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2008年02月08日

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作品紹介(倉迫康史)
演出ノート(倉迫康史)
Ort-d.d 倉迫康史ロングインタビュー

Ort-d.d 『肖像 オフィーリア』劇評(日比美和子)

2007年02月08日

[2/8掲載] 作品解説

作品解説  倉迫康史

『肖像 オフィーリア』は、様々なテキストを原作にした、二つの物語から構成されています。一つは、太宰治の「新ハムレット」を中心としたハムレットの登場人物たちのストーリー。もう一つは、太宰治の「女生徒」と如月小春の「DOLL」を組合わせたミッションスクールの女生徒たちの物語。この二つの物語が交錯しながら劇は進行していきます。そして、二つの物語をつなぐ存在が、”オフィーリア”。
日本近代文学に翻案された「ハムレット」の魅力と、近代教育の中で誕生した女生徒たちの魅力の双方を楽しんでいただける作品です。

[2/8掲載] 演出ノート  倉迫康史

演出ノート  倉迫康史


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(c)萩原靖


*『肖像 オフィーリア』は、自由学園明日館の講堂が僕を導いた作品といえる。始めてこの講堂に一歩入ったときに、そこかしこに佇む少女たちの姿が見えた、、、ような気がした。彼女たちの姿がミレーのオフィーリア像を重なった。日本のオフィーリアたちの物語こそ、この場所にふさわしいと直感した。

*もともとシェイクスピアの「ハムレット」が日本の近代文学にどのくらい影響を与えたかには興味があった。西洋への憧れやコンプレックスとともに、シェイクスピアは日本文化に受容されていった。作家だけではない、近代の画家も大きな影響を受けた。オフィーリアはそのプロセスの中で、原作を離れ、ファム・ファタル(運命の女)敵なポジションを獲得していった。それはなぜなのか、その疑問を出発点に創作を進めていった。

*父や兄から強く保護されるオフィーリアの姿は、壁に守られているミッションスクールの女生徒の姿と重なる。しかし、保護されているというのは拘束されていることでもあり、少女たちの秘密の花園は男性社会の都合によって、壁はたやすく取り払われ、可憐な花々は蹂躙される。歴史はそのことを証言している。

*しかし、少女たちの物語を作ったとはいっても、それはしょせん男性目線のものでしかない。どうやらそうらしい、としか言えない。少女たちの謎は謎のままでよいとした。

*Ort-d.dの主要メンバーで固めた重厚なハムレット・ストーリーと、若々しい女優陣が躍動するミッション・スクールの女生徒たちの物語、その味わいの違いを楽しんでいただきながら、最後に皆様の心に一つの大きな感情を残すことができたら、幸いと思う。

2007年01月26日

[1/26掲載] Ort-d.d 倉迫康史ロングインタビュー

BeSeTo演劇祭、Shizuoka春の芸術祭、利賀フェスティバルなどの国際演劇祭に招聘される気鋭の演出家、倉迫康史。にしすがも創造舎のレジデント・アーティストとして、東京国際芸術祭でも作品を発表してきた。
演劇を通じて「近代」にまつわる諸問題の見直しと提言を行うだけでなく、豊島区民を対象にした「読み聞かせ実践講座」(文化庁「文化芸術による創造のまち」支援事業)の講師を務めるなど、地域に開かれた演出家としての活躍も目覚しい。
東京国際芸術祭2007のオープニング作品『肖像 オフィーリア』の発表を10日後に控えた倉迫に、これまでの取り組み、演出についての考え、そして今回の作品について話を聞いた。
(1/21(日)にしすがも創造舎にて)

本インタビューの内容は、こちらのPDFファイルで読むこともできます。
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2007年01月04日

[2/4掲載] Ort-d.d 『肖像 オフィーリア』劇評

Ort-d.d 『肖像 オフィーリア』 日比美和子(東京芸術大学大学院 音楽研究科 音楽文化学専攻)


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(c)萩原靖


 日本近代文学を牽引してきた作家たちの手によって、さまざまに翻案された『ハムレット』。それぞれの文豪は、作品中でおのおののオフィーリア像を創造した。たとえばオフィーリアが生きてハムレットの子供を育てていくという新解釈がユーモラスな太宰治の『新ハムレット』。しかし、新しいオフィーリア像は『ハムレット』と名のつく作品にとどまらない。太宰治の『女生徒』や夏目漱石の『草枕』、島崎藤村の『桜の実の熟する時』に登場する女性も、それぞれの主人公の名を借りて生きるオフィーリアの物語である。演出家・倉迫康史は、文豪たちが自らの青春を映して作り上げた作品に注目し、「そうした日本の“ハムレット”たちはオフィーリアをどう見ていたのか。」をテーマとしている。
 太宰治や坪内逍遥、志賀直哉などの日本近代文学のテクストと平行して読まれるのは、ミッションスクールの女生徒たちの生活を描いた如月小春の『DOLL』。こちらは近代教育の中での女生徒たちの夢見がちな日常を描いた、テンポ良い語り口のテクストである。古典的名著から現代作家の作品まで、さまざまなテクストがコラージュされた『肖像 オフィーリア』は、言い回しはそれぞれの参考テクストをほぼそのまま用いているために、「少女」の多面性を語り口であらわしているかのようにも聞こえる。坪内逍遥のオフィーリアの言う「すまいとばし思うて」なんて古風な言い回しに、『草枕』の「私は近々投げるかもしれません(身投げの意)」という大胆きわまりない冗談、『DOLL』の少女たちの無邪気で甲高いはしゃぎ声が重なると、”オフィーリア”という存在が万華鏡のように百様に受け取られることにとまどいすら感じる。コラージュによって、時空も慣習も価値観も超えて多種多様なオフィーリア像が現れるために、基盤となるオリジナルな”オフィーリア”がどんな存在であったのかを見失ってしまうように感じたからである。
 しかし、コラージュの技法そのものも、キュビズム時代のG・ブラックが述べたように、何らかのイメージあるいは対象を基底となる平面状に複数の断片を配置する、というものではない。つまり、複数の状況を一義的に定義しうる基底面を指示することはできない。ブラックは、何らかの選択がまったく別の状況への変容を可能にし、さらに、その変容は再び別の選択のための、まったく新たな状況をもたらすものだと解説している。ブラックの発言をこの公演に都合よく解釈すれば、そもそも基盤となるオフィーリアは存在しない。そして、テクストの選択によってまったく別の状況への変容を許すというやり方は、オフィーリアがそれだけ可変性に富んだ存在だということを裏付けているようだ。
 作家たちのテクストからは、そもそも少女というのが底なし沼のようなもので、発言に論理的な根拠がなく、(もちろんこれは男性の視点からの定義であるが)千の顔を持つ謎の存在であると読み取れるが、矛盾に満ちた謎の存在である少女は、男性には、時代を超えても、一生かかっても理解しえない存在だろう。なにしろ少女はある日突然、身体だけが「女」になってしまうのだから。少女の精神と身体のバランスのとれない状態は今日では、「萌え」の感情を抱く主要な要素であるし、父や兄から保護(愛)を受けるオフィーリアは「妹萌え」の対象である。そして、オフィーリアのガートルードに対する倒錯した複雑な感情。本公演が時代や空間を多層的に扱っていることで、『ハムレット』がすべての現代の現象の原型になりうるのではと感じた。
 『肖像 オフィーリア』に登場するオフィーリア像はすべての少女の代弁者である。同時に男性がこうあってほしいという女性像がすべて投影される存在。だから、オフィーリアを”つくる”男性がオフィーリアを非難するのは、自らを非難するようなものだ。女性を不思議な矛盾した動物だと非難する男性こそが矛盾した女性像を抱いているのだ。それは少女を理解できないがゆえの嫉妬や不安、あこがれなどの入り混じった感情だろう。そういった感情の裏返しに男性は女性を支配・管理したいと思うのではないか。そう考えると、状況は異なっていても、昨今話題の「女性は産む機械」発言の根っこに何があるのかもわかる気がするのだ。

TIFポケットブック
もくじ
mark_tif TIFについて
mark_sugamo 巣鴨・西巣鴨
mark_ort 肖像、オフィーリア
mark_america アメリカ現代戯曲
mark_atomic
mark_portb 『雲。家。』
mark_ilkhom コーランに倣いて
mark_familia 囚われの身体たち
mark_rabia 『これがぜんぶエイプリルフールだったなら、とナンシーは』
mark_druid 『西の国のプレイボーイ』
mark_becket ベケット・ラジオ
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