familia

2008年02月06日

もくじ

■『囚われの身体たち』劇評
 河野孝(演劇ジャーナリスト)
 日比 美和子(東京芸術大学大学院音楽研究科)

『囚われの身体たち』 小野仁美(イスラーム研究)

■ファーデル・ジャイビ[ファミリア・プロダクション]作品集

アラブ演劇の巨匠、チュニジア人演出家ファーデル・ジャイビ。
身体とことばの圧倒的な存在感が光る、静かなる「抵抗の演劇」がご覧いただけます。

1. Junun - 狂気
2. Corps Otages - 囚われの身体たち
3. Fadhel Jaibi, un théâtre en liberté - [ドキュメンタリー]ファーデル・ジャイビ、自由の演劇


TIF2007『囚われの身体たち』公演詳細はこちら

2007年03月20日

『囚われの身体たち』劇評 日比 美和子(東京芸術大学大学院音楽研究科)


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(c)松嶋浩平


 9.11以降、イスラーム教徒に対する私たちのイメージには、少なからず暴力的なイメージが刷り込まれつつある。しかし、テロをじっさいに強行するのは、ほんの一握りのイスラーム過激派である。それにもかかわらず、私たちがイスラーム教徒に対して一様なイメージを持ってしまうのは、メディアによってつくられた強烈なイメージに支配され、イスラームの多様性を知らなさすぎるからであろう。『囚われの身体たち』は多様なイスラーム教徒の中での政治的、教義的な差異による確執と衝撃的な実態を、チュニジアという国を舞台に描き出す。では、演出家ファーデル・ジャイビは『囚われの身体たち』において、どのようなイスラームのあり方を映しているのだろうか。
 チュニジアという国は混沌の態をなす中東の中では比較的平穏な国だそうだ。しかし、ある日起こった衝撃的な事件が、人々を震撼させることとなる。主人公アマルのルーム・メイトの若い女教師ジューダが、職場の高校の中庭で、自爆テロともとれる謎の自殺を決行したのだ。アマルやその友人たちは、この事件の重要参考人として国家当局の激しい尋問にさらされる。
 アマルの家では、母マリアムの回想によれば、左翼活動家の父ユーセフ、そしてマリアムの親兄弟も国家当局の尋問・拷問に合ってきたという。世代を越えても繰り返される国家権力による激しい拷問。左翼であれイスラームであれ、活動家とみなされれば疑いのまなざしを向けられ、排除の標的となる。アマルと友人たちにもその矛先は向けられた。恐怖というものは人間をもっとも短絡的な反応に走らせるのではないか。すなわち、身を守ること、そしてそのために疑わしい人物はすべてかき集められ、「犯人」はつくられ、責めるべき対象がつくられる。人間が心の安定を求めるためになすことが、ときにどれほど残酷なことであるか。私たちはそれを目にしたとき、他人事でないだけに戸惑う。
 暴力に支配されているはずの舞台は、しん、とした印象を与える。なぜなら、究極の痛みは、実際に見えるかたちよりも、効果的な方法で伝えられているからだ。たとえば、ユーセフの拷問の場は、淡々と読み上げられる日記と、ユーセフが無言であることによってその凄惨な光景を知らしめる。ジューダの婚約者ジャミルは、事件の首謀者のアフメドを殴ろうとするが殴らない(あるいは殴れない)が、殴られないほうが精神的な痛みは増す。登場人物の感情面の揺れを観る者の想像にゆだねていると感じた。
 政治、宗教、人種、民族、価値観の違いの生み出す軋轢・衝突と、それを眺めるしかないどうしようのない無力感。現代演劇が見つめ、創造的行為に変換してきたこれらの正負のエネルギーは(正負にも割り切れないが)、お互いにかみ合わないままこれからどこへ向かうのだろうか。
 終盤、アマルがヒジャブをとり、長い髪の毛をほどき、ゆっくりと舞台上を下手後方から上手前方へと回転しながら進んで行くシーンがある。暗い舞台上で正方形に切り取られた照明にみちびかれて徐々にアマルが回転し始める。アマルの身にまとった衣が円を描き舞う。それまできつく結びヒジャブに隠していたため、まったく気づかなかったのだが、私たちはほどかれたアマルの髪の美しさにため息をつくほどにみとれる。回転するごとに、次第に裾野をなすように広がる豊かな髪。アマルの身体は社会の網目から抜け出そうと逃走する。
 「囚」という漢字は四角のわくの中に人を閉じ込めている状態をあらわす。ジャイビ(あるいは振付家のナウェル・スカンドラーニ)がこの漢字を知っていたのかはわからないが、回転するアマルを囲うように落とされた正方形の照明があらわすのは、そこから逃れることのできない、まさに「囚われの身体」である。
 しかし、社会は人の心までをも完全に捕らえておくことができるのだろうか。アマルの回転運動に象徴される「囚われの身体たち」が引き起こす遠心力は「みかけ上の力」にとどまるとは思えない。

2007年03月16日

ヨーロッパ近代思想とイスラム原理主義の相克――チュニジアの苦悩  河野孝(演劇ジャーナリスト)


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(c)松嶋浩平


 がらんと何もない空間。赤いじゅうたんのようなものが敷かれている。先に言ってしまえば、モスク(イスラム教寺院)の中の礼拝する広間を象徴しているのだ。観客席から舞台に向かって両側に置いてある椅子に男と女が交互に座る。イスラムの国だけに、男の側と女の側と性別に分かれる。
 しばらくの沈黙。やがて、ヒジャブ(女性の頭髪や肌を露出さえないためのショール)をまとった女性が、光に照らし出された回廊をゆっくり歩き始める。もう一人の女性がしばらくして続く。四隅の角に吊り下げられたサンドバックの傍を通り過ぎる度に、男がサンドバックを叩く。そのうちに、女たちは回廊を何度か駆け回った後、集まって座り込む。靴下を脱ぎ、手で脚や身体を払うようなしぐさをする。水の音。つまり、日本の禊ぎのように、礼拝の前に身体を浄めている動作をしているのである。そうして、男たちも合流し、一斉に唯一神、アッラーに礼拝する態勢になる。
 ここで暗転し、二人の女性ムスリム(イスラム教徒)が尋問される場面に変わる。2005年11月11日の金曜日、ヒジャブ姿の若い女教師ジューダが、職場の高校の中庭に掲げられていた国旗の下で、ベルトの導火線に火をつけ、爆弾による自殺を決行した。イスラム原理主義者の行為と見た警察当局は、彼女と交友関係のあったフランス語教師のアマルと、ジューダの幼なじみでテレコムに勤務するハネンの二人を逮捕したのだ。
 とりわけアマルは、マルクス主義活動家の家庭に育ち、フランスに留学中、イスラムの神アッラーへの信仰に目覚め、純粋なマルクス主義者から厳格なイスラム教徒に転向した。今回の事件の1年前、チュニジアに戻った直後、空港で逮捕され、尋問を受けて解放されたが、宗教を因習的であるとして認めないマルクス主義者の父親ユーセフに家から追い出され、ジューダやハネンと同居をすることになった。アマルの母親マリアムはアマルの解放のため奔走する。マリアムの父や兄も左翼活動家で政府の弾圧を受けてきて、彼女自身も逮捕された経験がある。だが、マリアムの夫ユーセフは投獄中に激しい拷問を受けて心身共に傷つき、今では喉頭がんで入院して死を迎えるところであった。
 今回の舞台『囚われの身体(からだ)たち』は、チュニジアで抵抗の演劇を標榜する演出家のファーデル・ジャイビの新作である。アラビア語の原題は『ハムスーン』(50)で、1956年にチュニジアがフランスから独立してからの「50年」を意味する。その独立50周年の2006年にパリのオデオン座で『Corps Otages』(囚われの身体たち)の題で初演された。
 登場人物は11人。何もない空間をエネルギッシュに動き回り、躍動感が支配する舞台だ。ヘジャブをかぶった女性らがくるくる回転しながら踊るのは、トルコの宗教詩人ルーミーに端を発するスーフィー(イスラム神秘主義)教団の踊りのようにも見えた。言葉は理解できなくても、この集団が作り出す固有の身体性が、日本人にとって明らかに異質な他者と遭遇しているのだという強度を感じさせる。使用言語は、アラビア語と知識人が話すわずかばかりのフランス語。アラビア語も、書簡やコーラン朗唱など宗教的な場面で使われる文語体の標準語(フスハー)と、日常生活の場で話す口語体が混交して使われる。セリフに言葉の力を感じるのも、硬質な音のせいだろうか。
古代カルタゴや古代ローマの遺跡を抱え、イスラムの伝統文化が残り、美しい地中海のリゾート地として紹介されるチュニジア。しかし、政治的には絶対的な権力を持つ大統領制によって言論の自由が制限されている一方、若い世代がイスラム原理主義へ傾倒している状況で、かつてヨーロッパに学び、共産主義や社会主義の理想に共鳴した多くの知識人や芸術家が、「囚われの身体」になっている窮境を、まさにそうした知識人の一人であるジャイビが描き出す。ジャイビ自身、60年代後半にフランスに留学しパリのソルボンヌ大学で演劇を学んでおり、ヨーロッパの近代思想の洗礼をダイレクトに受けている世代だ。ジャイビは帰国後、94年に作品ごとに新しいキャステングを行う「ファミリア・プロダクション」を設立する以前、南部の都市ガフサで労働者向けの演劇活動を展開した。
 2005年に初来日し上演した『ジュヌン――狂気』では、チュニジア社会で若者の間に蔓延する鬱屈と出口なき絶望を描いた。今度は、もっと広い歴史的パースペクティブに立ち、イスラム原理主義がじわじわと社会に浸透していく状況の中で、ジャイビ自身に代表されるインテリ階層が何をできるか、どんな役割が担えるのかを問うた作品だ。
 劇中の自爆事件はフィクションだが、現在の中東や北アフリカ諸国では、日常茶飯事のように起きている出来事である。この事件によって、国家の反テロリスト対策が発動し、権威的な政治体制と市民社会、圧迫される民主主義とイスラム原理主義者、さらに政治に無関心で従順であった市民が巻き込まれ、対決を余儀なくされる構図を描き出している。
 警察当局側は、「チュニジアをイラクにする気か?」とアマルたちを問いつめる。アマルは、自爆したジューダについて、「アラブ人とイスラムの失敗と没落に怒っていただけ」と説明する。自分の信仰は、イスラム原理主義ではなく、「確信を与える力としてのイスラム。神の御心と一体になるためだ」を強調する。尋問担当官は、現在のイスラムがむしろ、原理主義に退化し、怨恨と復讐だけに基づくようになった事態を憂慮するが、アマルは「私のイスラムは怨恨と復讐とは関係ない」と言い張る。
 ここでは二重の弾圧が出てくる。一つは、現代のイスラム原理主義者に対する取締りであり、拘禁中に行使される警察権力の暴力が改めてクローズアップされる。もう一つは、主にブルギバ大統領時代、左翼勢力に対し行われた政治的抑圧である。マリアムは、拘禁室の壁がしゃべれたら、50年の歴史を証言してくれる、と言うが、親族が受けた取調べ、拷問について言及しているのだ。こうした中でマリアムは、夫のユーセフを拷問した尋問官のガドゥールに遭遇し、執拗に追いかけて、なぜ拷問したのかを問い詰める。しかし、その答えは、「家族のため。命令されたから」という小市民的な答えでしかない。ユダヤ人の大量殺戮にかかわった強制収容所のドイツ人職員と同じような答えなのだ。
 世代の断絶も大きな問題だ。ヨーロッパの啓蒙的な近代思想、人権思想を理想として信じた親たちの世代と、アイデンティティーの危機に陥って、イスラムの信仰の中に頼るべき拠りどころを求めるアマルらに代表される若い世代との間に、橋を架けることのできない深刻な切断が生じている。父親が瀕死の状態にあることも、知識人が力を喪失しつつある事態を暗示しているといえる。
 また、マリアムは母親として、娘のアマルがこうなったのも、シャロン(前イスラエル首相)のせいだと嘆く。シャロンが2000年に、エルサレムにあるイスラムの聖地、アルアクサー・モスクを訪問し、異教徒が聖域を汚したことが、パレスチナの第二次インティファーダ(民衆蜂起)と血の復讐を叫ぶムスリムの怒りと反発を引き起こしたのだ。この時、シャロンは「エルサレムはすべてイスラエルのものだ」と宣言した。このことからも、チュニジアの情勢は、中東やアラブ世界の動向と決して切り離して見ることができないことが理解すべき客観的状況として呈示されている。
 劇中では、2006年3月20日の独立50周年記念日、市民たちはいつものように陽気で、国全体を揺るがした事件は忘れられた、とされる。現実としても、過去の歴史を深く掘り下げ、真剣に振り返ることなく、そのまま過ぎたのだろう。それだけに、これからのチュニジアがどうなっていくのか、不気味な余韻を残して劇は終わった。上演時間は約2時間半。

2007年03月13日

『囚われの身体たち』 小野仁美(イスラーム研究)>


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 北アフリカの中央に位置し、地中海に面した小国チュニジア。穏やかな気候と数多くの歴史的遺産に恵まれ、欧米各国の観光客が訪れるリゾート地として有名である。人々は、照りつける太陽にも負けないくらい陽気で、外国からの客人をいつも心から歓待してくれる。しかし彼らの明るさの内側に隠された様々な問題や感情は、一時滞在の外国人にはわかりづらい。

 『囚われの身体たち』の原題は、”Khamsoun” 。アラビア語で50を意味する言葉である。2006年、チュニジア共和国は独立50周年を祝った。この舞台にはチュニジア共和国50年の歴史と、それぞれの時代を生きたチュニジア人たちの苦悩がぎっしりと詰まっている。

 1956年3月20日、チュニジアはフランスから独立した。独立闘争の英雄ブルギーバ初代大統領による数々の近代化政策は社会にも浸透し、チュニジアは一見イスラーム色の薄い国であるようにも見える。しかし国民の95%以上はイスラーム教徒であり、日々の生活のさまざまなところにイスラームは存在している。ほとんどの国民は、その信仰の度合いや厳格さの程度差はあるものの、普通のイスラーム教徒であり、当たり前のことではあるが、テロリストなどではない。では、自爆テロなどの暴力行為に走るイスラーム過激派とは何なのだろうか?

 チュニジアは国内の安定を保つため、社会におけるイスラームの位置づけに常に敏感である。独立に際しては、最終的に政権を握ったブルギーバ派は、より宗教色の強かったライバルを完全に排除した。しかしその後、共産主義者らによる反体制運動が高まると、若者たちの間で少しずつ伸張していたイスラーム運動を擁護した。ところが若者たちを魅了したイスラーム運動は、長期化し疲弊しつつあった政権を脅かし、ときに暴力行為を伴う者たちが出現するようにもなった。そうした中、1987年に新政権を樹立したベンアリー現大統領は、イスラーム過激派を国内から排除する一方で、国内におけるイスラームの制度をそれまで以上に整備した。

 チュニジアは9.11以前から、イスラームが社会に及ぼす作用、とりわけ過激な方向に走る危険性を熟知し、社会的混乱を回避してきた。しかし様々な社会問題は決してなくなってはいなかったし、アラブ・イスラーム諸国のみならず世界中でイスラーム化は進行し、一部の過激なグループをも生み出していった。パレスチナ問題は混迷を深め、さらに9.11は世界中に諸々の矛盾や問題を顕在化させ同時に隠蔽した。

 イスラームの多様性、多面的性格は、今日イスラーム研究者たちの間では常識になりつつある。しかし一般にはまだ、イスラームとは一枚岩でありかつ不可解なものであるというイメージが強い。9.11は、世界中をイスラームと反イスラームとにわけ、イスラームのイメージを、狂信的、暴力的なものとして定着させつつある。しかし各々の社会におけるイスラームのあり方は、歴史においても、現代においても決して一様ではない。では、チュニジアのイスラームとはどのようなものとして社会に現れているのだろうか?『囚われの身体たち』はこの疑問に対するいくつかの答えのうちの一つを、私たちに提示してくれるだろう。

 おそらくこの舞台は、チュニジア人である彼らが、同じ時代を生きるチュニジア人たちに宛てた痛切なメッセージである。にもかかわらず、まず最初に高い評価を受けたのが、2006年6月パリ・オデオン座においてであった。本国では公演許可がなかなか下りず、公演の延期は思いのほか長引いたという。そして今年2007年2月、チュニス市立劇場で、ようやく本国初演がかなった。連日たいへんな賑わいで、公演は大成功を収めているときく。


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『ジュヌン-狂気』


小野仁美(イスラーム研究)

2007年02月06日

ファーデル・ジャイビ作品集 Junun

Junun
狂気

Written by Jalila Baccar Directed by Fadhel Jaibi
2001 - Tunis(Tunisia)


実在の統合失調症患者と女性精神療法医の15年に渡る対話を通じて、チュニジア社会に生きる若者の出口なき絶望と屈折、内面の崩壊と再構築を見事に描く。狂気と社会の関係を静かに、しかし強く提示する舞台は、チュニジアの現実を通じて、普遍的な現代社会の病理を深く観るものに問いかける。2001年カルタゴ演劇祭初演、02年アヴィニョン・フェスティバルをはじめ世界各地の演劇祭でも大きな反響を得たファーデル・ジャイビの代表作。


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ファーデル・ジャイビ作品集 Corps Otages

Corps Otages
囚われの身体たち

Written by Jalila Baccar Directed by Fadhel Jaibi
2006 - Paris(France)


かつて自由と解放を求めて戦ったリベラルな親世代と、未来に希望がもてず鬱屈する若者世代の葛藤を軸に、9.11以降イスラーム世界で進行する若者のイスラーム回帰現象と、世界中に蔓延する若者たちのアイデンティティ危機を鋭く暗示する問題作。そして観るものを震撼させる、衝撃の結末。そこには、チュニジア建国50年を経てなお消えない無数の「囚われの身体たち」が浮かび上がる・・・。照明と音楽によって緻密に練り上げられた美しい舞台空間の中に、演劇の原点を問うような、身体とことばの圧倒的な存在感が光る。06年パリ・オデオン座での世界初演で大絶賛を浴びた話題作。


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ファーデル・ジャイビ作品集 Fadhel Jaibi, un théâtre en liberté

Fadhel Jaibi, un théâtre en liberté
[ドキュメンタリー]ファーデル・ジャイビ、自由の演劇

Documentary film by Mahmaoud Ben Mahmoud (c)Aif Productions-Paris(France)


チュニジアの巨匠・演出家ファーデル・ジャイビを巡るドキュメンタリー。チュニス市内の風景やチュニス市立劇場、アヴィニオン演劇祭やベルリンでのワークショップの現場など、貴重な映像満載。


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もくじ
mark_tif TIFについて
mark_sugamo 巣鴨・西巣鴨
mark_ort 肖像、オフィーリア
mark_america アメリカ現代戯曲
mark_atomic
mark_portb 『雲。家。』
mark_ilkhom コーランに倣いて
mark_familia 囚われの身体たち
mark_rabia 『これがぜんぶエイプリルフールだったなら、とナンシーは』
mark_druid 『西の国のプレイボーイ』
mark_becket ベケット・ラジオ
mark_regional リージョナルシアターシリーズ
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