『囚われの身体たち』 小野仁美(イスラーム研究)>
北アフリカの中央に位置し、地中海に面した小国チュニジア。穏やかな気候と数多くの歴史的遺産に恵まれ、欧米各国の観光客が訪れるリゾート地として有名である。人々は、照りつける太陽にも負けないくらい陽気で、外国からの客人をいつも心から歓待してくれる。しかし彼らの明るさの内側に隠された様々な問題や感情は、一時滞在の外国人にはわかりづらい。
『囚われの身体たち』の原題は、”Khamsoun” 。アラビア語で50を意味する言葉である。2006年、チュニジア共和国は独立50周年を祝った。この舞台にはチュニジア共和国50年の歴史と、それぞれの時代を生きたチュニジア人たちの苦悩がぎっしりと詰まっている。
1956年3月20日、チュニジアはフランスから独立した。独立闘争の英雄ブルギーバ初代大統領による数々の近代化政策は社会にも浸透し、チュニジアは一見イスラーム色の薄い国であるようにも見える。しかし国民の95%以上はイスラーム教徒であり、日々の生活のさまざまなところにイスラームは存在している。ほとんどの国民は、その信仰の度合いや厳格さの程度差はあるものの、普通のイスラーム教徒であり、当たり前のことではあるが、テロリストなどではない。では、自爆テロなどの暴力行為に走るイスラーム過激派とは何なのだろうか?
チュニジアは国内の安定を保つため、社会におけるイスラームの位置づけに常に敏感である。独立に際しては、最終的に政権を握ったブルギーバ派は、より宗教色の強かったライバルを完全に排除した。しかしその後、共産主義者らによる反体制運動が高まると、若者たちの間で少しずつ伸張していたイスラーム運動を擁護した。ところが若者たちを魅了したイスラーム運動は、長期化し疲弊しつつあった政権を脅かし、ときに暴力行為を伴う者たちが出現するようにもなった。そうした中、1987年に新政権を樹立したベンアリー現大統領は、イスラーム過激派を国内から排除する一方で、国内におけるイスラームの制度をそれまで以上に整備した。
チュニジアは9.11以前から、イスラームが社会に及ぼす作用、とりわけ過激な方向に走る危険性を熟知し、社会的混乱を回避してきた。しかし様々な社会問題は決してなくなってはいなかったし、アラブ・イスラーム諸国のみならず世界中でイスラーム化は進行し、一部の過激なグループをも生み出していった。パレスチナ問題は混迷を深め、さらに9.11は世界中に諸々の矛盾や問題を顕在化させ同時に隠蔽した。
イスラームの多様性、多面的性格は、今日イスラーム研究者たちの間では常識になりつつある。しかし一般にはまだ、イスラームとは一枚岩でありかつ不可解なものであるというイメージが強い。9.11は、世界中をイスラームと反イスラームとにわけ、イスラームのイメージを、狂信的、暴力的なものとして定着させつつある。しかし各々の社会におけるイスラームのあり方は、歴史においても、現代においても決して一様ではない。では、チュニジアのイスラームとはどのようなものとして社会に現れているのだろうか?『囚われの身体たち』はこの疑問に対するいくつかの答えのうちの一つを、私たちに提示してくれるだろう。
おそらくこの舞台は、チュニジア人である彼らが、同じ時代を生きるチュニジア人たちに宛てた痛切なメッセージである。にもかかわらず、まず最初に高い評価を受けたのが、2006年6月パリ・オデオン座においてであった。本国では公演許可がなかなか下りず、公演の延期は思いのほか長引いたという。そして今年2007年2月、チュニス市立劇場で、ようやく本国初演がかなった。連日たいへんな賑わいで、公演は大成功を収めているときく。
『ジュヌン-狂気』
小野仁美(イスラーム研究)