自分で演じていたのですが、他の女優にも演じられるようにしたい、ということを念頭においていました。
大久保:シェリーさんは女優でもあるのですか?
シェリー:いいえ、私が演じたことがあるのはこの作品だけです。
大久保:では次に演出の工藤さんにお聞きします。今回工藤さんに演出をお願いしたのは、昨年お呼びした演出家マック・ウェルマンさんがニューヨーク市立大学のブルックリン・カレッジで教えていらっしゃるのですが、そこに日本人の学生がいる、ということで昨年紹介していただいたのがきっかけでした。この戯曲を最初に読まれた時はいかがでしたか?
工藤:一番最初に読ませていただいた時は、目黒条さんの翻訳がとても素晴らしかったのですが、それでも長くて難しいな、というのが第一印象でした。英語を日本語に直すとどうしても長くなってしまって、シェリーさんは1時間半とおっしゃいましたが、日本語でそのまま読んだら2時間は超えてしまうだろう、と思いました。今日の舞台では3人で演じていますが、もともとの戯曲は一人芝居なんですね。この長い戯曲を一人でしゃべりまくったシェリーさんという方は、いったいどれだけパワフルでエネルギッシュな方なんだろう、と。そしてこの劇場を昨年拝見していましたので、2時間一人でやるということがここで成立するんだろうか、ということをまず考えました。
大久保:考えつく限りの女優さんの名前を並べて考えましたね。私が最初にシェリーさんの舞台を見たときには渡辺えり子さんかな、と思ったりしました(笑)。3人に分けようと思ったのはどうしてですか?
工藤:まず、時間を少しでも短くするためです。一人が全て話すとなると、段落が変わるときにどうしても息継ぎをしたり気持ちを切り替えるために間をとらなければいけませんが、3人にしたらその間を重ねられるな、と。それから、この戯曲は一人語りではありますが、歴史的なことを語る部分と母親の話というパーソナルな部分、そしてバービーにまつわる思い出話、という3つの部分に分かれると思いました。その3つについて一人の人間の内部で話し合う、という形にしたらより伝わりやすくなるのではないかと感じました。
それから、今回の上演台本では元々の戯曲に書かれているト書きをかなり変えています。バービーのイメージや動きを提示するときに、実際にシェリーさんが演じられた時の台本では本物のバービー人形を手に持って見せる、という指示だったのですが、この広さの劇場で同じことをしても小さすぎてお客様も見ていてピンと来ないだろうな、と思いまして。だったらいっそ大きな、人間のサイズのバービー人形を出したい、バービーに洋服を着せるシーンを人間でやりたいな、と思ったのが多分一番大きな理由で、今回のリーディングはそこが一番ミソだ、と思いました。
大久保:パンフレットにも書いてありますが、工藤さんは9.11のときちょうどニューヨークにいらしたそうですね。
工藤:そうなんです。ちょうど、先ほどお話にありましたマック・ウェルマンという劇作家のワークショップを受けていました。911の後に「今考えていることを10分のショート・プレイにする」という課題が出て、その時に、変な言い方ですが「あぁ、私ってアメリカにいると外人なんだな」ということを痛感したんですね。アメリカ人が9.11に対して感じたのは、簡単に言えば被害者意識だったんです。私は当然そうは感じなくて、何故それが起こったのかをどうして一緒に考えられないんだろう、という疑問の方が大きかった。なので、シェリーの戯曲に出会った時は「アメリカ人でもこういうことを一緒に考えてくれる人がいるんだ、こういう戯曲を書いてくれるすごい劇作家がいるんだ」ということにとても嬉しい驚きを感じました。「アメリカの政府は私たちを失望させてきたし、今も失望させているし、これからも失望させ続けるでしょう。でも・・・」という台詞は、なかなか書けるものではないと思います。これを書ける人には今まで私は出会えなかったので、この戯曲を演出させていただけて嬉しかったです。
さっきからアメリカ、アメリカと言っていますが、日本でも同じことだと思うんです。アメリカの人たち、日本の人たち、という境界があるのではなくて、一緒の話なんだな、と今回演出させていただいて改めて強く感じました。この戯曲は「アメリカ人はこう考えていますよ」ということを提示するだけではなくて、同じ地球で息を吸っている私たちが今何を考えなければいけないのか、というところまで一緒に考えさせてくれるものだったと思います。
大久保:この戯曲はまだフルプロダクションによる本公演はされていないのですが、アメリカで上演したときの、アメリカ人観客の反応というのはどういったものだったのですか?
シェリー:今のところ好評です。この夏カリフォルニアでも上演しましたが、そのときも観客はポジティブに受け入れてくれました。この3月にはHumana Festivalでフルプロダクションで上演されることが決まっていますし、フィラデルフィア、ニュージャージーでも上演されることになっています。
大久保:シェリーさんはミズーリ州スプリングフィールドご出身ということですが、戯曲の舞台としても登場するスプリングフィールドでの上演は考えていらっしゃいますか?なかなか難しいことかもしれませんが。
シェリー:この作品も含め、私の作品がスプリングフィールド、そしてミズーリ州内で正式に上演されたことはまだありません。大学のプログラムの一環で上演したことはありますが。でも、近いうちに家を引き払ってミズーリ州を出ることになっているので、その前には一度しっかりと読んでおきたいと思っています。
工藤:戯曲の中に出てくる弟さんが、もしこのお芝居を観たことがあったらどんな感想をお持ちになったのか興味があるのですが(笑)。
シェリー:実は弟は早い段階でこの戯曲を読んでいまして、この戯曲に出てくる弟に関する記述については否定していました。でも彼の娘たちは「ここに書いてある通りよ」と言っていました。結局戯曲の中では彼の個人名は伏せることにしましたが。
大久保:ではここからはお客様からの質問を募りたいと思います。質問のある方はいらっしゃいますか?
お客様:とても面白く拝見しました。この戯曲では、人形に関する個人的な思い出話と今の世界情勢という大きな話が同時に語られていて、私はその間に大きなギャップを感じるのですが、その間を埋めるものは何ですか?
シェリー:答えは2つあると思います。ひとつは1964年という時です。私が実際に生きながら、世界で何が起こっているかということに全く気付いていなかった、それと同じ時に、世界のどこかではとても大きなことが起こっていた。その状況を描いたこの戯曲自体が、そのギャップを埋めるものであるとも言えると思います。その媒介として、「私」という個人や女優がいる、と考えています。もうひとつは、「母」という存在です。誰にでもある共通の、普遍的な存在である母親が、ギャップを埋めるいわば交通機関の役割を果たしていると思います。
工藤:私は、そうした大きなことと小さなことの両方が均等に、ランダムに描かれていることがこの戯曲の魅力だと思います。その間に「死」というものが媒介にあることは確かですが、何千万人の死も母親の、自分にとって一番大切な人の死も、どちらが大変な死だとか、どちらの方が大きな悲しみだということはない、というメッセージがこの戯曲の中にもあります。小さいことに引き寄せた方が、大きな、たとえば戦争などの悲しみも、自分たちのものとして感じられる、ということを提示している戯曲だなと感じました。「テロで何千人が死にました」と聞くと、ニュースとして、新聞で読む記事として、自分とは関係ないことのように、毎日毎日そういうニュースを聞いているので、「あ、まただ」と通り過ぎてしまう。でもその何千人のうちのひとりひとりが家族がいたり、自分の弟だったり父親だったり恋人だったり、ということが想像できると全然違ったものに見えてくる、ということの手がかりになる戯曲だと感じています。
お客様:この戯曲を書き終えたのが2005年ということですが、今後上演を重ねるにあたって2005年以降の情勢も含めて書き直されることはあるのでしょうか?それとも、それについては演出家に任せられるのでしょうか?
シェリー:大変興味深い質問ですね。今すぐに答えは出ませんが、戯曲というものは永遠に書き終わることはない、と私は考えています。この戯曲も、現状を取り入れてアップデートしていくこともありうると思います。
工藤:最後にシェリーさんに。素敵な戯曲をありがとうございました。今回のリーディングでは、話題の移り変わりをはっきりさせるために章ごとにタイトルを英語と日本語で入れたのですが、英語版にはシェリーさん自ら、素晴らしい女優として参加してくださいました。ありがとうございました。
シェリー:ありがとうございます。私にとっても素晴らしい、めったにない経験でした。皆さんにお礼申し上げます。
大久保:ありがとうございます。それではちょうど時間となりましたので、ポストパフォーマンストークをこのへんで終わらせていただきます。どうもありがとうございました。
写真:篠田英美
文責:舟川絢子