北川徹(『浮力』作・演出) インタビュー
――まずは北川さんのご紹介にもなればと思い、北川さんのこれまでの活動についてお話いただきたいと思うのですが。
もともと東京で会社に勤めていたんですが、そこを辞めて演劇を始めたんですね。脱サラして札幌に行きました。脱サラって最近あまり言わないですね。その前にも、パントマイムを勉強したりとか、舞台に興味はあったんですけれど、それで生活していこうと考えたのが10年前でした。それから、ずっと札幌で活動しています。
――前回のリージョナルシアター・シリーズに参加されたのが2001年ですが、その他にも東京で公演をされる機会はあったのでしょうか?
同じ2001年に、「大世紀末演劇祭」に参加しました。アゴラ劇場が主催していた、地域の劇団が参加する企画でした。そこにHAPPという自分の劇団で参加しました。それから、下北沢の「劇」小劇場でやった若手演出家コンクールにもHAPPで参加しました。だから東京での公演は3回やっていますね。
あとは、僕が書いた台本をMODEの松本さんが演出して、東京と札幌の役者で公演するというのがあったり、流山児事務所でも、僕が書いた台本を去年の夏に公演していただきました。
その演出家コンクールの時に、審査員に(今回の『浮力』における)美術の加藤ちかさんがいたんです。そして流山児事務所での公演の時に照明をやられていたのが、齋藤茂男さん。だから、ぜひ一緒にやりたいなと思い描いていた人と今回やっていますね。
あと、僕はワークショップにいっぱい出ているんですが、日本演出者協会というところが「演劇大学」というのを企画していて、もう3、4回ほど札幌でやっているんですが、いろんな演出家の方がいらっしゃるんですね。そこでいろいろな方々とお話できたことは大きいです。この間こちら(東京国際芸術祭)で演出されていた羊屋さん、ポツドールの三浦さん、チェルフィッチュの岡田さん、それから宮沢章夫さんも来られたし、去年は坂手さんも来られました。それで坂手さんに今回のリージョナルの話をして、こんなタイプの俳優を探していると言ったところ、いま「THE SHAMPOO HAT」がおもしろいよですとか、燐光群の中にもそういうことが出来る俳優がいるかもしれないよとか言っていただいたりして、それでゆるやかに決まっていったんですね。
――ちょっと意外だったんですが、東京の演劇人の方々とずいぶん交流があるんですね。
それが札幌という場にいたことの意義のひとつです。東京にいたら会うことさえ難しかったかもしれません。僕は札幌で生まれ育ったわけではないんですね。脱サラして、26で演劇を始めたんですけれど、「これで生きていこう」と思った時に「どこが早いだろう」と考えたんですね。つまり、演劇にいっぱい触れられて、創ることもできて、もちろん生活もできて、今回一緒にやるような人たちに出会うためにはどこがいいのか。
僕は東京でネットワークを持っていなかったし、俳優を誰か知っていたわけでもなかったんですね。東京で一から劇団を立ち上げて、ぴあか何かで呼びかけて俳優を集めて、稽古場を探して公民館をまわったりして、ちょっとずついろんなリスクを負いながら創るよりも、環境のいい、やりやすいところで創っていたら、いつかこういう企画に出会えるんじゃないかと思っていたんですよ。
――すばらしい慧眼ですね。
確かに目のつけどころが良かったかなという気はしてるんです。それと実際にちょうどその頃、ちょっとした地域演劇ブームだったんです。弘前劇場 や京都の劇団八時半のように、地域にも面白い演劇があるぞということが話題にもなっていましたし、地域の文化を育てようという動きもあったんですね。具体的には、札幌に道立の劇場ができるという噂があったりですとか。つかさんが札幌の隣の北広島市で長期のワークショップを行ったりして、北海道でも、地域で少しずつそういうことに興味を持ち出していた時期だったんです。
だから、そっちに行ったら仕事があるんじゃないかと思ったんです。生活していけなきゃしょうがないので。「転職」というのがテーマでしたから。だから向うに行って、仕事として演劇をやっている人たちに出会おうという工夫はしていました。例えば北海道演劇財団といって、まさに北海道で演劇を創ろうとしている団体があるんですけど、そこが養成所を持っていたんですね。そこのワークショップに参加して、参加者なのに二日目には「ストレッチをさせてください」と言って、ストレッチワークショップのようなことをして、「こういうノウハウを持っている」と営業をかけたりしました。それで講師ができるようになったりして、生活しつつ自分の劇団をやるというかたちで10年やってきました。
――その10年の間に札幌の演劇状況は変化しましたか?
ある時雑誌で特集していたんですが、札幌には劇団が50から100はあるらしいというのを読んだことがあります。活発度はいろいろあるんでしょうけど、昔からずっと演劇は盛んな地域だったかもしれません。劇場も小さいのから中くらいのまであって、それが減ったり増えたりして推移していて。それが特に大きく変化したどうかは実感できませんが、以前からあるものが形を変えて今もあるという感じだと思います。
ただもしかしたら、交流がしやすくなっている土壌みたいなものは出てきているのかもしれないですね。アートネットワーク・ジャパンとか、地域創造とかによって。だから札幌が変わったというより、全国的な状況ですとか東京の状況とも連動してると思うんですよね。
先ほどもいいましたが、東京の演出家や俳優がワークショップで全国をまわったりして、直接交流できる機会が増えたことは言えると思います。それで情報が早くなったとも思います。シアターガイドが普通に札幌の書店で売られるようになったとか、北海道ウォーカーという雑誌ができたりとか、メディアが変わったことも大きいです。今は、CSでシアターチャンネルが見られるし、WOWWOWで演劇中継が見られる。これは10年前にはなかったことです。
情報という意味では、もうほとんど隣り合わせなんです。だから、札幌といいながらも、僕にはそれほど遠い意識があるわけではないんですね。特に僕の舞台は、北海道弁を使うわけでもなく、北海道民謡を歌うわけでもなく、住所が北海道というだけの普通の人が出てくる舞台なので。
だから、「東京」とか「札幌」とかの言葉は、実は何も語っていないと思います。だからこういう時に注意しなきゃいけないのは、自分の変化を語らなければいけないということです。
ただ気づいたことがありまして、行かなきゃ会えないものがあるということですね。会わなきゃ話にならないといいますか。
――では、東京というか、他の地域に出て公演をされたりして活動されることの意義をどうお考えになっていますか?
僕はそんなに積極的に東京に出て行こうとは思っていなかったんですね。というのは、僕は札幌で演劇の知り合いが全くいないところから始めているので、札幌で出会う人たちというのも「他者」なんです。札幌でやっていることが既に異文化交流だったりするんですね。
自分が考えてもらえなかったことを言ってもらったりですとか、会えると思っていなかった人に会えるということがあると、すごく楽しいですよね。外に出て行くとそういう機会が増えるから、自分が住んでいるところから飛び出そうという気持ちがあるのは、当たり前じゃないかと思います。だって知らない人に会いたくてやっているわけだから。僕は常にそうありたいと思っています。
そういう意味では、札幌で始めたらそうせざるを得ないということがありますね。移動しないことにはたくさんの人と出会えないから、そういうことで札幌を選んだのかもしれないです。
だからおおいに意義があると思うし、そのことで影響を受けることはすごくあります。僕は2年間だけ東京でサラリーマンをしていたことがありますから、東京に来ても全く異次元に来ているという感覚はないんですけれども、東京のスピード感ですとか、いまここに集まっている人たちの興味ですとか、そういうのは札幌では味わえないものですね。もうこちらに来て1ヶ月経ちますけれど、1ヶ月前は考えてもいなかったようなことをやっていますからね。そういう刺激を与えてくれる現場ですね。
でも東京に行かないまでも、違う街で公演をするだけでもいいと思うんですよね。あるいは次の公演は友達を呼ばないですとか、これだけでもずいぶん違うと思います。観てくれる人というのは優しいから、だんだん観るうちに「理解しよう」と思ってくれるんですね。そこはやばいです。それへの危機感は持って当然なので、出て行くことは大事なことだと思っています。
――今回は創作・育成プログラム部門のアドバイザーとして宮城聰さんがついていますが、具体的にどのようなアドバイスをしていただいたのでしょうか?
台本を書いて「これはどうですか」というような、直接的な話はしなかったですね。先程僕が札幌で何を考えていたのかをお話しましたけれど、今までそういうことを話せる相手がいなかったんですね。だから、作品以前に、自分がやってきたことはどうだったんだろうという疑問がありました。宮城さんがク・ナウカを立ち上げられたのは、演劇をやり始めて少し後からだと思うんですけど、宮城さんがこれまで演劇の世界で生きてきて、30代くらいの頃にどういうことを考えて過ごしていたのか、そこを知りたかったのでそういう話をよく聞きました。
宮城さんは東京で早く出てくると消費される感覚はある、と仰ったんですよね。具体的に誰とは仰らなかったんですけど、そういう人たちを何人も見てきたんでしょうね。小劇場ブームの時には本当に大勢の人がいたけれど、いまどれだけの人が活動しているかといったら、やはり消費というか淘汰というか、疲弊してしまった人たちもたくさんいるんではないでしょうか。だから、ある程度考えを持ってから東京に来るのがいいと思う、と仰られて、それは大きかったですね。
僕も1ヶ月経って少し慣れましたけど、東京に来る前は「一体そこに何が待っているのか」という感じでしたからね。スタッフの方も俳優の方も、自分がすごいと思う方しか呼んでいないんですね。今回の芝居の中にちょっと剣道が出てくるんですが、僕が三級としたら、相手はみんな段を持っている人たちみたいな感じなので、それはびびりますよね。ちょっと怖いなという感じがありました。
だから宮城さんとお会いして、自分はこの方向でいいのかもしれないと思えたことはすごく大きかったですね。僕の中では宮城さんはアドバイザーというのを超えていますね。
――どちらかというとメンターのような感じだったのでしょうか?
そうですね。それで、ク・ナウカの稽古場を見に行ったんです。宮城さんが立ち上げてから17年経った、その歴史を飛び越えて、いまの成長した劇団というものを見れました。宮城さんから「僕は昔もこう考えていた」とお話いただいて、その結果を「こうだよ」と見せていただいたんですね。そしたらやっぱりすごかったですね。チームとしての結束力とか、意識の高さ、技術の高さ、役割分担の明確さですとか。レベルと技術が本当に高い。
そして宮城さんはそこを演出家として運営するわけですね。それは僕が一番興味ある仕事なので、この時間に対してどう話すのかですとか、この俳優が考えることに対して何を言うのかですとか、こっちがシミュレーションしながら見ていると、こちらが考えているのと同じようなことを言ったり違うことを言ったりするんです。それで、終わったあとに「あの一言はどういう意味だったんでしょうか」と聞いたりしました。
演劇をレストランにたとえると、僕は小さな商店をやっているんです。宮城さんはすごいスタッフを持っていて、テナントを持って切り盛りをしている。そこに僕がお邪魔して、こうやってメモ持って勉強させていただいた、という感じで…。
それは今回の台本に対して一言アドバイスをもらうよりも、何倍も情報量がありましたね。それで何度か見させていただいて、ク・ナウカの公演は体育館だったので、体育館はどう空間を切り取るのがいいのかということもお話いただいたりしました。いいアドバイザーというかメンターだったと思います。
だからいい前例ができたんじゃないかと思いますね。というのは、この創作・育成プログラム部門は、リーディング公演部門を経て、翌年一人を選ぶという企画ですけど、初年度ということで僕が今回お話をいただいて、そこで宮城さんと「戯曲や演出のアドバイスだけではないアドバイザー」という関係を築けたと思うんです。それは当初このアドバイザー制度が想定していたこととは違うかもしれないですけれど、こういう関係もあり得るという前例になったんじゃないかと思いますね。
これから本番が近づいてくるので、宮城さんにも何度か来ていただいて、公演の中身の話をさせていただくことになりますが、僕としては今回一番欲しいアドバイスはいただけました。
――今回は本公演を創るだけではなく、アウトリーチ活動の研修もお受けになったとお伺いしましたが。
はい。こちらのにしすがも創造舎で阿部初美さんがやっている、読み聞かせ講座の練習と発表を拝見しました。それと、『親指こぞう』の演出家のキアラ・グイディさんのワークショップに三日間参加しました。
僕は、演出をする時に一番大切なのはコミュニケーションだと思っているんですね。力強く足を踏み出してもらいたい時に、「いいよ」と言うと来る人と、言わなくても待っていれば来る人と、背中を押してあげなきゃ来ない人と、何パターンもいるわけですね。その時に何を語るか、あるいは何を語らないのか、何を見て待つのか。演出家というのは皆そのノウハウを持っていると思うんです。そういうのを見るのはとても刺激的でした。
読み聞かせ講座は一般の方が対象で、阿部さんがとても優しく丁寧に教えていました。グイディさんの方は、どうやらその三日間のワークショップのために半年前から準備していたらしいんですね。東京で演劇やっている人たちが集まるということで、三日間で何を自分が伝えられるかということを考えて、資料をいっぱい集められて、本当に準備万端でいらしていたんです。会場に入ったら、手作り楽器みたいなものがいっぱいあって、名画のポスターとか写真とかがどさっとあって、もう資料は全部用意してあるんです。僕はここまでやったことがない。時間がないものだから、自己紹介もせずに「じゃあいくよ」と始めるんです。俳優とどう出会うか、台本とどう出会うか、空間とどう出会うか、音とどう出会うか、お客さんとどう出会うか、私はこう考えているという、ありとあらゆる対象物に対してのコミュニケーション論みたいなものを持っているんです。これはちょっとやられましたね。もっと勉強しないといけないなと思いました。感覚的にやっていては、本当に遠くの人とは出会えないかもしれないなと思いましたね。
――今後は札幌でどのようなアウトリーチ活動を進められるのでしょうか?
具体的には、札幌市に教育文化会館というホールがあるんですが、そこで8月に劇場主催の演劇月間みたいなものがありまして、そこで8日間くらいワークショップをやります。対象は演劇に携わっていない一般の方で、目的は今回いろんなワークショップで感じた、「コミュニケーション」というところを取り出してみようと思っています。そのことに興味を持っている方は大勢いるのではないかと思うんです。「あの人とあまり上手くいかないのよね」というようなことってよくありますよね。「仕事ではいいけど、プライベートでは絶対付き合いたいくない」とか、そういう会話って多いですよね。それをカウンセリングとかレクチャーではなく、演劇の中にある手法を紹介することで「これを使ってみたら?」という感じで提示したいですね。
たとえばそれは人の話をどう聞くかとか、どう話すかとか、相手の目の前に立っている自分の体をどうするかとか、そんな小さなことを小さなテーマでやりたいと思っています。上手くいけば、それを続けていきたいですね。
――たとえば「演劇を活性化する」といった時、裾野を広げるということと、底上げをするということ、この二つの方向性があるように思います。北川さんはどちらかというと、裾野を広げるための活動を進められるということでしょうか?
本当は、ヒーローやヒロインが出てこないと活性化しないと思うんですよ。「野球は楽しいよ」と言って人を球場に連れてきても、やっている選手が下手だったら駄目ですよね。だからやっている人間が上手くならなきゃしょうがないと思うんですが、人に向かって「お前、上手くなれよ」といったところで上手くなるわけではないですよね。
僕はコンクールに出たのも、ここに来たのも自分のためではあるんですけれども、これをニュースで見聞きして、燃えてくれりゃいいなというのがありますね。実際、こっちに来る前に札幌の演劇人と話をしたら、「そうか、俺も行こうかな」といった話も聞きましたし。だからそういうところは意識しています。後押しするのではなく、前に出ることで何か伝わればと。そうすると「あ、なんかおもしろそうだな」「あいつにばっかり行かせてられないな」と思ってくれれば、それが活性化につながるんじゃないかと思っています
誰かが「がんばれ!」と言っても限界はあると思うんです。人は勝手に伸びる必要があるんだろうと思います。「演劇の活性化」といって皆が先生になっても、うまくいかないんじゃないでしょうか。だから「裾野を広げる」とかじゃないんですよね。僕はできること、伝えたいことを伝えるだけだと思っています。
演劇人はよく「演劇の裾野を広げる」と言うんですが、音楽の人はあまりそういうことを言わないと思うんです。ロックンローラーが「俺は音楽の裾野を広げるぜ」とか言ったら、かなり胡散臭い人ですよね。楽しそうだったら参加するかもしれないけれど、上からものを言っても言うことをきくわけがない。そこは履き違えないようにしようと思うんです。僕は一選手だから、いい結果を出すことに専念しますが、こういう機会があったらいくらでも話しますし、「楽しいよ」というか、「あまり他のことと変わらないよ」ということを伝えていきたいですね。
(2007年2月28日 東京芸術劇場)
●北川徹 作・演出『浮力』公演詳細はこちら