rabia

2008年02月06日

もくじ

ラビア・ムルエ講演会(2006/12/20・にしすがも創造舎)

■『これがぜんぶエイプリルフールだったなら、とナンシーは』劇評 
 河野孝(演劇ジャーナリスト)
 森山直人(京都造形芸術大学助教授)
 福住廉(現代美術/文化研究)

■2006年9月レバノン・レポート〜その戦前・戦後とアラブ映画祭‘06(松嶋浩平/TIF舞台記録撮影)
 1. レバノンへ/旅のきっかけ
 2. ベイルートへ/レバノン入国と首都ベイルートの様子
 3. アラブ映画祭へ/まずはイラク映画鑑賞
 4. 警察へ/真夜中の事情聴取
 5. レバノン南部へ/更なる瓦礫の山
 6. 再びアラブ映画祭へ/ベイルートに集うアーティストたち
 7. 再びレバノン南部へ/美しいイスラエルとの国境地帯
 8. 三たびアラブ映画祭へ/ラビア・ムルエのパフォーマンス
 9. ヒズボラ大勝利集会へ/フィルム没収される
 10. 最後の夜もアラブ映画祭へ/そしてクラブへ

■ラビア・ムルエ作品集

現実と虚構の境界線上で戯れる、脱・演劇の彼方―。
レバノンの鬼才が放つ、挑発的マルチメディア・パフォーマンスと映像詩の数々をご覧いただけます。

1. Enter Sir, we are waiting for you outside - 「どうぞお入り下さい、外でお待ちしています」
2. Three Posters - 3枚のポスター
3. BIOKHRAPHIA - ビオハラフィア
4. Looking for the Missing Employee - 消えた官僚を探して
5. Life is short, but the day is too long - 人生は短い、だが一日は長すぎる
6. Face A / Face B - A面/B面
7. Bir-rouh bid-damm - 魂と血をもって


TIF2007 ラビア・ムルエ『これがぜんぶエイプリルフールだったなら、とナンシーは』公演詳細はこちら

2007年03月25日

死者たちの歴史
――ラビア・ムルエのラディカリズム
  福住廉(現代美術/文化研究)


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(c)松嶋浩平



死者たちの歴史――。レバノン人アーティスト、ラビア・ムルエの新作「これがぜんぶエイプリルフールだったなら、とナンシーは」は、勝者の歴史の背後に隠れる、無数の死者たちの声で織り成される、ある種の舞台詩だ。それは亡霊となった歴史の敗者たちが明かす真実の証言というより、むしろ彼らの声を現在に想像的に召喚することによって、「死者たちの歴史」という歴史の暗部を炙り出すような詩である。


舞台と物語の構成はいたってシンプルだ。舞台の中心に置かれたひとつのソファーに腰掛けた3人の男と1人の女。4人の背後にはそれぞれ4つのスクリーンが連なり、足元の白い床にはアラビア語のテキストがプロジェクションされている。ラビア・ムルエ本人を含む4人が、それぞれ交互に闘士の個人的な闘いの歴史を語りだすと、背後のスクリーンに当人の写真と帰属する闘争集団のロゴを組み込んだプロパガンダ・ポスターが順次映し出される。それは、1975年にはじまるレバノン内戦から2007年の現在にいたるまでのレバノンの闘争史を、無名戦士たちの視点から追体験させるような経験だ。


そこで語られる闘いの歴史は、ひとりひとりの死によって断ち切られると同時につなげられている。役者たちは当人の死を語るが、それはすぐさま次の闘争へと受け継がれているのだ。死んでも死んでも、なお果てしなく続く闘争の歴史。ここで表されているのは、ゾンビのように何度も甦って闘いを続けるファンタジーなどではない。あるひとりの死によって次の生命にとっての希望が生まれる、そうした闘争のありよう、すなわち「インティファーダ」にほかならない。ここでの役者たちは無名戦士たちの個性を「演じている」というより、彼らの声を「語り継いでいく」霊媒師のような役割を果たしているわけだ。


その霊媒的な役割は、しかし、ある一定のイデオロギー的なメッセージを代弁しているわけではない。むしろひとりの役者のなかでさまざまな利害や立場が激しくせめぎあうことで、アラブ対イスラエルという単純な図式を超えた、レバノン内戦の複雑性を巧妙に表現している。共産党の立場で闘っていた者が、死後は共産党を攻撃する側で闘うなど、それぞれの宗派や党派がいくつもの位相でからみあいながら、死者たちの歴史が語られるのである。それは、とりわけ中東の政治的情勢や歴史的背景に疎い、多くの日本人にとっては、正確に理解することが困難な、複雑きわまりない歴史である。


舞台演劇や映画、美術にかぎらず、こうした世界の暴力をまざまざと見せつける作品を目の当たりにすると、温室的な平和国家で暮らす日本人は、そのことに若干の引け目を感じつつ、世界情勢の一端を知識として獲得したような錯覚に陥り、それで満足して終わりということになりがちである。だが、ラビア・ムルエはそうした傲慢な鑑賞態度を許していない。闘争集団の固有名は所与のものとして語られ、対立の図式もわかりやすく提示するというより、複雑性をそのまま差し出しているからだ。おそらく、この作品にとって重要なのは、レバノンの政治情勢を正確に「理解」することなどではなく、ここで語られている死者たちの歴史が、レバノン固有の歴史というより、むしろすべての人類に通底する、きわめて根源的なものであり、その方向に私たちの思考を開いていくことにあるのではないだろうか。


イスラムの闘士がレバノンからアフガニスタンに渡り、その後ユーゴへ、そしてチェチェンへと渡り歩いていく闘争の旅路は、おのずと日本からレバノンに飛んだ、かつての革命闘士たちを連想させる。双方が胸に抱えていたのは、革命の理想だったのだろうか、あるいは抵抗の物語だったのだろうか。いずれにせよ、彼らの闘いはつねに死者たちの歴史によって支えられていたのであり、そのことは革命も抵抗も見失われてしまった現在の日本という社会状況においても、まったく変わらないということは確かである。ポリティクスとポエティックが重なり合うラビア・ムルエの新作は、そのことを簡潔に示していた。

2007年03月24日

「嘘」のような現実、そして、「嘘」という真実――『これがぜんぶエイプリールフールだったなら、とナンシーは』について  森山直人(京都造形芸術大学助教授)


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(c)松嶋浩平


ふだんはそういうことはしたことがないのだが、ラビア・ムルエの新作の初日の舞台を見た後、この作品について書こうとしているこの私自身を、かりに、〈一般的な日本の観客〉と規定してみる。もちろんこうした規定自体はフィクションにすぎないが、この際それをさらに進めて、この日の観客席に座っていた「私たち」を、〈一般的な日本の観客〉党、とでも名付けてみよう(もしかすると、そこには、レバノンの社会情勢を構成する諸宗派、諸党派のように、「右派」「左派」「原理主義者」「分離主義者」「民族主義者」といった区分が、潜在的に存在するかもしれないのだが、そのことはひとまず問わずにおく)。そう考えてみると、日本で、アラビア語によるレバノンの現代史を扱った舞台作品を見る、という体験は、さながら、レバノンを生きる芸術家のグループと〈一般的な日本の観客〉党とのあいだの、一種の対話集会のようなものであったかのような奇妙な想像が、頭をもたげてきたりもする・・・。
もとより、観客は個的な存在である。にもかかわらず、『これがぜんぶエイプリールフールであったなら、とナンシーは』のような種類の作品に出会ったとき、いつのまにか「レバノンの現代史について何も知らない私たち」という想像物が生起することが、えてしてある。たしかに多くの日本の観客にとって、レバノンの現代史にかんする知識は概して乏しく、あったとしてもよほどの専門家でもないかぎり、たかがしれたものであるということ自体は、たぶん事実である。そのことが「何も知らない私」から、「何も知らない私たち」へと置き換えられていくメカニズムに対して、これを書いている私自身もまた、無関係であるとはとても思えない。「外国演劇」に接するときに無視できない形で訪れてくる、このような「私たち」という想像物があいまいに、緩慢に立ち上がろうとする日本の劇場における濃厚な気配は、ラビア・ムルエの新作そのものと、いったいどのような関係にあるのだろうか。
マスメディアが「中東情勢の深刻さ」を報道すればするほど、「私たち」は、自分たちの置かれている状況に安堵し、その反面、そうした深刻さを正面から扱った作品を前にしたとき、「遠い現実」に自分が無関心ではいないことを何らかの態度で示そうとする。なじみのない社会背景や時代状況を「理解」しようとする想像上の「私たち」が、ゆっくりと立ち現れてくるのはそんなときである。ところで、そのように「理解」しようとすればするほど、「私たち」にとってこの作品は、ますますハードルの高い、理解困難なものに映るに違いない。というのも、1時間強の上演時間を通じて、4人の俳優が機関銃のような早口のアラビア語(レバノン方言)でまくしたてる物語のなかには、レバノンの現実を構成するおびただしい数の固有名詞――諸宗派、諸党派を指すものや地名、「英雄」たちの人名など――が含まれているからだ。この作品がもつそうした特徴は、「理解」しようとする善意を打ち砕くには十分な破壊力がある。矢継ぎ早に過ぎ去っていく大量の字幕になかば途方にくれながら、「やはり、日本に暮らしている者には中東情勢のことは分からない」という、ひそかな焦燥と諦念と安堵感が、私自身のなかで、そして「私たち」のなかで、しだいに強まっていく。

少なくとも、この作品の最初の数分間に関するかぎり、そうした思いに駆られることは、仕方がないことなのかもしれない。
けれども、それでもなおこの作品を見続けているうちに、「私たち」はこの作品が、マスメディアがジャーナリスティックに整理してくれるような類の情報としての「中東情勢」を、観客がそうした枠組みのなかで「理解」することを、必ずしも要請していないことに徐々に気づくことになる。なぜなら、4人の俳優たちのまくしたてる言葉は「嘘」であることが、まもなく明らかになるからだ。ここでそれがどのような「嘘」であるかを詳しく記述することは差し控えるが、そうした「嘘」が、まるでエイプリールフールのジョークを臆面もなく語る、「私たち」にとってなじみぶかい、ありふれた4月1日の日常風景とよく似た語り口で語られていく、ということだけは書き記しておいてよいだろう。
こうした「嘘」の反復を通じて、ある興味深い効果が現れてくる。4人の俳優たちが語る偽の語りによって、「PLO」「ファランジスト」「ヒズボラ」「共産党」「ムラービトゥーン」など、数え切れないほどの諸党派、諸宗派の固有名詞の、事実としての輪郭がしだいに溶解しはじめ、それらすべてが「嘘」であるかのような感覚に襲われてくるのである。こうした感覚は、もちろんそうした固有名詞がもたらす現実に、当事者としての切迫した意味を感じなくてもすむ〈一般的な日本の観客〉に特有の感じ方である。極端にいえば、それらはときとして、恐ろしいことに、空想的な漫画やアニメの戦記物に出て来る架空の固有名詞と同じような響きをもって聞こえてくることもあるかもしれない。もちろん、こうしたまったくのフィクションと違い、レバノンの複雑な現実を構成する諸宗派、諸党派、歴史的出来事などの固有名詞はすべて事実であり、ラビア・ムルエをはじめとする、現代のレバノンをまぎれもない現実として生きる芸術家たちにとっては、切実という日本語が表現可能な範囲をはるかにこえた過酷な響きをもっているはずである。にもかかわらず、そうしたものが「嘘」であるかのように響いてきてしまう一因は、4人の俳優たちの語り口が、あまりに早口で、しかもさりげないせいである。おそらくそうしたことは、すべて演出家の意図にふくまれているように思う。そして、「特定の政治的立場にそくして語るのではない」という演出家ラビア・ムルエの新作のなかには、レバノンを生きるという現実を、「嘘をつく」という虚構の行為を通じて、日常的な当事者としての感覚とは違った角度から思考してみようとする構造が、たしかに認められるのである。
この作品において、そうした構造を支える道具立てとして、さまざまな諸宗派、諸党派がベイルートの壁にはりつけた、大量の政治的プロパガンダのポスターという装置がある。そこには長い内戦の歴史のなかで死んでいった「英雄」たちの写真が、扇情的なスローガンとともに利用されているという。舞台上の4人の俳優たちの上には小さなスクリーンがもうけられていて、そこには物語を通じて次々に死んでいく登場人物たちの顔写真をかたどった(4人の俳優たちの実際の顔写真をコラージュしてつくられる)諸党派、諸宗派のプロパガンダのためのポスターのフェイクが次々に投影される。演出家自身の言葉によれば、彼はそうした枠組みのなかで、いわば生者と死者の境界線上の語りを実現しようとしている。「生者と死者の領域は混ざり合う。墓地は家の内部にあり、棺おけのふたは開いたままだ。死者は行ったり来たりして時間と空間に満ちあふれている」(当日パンフレット)。けれども、ここで語られているような現実を、私たちがそのまま「理解」することは不可能だろうし、すべきではないだろう。むしろ「私たち」は、4人の俳優たちが語りつぐ「嘘」の、整理不可能・複雑さに直面して、整理不可能な事件の洪水にひとまず身を委ねることを通して、何事かを知ろうとすることのほうが重要であるように思われるのである。そもそも、中東情勢にニュース解説者のように精通していたところで、それがどれほどの役に立つというのだろうか(もちろんまったく役に立たないわけではない。だが、知識は知識でしかありえないのもまた確かだ)。それに、そもそもレバノンを現実として生きる人々が、現実を、ジャーナリストが整理した構図を通じて了解しているのかどうかも分からないのである(実際、物語に登場する登場人物のひとりは、レバノンの現代史の日付や年号を、何度も間違えて注意される)。
「私たち」が、何かを知る手だては、むしろ洪水のように語られる「嘘」、あるいは「嘘」をつく行為を通してしかない。まさしくそのような、「嘘」に対する身振りを通じて、「私たち」は、レバノンを生きるという現実がどのようなものであるのかを、舞台上に生起しつつある、いわば裏返しの現実を手がかりにして触知しはじめるのである(全く同じというわけでは無論ないが、このように歴史を語るラビア・ムルエの方法には、松田正隆の最近作である『アウトダフェ』にみられる語り方に近いところが感じられる)。エイプリールフールの嘘は刹那的で、すぐに飽きがくる。そして実際飽きがくるほど、4人の俳優は、レバノンの歴史と現実を、まるですべてが嘘であるかのようにまくしたてることを、最後まで止めようとしない。けれども、そうした嘘のような現実を、まぎれもない現実として生きている人々が、現に目の前の俳優たちとして現前していることもまた否定しえない出来事として、「私たち」はうけとめざるをえない。あるいはまた、〈一般的な日本の観客〉にとっては、どこか架空のようにも聞こえる固有名詞にふりまわされ、翻弄される登場人物たちの一人称の語ところどころに、何度も反復される「血が沸騰するような衝動」といったフレーズを耳にして、宗派や党派といったそれ自体ははっきりしないリアリティが、どのようにリアリティを獲得していくのか、といった事柄について、考える手がかりを得ることもできる。「嘘」を通して語られる現代史のまぎれもない事実に対して、あくまでも見る者として関わりはじめた「私たち」が、どのように「見る」という枠組みを、あるいはまた「見る主体」としての「私たち」という枠組みを越え出て、個的な触知の方法をさぐる契機を、この作品は与えているように思う。ちなみに劇場の別会場では、ラビア・ムルエとラミア・ジョレージュが2006年夏のイスラエルによるレバノン侵攻時のベイルートでの生活を、日記とビデオで再構成したインスタレーション作品『…and the living is easy』が展示されているが、そのなかの最後のモニターにそえられた日記のなかに引用されているミッシェル・フーコーの言葉は、『エイプリールフール・・・』全体のモチーフをも貫いているように感じられた。「勝利は神によるものでも悪魔によるものでもなく、ただ狂気によるものである」。

レバノン、内戦の廃墟からのうめき―――ラビア・ムルエ演出  河野孝(演劇ジャーナリスト)


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(c)松嶋浩平


 レバノンの気鋭の演出家、ラビア・ムルエ演出の新作「これがぜんぶエイプリルフールだったなら、とナンシーは」は、今回が世界初演となる作品だ。この一時間半の上演を日本の観客はどう受けとめるだろうか。短兵急に結論を求めたがる日本人の国民性をも問う刺激的な舞台である。レバノン内戦(1975年)が始まる前の1973年から2007年1月末まで、34年間に起きた内戦や外国勢力の侵略、テロ、暗殺、大量虐殺などの殺し合いを淡々と語るのだが、それだけで延々と1時間半を要してしまうという戦いの歴史の長さには驚いてしまう。日本人の通りいっぺんの共感や理解、感情移入をあえて排するような拒絶感があり、それほど絶望が深いということを知らなければならない。
 登場人物は、ラビア・ムルエのほか、トリポリ出身のハーテム・イーマーム、南部マルジュアーン地方出身のジヤード・アンタル、ただ一人の女性でベイルート出身のリナ・サーネアで、総勢4人である。4人が横並びに椅子に座り、それぞれの背後には映像を映し出す小さなパネルが4枚置かれている。まったく身体的な動きはせず、それぞれの来歴や、起きた事実を語るだけである。異常な出来事が、スペクタクルやドラマとして吸収されることをあえて避けようとしているのだろう。
 カターエブ、アマル、ヒズボラ、ムラービトゥーン……。とにかく、知らない軍事組織、民兵組織の名前が何の説明もなく出てくる。アラファトPLO(パレスチナ解放機構)議長の名前はわかっても、カマール・ジュンブラート、エリー・ホベイカ、ジェマイエル、ハリーリなどと聞き慣れない政治、軍事指導者の名前がたくさん出てくる。地名も場所が実際どこにあるのか多くは見当がつかない。ラビア・ムルエは初日公演後、「日本のような中東から遠く離れた国に、我々の国の特殊なことをドカンと落としてしまって、奇妙で当惑した気持ちだ」と語ったが、確かに必要な情報を欠いている日本人には理解不可能な部分が多大にある。
 しかし、その国の歴史を理解するには固有の歴史を無視できない。日本の戦国時代、明治維新、海外進出などの歴史をつぶさに知っている外国人はいないだろう。けれども、その固有性を無視したら、日本は日本でなくなってしまう。わからないと言って、切り捨てるのは一つの暴力である。わからないなりにも敬意と注意を払うのが、他者と向き合った時の正しい在り方だろう。
 ただ、レバノンを理解する基礎的な知識として、レバノンが多様な宗派や勢力(キリスト教、イスラム教スンニー派、シーア派、ドルーズ教徒など)に分かれており、各派の微妙なバランスの上に国を築いてきた事情は知っていたほうがいい。それに共産主義者や民族社会主義者などの党派も政治的にかかわり、アラブ・イスラエル紛争でパレスチナ難民が流れ込んで、情勢はさらに錯綜した。近隣のシリアやイスラエル、距離的に離れているシーア派のイランなどの外国勢力もいろいろな形で介入して、独立国家としての体を維持するのは至難の業といえる状況が続いている。
 舞台を見ていても、複雑な政治情勢であるということだけはわかる。この4人は、戦闘の中で死んでいったいろんな人になりかわって、話し続ける。言葉と映像によって状況が一応はわかるようになっている。背後のパネルに映し出されるのは、銃撃戦で死んだ兵士や民兵の顔写真であり、戦いや大儀のために殉教死した人たちを称える写真、敵との戦いを呼びかける好戦的なポスター、それぞれの組織のシンボルマークであったりして、ポスターの数でも100枚以上はあるだろうか。後半、時間的に現代に近づき、昨年の7月、イスラエル軍がレバノンに攻撃を仕掛けてきたころの話になると、われわれ日本人でも思い当たることが増えてくる。
 ベイルートで一番高い未完の建物が、ムッルタワー。戦士たちは、このタワーを制するものがベイルートを制すると信じているというが、最後にそこで4人の死体が発見される。このタワーこそ、現代のレバノンに出現した「バベルの塔」に違いあるまい。
 ラビア・ムルエは昨年末の来日時のインタビューで、「レバノンの内戦でだれもが家族や友人の多くを失った。内戦で殺された人間のイメージと一緒に暮らしているのが、日々の生活の実態で、どちらが死人か混乱してくることもある」と語った。今度の新作は、こうして死んでいった人々の声にならぬ声、記憶をよみがえらせ、かつて具体的な属性を持った個々人が生きていたことを喚起する鎮魂的な祈りに貫かれている。死者のまなざしから見た「死の演劇」の系譜に属するといえる。しかし、廃墟にうずもれている死者のうめきを、情緒的に切り取らず、事実の断片の集積として、日々の出来事によって作り出されている歴史の重みとして見せるのだ。
 1967年、ベイルートに生まれたラビア・ムルエは、内戦と共に大人になった世代だ。レバノン大学で演劇を専攻し、パリに一年間、勉強しに行ったことがある。祖父は著名な哲学者だったようだが、80歳の時にイスラム原理主義者に暗殺されたという。出演者の誰にも肉親や親族に内戦の犠牲者がいる。以前の東京国際芸術祭で上演した「ビオハラフィア」に見られるようにムルエは、社会の分裂や矛盾を表現する作品をつくってきた。最近はレバノンの検閲制度に嫌気がさし、非合法で無料の舞台を上演する演劇活に方向転換した。「検閲制度自体の存在よりも、それを前提とすることで事前に自己検閲してしまうこと」に問題を感じたからだった。今度の作品も、観客に寄り添い、迎合するような創作活動でないことだけは覚悟して見る必要がある。

2007年03月20日

[2/8掲載] ラビア・ムルエ講演会(にしすがも創造舎)

ラビア・ムルエ講演会
2006年12月20日(水) 19:00〜21:00 にしすがも創造舎


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司会(相馬):
今日はお寒い中、お越しいただきありがとうございました。ご案内にも書きましたが、私ども東京国際芸術祭では、本日レバノンからいらしていただきましたラビア・ムルエさんと新しい作品を共同製作し、東京国際芸術祭2007で発表することにしています。ラビアさんには、本日午後行なわれた我々の記者会見に参加していただきましたが、さらに今回の新作について、またクリエーションを行っている環境についてなど色々とお話いただきたいと思い、この様な機会を設定いたしました。
今日の流れですが、初めの30分はラビアさんの方から、今自分がどういった切り口から仕事をしているのかというお話を「Between Presence and Absence −存在と不在のはざまで」と題して映像を交えてお話いただきます。その後私の方からいくつか質問をさせていただいき、その後に会場の皆さんからもご質問をいただけたらと思っています。では、さっそくですが、ラビアさんお願いします。皆さん拍手でお迎えください。

ラビア・ムルエ:
みなさんこんばんは。ラビア・ムルエです。ベイルートから参りました。
私は39歳になりますが、外国へ行ったり、眠っていたりもしますから、それらを抜かすとだいたい19年3ヶ月と5日間、ベイルートで起きて暮らしていることになります。そうやって眼を覚まして起きている間も、そこで起きていることをすべてしっかりと見ていたわけではないのだろうと思います。

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これは2005年3月14日に行われたデモの様子ですが、私はこの映像を見ることはできませんでした。というのも自分自身このデモに参加していたからです。このデモは大変盛り上がり、その日は家に帰らなかったので、そのデモの様子をニュースで見ることもできませんでした。友達がその時に撮った写真を送ってくれて、初めてデモの状況を理解しました。この歴史的な反シリアデモによって、十数年間レバノンに駐留していたシリア軍は撤退することになりました。

そしてこの数ヵ月後、このデモを主題としたインスタレーションのようなものをつくったのですが、一方でこのデモは私たちにとってある種の幻に終わった部分があります。というのも結局、後ろで動いていた勢力が宗教の宗派だったりするわけで・・・この写真は、そんな空虚なところに飛び込むという、身投げをしている場面です。

私が考えるに、イメージ/映像というものには二種類あります。ある存在を肯定する映像と、ある不在を確認する映像。つまり映像は、一方ではそこにあるものが存在しているということを強調すると同時に、他方ではあるものが不在であることを確認する役割を果たしています。例えば私が自分の作品の中で映像を使う場合、その映像の中に自分自身が不在であるということを示すために映像を使っています。それは、有名なスターやトップモデル、あるいはイスラム武装集団などが自分たちの映像を扱うのと逆の手法です。というのも、彼らは自分たちの存在を強調するためにその映像を使っているわけで、そうでなければ、戦争をやっている最中にわざわざ映像を撮る必要があるわけがない。よく考えると彼ら武装集団は地下組織ですから、本来こうやっておおっぴらに自分たちの活動を見せるはずがないんですが、逆に自分たちの存在や活動を強調するために、わざわざ地下活動の一部を映像に収め、わざとマスコミに流したりするわけです。
私が映像を扱う場合はこの逆のことを意図しています。我々のようにふつうの個人が、公的な映像/イメージからは除外されているということを指摘すると同時に、それでも私たち自身がこの世界のレバノンという場所でちゃんと個人として社会の重要な一部として生きていることを強調するために映像を使用するわけです。ですからここで私が今日この席で話していることはあくまで自分個人の名前でやっていることであって、別にアラブ人を代表しているわけでもなければ中近東という地域を代表しているわけでもないし、レバノンの代表でもベイルート代表しているわけでもない。あくまでラビア・ムルエという個人としてみなさんに会うためにここにきていると考えてください。

今ここにずらっと並んでいる写真は、すべて行方不明になった人たちの写真です。その行方不明になった理由というのも未だによく分かっていません。このすみっこに私自身の写真もあります。そこでは私自身も行方不明になっています。

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このように、その存在を強調する映像と不在を確認する映像の間には、他にも様々な映像があります。何かを背後に隠している映像。その場に写っていないのだけれども、そこでこれから何かが起こるだろうということを表しているような映像。

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これは60年代のベイルートの絵葉書ですが、レバノン人映画監督でアーティストでもあるカリル・ジョレイジュとジョアンナ・ハジトゥーマは、この絵葉書を素材に、その現実とはまったく別のものを徐々に見せていくような作品をつくっています。


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また、この映像はイラクの武装集団が人質の首を切るシーンを撮影したものでインターネット上に掲載されているものですが、我々が見ようとしなければ起こらなかったかも知れない出来事の映像です。これらの行為は、どこか隠れた場所で、カメラの前で行われている。つまりビンラディンの映像と同様、時間と空間が欠落した映像です。しかしテレビやネットで配信されることで、起こったことが認識される。つまりビラル・カヴェエスが指摘しているように、これらの行為はテレビやネットで配信され、人に見られた瞬間にはじめて発生する。もしそこに「観客」がいなければ、何の意味もないし何の価値もない、要するに、起こらなかったのと同じことになります。いわゆる抵抗運動に使われる映像も同様です。


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これはパレスチナの「遺言テープ」、つまり自爆攻撃をやる人間がその行為の直前にカメラにむかって話す姿を録画したものです。こうした行為はもちろんイスラエルの占領に対する抗議として行われているわけですが、これから死んでいく人をわざわざテープに撮影して、それをちゃんとテレビ局に渡して、実際その事件が起こったあとに放送されるようにしておきます。この種の遺言テープは大概「私は殉教者の兄弟の○○です」とか「殉教者の同志のなんとかです」という決まり文句で始まりますが、ここである種の混同が起こります。テープで撮影してそれを話している時点では、まだ殉教者になっていない、つまりまだ死んでいないにも関わらず、彼らは自分のことを「殉教者」と言っているわけです。実際に彼らが死ぬのは撮影後なのに、あたかもテープを撮っている瞬間にはもう死んだことになっている。


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レバノンにも同様の現象があります。内戦時から現在にいたるまで、町中に張られている「殉教者」、つまり死者の写真やポスターの数々。こういった写真はあたかもイコン(聖画像)のようです。面影だけが死者本人のもので、それ以外はどれも一様に加工・修正が加えられる。より美しく、より柔らかに、より純粋に、殉教者があたかも聖者か神様であったかのように加工されています。こういった写真は、それぞれの人間が生前に送っていたであろう、取るに足らない、くだらないこともいっぱいある平凡な人生、我々の日常と同じような普通の日常生活というものをすべて消し去ったものです。こうして彼らのイメージはつくりかえられ、彼らは英雄、そして神のような存在となっていきます。
ただしベイルートというのはきわめて非情な街で、敬愛されるべき殉教者のポスターも、政治家の肖像や広告、スターのポスターにあっという間に置き換えられてしまうわけですが(笑)。


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これは先の選挙期間中の写真ですが、複数の候補者のポスター同士が、なんとか少しでも広い面積の壁を占有しようとしてあがきもがいている様子です。まるで映像と映像、写真と写真が戦争しているような状況です。対立候補のポスターを文字通り引っ剥がしたり破いたりして、その上に自分の支持する候補のポスターを貼っていく。ある意味で、映像の虐殺、あるいは映像同士の乱交パーティーのような状態です。破っては貼って、破っては貼ってを繰り返していくうちに、目や鼻がばらばらになって、それがごちゃごちゃになって、どれが誰の目だかわからない、今ご覧になっているようなイメージになるわけです(笑)。レバノンの政治家たちの巨大な肖像画も同様です。どう見ても実物の10倍以上の巨大な肖像画が壁に一枚貼られると、政治情勢の変化によってまた別の巨大肖像画がそれにとってかわる。どうして彼らが拡大された自分の写真に固執するのか、私には理解できませんが・・・レバノンの思想家ジャラール・トゥフィークの言葉を借りるならば、彼ら政治家たちは、自分の存在がいかに重いものであるかということを人々に刷り込み、いつか自分が死去したときには、その重い遺体が入った棺桶を国民が担いで大行進するようわざわざ意識的にやっているのではないかとさえ思えます。


さて、私たちはどうしたらこうした巨大で肥大化した映像に対抗することができるのでしょうか。その唯一の方法、それはおそらく、私たちがお手ごろなハンディカムやデジカメで撮っている、小さな、そして平凡な映像によってではないかと考えています。いまや誰もがこうした機器のおかげで映像を作り出すことができるわけで、なんの目的もなく無意識に撮影した写真が思いがけない効果を生み出したりします。


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こちらの写真では、一方がレバノンの大統領の写真で、一方がスター歌手の写真が並んでいます。大統領の側には「決断の男」、もう一方の女性歌手のほうには「誰があなたを連れ戻してくれるの?」と書いてあるようです。こうした平凡でとるにたらない映像によって、大統領の肖像のように多くの意味づけがなされ肥大化した映像を破壊することができる、その意味を無効化することができるのではないかと思います。


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レバノン内戦が終結し、破壊されたベイルートの再建計画が始まったときに、ほとんどの市民たちは街の中心部にこぞってカメラを向けました。この中心部は、本来であればいわゆるベイルートのハート、一番のダウンタウンでした。しかし内戦中には、居住者たちが避難・退去してしまい、そこがベイルートを東と西に大きく分断させる無人地帯になってしまった。内戦終結と同時に、この場所を愛していた多くの人がそこを再生したいという思いを込めて映像に収めようと集まりました。実に多くの写真が撮影されたわけですが、こうして破壊されたダウンタウンは、本来そこにあった場所から、写真の中、あるいはビデオ映像の中に居場所を移していったわけです。それはちょうど、60〜70年代のまだ美しかったベイルートが、いまや映像や写真の中にしか存在しないのと同じように。人々が、新しく再建されたダウンタウンを愛するのはいつになるのか、そこで写真を撮りたいという気持ちになるには、まだしばらく待たねばならないでしょう。あるいは、かつて人々が古いダウンタウンを撮影することによって葬ったように、新しいダウンタウンを無意識のうちに葬ることになるのは、まだ先のことになるでしょう。

このように私は、「存在の映像」と「不在の映像」の間に多くの映像を見てきました。そして我々は日常生活の中で日々、大量の映像によって爆撃されています。世界全体がまるで映像をどんどん生成する巨大な装置に化けたようで、そこで新しい映像が作り出される度に前にあった映像が消えていく。私たちはいまや、そんな大量の映像に耐えることができなくなっているのではないか。映像の表面だけを見て、その中にあるものを読みとく能力を失ってしまっているのではないか。私たちはもはや、映像というものを、自分の体で体験している現実、自分の目で見ていることの延長線上に捉えることができなくなっているのではないか。人間の目は、物を見る能力をいまだに持ち続けているのでしょうか。目というのは本来、人間の五感の中でも最も重要なものだったはずです。しかしいまやベイルートで私は何も見ることができません。そしてふと、自分自身が、ただの映像、イメージになってしまっているのではないか、あるいはイメージの合間をさまようだけの存在になってしまっているのではないかという気さえしています。


相馬:
このプレゼンテーションそのものが、既に彼のパフォーマンスともいえるような、アーティスティックな切り口、そしてラビアさん自身によって集積された映像から成り立っていて、それを聞くだけでも非常にエキサイティングだったと思います。彼のこれまでの作品でも、非常にドキュメンタリー性の強い、たとえば彼の生きている社会や彼自身の身体や表情を加工したものであるとか、あるいは新聞や雑誌等、それからインターネットからひっぱってきた様々な映像の集積によって成り立っているものが多いわけですが、こうした手法が、彼の作品の大きな特徴であり、これまで構築されてきた確かな方法論だと思います。それで、私のほうからそれに関して質問をさせていただきます。
こうした方法に辿り着くには、いろいろなことを考えて来られたと思うのですが、たとえばラビアさんご自身はベイルートの演劇学校でいわゆる普通の演劇、スタニフラフスキーの理論・システムに基づいたような演劇を習って演劇を始めることになったと伺っていますが、そうした演劇を否定・解体して、このような表現方法をとるに至った思考の軌跡をお話頂きつつ、ラビアさん自身の演劇的キャリア、アーティストとしてのキャリアを振り返って頂きたいと思います。

ラビア・ムルエ:
とっても長い話になるのですが、なるべく短くすませようと思います。

ベイルートにあるレバノン大学でもともと演劇の勉強をしたのが始まりですが、最初大学をでたばかりのときには、大学で習ったとおりのやり方で舞台や演劇をやっていました。いわゆる普通の演劇では、まずテキスト・台本があり、照明や舞台装置、あるいは体の動きなどその他の要素は、テキスト・台本をよりよく表現するためのおまけというか、支援するためのものとして使われています。結局6年間くらいそのような普通の演劇をやってみて、それもうまくいっていたのですが、そこでふと気がついてみると自分が一生懸命やっている演劇が、単にテキスト・台本の挿絵として、それをより分かりやすく見せるために演劇という行為をやっているだけなのではないか、そこで本来舞台で何かをみせるときにある他の力となるものをまったく無視して、無効化して舞台をつくっているのではないか、ということを考えるようになりました。

当時、他の同世代のアーティストたちがテキストよりも視覚的・身体的な表現に向かいつつある中、私も感覚的に舞台を体験できるような視覚的・身体的な作品をつくりたいと思うようになりました。
そこでまず、人間の身体についての再考察を始めました。舞台で扱う身体とは、抽象的な、大文字の一般論としての身体ではなく、私たち自身、個人としてひとりひとりの人間として持っている個別の身体として考えなければならないのではないか。そしてそれはどのような身体かといえば、戦争を体験した身体、つまりレバノン内戦の記憶がほとんど刺青のように拭い難く刻み込まれた身体に他ならないわけです。そこで私は、そのような身体とはどういうものなのだろうかと考えながら、9ヶ月間、5人の俳優と一緒に考え、ほとんど台詞のない、身体のアクションによってのみ成り立っている作品を作りました。それはとても暴力的な演劇になりました。
その後すぐに、とあるフランス在住のレバノン人演出家がフランス人俳優をつかった一人芝居をベイルートで公演したのですが、その作品もやはり内戦の体験、内戦によっていかに人間の身体が傷つくかというテーマを扱ったものでした。しかしその舞台をみて私は失望しました。というのもその役者の身体が、私たちが実際に経験した内戦というものを背負った身体には到底見えなかったからです。しかしそこで自分が作ったばかりの作品を思い返したときに、やり方は多少違うにしても実はその演出家がやったのと同じことをやっていただけであって、自分が舞台で見せた身体も、内戦を経験した身体ではなかったのではないか、少なくとも自分たちが内戦をしていたときに知っていた人間の身体ではないということに気がつきました。その演出家の舞台のおかげで、逆に自分自身のやったことを批判的に見ることができました。そこではじめて、実は戦争を体験している身体そのもの、体験している時点の身体そのものを舞台の上で再現すること自体が不可能なことなのではないかと考えるに至りました。

そこで考え始めたのが、そもそも表現する、表象するという行為そのものについてでした。舞台の上で、戦争のときに感じた恐怖、苦しみ、痛みといった感情や過去の体験を、舞台の上で生の身体として表象することが可能なのか、可能だとしたらどうやったらいいのか。結局この難問に挑戦する度に、そこでやっていることは単なる物まねにすぎず、表現したいと思っている本来の体験そのものから比べたらマイナスにしかならない、チープな物まねにしかならないという結論に行き着いてしまったわけです。そこで考えたのが、身体そのものが必ずしも舞台の上に現れているのではない演劇でした。そこに身体そのものが登場しない演劇、つまり自分たちの戦争を体験した身体というものを語っていると同時に、しかしその身体そのものは見えない、その身体の不在によってこそ戦争を体験した身体というものをみせる、あるいは観客に考えさせる演劇。このような演劇を実現するには、やはり言葉=テキストに戻らなければいけないと考えました。さらに、自分の舞台づくりというのは結局、演劇そのものを問う、演劇の定義とはなんなのか、演劇とはどういう枠組みでつくられているのかということを問うものにならざるを得ないと考えました。

こうして15年間、演劇という世界で自分の長い旅路を続けてきた中で、浮かび上がってきたもうひとつのテーマが、自国の歴史というものです。その歴史が誰によって書かれた歴史なのか、その歴史の中に真実・事実であることや虚偽であることがあるとしたらその真実と虚偽の違いを判断するのは誰なのか、誰がどういう権威によってこれは嘘であるといえるのか。この問題は、特にレバノンのように、どれが公式の歴史なのかという問いを巡って常に戦いが起きている国、つまり誰が公式の歴史を書くのかという争いが起こっている国を考える際に非常に重要なものです。
私自身は、歴史というのは事実とフィクションの混合のようなもの、その境界線すら曖昧なものであり、そうしたごちゃまぜの状態そのものが、歴史という形で現実の中に作用しているのではないかと考えています。ですからひとつ言えることは、今までいろいろな立場からみた様々なレバノンの歴史が存在していますが、「本当のレバノンの歴史」というものは、あらゆる歴史を、お互い矛盾することもあるかもしれないけれどもそれも含めて全部ひっくるめたものであるだろうということです。ゆえに、ある歴史的な事象が書かれているもののなかで、これは事実である、これは嘘であると区分けすること自体がおそらく意味の無いことで、フィクションも事実もごちゃまぜになって区別がつかなくなっているところを歴史として受けとること自体が歴史の役割であるだろう、と。
ですから自分の舞台作品のなかではドキュメンタリー的な手法を確かに用いていますが、それは決して古典的な意味でのドキュメンタリーではなく、ある事実が記録され語られることによってフィクションになっている、ということを示唆する舞台だろうと考えています。

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相馬:
記録するとか、記述をするとか、ものを語る切り口自体がひとつの物語を作ってしまう、たとえば、今の話にもありましたがレバノンには複数の歴史がある、複数の記述の仕方があるわけですよね。
では今度はレバノンの芸術、表現をとりまく状況に話を移していきたいと思います。今年の夏にイスラエルの侵攻があったり、現在は内戦の再来が危惧されているような宗派同士の厳しい対立があったりするわけですが、そうした社会情勢の悪化によってラビアさんの創作の環境がどのように変化しているか。それに関係して、たとえば現地では検閲がどうなっているか、あるいは先ほどから何度か言及されていますが、宗派によって分断され、あるいは共同体の論理によって定義付けられるような社会の中で、個人として何を表現したいのか、アーティストとしてどういう活動を自分自身に課しているのかといったことを含め、レバノンというコンテクストとご自身の表現の関連についてお話いただきたいと思います。

ラビア:
今の質問のなかにはたくさんの質問があって難しいのですが、なんとか答えようと努力してみようと思います。その前にひとつはっきりいっておきたいのは、繰り返しになりますけれども、私がこれまで話したこと、あるいはこれから話すことはすべて私自身、私個人の視点です。これ自体がフィクションであるかもしれないので、あまり信じないでください(笑)。

たぶん私がレバノンの社会の中でどのような立場にいるのかから話し始めるのがいいでしょう。レバノン社会は異なった宗派、民族が、隣同士、あるいはお互いに入り混じって生活している国です。厳密に言うと公式には18の異なった宗派があります。そこで18もあるさまざまな異なった宗派、集団が一緒に生活する、共存するということは、レバノン人にとってはもう避けられない運命です。当然、みんな仲良く愛し合わなければならないのと同時に、一方で憎みあってしまうこともあります。レバノンにも憲法があるので一応法治国家ということになっていますが、実はその憲法より、言葉だけで成文化されていない各宗派間の合意のほうがよっぽど重要な役割を果たしているのが現実です。それは、ある宗派が他の宗派を支配するといった関係に陥ることなく、なんとか平等に共存することを目指して作られている合意です。例えば政府の高官、いわゆる公職のポスト数はそれぞれの宗派に割り当てられていて、大統領がキリスト教徒で首相がイスラム教のシーア派、議会の議長がスンナ派、というように決まっています。

しかしもう一方で、レバノンは共和国なんです。共和国であるならば、憲法によってあらゆる市民が平等であるということが明記され、保障されているはずです。そういう意味では、レバノン社会の構造そのものの中にある種の衝突、矛盾があって、それは一方において法的に全市民の平等・自由が保障されているのに、実際には法律以上に効力を持っている口約束である合意はそうは言っていない、平等ということは保障していないという矛盾が社会そのものの中に組み込まれているともいえると思います。

私自身は自分を知識人、芸術家であって、反体制左翼だと思っているのですが、なんとその反体制左翼人が、体制をちゃんとつくるべきであるという方向のために戦っている、というパラドックスな状況にいます(笑)。つまりあらゆる人間が法律によって保障されて、表現の自由があり、そのほかの様々な自由が保障されたちゃんとした国家を作らなければだめだ、という立場のために闘っているわけです。

ですから、ここで今の質問の後半部分にうつる話になると思いますが、私自身は、いわゆる大衆、あるいはある宗派の集団のための作品をつくっているつもりは全くなくて、あくまでひとりひとりの観客、個人としての観客のために、そしてレバノンでやるときには実際多くの場合名前も知っているような特定の個人のために作品を作っているのだと思っています。観客とは何か、観客と作品との関わり、という問題についてはまた別の重要な議論になってくると思うので、またあとで話したいと思いますが・・・。
私自身がアーティストとしてやり続けている表現、作品を作るという行為は、おそらくレバノンのように宗派、あるいは家族・部族といった集団に個人がとらわれてしか生活がしにくい社会の中で、なんとか個人を取り戻すための作業なのではないかと考えています。例えばこんな冗談があります。レバノンに帰ると、よく「君はクリスチャンなのかイスラム教徒なのか?」と質問されるのですが、「僕は無神論者の世俗主義者だから」と答えると、今度は、「ああわかった。それで、君はキリスト教徒の世俗主義者なのかイスラム教徒の世俗主義者なのか?」と聞かれてしまって困るわけです。

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尤も、レバノンで今言ったような質問を直接相手にすることは実際にはあり得ません。「あなたはキリスト教ですか、イスラム教ですか? スンナ派ですか、シーア派ですか?」という風に相手の宗派を直接聞くことはありません。もし知りたいのであれば、まず最初に「君の名前はなんというのだ」と聞いてくることでしょう。ラビアだけだとキリスト教徒かイスラム教徒かわからない、となると「ファミリーネームはなんだ」ということになって、ムルエからでもわからない、すると今度は「君はどこの出身だ」となって、ベイルート出身だといったら、ベイルートはいろいろな宗派が住んでいるところだからこれでもわからない、では今度は「ベイルートのどの地区の出身だ」ということになって・・・つまり間接的に出身地や名前によってどこの宗派か突き止めるようとするわけです。こんな風に、相手の宗派や出自がわからないと相手とどう付き合えばいいか分からないところが、レバノン社会にはあります。こういった問題を避けるため、レバノンのテレビドラマや演劇では、登場人物になるべくニュートラルな名前をつけて、その人物がキリスト教徒なのかイスラム教徒なのか分からないように設定したりします。

今、レバノンには検閲制度がありますが、この制度はおそらく争いを起こさないため、社会を守るためにやむを得ず存在しているものであると思います。たとえばサルマン・ラシュディの「悪魔の詩」を舞台化して上演すればイスラム教徒から激しい抗議がくるわけで、そういう抗議が起こる内容を作らせない予防線として存在しているのが現行の検閲制度なのでしょう。逆に言えば、異なった宗派の共存が実現すれば、おそらく検閲はなくなるはずです。もともとレバノンの検閲制度は必ずしも成文化された、文章で書かれたきちっときまったものではなくて、かなりの部分が検閲官の裁量に任されているので、それぞれの検閲官によって、この程度なら言ってもいいやとかこれは言ったらまずいから削除しようということの判断がずいぶん左右されています。

ただしどんな作品においても許されない表現が四つあります。第一に、肯定的にしろ否定的にしろ、共和国大統領のことは絶対に言及してはいけません。第二に、どの宗教においても、他の宗教の批判を行ってはいけません。第三に、セックスに関することを語ってはいけません。第四に、下品な言葉や俗語は使ってはいけません。となると、これは前回東京でも公演した『ビオハラフィア』というパフォーマンスの台詞にもあるように、「大統領のことも、宗教のことも、セックスのことも語ってはいけないなら、何を語ればいいんだ?」ということになってしまいます。

私自身の検閲の体験を話しますと、以前はきちんと脚本を提出して許可を得てから上演をしていました。検閲に通すことを前提に脚本を書いていくと、こう書いたら検閲には通らないだろうと、事前に自分で自分自身を検閲にかけていることに気がつきました。そして自己検閲というのは、権力によってかけられた検閲よりも恐ろしいものだと感じました。それ以来私は検閲を通すことをやめ、レバノン国内の上演は非合法で行うことになりました。非合法で行うということは、もしみつかれば脚本を没収され、禁止事項に関する注意を受けたり、またそれを守らなければ牢屋に入れるぞと脅しをかけられることになったりするかも知れませんが、実際に逮捕されることは恐らくありませんし、そんなに危険なことではありません。
 
前回ベイルートで公演した『表象を恐れるのは誰?』というパフォーマンスでは、検閲が入り、途中で中断するというアクシデントが起きました。あとから検閲官に聞いたところ、「こんな内容がなぜ許されるんだ」と検閲局に電話をかけた観客がいたということでした。つまり観客が自己検閲をかける、という状況が生じたわけです。テキストでは、フランス人のアーティストが美容整形手術を受けたことに関連し、それを批判する登場人物が出てきて「美容整形はアッラーとヒズボラに反する行為だ」という台詞を言うんですが、そこがひっかかったわけです。検閲の結果「ヒズボラ」という言葉が削除されたのですが、「アッラー」つまり「神」という言葉は削除されませんでした。そうすると神に反することはできても、「神の党」(=ヒズボラ)に反することはできないという神学的に奇妙なことになってしまいました(笑)。

ここで観客の手が挙がる。

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観客1(駐日レバノン大使):
私はレバノン大使です。まず始めにラビアさん、日本にようこそいらっしゃいました。レバノンは貴方のことを大変誇りに思っています。もう一つ私が嬉しく思うのは、あなたが個人の立場としてここで考えを語っていることです。そうした個人個人の視点が存在することが、現在のレバノン社会のダイナミックさを作り上げていると考えています。
ここで2つほどコメントさせて頂きます。第一に、あなたが芸術家としてレバノン社会をどう見ているかを知り非常に新鮮でした。あなたのおっしゃった検閲とアーティストの問題は、世界中のアーティストが体験していることと思います。確かにレバノン社会には検閲がありますが、日本社会においても成分化はされていませんが、もっと厳しい検閲があったりもします。ですからその検閲というのは大変複雑な問題であって、社会が知るべきこと、また知らない方がいいことを識別する大変尊重すべき制度であるのかもしれません。また、歴史というものが事実とフィクションを混合したものであると言う指摘も、大変素晴らしかったと思います。日本のアーティストが自分たちの歴史を考える際にも同じような見方が必要だと思いますが、そのことを貴方に伝えることで、貴方の考えがさらに深まっていくのではないかと感じています。その視点を今晩呈示してくれたのは、とても素晴らしいことです。
私からひとつ質問させていただきます。あなたが日本の観客に対して芸術全般について、またレバノンという社会ついて伝えたいメッセージは何でしょうか。

相馬:
 一言付け加えさせていただくと、ジャーベル・レバノン大使は前回のラビア・ムルエの『ビオハラフィア』を含め過去の東京国際芸術祭の中東作品もほとんどすべて観てくださっています。その上でこうしたご発言をされたことをご理解ください。

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ラビア:
何よりもまず、大変寛大で貴重なご意見をありがとうございました。実は私からも大使に質問があるのですが、それは後回しにします。
実は検閲に対する大使の発言には、私も賛成しています。検閲のことを話したのは、公式な検閲について批判したかったからではなく、むしろ自己検閲という現象についてお話したかったのです。実は世界中に制度化された検閲というものが存在していて、例えば世界で最も人権と自由が尊重された国であるとされるフランスにおいても助成金の交付などによる経済的な検閲が存在しています。おそらく日本にも、日本人のアーティストたちが公式ではなくても検閲にさらされているような状況があるのではないか、ということを共有するために検閲の話をしました。

次は歴史におけるフィクションとリアリティの問題ですが、この話については別の講演会が開けてしまうほど大きな問題だと思います。あらゆる国において、国をまとめるためには神話的な国家の歴史がどうしても必要になってきます。単にフィクションを否定的に捉えればよいというものではなく、むしろフィクションは社会をまとめるために非常に大切なものでしょう。しかし一方でそのフィクションを批判するグループがいるとすれば、そうしたフィクションは彼らにとって危険なものであるかもしれないし、そうでないのかもしれません。国家としてのレバノンの起源を巡っては、いつも二つの歴史的起源が持ち出されます。一つには、旧約聖書を根拠として、レバノンは5000年前にフェニキア人によって建国された、というもの。もうひとつは、レバノンはアラブ帝国が西洋によって解体・分断された際に誕生した、というもの。この二つの視点の間には、時に非常に暴力的な衝突が起こります。内戦後多くの国民の見解は、レバノンはレバノンとして独立した国家であるべきだという点で合意していると思います。現代のレバノン国家は、この2つの歴史的起源を前提にしか定義することはできません。この2つの起源がフィクションの要素を含んでいるとしても、もう既に現実の一部になってしまっているのです。フィクションを否定するのではなく、なぜそういったものが生まれたのか考えていかなくてはいけない。これは例えば、根も葉もない噂であっても噂自体がもう現実の一部と化した瞬間に、それは事実となっているような状態といえます。

では質問にお答えします。伝えたいメッセージは何もございません(笑)。

レバノン大使:
それが最良のメッセージですね。

ラビア:
私はアーティストや芸術の仕事はメッセージを提示することではなくて、質問を呼び起こすものだと考えています。もし良い質問や重要な質問を私の作品を通して呼び起こすことができれば、幸運だと思っています。ですから考えようによっては私の作品は挑発的だったり攻撃的だったりすることもありますが、攻撃的に観客を挑発して怖がらせようということではなくて、私の作品を通して問われているのは私自身です。私自身の偏見や思い込みをそれではいけないと厳しく問うていく中で、作品が観客に対しても厳しい質問を問うことができるのだと気付きました。決してみなさんを怖がらせるためではないということです。

やっと大使に質問ができます。大使にこのようなコメントをいただいて、大変感動しています。正直、ジーンときました。そこでどうしてもお尋ねしたいのですが、大使は個人として私に質問なさったのか、それともレバノン国家の代表として私に質問をされたんでしょうか?

レバノン大使:
あなたはいつまで日本にいますか。明日大使館の私のオフィスに来ていただければ、すべてお話します。

ラビア:
それでは、明日伺いましょう(笑)。


相馬:
思わぬ大使のご発言により、ライブ観溢れるトークになって参りましたが、ここで私が質問を続けるよりも、会場にいらした方から質問やコメントをいただけたらと思います。

観客2:
存在と不在の問題について質問があるのですが、イメージが存在を映し出すというのは当然のことですよね。私達はイメージに映っているものを存在すると認識しています。ではどうやってイメージが存在しないということを表現できるのでしょうか。例えばレバノンで起こったデモを撮った写真が、一種の不在を表しているとおっしゃっていました。でも私達がみると、ここにはデモを呼び起こすほどの悲劇的な出来事が存在したと思ってしまいます。その時にどうやって、写真が不在を表すのでしょうか。

ラビア:
まず初めに申し上げなくてはいけないのは、普段こういったトークの際に私は映像を使わないで話しています。実は今回は一種の妥協で、レバノンという馴染みの薄い場所へとみなさん招き入れるためにも映像を使ったのですが、それがこの質問につながったのだと思います。私は普段こういった形では、映像は使いません。作品の中で使うだけです。映像を使う際には、ニュースや報道で使われるオフィシャルの映像の中に、私達個人個人が存在していないということを表すために使用します。今レバノンでは二つの集団が対立関係にあります。一方は「9月14日側」と呼ばれる政府側の人々です。もう一つは「3月8日側」と呼ばれるシリアびいきのヒズボラやその他の人々です。私の立場はどこにあるかというと、私は「9月14日側」でもないし、「3月8日側」でもありません。しかし今のレバノンでは、そのどちらかに属していないと話しにすらならないとされています。その二つ以外の意見というのが、本当はあるはずですが、それはオフィシャルなイメージの中には、入り込むことすら許されません。例えばレバノンでは世俗派の存在が無視されています。私はどちらかと言えば政府側なのだと思いますが、それはもう一方に反対だからであり、政府を支持しているかと言われると、今のレバノン政府は宗教対立の罠にはまってしまっているところがあり、支持できるとは言えないのですが、そういったどっち付かずの私のような立場には居場所が与えられないわけです。また私とは違った立場でどちらにも属したくないという人もいるはずなのに、その人たちもまた公式なイメージの中には存在することを許されていないわけです。これは今の世界に共通する問題だと思っています。9.11の後にジョージ・ブッシュが演説で「我々の味方か、それともテロリストの味方か」と言いましたが、そう言ってしまった瞬間に、世界はそこで2つに分断されてしまうわけです。私にはブッシュの味方になるとはどういうことか、テロリストの味方になるとはどういうことか、さっぱりわからないのですが、こうした安易な二項対立が蔓延しているわけです。

以前発表したパフォーマンス『消えた官僚を探して』という作品では、ベイルートで行方不明になった人たちの写真を新聞から切り抜き、ノートに貼り付けて収集するところから始めました。レバノンでは内戦によって多くの行方不明者が出て大きな問題になりましたが、彼らは内戦とは関係の無いただの行方不明者です。レバノンはとても小さな国で皆お互いに知り合いなのに、なぜ彼らが行方不明になれるのか不思議に思ったわけです。その行方不明者の中に、ある財務省の官僚がいました。私はニュースでこの話を聞いて、彼の人生を追跡してみようと思いました。彼の記事が出てくる度にスクラップをするようになり、ノートは3冊にも及びました。この事件は最終的に、当時のレバノンで大変な政治問題に発展し、財務省から横領されたお金や切手の偽装など次々な事実が発覚していきました。毎日の様に新聞の一面に取り上げられ、政治家をはじめ当時あらゆるレバノン人がその事件と関わるほどの大事件に発展していく中で、私は半年間のスクラッピングをもとにした作品を作ろうと思い立ちました。

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作品の中で、私は客観的に新聞の記事だけを読み上げる中立的な立場をとりながら、刑事のように事件を追跡していきます。舞台の真ん中に白い机と小さなスクリーン、その背後に大きなスクリーンが2つあり、私ともう一人の俳優が観客席の中に座っています。私の正面と頭上に一台ずつカメラがあり、正面のカメラは私を映し、その映像を机の上にある小さなスクリーンに映し出すことで、まるで私がそこに座っているかのように見えます。頭上のカメラは私が読むスクラップブックを撮り続けます。もう一人の俳優は膝の上にホワイトボードを乗せ、事件の経過を図にしていきます。それをまた別のカメラで撮影しながらもう一方のスクリーンに映し出します。そしてこの図は事件が進むにつれて、混沌さを増し、結局パフォーマンスは何の解決もないまま終わるわけですが、この事件に限ったことではなくレバノンで起きるこういった事件は、たいてい未解決に終わります。

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ここで扱っているのは、テレビの生放送に関する問題です。私自身は上演中、ひたすら記事を読み上げています。観客は同じ客席にいる私の映像を舞台上で見るわけで、それはあたかも生放送のようです。ここで面白いのは、観客は振り返れば私がいることを確認できるのにもかかわらず、舞台上に映写された生の身体を持たない俳優のイメージを見るわけです。これは生放送がどういう力を持っているのかを問う作品だということができるかもしれません。生放送というのはやはりある力を持っていて、例えば深夜にサッカーの試合があれば、何人かの人はビデオ録画ではなく深夜まで起きて生放送を見るわけです。イラク戦争の始めとしてアメリカが行った爆撃を世界中の多くの人が生放送で見ているわけですし、私の住むレバノンでこの夏にあった爆撃の映像も私達は生放送で見ているわけです。私がこの作品でまず取り上げたかったのは、メディアが私達をいかに操作しているのか、ということです。もう一つ気がついて欲しいのは、私は一見中立に新聞記事を読み進めますが、実は何を読んで何を読まないか選択していて、決して中立とは言えないということです。そのほとんどは意図的ではなく必要性や目的のために自然に行われるにしろ、それ選択によって観客は常に操作されてしまっているわけです。この舞台のラストシーンでは、新聞記事を読み終わった後も私はしばらくずっとそこに座っていて、観客はパフォーマンスが終わっても、スクリーンに映った私を見続けることになる。しばらくそうしてじっとしていると、観客は一体彼は何をしているのだろうと、私の生身の体を振り返って見ようとします。ところがそこにちょっとした仕掛けがあって、その時には既に私は別の場所に移動して生放送をしているので、振り向いてもそこには誰もいません。そこで観客は、自分の見ていた映像が録画に切り変わったのはいつからなのか考えなくてはいけなくなります。私は生放送というのはどういうことかという問題を自分たちで考えてもらうためにこういうことをやっています。決して観客を騙して遊んでいるわけではありません。

相馬:
念のためにいうと、これは2003年に制作された作品で、これから私たちと一緒に作る新作ではないのですが・・・私は何度か拝見しましたが、非常にクレバーな作品でした。
さて、早いものでもう2時間が経過しましたので、そろそろまとめに入らせていただきたいと思います。シンポジウム終了後には、ホワイエでレセプションを設ける予定ですので、そちらの方に観客の皆さんにもご参加いただいて個別にお話をしていただければと思います。
今日は「存在と不在の間で」というタイトルでお話を頂きましたが、今度の新作もおそらくこの問題に触れるものになるだろうと思います。まだ決まっていないことも多いとは思いますが、今度3月に東京で世界初演する新作に向けて、豊富やキーワードを挙げて締めくくっていただけますか。

ラビア:
3月の新作も今日お話したレバノンの近代史に関わるものになると思います。
ただし今日私はひどく真面目な話をしたので、皆さんは私のことを真面目な人間だと思っているかもしれませんが、私は真面目な人間ではないので、かなり笑える作品になると思います。今日はどうもありがとうございました。

相馬:
もしかしたらみなさんは既に騙されていて、これは新作のパフォーマンスの一部なのかもしれませんね。本日は、長い間どうもありがとうございました。もう一度、ラビア・ムルエさんと通訳の藤原さんに拍手をお願いします。

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撮影:松嶋浩平
文責:相馬千秋、阿部幸、米原晶子

レバノン・レポート 1.レバノンへ/旅のきっかけ  松嶋浩平(TIF舞台記録撮影)


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(c)松嶋浩平


2006年9月、停戦後間もないレバノンの首都ベイルートに映画を観に行った。

僕が毎晩のようにどっぷり漬かることとなるアラブ映画祭2006 [Arab Film Festival - Ayam Beirut Al Cinema’iya ‘06]。これは、9月16日から23日まで、首都ベイルートの目抜き通りハムラストリートに最近オープンしたばかりのメトロポリス・アート・シネマと、もう一つの高級街区であるアシュラフィーヤのテアトル・シィス・ソフィルで行われた。

そう言いつつも、映画を観ることだけが目的だったわけではなく、もう一つのレバノン訪問の目的、どちらかというとこちらが先だったのだが、それは写真を撮ること。そして、三つ目は旅そのもの。

ということで、ここでは、今年9月、爆撃と侵攻から約1ヶ月後のレバノンで、国内屈指のアーティストを集めて行われたアラブ映画祭の体験談と、もうちょっと私的な旅の様子を、写真を交えてご紹介したい。
ちょうど1年ぶりのレバノンだった。昨年はベイルートイン・ベイルートアウト、途中、乗合タクシーで片道3時間かけてシリアも訪問した。

まず、昨年レバノンを訪問した際の第一印象を簡単に言うと、他のアラブの近隣諸国と比べて、おシャレで、高級で、ヨーロッパナイズドされていて、街中の人々はちょっとすかした感じ。アラブ特有の、街に降り立った途端「アフワン・ワー・サハラン、ウェルカム・マイ・フレンド」、てな具合ではない、ちょっと他人との間に距離感があるような、そう言った意味ではより東京に近い都会の表情を見せる。

これは、はじめに滞在した地区がおしゃれなハムラだったことによるかもしれないが、隣国シリアの首都であるダマスカスの、いかにもアラビアンナイトの時代から続いているようなスークや、人懐っこい住人の好奇の視線などを考えると、やはりレバノンは一味も二味も違う。

特に写真に対するはにかみ度、拒絶度、これはベイルートではかなりのもので、そもそも街を歩きながら、写真を撮らせてください、と気軽に声をかけまくれる雰囲気がない。そういった街の造りをしていない。

そんなこんなで、昨年は、物価も安く人々も気さくなダマスカスの雰囲気に、より暖かさを感じていた。そして、古き良き都市ダマスカスに惹かれつつも、フライトがベイルートアウトのため、最後の夜はベイルートに戻り、一晩だけ寝て飛行場に直行する予定。しかし、まさにその最後の夜、泊まっていたドミトリーから1キロ弱のリッチなキリスト教地区アシュラフィーヤで爆弾テロが発生した。ドミトリーのリビングでくつろぎつつ、ヨーロッパから来た女の子たちと、「クラブにでもでかける?」「いや〜疲れているからちょっと覗くだけなら」なんて話をしていたところ、突然テレビに炎をあげる車が映し出され、宿の主人が「こりゃここから目と鼻の先なんだな」、なんていいだす始末。恐れをなしたみんなはクラブ活動を延期、反対に僕は眼が冴えてしまい、なぜかこっそり、カメラとフィルムの準備をする。

何食わぬ顔で帰ってきて、「爆弾の音なんて聞かなかったけどなんかあった?」なんて宿の主人に話している日本人大学生と入れ違いに、宿を飛び出した。リアルで生のベイルートに触れる糸口のようなものが、すぐそこに迫っている気がしたのかもしれない。だがしかし、見当をつけて歩きだしたら道に迷ってしまい、タクシーでやっと辿り着いた頃には、騒ぎはほぼ収まっていた。しかも、この事件の12時間後には東京に向けて飛び立つため空港に向かっていた。つまり、昨年のレバノンは、最後の夜の強烈なインパクトを残しつつ、ある意味、僕の中で消化不良だったというところだろうか。それでも、翌日空港へ向かう直前の数時間で再訪したテロ現場の、明るい日差しに照らされた非現実的な光景が、やけに記憶に残っていた。

そんな旅から10ヶ月ほど経ち、今年の夏に始まったイスラエルによるレバノン空爆と侵攻、そしてこの紛争と連動したアートネットワークジャパン(ANJ)主催のCamo-Cafe開催。これを機に僕は、ずっとあたためておいた(要は放ったらかしにしてあった)レバノンのネガをプリントした。ANJの相馬さんによると、2007年の3月にレバノンのアーティスト、ラビア・ムルエを招くつもりだが、この状態ではどうなるかわからないとのこと。ラビアの舞台は僕も2年前に観ていた。しかし、このような状況下、彼は日本でのパフォーマンス準備にとりかかれるのだろうか。はたまた、去年、街中で見かけたおシャレなベイルートっ子たちは、相変わらず肩で風を切って歩いているのだろうか?一緒にパレスチナ難民キャンプを回った元NBCのドライバー、Mr. Itani(72歳)は、今でもでっぷり太った体を揺すって走り回っているのだろうか…?そう、こちらで勝手に予想するに、おそらくみんな1年前と変わらず、アーティストは自分の作品を生み出し、ベイルートっ子はおシャレな出で立ちで闊歩し、Mr.Itaniは腹を揺すって走っているに違いない。しかしだ、それを生で見たいではないか。


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(c)松嶋浩平


そうして、いてもたってもいられず、またレバノンへ行くことになった。
これが、ちょっと長くなったが、僕が今年の9月にレバノンを再訪したきっかけだ。そして、幸運にもこの時期に、ベイルートでアラブ映画祭が行われると知ったのだ。

レバノン・レポート 2.ベイルートへ/レバノン入国と首都ベイルートの様子  松嶋浩平(TIF舞台記録撮影)


まずは、アジアカップを目前に控えるカタールのドーハでトランジットし、ダマスカスに飛ぶ。昨年ドミトリー(相部屋)が空いておらず、仕方なくルーフトップ(カタカナだとカッコよさげだが屋上におんぼろマットレスを並べただけ、しかも夜は冷える)で1泊300円×3泊した宿「アル・ラビ・ホテル」へ。今年は、運良くドミトリーの一角を占領する。幸先が良い。宿の人間や宿泊客によると、ベイルートへの最短ルートであるダマスカス街道は、一部爆撃で迂回する必要があるものの、バスやセルビスと言うタクシーで充分いけるとのことで、さらに一安心。

翌朝の、セルビスによる片道三時間の旅では、途中、聞いていたとおり何箇所か迂回路があり、さらには、渓谷にかかる大きな橋が途中からぶった切られていた。突然目の前に現れる戦争の生々しい、でもまだどことなく非現実的に思えてしまう光景。そこで車を停めて記念写真を撮ったり、ああでもないこうでもないと言っているアラブ人たち。ちなみに、セルビスというのは4〜5人の乗客を集めて中・長距離を走る乗合タクシーで、この日の乗客は、僕の他に男性二人連れと母娘二人だった。

出入国手続きも順調に済みレバノン側に入ると、公共広告だろうか、どこかの企業によるものか、はたまた政党のプロパガンダか、1年前には見なかった大きな看板のシリーズが街道沿いに並んでいる。最も目に付いたのは、戦火でぼろぼろになったレバノンの国旗をデフォルメしたもの。レバノン国旗は、シンボルであるレバノン杉が真中にあしらわれているのだが、そのレバノン杉が、銃痕だらけの旗の真中で、異様に根をのばしている。乗り合わせたレバノン人に確認したところ、「戦争で疲弊しても、我々レバノン人はここレバノンの土地で、さらに根(ルーツ)を力強く伸ばしているんだぜ、というメッセージだ」、という。これは、アラビア文字が読めなくとも、絵を見ただけでメッセージが飛び込んでくる技あり看板だ。しかし、ちょっと待てよ。本当にレバノンの人々は今回の戦争を経て一つにまとまったのだろうか。
地中海の一番奥、シリア、イスラエルと国境を接する位置に、岐阜県ぐらいの小さな国土と、紀元前からの古い歴史を持つこの国では、キリスト教徒とイスラム教徒が半々存在し、その狭い国土で18もの宗派がひしめきあっている。17年もの間続いた泥沼のレバノン内戦は、簡単に言うとPLOの国内流入に伴って現実化したパレスチナ問題に関して、それを嫌うキリスト教徒と支持するイスラム教徒が真っ向から対立したことによるものだが、周囲の大国に翻弄されてきたその地政学的な歴史とともに、宗派に基づいて重要な政治ポストを分配する伝統的な宗派主義の存在、そして、各宗派の利害が複雑に絡まったこと等にも原因があると言われる。つい15年前まで同じイスラム教徒やキリスト教徒間でも血みどろの争いが繰り広げられた街。つい一ヶ月前までイスラエルの爆撃と侵攻にさらされていた土地。それにしては、この看板は、イメージとして力強いのだけれど、やけにキレイで判り易くてすっきりした趣きで僕らを出迎える。なにも怨念のこもった看板のシリーズなんて見たくないのだけれど…。


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(c)松嶋浩平


やがて、僕らの乗ったセルビスが決められた停留所に到着し、みんなわらわらと降り始めた。慌てて同乗者たちにいくら払ったか金額を確かめ、同額を支払う。セルビスの運転手はちょっと渋った表情。こちらが外国人だと思って、ツーリストプライスを取れると期待していたのかもね。この分だと、これからまた目的地まで別のタクシーを捕まえて値段交渉から始めざるをえないか、なんて考えていると、同乗していた母娘のうち、娘さんの方が、「あなたはこれからどちらにいらっしゃるの?」なんて聞いてくれる。カレッジで英語を勉強しているらしく、聞き取りやすい英語を話し、とても快活な彼女は、乗客の中でも一番会話が弾む。昨年も泊まったハムラ通りだと言うと、「父が車で迎えに来ているから、乗っていきなさいな」。これまた幸先が良い。金髪に半袖シャツの外見からは想像できなかったが、彼女の家族はイスラム教シーア派で、今回特にひどい空爆を受けたべイルート南部ダッヒエ地区在住だということを知る。彼女の家は幸い無傷だったが、街中はひどいものだ、とさらりと言われる。そんなさらりとした言葉から、どんな人たちの上に爆弾が落ちたのかという情報が、遅ればせながら徐々に意識されてくる。あたりまえではあるのだけど、普通の女学生、母親、父親…あたりまえの人々の上になんだよなあ、と。

相変わらずコジャレていて綺麗なハムラ通りまで送ってもらい、去年も滞在した中級ホテル「スルタン・パレス・アパルトメン」まで行く。ここでは、去年、ダリーンという、これぞレバノン美人といった感じの学生がフロントでアルバイトをしていて、朝食、昼食、夕食と都合三回にのぼるデートのお誘いを全て断られた、いい思い出がある。懐かしさを胸に入って行くと、フロントには暗い雰囲気の青年が一人。いわく、ダリーンはもう働いていないとのこと。しかも、去年より部屋の価格が高いので、決めかねてホテルを後にする。そして、ドライバー Mr. Itaniが働いているはずの、近くのホテルへ歩いて行った。すると、相も変わらず、ホテル脇に停めた旧型のメルセデスと、その近くで巨体を揺すって歩くMr. Itaniの姿を発見。背後から声をかけ、感動の再会、そして抱擁。と思いきや、せっかちな彼は、すぐに車に乗れという。いわく、「見せるところがたくさんあるのじゃ」、「俺は今ドイツ人の客も抱えているから時間が無いんだわい」、「これは今回の紛争中に自分で撮った写真だからネガをやる」、「こっちは紛争に関する雑誌の切抜きを集めた束」、「取り急ぎベイルート南部を回るぞ、Mr.Kohei、来るのが遅すぎるんじゃ、戦争は終わった、Too Late!」って、わたくし戦場カメラマンじゃないのですが…


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(c)松嶋浩平


そうして、ベイルート南部のダッヒエ地区へ直行し、爆撃の後を見る。ハムラやダウンタウン、アシュラフィーヤといった高級地区のような華々しさは無いが、それでも郊外の住宅地といった趣きで高層アパートなどが建ち並ぶ地区だ。そこに、爆撃で穴のあいた道路、落ちた道路の高架、崩れた建物跡などが次々と現れる。ヒズボラの支持母体であるイスラム教シーア派の人々が多く住む地区。それと、ただ爆弾が落ちた場所が偶然そこだった、というだけの理由で、瓦礫の山になった住居。そして被害にあった住人。しかし、いまや瓦礫もかなり取り除かれ、更地に近い状態になっているところが多い。また、街全体を包む重機の音や人々のせわしない動きから、復興作業がかなりのスピードで進んでいるという雰囲気を感じ取れる。途中、何箇所かでヒズボラの人間や労働者にストップをかけられたが、特にぴりぴりしている様子も無い。崩れ落ちたままの大きなビルの前を、買い物帰りだろうか、ベビーカーをひいた女性がゆっくりと通り過ぎる。叩かれては再生し、崩れては復興するというサイクルを幾度となく繰り返してきた都市ベイルートと、そこで生きる人々にとって、こんなことは慣れっこなのだろうか。地中海地方の明るい光が降り注ぐ、平穏な廃墟の光景に、少しの恐ろしさと、こういうものなんだなあ、という妙な感慨を受けた。

さて、次の日の朝、ドミトリーですやすや眠っていたところをホテルの男の子に起こされ、寝惚けながら顔をあげた途端、ドアの向こうにでっぷり太ったMr. Itani登場。顔を洗う暇もなく、Mr. Itaniのおんぼろスクーターに二人乗り。彼の巨体を乗せて動くだけでも不思議な小型スクーターに僕まで乗ると、これはほとんどスクーターを虐待しているような気分になる。

そうして、まずは政府のオフィスへ。Mr. Itani曰く、レバノン南部などで撮影をするには、政府の発行するプレスカードがあった方がなにかと便利だとのことで、昨日のうちに日本からメールで頂いていたレコメンデーション・レターと証明写真を持参し、申請用紙に記入する。しかし、しばし待った後、怪しい雲行きに。いわく、このアート・ネットワーク・ジャパンからのレターなるものは、アートに関する機関からのものであり、アート関連は管轄が別になる。プレスカードを発行する私どもの部署では対処できない、とのお役所の対応に、敢えなく敗退。だがしかし、そこはアラブの国、写真や申請書は預かっておくから、明日、新聞社やテレビといった報道関係の機関からのレターを持ってこいと言うのである。

オフィスを出た途端、インターネットで日本の新聞社のマークだけコピーしてレターを作り直せば大丈夫と耳打ちするMr. Itani。あなたも結構ワルですなあ。しかし、あのオフィスの人たちもそう思ってたりするのだろうか、どこまでOKなのか、いまいち境界線が読めず、曖昧に頷く小心者の自分。ということで、結局手ぶらで政府の建物を後にした。

そして、再び、まだなんとかエンジンがかかる様子のおんぼろスクーターに跨がり、ベイルート南部の爆撃跡を再訪する。しかし、昨日と同じダッヒエ地区に行ってみて、Mr. Itaniのおんぼろスクーターという選択は、まんざら間違いでなかったことがわかる。昨日は日曜日で通りも街中も静かなものだったが、月曜日の今日は、道がとても混雑し、更にあちらこちらで復旧工事が行われている。街全体が騒がしい。そんな混雑した通りでは、車よりもスクーターの方が、より機動性があり、ちょっと道ばたに停めてまた次へ、といったことが容易にできる。ほらな、こっちの方がいいだろ、と得意顔になるMr. Itani。しかし、このおんぼろスクーター、いつまでもつのかがちょっと心配だったりもして。


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(c)松嶋浩平

レバノン・レポート 3.アラブ映画祭へ/まずはイラク映画鑑賞
  松嶋浩平(TIF舞台記録撮影)


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(c)松嶋浩平


さて、その夜は早速、アラブ映画祭が行われているハムラストリートのメトロポリス・アート・シネマへと向かった。ビルの一階にあるエントランスは、ガラス張りの美しい外観。入り口正面の壁一面は、古い映画のシーンを切り取ったらしい壁紙で埋め尽くされており、彩りを添えている。

しかし、祭りにしては意外と人が少ない。アラブ映画祭の広報を務める女性から、映画祭のパンフレットやプレス用CDR等を頂き、アーティストのラビア・ムルエ、アリ・シェリー、プロデューサーのハニア・ムルエ、新聞記者のピエール・アビサーブなどが来ているか聞くが、みな不在。広報の女性いわく、みんなはメイン会場のテアトル・シィス・ソフィルにいるんじゃないか、とのこと。こんなできたての美しい映画館なのに、メイン会場じゃなかったのですね...

ということで、アート関係者とのコンタクトは明日に延期し、とにかく、映画祭にきたのだから映画を見ようと、オデイ・ラシード監督によるイラク映画「露出不足(Underexposure)」のチケットを購入。

スクリーンは洒落たエントランスホールから地下へ二階分ほど降りたところにあり、入り口手前には、大きめのカウンターバーと、テーブルや椅子、ソファなどの並ぶ広いスペースがある。開演までの間、いっぱい飲んでゆっくりできるスペースが、劇場内と同じぐらいのスペースでとられていて、ゆっくりくつろげる演出が心憎い。テレビだろうか、ビデオカメラの撮影クルーもいる。それにしても、みんなどこかおっとりした雰囲気だ。う〜ん、大人でセレブなミニシアターか。こんな、インド旅行と変わらない汚い格好で来るんじゃなかった。これでも、東京帰ればもうちょっとおしゃれな服持ってるんですよ、などと頭の中で独り言を言いつつ、いよいよ劇場内へ。客席数は、東京のミニシアター程度と少ないが、ちょうどよい程度の傾斜がついていて、どの席からもスクリーンが見やすい造りだ。そうして間もなく客電が落ち、僕の、ベイルートでの映画初体験が始まった。


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(Feature Filmより)
・ 「Underexposure」・・・Oday Rasheed 2004 Iraq/Germany 67min. Color 35mm
「露出不足」のタイトルで日本でも公開済み(アラブ映画祭2005)。
イラク戦争後の不穏な空気が漂うバグダッドで、挫折を繰り返しながらも映画を撮りつづけようとする男性の苦悩、死に行くイラク人兵を家に匿ってその兵士に感情移入してしまう知的障害のある男性の悲劇などいくつかのエピソードが交錯する。暴力が渦巻き、混沌が支配する、行き場の無いイラク社会の閉塞感と、そこに生きる、ちょっと癖のある市井の人々を描いた作品。
タイトルどおり、ダークな画面がすべてを物語っているのだが、重いテーマながら、露出アンダーな映像美と、対象との距離感が、クールで独特な世界観を築いているという印象を受ける。

爆撃一ヶ月後のベイルートで、イラク戦争にまつわる重厚でアーティスティックな映画を鑑賞し、複雑な気分になりながらも一本目の映画で秀作にあたり、満足しながら劇場を出た。せっかくだからと、劇場のドアを出てすぐにあるバーカウンターで、これまたこぎれいなスーツをぱりっと着こなしたバーテンダーに、飲み物を注文する。観賞後の一時をくつろぐ人々の中で周りを観察すると、やはり、関係者、一般客含め、洗練された都会人ばかりに見える。ベイルート南部の瓦礫からほんの数キロで、こんな空間がある。頭のスイッチを切り替える暇もなく、レバノンの一日は目まぐるしく展開して行く。そろそろ夜も更けて、長い一日も終わりだ、などと思っても、甘いのだ。このすぐ後に、僕はそれを思い知ることとなる。

レバノン・レポート 4.警察へ/真夜中の事情聴取  松嶋浩平(TIF舞台記録撮影)


いい気分で劇場を出ると、既に夜も更け、ハムラストリートでは人通りがかなり減っている。ひっそりとしたハムラは、昼間とまた違った雰囲気で、昼間より気温が下がり、外気も心地よい。映画に対する満足感も手伝って、通り沿いをしばらく散歩することにする。

すると、右手に大きな壁に囲まれた建物があり、門にはFuture TVと彫られたプレート。これはラビア・ムルエが働いているというTV局だったはずだ。しばらく壁伝いに行くと、前方からこちらに向けてオレンジ色のやや強めの灯りが灯っており、左手には飲食店だろうか、緑色を帯びた照明が煌煌と光っている。思わずカメラを向けて一脚で撮影すると、前方のオレンジ色の灯りの奥から、なんと警察官が登場。しまった、凡ミス!と思ったが、時すでに遅し。よく目を凝らして見ると、このオレンジの灯りのすぐ奥には、歩道の電話ボックスのようなものがある。しかし、これは電話ボックスなんかじゃなく、Future TVを警備しているポリスボックスだったのだ。すぐに警察官のお兄ちゃんが電話をかけて、ボロいTシャツとひげ面の、カンフー映画の悪役のような男が登場。またどこかに電話をかけて、待てという。最初の警察官のお兄ちゃんは、優しい微笑で、心配しなくて大丈夫、ちょっと事情を聞くだけだ、と言うが、ボロTひげ面の男の方はというと、どうも話が通じない。自分はこういった事情でここにおり、写真を撮ったのはこういう理由だ、おまけにFuture TVには知り合いもいる、と言ったが全く聞き入れる様子が無い。これは、僕も彼に負けないぐらいボロいTシャツを着てるせいか?

しばらくして、小型トラックのようなパトカーが到着し、警官がわらわらと降りてくる。その中でも最も若い、小太りで背の低い、高校生のような童顔の警官は、手錠まで出そうとする始末だ。さすがに手錠はされなかったが、向かい合って乗った車両の中では、両手をシートより下げておくようにとその子供警官に指示される。ちょっとむっとしつつ、そんなに自分は人相悪かっただろうか、ひげ剃っとくんだったかもしれない、と反省。

そうやって、僕は見事に夜中のベイルートで警察に連行されてしまった。しかし、この時点では、今夜観たイラク戦争の映画よりも長い茶番劇が待っているとは、まだ30%くらいしか予想していなかった。

しばらく市街を走って、ビルの二階にあるポリスオフィスへ。そこでは、別の夜勤の警官数人と、ひげ面、強面の偉そうな男が待っていた。オフィス内で最も偉そうな強面警官に大きなデスクへと導かれ、早速調書をとる準備が始められる。しかし、この男、動作がどうも緩慢で、何をするにもスピードが必要以上に遅い。にこりともせず、威厳を持って厳かに一枚一枚調書用の紙を重ね、その紙と紙の間に複写のカーボン紙を挟み、ページの上に日付やら名前やらを一字一字、力強い筆跡で書き連ねて行く。そして、やっと聞き取り開始。ところが、この男、英語が全く通じない。興味本位で周りに寄ってきた若い警官のうち、最も甘いマスクの青年が通訳をする。パスポートのコピーをとられ、いったい全体、何故、こんな夜中に不信な行動をとっていたのかを説明。そして、ここぞとばかり、僕の身元と無実を完璧に証明するであろう東京国際芸術祭のレコメンデーション・レターと、アル・ハヤト紙のカラーコピーを見せる。アル・ハヤト紙というのは、レバノンからアラブ世界に広く流通している日刊新聞で、このコピーには、2005年に東京国際芸術祭で撮影したパレスチナの劇団、アルカサバシアターの写真入り記事が載っている。そして、この記事の写真の下には、アルファベットで撮影者の、つまり僕の名前が入っている。ただし、名前の綴りは微妙に間違っていたりする。「まつしま」が「まつしな」になっている。レターとこの記事が署内の警官たちの間を駆け巡る。雰囲気は悪くない。どうも、この警察署にいるのはほとんどムスリム、つまりパレスチナにある意味同情的と見られるイスラム教徒のようなのだ。もちろん、イスラエルのダンスカンパニーを撮影したこともあるというのは、心のうちにしまっておく...

この時点で既に、署内にいる5人のうち3人までの信用を勝ち取ったという手応えあり。こうなると、若い男の子たちの好奇心がどんどん顔を見せ始め、日本についての質問や、ブルース・リーの話、ガールフレンドの話などが行き交う。右側からは、イケメン青年警官が僕の年を訊き、32歳だと応えると、「もう結婚はしているの?」「No, まだだ」「なんでだよ、もう32歳でしょ、遅すぎるよそりゃ。Too late!」。またもやToo lateか。余計なお世話です。「そういう君は彼女はいるのか」と返すと、ちょっと照れつつうれしそうに、「いる」と答えるイケメン警官。「何人いるの?」って訊くと、ちょっと真面目な顔になって、「僕は真面目なんだ、そんなことはしないんだ。」とむっとして言うところがかわいい。

左手に座った、やや年上の口ひげ警官は、日本語に興味を持つパターン。曰く、「ハディ」って日本語で書いてくれ。きたきた。以前にも、旅先や、チュニジアから来日した劇団ファミリア・プロダクションとの打ち上げで、アラブ系の名前を漢字に変換、命名した経験があるので、お手のもの。彼の口ひげ顔に似合った漢字を選んで「派手威」とか書いてやる。次は「サムライ」を漢字で書いてくれと続く。「侍」。彼は喜び勇んで、その紙をとっておくと言う。そういえば、モロッコでこんな遊びをしていたら、これで入れ墨を入れると言われ焦ったことがあるので、一応「入れ墨入れるつもりじゃないよね」と訊くと、名刺を作るのだ、と言う。警官が「侍」マーク入りの名刺...
とにかく、わたくしは夜勤警官たちのひまつぶしに付き合いためレバノンまで来たわけじゃないんですけど。

そんな中、偉そうな強面の調書男だけが、にこりともせず、粛々と取り調べを続けて行く。
つまり、正面に座っている強面警官には不審者として取り調べを受けつつも、左右や後ろにいるイケメン警官やサムライ警官、少年警官たちには、遠い異国からの旅行者として好奇の目を向けられ質問攻めに合うという、奇妙な夜が始まってしまったのだ。正面の強面警官にも、合間合間におちゃめな表情を浮かべる瞬間が出てきたものの、すぐにまた渋面に戻る。解けてゆくその場の緊張感と共にやってくる、長引く予感と疲労感。既に一時間以上が経っている。

長い調書をアラビア語で丁寧に書き続けている強面警官は、僕のマキナのカメラを指差して、このカメラの名前を書けという。カメラにはアルファベットでmakinaと書かれているので、アラビア文字で紙に書いてやると、ちょっといらっとした様子の強面警官、英語で書けという。そして僕の書いたMAKINAという文字を調書に書き写す。カメラに書いてあるじゃないか。意味が分からない。アルファベットの小文字が読めないだけなのかもしれない。

そうこうするうちに、やっとのことでA4調書の1ページ半がアラビア文字で埋まり、一段落ついた様子なので、すかさず僕は、「小生は未だ夕飯を食しておらず、今宵も更けて参りました故、そろそろ帰宅しとうございます。」と強面警官に言った。すると、強面警官はおもむろに背後のロッカーへ行き、中から取り出した手錠をじゃらじゃらと鳴らして、にやりと笑いかけてくる。「そんな殺生な、ご勘弁を。まだまだ帰りません、はい」。そうして、デスクの正面に戻った警官は、新しいブランク用紙を数枚取り出して、またもや複写用カーボン紙を間に挟み込み始める。そしてなんと、さっきできあがったアラビア語の調書を、一字一句書き写し始めるではないか。なんてこった。すぐそこにコピー機あるじゃん!

そうこうしているうちにも、既に2時間が経過。サムライ警官からタバコをもらったり、お返しに日本製のタバコをあげたりしていると、温かい紅茶まで出てきてほっと一息、これは完全にくつろぎモードだ。と、その時、ついに「もう帰っていいぞ」との強面警官の声。やっとあなたたちの好奇心も満たされたのだね。よかった。しかし、ここで逃げるように帰るのも不審だし、なんてバカなことをちらりと考え、「ありがとう。このお茶飲み終わったら帰るよ。」と余裕を見せたつもりで言う間抜けな自分。すかさず強面警官は、「そういえばお腹空いてるんだったな、夕ご飯になにか取ろうか?」などと言ってくる。おお、これが刑事ドラマの尋問で出てくるカツ丼か!?などと感動して、「すべて洗いざらい告白します、私がやりました。」と言いそうになるが、慌てて「いやいや、大丈夫、帰って食べます。」「そうか、帰り道はわかるか?パトカーで送って行こうか?」いえいえ、パトカーの中で、また子供警官に「両手はシートより下に!」なんて命令されるのはもうこりごりです。歩いて帰ります。

こうしてようやく解放された僕は、ホテルに帰ってシャワーを浴び、すぐにベッドに倒れ込んだのだった。


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レバノン・レポート 5.レバノン南部へ/更なる瓦礫の山  松嶋浩平(TIF舞台記録撮影)


翌日、Mr. Itaniは僕よりリッチなドイツ人夫妻の仕事にかかりっきりとのことで、現れず。代わりに、宿で仲良くなった日本人学生のオーガナイズで、レバノン南部へ行くこととなる。Mr. Itaniは、先日、プレス用の許可証を取らなきゃと心配していたが、ツーリストでも全く問題ないどころか、みんなツーリストだと言うように、と念押しをされて、宿の主人が手配した運転手付きのバンに乗る。バンに乗り込んだのは、他にスイス人女学生二名、フランス人男子学生二名、韓国人女性一人。これでツーリストだと言って南部の爆撃跡をまわるなんて、大丈夫かいな、と思いつつ、ますは南部への入り口となる街サイダで、軍関係のオフィスへ。

見慣れた建物の前で降ろされ、昨年の苦い思い出が蘇る。このオフィスは、昨年、パレスチナ難民キャンプ“アイン・アル・ヒルウェ”に入る許可証をもらうため、三日間通って、結局一歩も入れなかったのだ。オフィスに行く度に、同じ男から、午後に来いと言っては帰され、明日なら出せると言われては、また入れないという繰り返しの末、彼らに許可証を出す気がないと判断し、諦めたのだ。

廊下に貼ってある、様々な爆弾や地雷の描かれたポスターを見つつ、どれがクラスター爆弾だっけ?なんてみんなで言い合いながら、我々はこんなんで大丈夫かいな、と再び心配になりつつ、いざオフィスに入ってみると、今年も一年前と同じ男が、同じ部屋の同じ事務机の向こうで待っていた。昨年、フォトグラファーだと言って難民キャンプに入りたがった日本人の顔なんて覚えてないだろう、なにせアジア人と言えばみんなブルース・リーかジャッキー・チェンに見えるアラブ人のことですから、と高をくくりつつも、内心ちょっとどきどきしながら、狭い部屋で横一列に並ぶ。そして、7人みんなツーリストです、と紹介される。すると、拍子抜けするほど簡単に許可が降り、一行は再びバンに乗り込んで、更に南部へと向かう。

このサイダという街から南は、レバノンの政府や軍の力よりも、ヒズボラなどの影響力が強まる地域で、未だに中央政府のコントロールが行き届いていない地域だという。しかし、この、許可を得る上での昨年の出来事との違いは、危険度の違いとか、単身とツーリストグループの違いとか、あるいは運転手の顔が効くとかいった要素意外に、見せたいものと見せたくないもの、ということがあるのだろうか。つまり、パレスチナ難民キャンプという、レバノン政府にとって、ある種目の上のたんこぶのようなものと、イスラエルによる侵攻で破壊された跡という、より世間に知らせたい性質のもの、という違いがあるのだろうか。

そうして、許可証(と言っても、手書きの数字が書かれたただの紙切れだが)を得た、でこぼこ国際ツーリスト一行は、まずカーナ(Qana)という街に着く。そこで出迎えたのは、すごい勢いで聞き取りにくい英語の解説を繰り出す、小さなガイドのおじさん。おじさんガイドに連れられて、まずはカーナ事件の記念碑に案内される。塔を備えた立派な広場の地面に、真っ黒な石棺を思わせる直方体がずらりと並ぶ。そこで、過去のイスラエル侵攻による被害について、生々しい写真を交え、激しく解説するおじさんガイド。むごたらしい写真を前に、一行は次第に無口になってゆく。

裏手には、1990年のイスラエル軍撤退時に置き去りにされたという戦車があり、右手には国連の施設がある。一通り見終わると、おじさんガイドが「もしよろしければ、このCDにさっきお見せした写真やニュースのデータが入っています。お買い求めください。この売上金は、私の懐に入る訳ではなく、この土地のために使われます。」とまくしたてる。すると、途端に聞こえないふりをしだす学生たち。さすがというか、みなさん旅慣れた貧乏旅行者のワザを身につけている。そもそも、普通、旅行者がこの凄惨な写真を国に持ち帰って見返す勇気があるものだろうかと訝りつつ、小さなおじさんもボランティアでガイドしてくれている訳でもあるまいしと、みんなを代表して僕が一枚購入する。しかし、ガイド料代わりだとは思ったものの、お金と引き換えで悲惨な写真データが詰まったCDを受け取るという行為に、何かもやもやしたものを感じる。CDを入れたカバンが以前より重たい。

その後、バンを停めてある場所まで戻り、雑貨店で買った飲み物で喉を潤しつつ休憩していると、すぐ目前の民家の庭で、素っ裸の子供たちが大騒ぎしている。あまりにかわいいので思わず写真を撮った途端、そばにいたおばさんが大笑いし、父親だろうか、親戚だろうか、がっしりした青年が出てきて、きれいな英語で話しかけてきた。そして、ちょっと待て、と言い、家の中から焼けたような色のギザギザの鉄片をいくつも出してくる。彼によると、これらは、先月のイスラエル空爆後に家の中から見つかった爆弾の破片なのだと言う。彼は、不発弾処理のエキスパートらしく、国連の仕事などを手伝っているそうで、次にはヘブライ文字が入った空っぽの砲弾を家の中より持ち出してきた。


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(c)松嶋浩平


庭で相変わらず大騒ぎしている素っ裸の子供や、太ったおばさんたち、そして彼と僕の間にある低い塀の上に並べられた砲弾やその破片。これらのどちらもが、この土地の日常なのだろうか。そうこうしているうちに、旅行者一行がみな車に乗り込んで出発する様子だったので、困ったらいつでも電話してくれと携帯番号をくれる青年に感謝の意を表しつつ、その場を後にした。

次の村では、先月起きた爆撃の爪痕が、より禍々しく残っていた。建物の一部が破壊され、内部がむき出しになっているが、ミナレット(塔)だけは奇麗に残っているモスク。その高いミナレットのてっぺんには、黄色いヒズボラの旗がひらめいている。家か何かがあったのだろうが、跡形もなくなって、重機で平らにならされている最中の広い更地。破壊された車やバスの残骸。半分崩れて壁がなくなり、部屋が外から丸見えの家で、椅子を並べ何事か話し込んでいる男性二人。更にまた、破壊されてくしゃくしゃになった車。しかし、その残骸の奥には、この土地の産品の一つであるタバコの葉が、何事もなかったかのように、広い範囲に渡って干されている。村の人々が集っている日陰でおいしいお茶をごちそうになり、ゆったりとした時間を過ごした後、また次の目的地へと車で向かった。

次の目的地は、アンサール(Ansar)という村だった。こちらでも、破壊された家の跡にくしゃくしゃになった子供のジーンズが落ちていたり、家があったらしい更地にソファだけが残っているなど、空爆で破壊されたばかりの光景が広がっていた。

後日、この村は、アラブ映画祭‘06のポスターとパンフのデザインを担当し、ショートフィルムも上映されていたアーティスト、アリ・シェリーのお母さんの出身地だと知る。小顔で、スマートで、パリとベイルートを行き来しているというアリは、「とりたててなんにも無い田舎でしょ」と言っていた。しかし、村の雑貨屋に集っていた人々、特に女性たちは、朗らかで気さくで、たくましい印象だった。はにかみつつも僕の方に寄って来てカメラの前でポーズをとり、「この写真どうするの?」と訊いて、「インターネットに載るよ」、と答えると、キャー!とはしゃぐ少女二人組などは、本当に元気で明るくてかわいい。そして、もう一つ付け加えておくと、この村にははっとするような美人までいた。つまり、とても印象のいい村だった。

レバノン・レポート 6.再びアラブ映画祭へ/ベイルートに集うアーティストたち  松嶋浩平(TIF舞台記録撮影)


そうこうしているうちに、あっという間に夕暮れ時となり、やっとベイルートへ戻ることになった。実は、この日の夜にベイルートのレストラン「ルージュ」でラビア・ムルエと待ち合わせをしていたのだが、どう考えても間に合わない時間。途中のガソリンスタンドから、ラビアの留守電に、遅れる旨のメッセージを入れておく。今日のツアー、それなりに大人数で、しかも(僕も含めて)みんなそれぞれ好き勝手に行動するものだから、時間がたっぷりかかってしまたのだ。結局一時間遅刻して「ルージュ」に行ったが、ラビアはおらず、店の人に訊いても「近くにムルエという人がオーナーのオフィスビルがあるから、そこにいるんじゃないかな」と、どう考えても違うだろ、という答えが返ってくるのみ。まあ、こんな瀟洒なレストランに、さっき南部から帰ってきたばかりで泥まみれの日本人が来ることの方が場違いだと言われそうだけど。ラビアには、「ルージュ」で会った後、オーケストラのリハーサルに連れて行ってもらうこととなっていたのだが、残念だ。

仕方なく予定を変更し、アシュラフィーヤのテアトル・シィス・ソフィルに向かう。と、ロビーには、オシャレな格好をした都会の大人たちが、いるわいるわ。やはりこちらがメイン会場とあって、ハムラの劇場とはにぎやかさが違っていた。ちょうど作品の上映が終わり、レセプションが開かれていて、劇場から出てきたゴージャスな人々がロビーを行き交い、抱擁し合ったり、インタビューに応えたり、ワインのグラスを片手におしゃべりしたりと、とても華やかな雰囲気に包まれている。

数時間前まで見てきた南部の光景とのギャップに目が眩みながらも、必死にアーティストのアリ・シェリーやプロデューサーのハニア・ムルエ、アル・ハヤト紙の文化面を担当するピエール・アビサーブ氏らを探し出し、順に、預かってきた手紙などを手渡す。


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(c)松嶋浩平


そして、ここで、ベイルート在住のアラブ映画研究家、佐野光子さんとも再会。佐野さんは、イスラエルによるレバノン空爆が始まった際、陸路でシリアを経由しトルコからヨーロッパへと脱出、ついでにとヨーロッパで映画祭を堪能してから東京に帰り、停戦後またベイルートに戻ってきたというつわもので、今回のアラブ映画祭でも佐野さんをみかけない日は無かった。

その後、アリの車で、関係者のパーティがあるという地下のバー“Club Social”へ。豪華な階段を下りて行くと、広いスペースに、とてもリッチな空間が広がっていた。ジャズバンドの生演奏、ゆったりしたソファに、一杯10ドル以上するカクテル、ビリヤード台、洋酒の瓶がずらりと並ぶカウンター、などなど。またもや、自分の小汚い格好にちょっと焦りつつ、南部で見てきた光景が白昼夢だったかのような、瀟洒な空気に圧倒される。恐るべし、レバノン。

劇場で何度か見かけた、映画祭のドキュメンタリームービーを撮っているというイギリス人音楽プロデューサー、ジョー・ルイスや、アリの友人レミなどと話しつつ、ビールを3、4本飲んだところで、さすがに一日の疲れもあり、一足先にバーを後にすることとした。去り際にアリが、「今週金曜の夕方、ベイルート南部でヒズボラが大集会を開くらしい。本当か嘘かわからないけれど、噂ではハッサン・ナスラッラが久々に現れるということだ。でも、イスラエルの暗殺者なんかがいるかもしれないというのに、本当に現れるかはわからない。君は写真を撮る人だから、こんな情報でも役に立つかと思ってね」と耳打ちしてくれる。金曜には、土曜の帰国便に乗るためシリアのダマスカスへ向かい一泊する予定だった。しかし、もしそんな大集会が本当にあるのなら、ベイルートにもう一泊するのもいいかもしれない。アリに感謝しつつ、パーティ会場を去った。


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(c)松嶋浩平


それにしても、あのパーティ、いつまで続くのだろう。まるで次の戦争が始まるまで続くんじゃないかと思わせる。いや、次の戦争が始まっても彼らのパーティは続いているのかもしれない。なんとも逞しいではないか、レバノン人...。
こうして、レバノンのアート業界、映画祭関係者の面白さに味を占めた僕は、翌日の夜にもまたテアトル・シィス・ソフィルへと向かった。この日は、アリ・シェリーが戦時中に撮ったショートフィルムなども上映されたので、内容を軽くご紹介したい。


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(Off Festival Eventsより)
・「Videos Under SIege」・・・Ali Cherri, Johanna Hadjithomas, Khalil Jreige etc. 2006 Lebanon
2006年8月のイスラエル侵攻・爆撃中に撮られた映像や今回の紛争を題材としたアニメーションなど25本の短い映像作品群。

-“From Beirut, to Those Who Want to Hear” Collective work of Beirut DC 5min.
色んな人物が、カメラに向かって電話の受話器を片手に話す。友人と連絡をとる男性、エジプトの親族に無事を伝える女性、しかし、フランスにかけると留守番電話、サウジにかけると「現在この番号は使われておりません」という自動応答メッセージ。最後に男性が、すべての遠くの、そして近くの政治家やリーダーにこれを送りたい、と言って中指を立て、場内爆笑&拍手の渦。

- “Untitled” Ali Cherri 3min.
画面では、ベイルート湾に浮かぶイスラエル軍艦のスチール写真が、数秒おきにスライドショーとなって映し出される。そこへ、ラジオをエアジャックしたイスラエル軍によるプロパガンダ放送のアラビア語音声が重なる。いわく、「この侵攻の発端を作ったナスラッラはとっくに安全なところに避難している、きみたちはそんなヒズボラを支持するのか。これは彼らが起こした戦争だ。」といった内容。
スチール写真は、アリ・シェリーが自宅から撮ったもの、ラジオ放送の音声は、やはりアリ本人が携帯電話で録音したものを使用している。ラビア・ムルエが、最もクールだと賞賛していた作品。

- “(不明)”
ベイルート南部の爆撃で崩れ落ちた高速道路に、警官隊、テレビクルー、野次馬が集まっている。そこへ、人相の悪い軍服姿の男が、ヒズボラの黄色い旗を翻しつつスクーターで登場する。テレビカメラに向かって話すリポーターの後ろで強面を作って仁王立ちになり、旗を振りながらヒズボラのスローガンを大声で繰り返す。困惑する周囲の人々と、都会独特の冷めた空気。やがて男がスクーターで去り、カメラが高架下を見下ろすと、移動した先ほどの男が、写真家の向けるカメラの前でピースサインしている…。
再び男が高速道路上に戻り、またもや大声でスローガンを叫び出したところで、見かねた誰かがこのヒズボラ支持者を隅に呼び、何事か話し合う。そして、男が戻ってきたときには、以前のヒズボラ旗の代わりに、手渡されたレバノン国旗を振り回して別のスローガンを叫び出す。会場は拍手喝采。わかりやすい、ちょっと皮肉なコメディ。

-“(その他の短編映像作品)”
・夜、瀟洒な自宅のバルコニーで、自作の現代音楽にあわせ、優雅な手つきで指揮棒を振る女性作曲家。 音楽にひたりながら、「I am waiting for the Boom(私は爆発音を待っているんだ)」というセリフ。最後にカメラがベイルート市街の方向へとパンし、彼女の「あちらで今、ベイルート空港が炎上しています」というセリフが被って、一気に戦争の現実感が迫ってくる。
・小学校の子供たち三人が、拙い言葉で戦争について(ほとんど戦争と分かっていないのだが)会話を繰り広げる、ユーモラスでかわいらしい作品。
・爆撃前と後の、幼い娘の映像をつなげ、変わらず自宅で無邪気に暮らしながらも、紛争開始後から怯えや恐怖を垣間見せる娘の表情に、戦争が子供に及ぼした何らかの影響を感じさせる作品。
・破壊し尽くされたレバノン南部の故郷Bint Jbeilの村を訪ねる女性。道の両側に累々と積み重なる瓦礫の山。しかし、荒廃しつつも、なんとか破壊されず奇跡的に無事だった自宅に入り、箪笥をあけて服を見た途端、泣き崩れる女性。しばらくして自宅から外に出ると、たくさんの牛の群れが。

などなど、25本もあったので全てはご紹介できないが、今回の紛争を国内で体験したレバノン人アーティスト達の作品で構成され、彼らが今回何を感じそれをどう捉えたかが見られて、とても興味深いものだった。

さて、映画鑑賞の後は、もちろん、またアリやレミと連れ立って、夜のベイルートへ。今夜は、Zico’s Houseという、夜な夜なアーティスト連中が集うらしい建物の1Fにあるバーへ。昨夜のゴージャス系バーと比べると、少人数でアットホームな感じの店だ。今回は、宿で一緒のフランス人学生ニコラも引きずり込む。彼は一緒にレバノン南部ツアーに行った仲間で、映画祭にも一緒に来ていた。

店では既に数人が飲んでいて、昨夜言葉を交わしたイギリス人ジョー・ルイスもいた。彼は、いかにも音楽プロデューサーらしい口の達者な人間で、軽い口調で隣の物静かな西洋人を「彼は僕のカバン持ち」と紹介する。冗談だろうと思いつつも、レバノンで、イギリス人からいきなり飛ばされたジョークにうまく反応できず。「本当は何をされているのですか」と訊くと、「今回の映画祭で招待された、アメリカ人映画監督です」「おお、イラク・イン・フラグメンツの監督さんですか!?(一瞬ほんとにカバン持ちかと思ってしまった、ごめんなさい)」「そう、金曜の夜に上映されるからぜひ観に来て下さい」

「イラク・イン・フラグメンツ」は、映画祭のパンフレットを読んでとても気になっていた映画だった。こうして、ヒズボラ大集会の情報に続き、もう一つ、金曜の夜もベイルートに留まる理由が増えてしまったのだった。

レバノン・レポート 7.再びレバノン南部へ/美しいイスラエルとの国境地帯  松嶋浩平(TIF舞台記録撮影)


さて、日付は変わって、再びレバノン南部へ。今回は、ドライバーのMr. Itaniと僕の二人だけで向かった。これは、南部で許可証を提示する必要がほとんど無いと判明したこと、僕がどうしてももう一度、今度は国境付近まで単独で行きたかったこと、ついでに、去年の撮影の続きとして、ティール(スール、ティルスとも呼ぶ)という街近くにある、パレスチナ難民キャンプを訪問したかったことによる。

まずは、ティール近郊のボルジェ・シェマーリというキャンプへ行き、事前に紹介を受けていた事務所へと向かう。一時間ほど事務所で待たされた後、ようやく英語教師と名乗る一人の青年が案内役として登場。


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(c)松嶋浩平


一通りポートレイト撮影を終えて、次はいよいよイスラエルとの国境地帯へ。空爆による被害がひどかった村として名前のよくあがるビント・ジュベイル(Bint Jbeil)では、病院の一室の天井に、丸く穴が開いている。そして、そのすぐ横には二段ベッドが。当直の医師が寝ていたが、幸い無事だったと言う。立ち寄った売店でテーブルを囲んでいたおばさま方一団のうち、欧米風のファッションをした一人の女性が、真ん中に鎮座する古風なババさまを指差し、「彼女はイスラエルが退避勧告を出して空爆を始めても、ずっと村に留まったのよ」と言う。ババさまは、ちょっと誇らしげに、「そうさ、わたしゃ一歩も逃げなかったね」と僕に向かって頷く。僕は、「すごいですね」とその勇気を褒め讃えつつも、もしかしたら、彼女にあったのは「運悪く爆弾が降って来て死んでも、それはそれで仕方が無い」といったある種の諦観だったのかもしれない、などと想像し、ちょっと悲しくなる。

しかし、後ほど、ラビア・ムルエの新作でデザインをやっているサマールに訊いたところ、空爆する旨の警告が出るときもあれば、出ない時もある。しかし、そもそも警報が出たとしても、彼らはどこにも逃げようがないんだから、家に留まるしか無い。車でベイルートに向かって逃げたりすると、逆にその車が爆撃の対象として狙われる、と言うことだった。

付近の幹線道路を車で走っていると、破壊された家や建物の瓦礫が次々と現れては消えていった。小高い丘についた轍の後のようなものを指差し、「あれが、つい最近レバノンに侵攻したイスラエル軍戦車のキャタピラ痕だ」とMr. Itaniが教えてくれる。南部国境地帯は、車も人も少なく、空気もきれいだ。その日はとてもいい天気で、ひどく青い空に真っ白な雲がたなびき、緑の野原や畑、小高い丘などが広がるのんびりした風景と、次々に現れる破壊された家々や、戦車のキャタピラ痕。

しばらくして、突然Mr. Itaniが車を止め、ちょっと待ってくれと言う。車から降りた僕は、イスラエル側の風景を数枚撮影し、視線を戻すと、Mr. Itaniがメルセデスの屋根の上に若い男の証明写真を置いて、イスラエル側の風景をバックに記念写真を撮っている。「これは私の義弟で、彼は(おそらく10年以上は前だろう)イスラエル軍撤退時に巻き添えを食らってここで死んだ」と言うMr. Itani。僕は、彼からそんな場所を案内してもらっていたのだ。

すると、大きな4WDがはるか後方からやって来て、僕らの脇で突然停まった。すぐに、運転席のマッチョな欧米人風サングラス男とMr. Itaniが、アラビア語で二言三言交わし、「そう、僕らもちょうどその話をしていたんだよ」とサングラス男が流暢な英語で返す。ほんの数分で4WD車は行ってしまったのだが、どうも通りすがりとは思えない話し方が気になったので、「あれは誰だったの?」とMr. Itaniに訊いてみると、笑顔で「わしの息子じゃ。」とのこと。アラブ人はみんな気さくで、他人同士でもかなり遠慮なしに、時に不躾に話すが、それ以上に親密な感じがしたのは、そのせいだったのか。「あの格好と英語のアクセントから、彼はアメリカ人かと思ったけど、レバノン人だったの?」と訊くと、「もちろん。留学しとったんだよ。」そんな息子も、親父と同じようにガイド兼ドライバーをやっているのだろうか。Itani家は結構羽振りがいいのかもしれないな、などと感心しつつ、更に国境沿いの道をドライブする。

それにしても、美しい風景が続く。しかし、何回目かの休憩地点で、「ほら、そこに装甲車の残骸がある、そして、金網の向こうのすぐそこ、あの塹壕にイスラエル兵が隠れてこっちを狙っておるぞ。」と言われたときは、国境の緊張感を感じてぞっとした。なんて言いつつも、すぐ目の前でMr. Itaniと記念撮影。「僕らアホな観光客みたいに写真撮ったりしてて撃たれないもんかね?」と訊くと、Mr. Itaniが「ぜんぜん大丈夫っしょ。」なんて言うもんですから...。

その後、更にゴラン高原側をぐるりと廻り、美しくも無残な風景を後にして、ベイルートへと戻った。

レバノン・レポート 8.三たびアラブ映画祭へ/ラビア・ムルエのパフォーマンス  松嶋浩平(TIF舞台記録撮影)


ベイルートではこの夜もアラブ映画祭へ。何日目かにして、やっとのことでラビア・ムルエと遭遇する。東京国際芸術祭の紹介で来たと言うと、「ちょうどよかった、今夜20:30のパフォーマンスまで間があるから、息抜きにお茶でも付き合ってくれ。」とのことで、近くの奇麗なティールームへ導かれる。2004年に東京国際芸術祭で観たラビアの作品「ビオハラフィア」の話などをしつつ、「今夜のパフォーマンスの準備はどう?」と訊くと、「テクニカル面がさっぱりうまく行かないんだ、ファック!あ、失礼。」と、少々興奮気味。錠剤を取り出して水にいれ、「ビタミン剤だ、君もどうだ」と一つ分けてくれる。水に入れて早速飲もうとすると、「まだ早い、もうちょっと溶けるまで待て」とのこと。錠剤が泡を出して溶け行くのを眺めつつ、今回のパフォーマンスの内容について訪ねる。このパフォーマンス「Make me Stop Smoking」は、過去10年間に渡りラビア本人が集め丁寧に保管して来た、雑誌や新聞記事の切り抜き、写真、テレビ番組の抜粋など、無価値で、彼自身に対してしか関連性を保っていない膨大なアーカイブからの抜粋により成り立つ。そうして、これらのどうしてよいか分からないマテリアルを一気に捨て去り、その重みを取り除くのがこのパフォーマンスの主旨だ、とのこと。これだけでは想像がつかないが、どんなものになるか、とても楽しみである。


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(c)松嶋浩平


「ところで、来年三月に東京でやるパフォーマンスの準備はどう?」と訊くと、「それはこれが終わってから具体的に始めるんだな」とのこと。なるほど、その気持ちとってもよくわかるけど、そのまま東京の方々に伝えると怒るだろうな...なんて考えていたら、「早くビタミン水飲まないと!気が抜けちゃうぞ」とラビア。おっと、いけない、なんて慌てて飲んでいるところに、ラビアの奥様で、「ビオハラフィア」にも主演していた女優リナさんが登場。途端に大人しくなる男性陣。実際、リナはなかなか強そうな女性なのです...

そんなこんなで、その夜、僕が目撃したラビアのパフォーマンスと、その直前に観たLamia Joreige監督(東京国際芸術祭2007ではインスタレーションの映像を担当)のドキュメンタリー映画について、ちょっとご紹介したい。

 (Documentariesより)
・「A Journey」・・・Lamia Joreige 2006 Lebanon 41min. Color Betacam SP
1910年生まれで1930年に結婚し、パレスチナのヤッファからベイルートへと移住した祖母を中心としつつ、1948年イスラエル建国時に難民となってレバノンへ逃れた叔母や、その家族のストーリー、膨大な写真アーカイヴなどを織り交ぜて綴る、家族の遍歴と中東の歴史。
情けなかいことに、フランス語は聞き取れず、アラビア語字幕は読めずで、語られていることはあまり理解できなかったが、大量の古い白黒写真は見応え十分。現在の祖母の映像と、古い歴史的な写真を組み合わせる方法、家族や親戚の放浪の歴史と、中東の歴史を重ね合わせる切り口が、うまく成功していた作品。

(Off Festival Eventsより)
・「Make Me Stop Smoking」・・・Rabih Mroue (Performance) Lebanon
正面のスクリーンの横に、PCを置いたデスクがあり、そこでラビア本人が画面を操作しながらマイクに向かってひたすらしゃべる。
ラビア自らが長らく貯め込んできた様々な写真、記事の切り抜き、言葉などの素材を、一気にスクリーンに登場させ、面白おかしく自己分析してゆくというパフォーマンス。ラビアはこれを、「どうすればよいか判らないまま取っておいた大量のマテリアルを放出し、そうすることによってアーカイヴを棄却する、あるいはリサイクルすると言ったゲーム感覚の作品だ」と語る。

ヨーロッパや韓国の道端で撮りためたマンホールの写真ばかり数十点(2007年の東京訪問時にも、高田馬場の路上で撮っていた!)と、レバノンの路傍で撮りためた青空に映える街灯の写真ばかり数十点を、次々とスクリーン上に投影し、「自分は、レバノンでは上ばかり見て歩いているが、海外に行くと下ばかり見て歩いていることにある時点で気づいた」といったような切り口から入る自己分析。行方不明者の顔入り新聞記事の切り抜きばかり数十点や、まだ内容が無いうちに作りためた作品タイトルばかり数十点、路上で車にひかれて死んだ猫や犬を撮ったCry Me Cats and Dogsというタイトルの写真などなどが、次から次へと提示される。


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(c)松嶋浩平


肝心の、ラビアによるアラビア語トークの英語字幕が、開始早々マシントラブルで映らなくなり、会場の爆笑や拍手喝采の理由があまり理解できず残念だったが、映画館に映画を観に来た客層に、スクリーンとトークを併せた生のパフォーマンスを見せるというコンセプトが興味深く、スライドショーもかなりの量とおしゃれ度で、視覚だけでも飽きない内容。
ちなみに、翌日の日刊紙アル・アクバルには、ピエール・アビサーブが書いたラビア・ムルエのパフォーマンスに関する記事が大きく掲載されていた。

その後、またもラビアや関係者と、今度はテラスが心地よいバー“Time Out”での打ち上げに参加。とても魅力的な笑顔を持つフラメンコ・ダンサー、ヤルダ・ユネスや、この戦争以降は写真を一切撮れなくなったという女性フォトグラファー、レン達と、ビール片手にいろいろな話をさせてもらった。

とにもかくにも、「映画もとっても良いけれど、質の高いパフォーマンスというのは、迫力があって、観客との一体感、緊張感、その一瞬一瞬にそこでしか存在し得ない空気感を生み出し、なんとも心地がよいなあ」ということを再確認した夜だった。

レバノン・レポート 9.ヒズボラ大勝利集会へ/フィルム没収される  松嶋浩平(TIF舞台記録撮影)


ところで、僕が今回泊まった宿は、ベイルートでは希少な、ドミトリーを中心とした安宿なのだが、そこには、スイス人留学生、韓国人旅行者、フランス人学生などとともに、イタリアとノルウェーから来たジャーナリストが泊まっていた。

イタリア人はクールな男前、ノルウェー人は半分ヒッピーのような心優しい男だった。そして、彼らも、金曜になると、ヒズボラ大集会の取材の準備をしていた。面白いのがノルウェー人で、より彼らに近づく為にと、ヒズボラのマーク入りキャップとTシャツに身を包んでおり、全身黄色なのだ。(黄色はヒズボラのカラーらしい。)僕が、「いい作戦かもね」と言ったら、まんざらでも無さそうに喜んでいる。しかし、これを見たフランス人学生たちは「彼はちょっとおかしいんじゃないか」「かえって危険だろう」などと言いあっていた。彼らヨーロッパ人にとって、中東は我々日本人に比べても、より近く、日々多くの情報が入ってくるという話だった。しかし、やはり「ヒズボラは危ないテロリスト集団」というイメージが根強いらしく、政党として議席を持っていることにも驚いていた。ちなみにイタリア人の男前ジャーナリストはこの格好を見てもノーコメント。

出発直前、アルジェリア系フランス人学生のラシッドから、中東音楽をipodでの試聴付きで色々教えてもらっていたら、話の流れで、彼とその友人ニコラも、一緒にヒズボラ集会へ行きたいと言い出す。一緒に南部に行った仲でもあるので、びびりながらも好奇心を抑えられない様子の二人を連れ、午後三時頃に出発。途中でタクシーを停め、「ヒズボラの集会へ」と言った途端に乗車拒否、これが三度くらい続いて、ニコラとラシッドがかなり不安な顔をしだした頃、ようやくつかまった。

しかし、このタクシー運転手のドライブ中の話が、更に一行の不安を募らせることになる。曰く、「今日はとんでもない人数が集まっていて、何が起こるかわかったもんじゃない。イスラエルの暗殺者がいるかもしれないし、様々な政党やグループが集まっているので、それらグループ間の衝突もありうる。特に、ナスラッラが出て来てなんらかの政治的な方針を発表すると、それを元に、利害の対立するグループが暴動を起こすかもしれない。」「黒いベストを着ているのがヒズボラの組織で働いている人間で、彼らは英語を話すから、抵抗せずにちゃんと入る許可を得ろ」などなど。

この話に一番ナーバスになったのは、意外にもアルジェリア系フランス人でありイスラム教徒であるラシッドだった。彼は、「よし、捕まったり尋問されたりしたら、僕らはジャーナリズムを専攻している学生と言うことにしよう。うん、そうしよう、みんないいか」などとストーリーを組み立てている。


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(c)松嶋浩平


既に、街中は武装した警官で溢れていて、交通を仕切っているが、それでもかなり混雑し始めている。そんな中、タクシーで行けるところまで行って降ろしてもらう。とにかく、首都近郊に、これほどのヒズボラ支持者がいたのかというほど、黄色い旗を持った住民たちが続々と押し寄せて来る。ヒズボラの黄色い旗の他にも、ナスラッラの肖像や、アマルの緑の旗、レバノン国旗、アウン元将軍派の旗などが入り乱れて、一見、街をあげたお祭りのような風情だ。「勝利集会」と言うだけあって、人々の中には、スローガンを叫びながらも、満面の笑みをたたえている者も多かった。

流れに身を任せて大きな通りを行くと、大型車と柵によるバリケードが作られていて、そこから先、車の出入りはできなくなっていた。そもそも人ごみが多すぎて車などは入りようも無いのだが。見上げると、アパートや大きなビルの屋上にまで、見物人がずらりと並んでいる。子供や家族連れ、女性の集団も目立つ。欧米人と変わらぬような格好の若い女性達もいれば、レバノンで見かけることは非常に珍しい、ベールに身を包んだ黒づくめの女性達も多くいる。彼女たちはイラン人だろうか。

そして、ここで僕は、尋問の夜以来、二度目の失敗を犯してしまった。バリケードの間を抜けながら、ある少年を撮影しただけだったのだが、後から追って来た男の声に呼び止められて振り向くと、そこに黒いベストを着た青年が。そして、さっき撮ったフィルムを出せと言う。これがまた、とても間が悪いことに、36枚撮りフィルムを目一杯撮り終えた、最後の一コマというタイミングだった。「彼は撮ってはいけない人間だったんだ、フィルムはこちらがもらう」と言う黒ベスト青年に、「いや、これは大事なフィルムだから」と抵抗するも、どう見ても引かない様子。「もし必要なら、明日ヒズボラのオフィスに来て、しかるべき手続きを取ってくれれば返す。申し訳ないが理解してくれ、我々としてはこうするしかないんだ」とまで言われて、断念。明日になったら、僕はシリアのダマスカスから帰国の途についているはずだ。集会の様子が36カット収まったこのフィルムは諦めるしかない。無念。しかし、このヒズボラの青年の、流暢な英語と対応の仕方からは、かなりきちんと教育されていて、かつ統制が行き届いている、という印象を受けた。おいおい、あの連行された警察署の連中よりちゃんとしてるぞ、これは、と。イギリス人音楽プロデューサー、ジョー・ルイスの、「今回の戦争において、ヒズボラはイスラエルに宣伝面で勝利した」という言葉が思い出された。

その後、更に人波にもまれつつ2時間弱ほど過ごしただろうか、演説やスローガンも終わると、意外にあっさりと人々が帰宅し始める。事件らしいことは何事も起こらなかったようで、バリケード内にいた幾人かの黒いベストの男たちと、バリケード外にいた多くの武装警官たちを除けば、本当に街をあげてのお祭りのようだった。しかし、その集会の規模の大きさと民衆の熱狂ぶりに、今回の戦争を機として着実に伸張しているヒズボラの影響力を垣間見たような気がした。


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(c)松嶋浩平

レバノン・レポート 10.最後の夜もアラブ映画祭へ/そしてクラブへ  松嶋浩平(TIF舞台記録撮影)


さて、宿に帰って一旦休憩した後、すぐにジェームズ・ロングリー監督の「イラク・イン・フラグメンツ」を観るため、またもや映画館へ。テアトル・シィス・ソフィルでフラメンコダンサー、ヤルダ・ユネスと再会し、今日の集会でヒズボラの人間を撮ってしまったが為にフィルムを没収された話をすると、「なんてこと!それで彼らは全然顔がマスコミに出ないのね!」と言われる。ところで、彼女のパフォーマンスは、僕の帰国日と重なっていて観られなかったのだが、その後DVDを日本まで送ってくれた。これがとてもクールなパフォーマンスだったので、ご紹介したい。

(Off Festival Eventsより)
・「NO」・・・Yalda Younes (Dance), Zad Moultaka (Music) Lebanon
パリ在住のレバノン人女性フラメンコダンサーによるパフォーマンス。
2005年に暗殺されたジャーナリスト、サミール・カッシールに捧げられた作品。
音響系のサウンドが響く真っ暗な舞台で、ゆっくりと、しかし力強く踏まれるステップ(エフェクトがかけられ、増幅されたこのステップ音は、機関銃や爆発の音をあらわしているという)、そして極度に抑制された体の動きが、フラメンコに対する古いイメージをあっさりと覆してくれる。インパクトのある独演。「暴力と、憎しみと、過去・現在そしてこれから待ち受ける戦争に対するレジスタンスであり、絶望という名の沈黙に対する音の無い叫び」。 非常にクールで、ダークな美しさと強さを併せ持ったステージ。 


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(※彼女のパフォーマンス映像はこちらでご覧いただけます)

さて、「イラク・イン・フラグメンツ」上映時間の7時半近くになり、劇場に入ってびっくり、昨夜まで満員だった客席が、見事なまでにがらがらだった。これは、監督がアメリカ人だからだろうか。当然、今まで多く集まっていた観客の中には、映画制作に携わったスタッフの地元の知り合いや関係者などが多く含まれていたのかもしれない。でも、それにしても、この客数の違いは、今のレバノン人の、アメリカに対する反感のような気がしてならなかった。しかし、実はこの映画、観客動員数に反比例して、とてつもなく素晴らしい作品だったので、ここでまた簡単に紹介したい。


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(A Foreign Look to the Arab Worldより)
・「Iraq in Fragments」・・・James Longley 2006 USA 94min. Color 35mm
前述の「Underexposure」と同じく、イラク戦争直後のイラク国内で撮影された映画だが、こちらはよりドキュメンタリータッチの作品。
バグダッドで機械工として働く貧しい11歳の少年の日常を追ったpart1、サドル師が実権を握り始める頃のイラク南部でイスラム原理主義勢力の急速な台頭を描いたpart2、北部のクルド人居住区で農家の10代の少年とその友人や老いた父親が送る生活を淡々と描いたpart3からなる。イラク戦争後の特殊な状況下であくまで市井の人々の生活を追いかけたpart1、part3と、イスラム原理主義の伸張を描いたpart2の間に若干の隔たりがあるが、そんなことは気にならないほど、映像が良い。
オープニングから、美しくスタイリッシュな映像に圧倒される。part2、シーア派教徒がアーシュラーの儀式のように自分達を鞭打ちつつ行進するその殴打の音とドラムの音がシンクロする場面は圧巻。
part3、クルド自治区の美しい風景、特に野原でレンガ作りの釜からあがる黒煙を透かして太陽が見えるシーンなどなど、名場面揃いだった。ジェームズ自身が担当した音楽も素晴らしいし、右横から左に流れるエンディングクレジットも技あり。DVによる作品群が続いていたところで35mmフィルムの良さを感じたということもあるが、それを抜きにしても、とても質の高い作品だった。
予告編が観られるウェブサイトあり。(http://www.iraqinfragments.com/)

帰国後、James Longleyの処女作であり、パレスチナで撮られたドキュメンタリー作品「GAZA STRIP」のDVDを鑑賞したが、完成度はこの「Iraq in Fragments」の方が高い。

その後、劇場を出ると、イギリス人音楽プロデューサー、ジョー・ルイスがカメラを担いでジェームズにインタビューしていた。えらく才能のある鞄持ちだったのだ、この人は。

さて、再び宿に戻ると、ニコラとラシッドが、僕らもベイルート最後の夜なので、おっしゃれなクラブに行き踊り狂いたいと言う。既にかなり疲れがたまっていたが、僕も最後の夜だし、ブルータスの特集にもなっていたベイルートのクラブを覗いてみたいという好奇心にかられ、モノストリートへ。ベイルートのおしゃれっこ達が夜な夜な集まるという、クラブがひしめくスポットである。普段酒をほとんど飲まないと言うラシッドは、宿からモノストリートまでの道中、でかいペットボトルに入れたウォッカを小脇に抱えて飲みまくっている。ニコラはそれを見て、「フランスではパーティに誘ってもほとんど飲まないで先に帰るのに、こんなラシッドは初めて見た」と言う。既にモノストリートに着く前から酔っぱらっているラシッドは、ヒズボラ大集会の興奮が冷めやらぬ様子で、「おれは決めたんだ、ジャーナリストになるんだ、今日はすごい体験をして、すごい写真をいっぱい撮った。でも、イスラム教徒でアルジェリア系の僕にとって、レバノンはまだまだ旅しやすい国なんだ。僕は、これから世界中の国をくまなく旅する、アジアもアフリカもアメリカも全部行く!」なんて興奮している。いいなあ、かわいいなあ、そしてちょっと羨ましいなあ、若者。

さて、モノストリートに到着すると、酒にはやたら強く、全く酔っていないニコラが、「どのクラブが一番イケてるか訊いてくるぜい」と言って、屯する若者たちに聞き込みをしてまわり、「Cuba Libre」がイケてるらしい、という情報を携えて戻って来た。しかし、それって、ニコラさん、君の着ているのがゲバラTシャツやからっていうだけなのでは...。

さて、その「Cuba Libre」に入ると、どこがどうキューバなのか、バリバリにこぶしのきいたアラビアンポップスがガンガン流れていた。見ると、ボーカリストがマイクを持っていて、生で歌っている。ビールを飲んでいるうちに我々も楽しくなって踊りだし、いやあ、短かったがいい旅だった、などと思い出しながら最後の夜を堪能していると、僕を観て「ブルース・リー!カモーン!」と騒ぐバーテンダーの一人に、カウンターの中へと連れ込まれる。そうして、目の前に出て来たのは、なにやら分からぬが透明な酒の入ったショットグラス。まあ、テキーラでも3杯ぐらい飲むまでは大丈夫だし...と言ってもまあ、いつも3杯で止まらず悪酔いするんだけど...と考えるのに要したのが0.5秒ほど、すぐにノリで一気に飲み干したのが、今回の旅で三度目となる失敗。

しばらくすると、急速に目がまわり始めて、よろめきながらトイレへと向かう。すると、トイレでは既に、先客のラシッドが嘔吐しまくっていて、それを見た僕も、「大丈夫か、ラシッド!」などと言いつつ、つい、もらいゲロ。あのバーテンめ、なにを飲ませやがったのだ...などと唸りつつ、店の外で休んていたのだが、目眩が止まらない。

結局、ニコラがタクシーに乗せてくれ、宿まで戻る。時間は既に夜中の二時頃。僕を降ろし、またタクシーでクラブへ戻っていくニコラ。この男、元気だなあ、羨ましいなあ、若者。そうして、ひどい目眩と気持ち悪さを抱えたままベッドに倒れ込んだのが、ベイルート最後の夜の記憶だ。翌日、早朝に起きてダマスカス行きのセルビス出発を待つ間中も、ひどい二日酔いと頭痛に悩まされたのは言うまでもない。
しかしまあ、終わりよければ全てよし、なんて言葉もありますし...


松嶋浩平
www.koheimatsushima.com

2007年02月06日

ラビア・ムルエ作品集 Enter Sir, we are waiting for you outside

Enter Sir, we are waiting for you outside
「どうぞお入り下さい、外でお待ちしています」

Video-Performance by Rabih Mroue and Tony Chaker
1998 - Beirut(Lebanon)


1998年ベイルート初演。「パレスチナ:ナクバとレジスタンスの50年」と題された思想家・アーティストらによる企画の一環で制作・発表されたビデオ・パフォーマンス。舞台上の3台のTVモニターには、パレスチナのドキュメンタリー映像や残虐シーンが氾濫し、観るものに映像の持つ力と暴力を鮮烈に問う。


ラビア・ムルエ作品集はこちらからもご覧いただけます!

TIF2007 ラビア・ムルエ『これがぜんぶエイプリルフールだったなら、とナンシーは』公演詳細はこちら

ラビア・ムルエ作品集 Three Posters

Three Posters
3枚のポスター

Performance by Rabih Mroue and Elias Khoury
2000 - Beirut(Lebanon)


2000年ベイルート初演。レバノン人作家エリアス・クーリーとの共同作品。実在の「カミカゼ殉教者」の遺言映像に触発され考案された同作品は、一台のテレビモニターから、ムルエ本人が演じる殉教者の最期の演説が「生中継放送」される形式をとり、メディアによる情報操作の問題を鋭く投げかける。9.11の到来を預言するかのような作品。


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ラビア・ムルエ作品集 BIOKHRAPHIA

BIOKHRAPHIA
ビオハラフィア

Performance by Lina Saneh and Rabih Mroue
2002 - Beirut(Lebanon)


2002年ベイルート初演。2004年東京国際芸術祭招聘作品。女優リナ・サーネーと、彼女自身の声で録音されたカセットテープから繰り広げられる尋問形式のパフォーマンス。演劇行為の意味、少女期のトラウマ、イスラエル軍のレバノン侵攻時の従軍体験、夫とのセックス…。これらの質問に正面から答えようとすればするほど滑稽なエピソードが挿入され、何が真実で何が虚構なのか区別のつかない、あやふやな自叙伝が捏造されてゆく。舞台装置内部にはアニス酒が仕組まれ、そこに注入される水によって白濁し、リナ・サーネーの分身が映し出される。終演後、白濁したアニス酒は小瓶に詰めて販売される。


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ラビア・ムルエ作品集 Looking for the Missing Employee

Looking for the Missing Employee
消えた官僚を探して

Performance by Rabih Mroue
2003 - Beirut(Lebanon)


2003年ベイルート初演。舞台上には誰も登場しない「不在」を巡るパフォーマンス。ムルエ本人は観客の中に座り、そこから、実際にレバノンで起こった財務省高級官僚の失踪事件を巡る無数の新聞記事を朗読し、その行方を追求する。舞台背面の大スクリーンには記事のスクラッピング・ノートと、事件を図式化するスケッチがリアルタイムに投射され、さらに舞台中央にほぼ等身大のムルエ本人の上半身が「中継」される。実際に起こった事件をリアルに追及すれば追及するほど、「事実」とされる記述の曖昧さが浮かび上がる。


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ラビア・ムルエ作品集 Life is short, but the day is too long

Life is short, but the day is too long
人生は短い、だが一日は長すぎる

Performance by Rabih Mroue
2005 - Lyon(France)


2005年、フランス・リヨンのアートンセンターLes Subsistencesのレジデンス・プログラムの一環で制作された作品。プログラムのお題は「ギロチン」。パフォーマンスは居心地の悪いカーテンコールで始まり、その反復に終始する。背面には、「ギロチンを観劇する」ことを巡るアーティスト自身のテキストが淡々と流される。


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ラビア・ムルエ作品集 Face A / Face B

Face A / Face B
A面/B面

Video work by Rabih Mroue 2002


2002年制作のビデオ映像作品。カセットテープのA面/B面からつむぎ出されるのは、ムルエの極私的で心温まる個人史・家族史に他ならない。しかしそれらの記憶は、レバノン内戦や当時の社会状況を彷彿とさせるエピソードや映像と避けがたくシンクロしていく。死と戦争という重いテーマを、アーティストの個人的な眼差しと記憶から見つめ直す深遠な作品。


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ラビア・ムルエ作品集 Bir-rouh bid-damm

Bir-rouh bid-damm
魂と血をもって

Video work by Rabih Mroue 2003


2003年制作のビデオ映像作品。空中から地上に落下する夢、倒壊するビル、デモ隊、殉教者の棺。デモ隊の無数の顔の中のどれが自分なのか? 強烈な集団的経験の中で、自分が何者でもないかもしれないという不安を描き出す。


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TIFポケットブック
もくじ
mark_tif TIFについて
mark_sugamo 巣鴨・西巣鴨
mark_ort 肖像、オフィーリア
mark_america アメリカ現代戯曲
mark_atomic
mark_portb 『雲。家。』
mark_ilkhom コーランに倣いて
mark_familia 囚われの身体たち
mark_rabia 『これがぜんぶエイプリルフールだったなら、とナンシーは』
mark_druid 『西の国のプレイボーイ』
mark_becket ベケット・ラジオ
mark_regional リージョナルシアターシリーズ
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