portb

2008年02月14日

もくじ

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『雲。家。』作品紹介
ノーベル賞作家 エルフリーデ・イェリネク
演出ノート(高山明)
Port B 高山明ロングインタビュー

■『雲。家。』 ポスト・パフォーマンス・トーク
 3月1日(木) 谷川道子(ドイツ文学・現代演劇)/寺尾格(ドイツ文学・現代演劇)
 3月2日(金) 熊倉敬聡(文化実践論)
 3月3日(土・昼) Port B
 3月3日(土・夜) 藤原敏史(映画監督)
 3月4日(日) 佐伯隆幸(演劇批評・フランス文学)/藤井慎太郎(フランス語圏舞台芸術・表象文化論)

■『雲。家。』 劇評
 熊倉敬聡(慶応義塾大学教授)
 谷川道子(東京外国語大学教授)
 Port B走り書き 三輪冬子(早稲田大学演劇学科)[NEW]

■高山明エッセイ集
 「空間を作る」
 『ブレヒト教育劇』ノート
 「ベルリン演劇祭」−若手演劇人のための国際フォーラム−での発表原稿
 “Museum: Zero Hour”制作プロセスに関するノート

Port Bプロフィール
『雲。家。』公演メンバー プロフィール

■Port B作品集
 『シアターX・ブレヒト的ブレヒト演劇祭における10月1日/2日の約1時間20分』
 『Museum: Zero Hour 〜J.L.ボルヘスと都市の記憶〜』
 『ホラティ人』
 『Re:Re:Re:place 〜隅田川と古隅田川の行方(不明)〜』
 『ニーチェ』
 『一方通行路 〜サルタヒコへの旅〜』

2007年04月23日

Port B走り書き 三輪冬子(早稲田大学演劇学科)


意味と不可分に結び付けられた言葉に対して、ダダの活動を展開したツァラが行ったことは、言語の意味作用を破壊することであった。意味ではなく「イメージを喚起させる力」を言葉のなかに取り戻そうとするのである。破壊の目指したものをツァラは「導かれない思考」と呼んだ。彼を取り巻く現状のなかで、人々は世界の色を失いつつあるように思えた。言葉が意味というレファレンス機能と結びつくことによって、レファレンスという枠のなかでしか、言葉は使われないようになってくる。定式化した意味へのレファレンスは、我々の認識を固定してしまう。世界は名づけられると同時にその色を失う。人は世界を見ながら、しかし何も見なくなっていく。ツァラの「導かれない思考」という発想は、言語そのものを破壊しようとするものではなく、言語に含まれているもの・その射程のあり方を変えようとするものであった。言葉の感触を変えること、それは人々の固定化しつつあった知覚のあり方への挑戦であったといえる。

レファレンス機能から脱却することは、人々の認識の前提を突き崩すことであった。ツァラはその方法としてパフォーマンスを選ぶ。ツァラの試みにおいて、「イメージを喚起する力」を持つ言葉は、しばしば書かれたものとしてではなく、パフォーマンスとして登場し追及されるのだ。なぜそれはパフォーマンスである必要があったのだろう。一つの接近点として、視覚と聴覚という指摘ができる。書かれた言葉は、視覚から受容されるものである。(目で読むのであるから当たり前だ。)しかし、言葉がパフォーマンスされる、すなわち発語されるときには、それは聴覚から受容される。視覚からの受容は、停止したものである。(すでに書かれたものは変化しないからだ。)一方、音声となった言葉の聴覚からの受容は、時とともに流れ消えていく動的なものである。このとき人は「記憶」という能力を働かせつつ、音声となった言葉に含まれる複合的なもの、すなわちリズム・息遣い・高低・音の大小を感じ取りながら受容することになる。書かれた言葉がのっぺりした印象であるのに対して、聞かれる言葉は立体的である。この違いが、「意味」でなく「イメージ」を人が喚起するようになるための重要なポイントとなってくる。
私はここから現在日本で活動するパフォーマンス・ユニットPort Bの舞台を具体例に出していきたいのだが、その前に、ツァラとほぼ同じ時期にシュルレアリスム運動を率いたアンドレ・ブルトンの言葉を一つ見ておこう。ブルトンも、聴覚と視覚とイメージについての興味深い言葉を残しているのだ。それは以下のようなものである。

つねに詩においては
言語―聴覚的オートマティスムこそが
読書の際もっとも心ゆさぶる
視覚的イメージを創造すると
私には思われたのに対し、
言語―視覚的イメージは
かつて一度たりとも、読書に際して
多少であれ
前者に匹敵する視覚的イメージを
創造するようには思われなかった。(『オートマチシスムのメッセージ』1933)

聴覚は豊かな視覚イメージを生み出すが、視覚イメージがさらに豊かな視覚イメージを創造することはない、とするブルトンの言葉は非常に興味深い。(特に現代に近くなればなるほど、)より精密な視覚イメージに囲まれて、その受容のし易さに隠れて気付くことはないが、視覚的なイメージを見せられたときに、さらなるイメージが頭のなかで膨らむことはめったにない。受容の仕方によって、われわれのイマジネーションは制限されもするし、豊かにもなるといえるのかもしれない。


パフォーマンス・ユニットPort Bの舞台をとともに、発せられる言葉とイメージについて考えてみたい。2006年に横浜のBankARTで上演された『ニーチェ』は、ことば・声・記憶について考えさせる作品であった。最も印象的なのは、役者の発語の仕方であり、その上に載せられる言葉の内容とそれとの距離感である。発せられる言葉は、決して会話・対話をつくりださない。言葉の内容がそうであるのではなく、言葉の発し方が、そうさせている。誰かに向けられた(例えば妹が兄のフリッツに)内容であっても、言葉はあたかも発する者自身か、見えない観客にむけてか、虚空に向けて発せられる。まるでモノローグのように。言葉は、発語者の内へ埋没するか、もしくは想像力のなかかイメージのなかで外(観客)へと越境する。この内部への落下と外部への発進という、相反する二つの方向性を同時に言葉は内包することなる。
この2つの方向性は、「詩」の言語を私に連想させた。モノローグは極めて「詩」的であると感じられたのだ。詩の言語は、徹底的に作者が内へ埋没しながら同時に自身から離れることで織り出され、言葉ひとつひとつが自律していくほどの強度を持っているが故に、作者の外へと越境していく性質がある。言葉が発せられる者から離れ、浮遊する。言葉が発語者から切り離され、他のものとなる。その感覚は、「詩」的なのだ。PortBのパフォーマンスにおいては、このように切れた言葉、そして意味内容をすんなりと理解することのできない言葉が波のように観客に押し寄せる。観客は言葉を、ただただ体のなかへ受け入れていくしかない。言葉ひとつひとつを、私の内でカテゴライズしてラベルを貼り、整理していくことのできないままに。全てを聞き、覚え、解することを放棄して、ただ「わたし」が言葉に向かってひらく。そのとき、断片の言葉たちは、それ自身がわたしの内の意味という層でなく記憶・イメージという層で跳ね回り始める。観客の受容は、意味というつながりの層から階段を下りて、記憶のつながり、イメージのつながりという層に移行して行われるのだ。
舞台の言語が詩の言語に近づく。発語がモノローグ的になる。私が最近目にした他の舞台においても、しばしばそのような発語に出くわした。例えば、太田省吾演出の舞台『カタストロフィ』において、人物は2人登場し言葉を発するが、決して彼らは互いの言葉を互いに向けて発しているようには感じられなかった。言葉を発さしめる感情から全く切り離された言葉。そこでは、言葉を発する主体たるその人が明らかになるのではなく、言葉だけが明らかに浮き上がるのだ。戯曲の作者自身が、感情的に発語されることを拒んで言葉を編んでいる場合もあるが、それだけではない理由で、舞台の言語が発語する主体から切り離されようとしているように感じる。理由を考えるなら、現在でも多くの演劇上演のなかで、あまりに言葉と感情の結びつきが、典型的で一面的な表現でしか示されない。もしくは安易な言葉によって感情がごまかされていく、あるいは安易な感情表現によって言葉が浮つき空虚なものにしかならない、という状況があるからではないだろうか。このようなジレンマを放っておくことを是としないが故に、むしろ2つを全く切り離すということを試みるのではないか。「‘人と人が会話しているように’会話する」という状態はすごく不自然で無駄なのではないか、とPortBの演出家である高山明氏は語る。このような感覚は、演劇を再演劇化することを嫌悪したアルトー、及びツァラやブルトンが持っていた感覚とどこか通じ合うような気がする。声と声が話す。手「で」書くのではなく、手「が」書く。声や手をコントロールする主体の存在を消してしまうこと。こうした発想の転換は、シュルレアリスムを始めアヴァンギャルドと呼ばれた人々が試みたことの内実であり、それは現在でも形を変えながら試みられ続けているといえるのではないかと私は思う。

こう考えていくと、言葉の持つ強度を確保するためには、もはや会話・対話という枠組みでは可能にならないのだろうか、という疑問が湧いてくる。会話は、人と人が少なくとも互いの存在や感情に向かって言葉を発しあうものだ。声と声のやり取りではなく、むしろ発される声の背後にある感情のうごめきが舞台に息づくことが重要である。そのような対話のなかで、言葉が自律した強度を保ちながら、同時に感情をもそっくり受け渡していくことを求めようとするのは、至難であるに違いない。この至難を不可能とよむならば、対話、主体、感情はもはや空虚なものとしてしか舞台に立ちあらわれようがないのかもしれない。

少々話が逸れた。もう一つ、2004年にシアター・カイで上演された『Museum:Zero』について記述しておきたい。それは、風景の記憶を掘り起こすことを試みたパフィーマンスであった。パフォーマンスが進むにつれて、観客は次第にそれが高島平という地域の歴史を人々の証言や地図から呼び起こしながら進行しているということに気付いていく。土地の歴史が肉声で語られるのを聞き、スクリーンに映し出される古い地図を見ながら、反復されるパフォーマンスを眺めていると次第に、私たちが生活する場所にも、数十年、数百年前の姿があり、違う人々が生き生活していたのだ、という感覚がじわりと沸いてくる。その前の、そのまた前の、と遡ることのできる、脈々たる時の地層の存在に気付くのだ。私の踏みしめる大地。そこには記憶が折り重なっている。それは私の生が幾重にも折り重なった時間の層の上にあることを教えてくれる。しかし、多くの場合、普段我々をとりまくのは、のっぺりとした風景である。そののっぺり感をつくりだすのが、自分を取り巻くものへ興味を持つことを忘れていること、そして記憶を機械に任せることで現実を集中して生きようとした結果、息づく記憶を失い、現在という檻に閉じ込められてしまった時間感覚である。舞台上で振り子のように揺らされる円は、止まらない時の流れと、その反復を同時に思い起こさせる。まるで我々を閉じ込めた「今」という檻を揺らそうとするかのように。埋められたもの、過去というラベルを貼られ、見えなくされているものを掘り起こす。のっぺりとした風景が突然に記憶の地層を孕み始める。時間は無機質な直線ではなく、生生しさと混沌を含む総体なのだと観客は気付いていくのである。


さて、3月4日にPortBの最新作『雲。家。』を観劇してきた。最後にこの作品の印象をスケッチしたい。
要素としては、前回に映像で観ていた幾つかの作品と同じくするものであると感じた。モノローグ、そして詩的な言葉とその発語である。ポストトークで高山氏が語ったように、彼の活動の源にある問題意識が一貫しているがゆえに、出てくる要素が似通ってくるのは、むしろ当然のことであるのかもしれない。ゆえに今回の舞台について、言葉の問題意外に特に気付いた点を2つほど書き連ねてみたいと思う。一つは彼らの「知的」という特徴の現れ方であり、もう一つは、今回イェリネクという作家のテクストを利用したがゆえに浮き彫りとなったことについてである。
舞台が始まる。静寂の中うっすらと人影が、薄い紗幕に現れる。人が、歩いているのだろうか。それにしては存在感がなく、足音も聞こえない。しばらくすると、それは幕に映された映像であることに気付く。映像が続く。人影が増える。何人も同じ歩調で歩いている。ただ、その一人に生身の女がいる。彼女によって映像の存在感が比較され、始めて生身の存在感を客席は知る。そして彼女は発語を始める。
たった一人のパフォーマーは観客に向かって決して襲い掛かろうとはしない。その肉体や存在は舞台という空間の枠を出ようとしない。パフォーマーの表現への欲望すら、出てこようとしていない気がする。非常にニュートラルな発語をするために、ガラスの空間に閉じ込められ、一切の熱が拒まれているようだ。舞台のさらに奥の、紗幕の向こう側に、彼女はいる。
このパフォーマンスによって、血の通った肉と肉がぶつかり合い、またつながりあう、というような感覚は全く起こらない。知覚とそのさらに下に存在する知の層での作業なのである。複数の音声、視覚と聴覚のフェイクと、その重なりによってもたらされる揺らぎ。これらに知をもって気付いてこそ、私はこれらの体験をと私を取り巻く今を、リンクさせて振り返りはじめる。状況を客観する視座を舞台がもたらし、現実が2重写しになる。
聞いていると陶酔さえもたらす彼女の言葉。それは、テクストの強度である。言葉の、意味作用の強度であり、それは我々が生まれたそのときから体のなかに堆積してきた言葉群の持つ厚みが刺激されることから生まれてくる。言葉群が支えている、我々の帰属意識、生の意義が問い直されていく。
祖国、民族、他者、大地、記念碑、深さ。それらの言葉のもつコンテクストは、日本というこのかなり特殊な地において生きる多くの者にとっては、ただ殻のごときものとしてしか存在しない。そのことを、パフォーマーの言葉を聴いている私という観客はこれでもかというほど気付いてしまう。民族主義、ナショナリズムが、もはや私の真の感情、真の欲望として成立しえないことが露呈されていく。(しかし、果たしてかつて一度でも、真の欲望からナショナリズムが成立したときがあったか?ただ状況の流れが作り出す不安から、欲望が表面的に誘導されていただけではなかったか。だとしたら、現在もその状況は変わらない。)舞台に提出される多くの言葉が多分に思想性を含むにもかかわらず、この舞台が政治的コンテクストで読み取ることが全くできないと感じる理由は、実はこの私、見ている観客にある。私(そしておそらく私たち)のうちに国家も政治もが抜け落ちて存在しないがゆえなのだ。
字幕に裏切られる。聞こえてくるものに裏切られる。映像に裏切られる。与えられるもの、そのすべては、実は、そうと了解しているものでないのかもしれない。与えられるものに含まれるフィクション性は、日増しにその可能性と手段を増大させている。実感を伴うものの不確かさ。その不確かさに囲まれていると、何が確かなものだというのか、と多くの焦りとともに問い返したくなる。外と内のあまりの空虚さに気付き、慄き、泣きわめいて絶望していく私の感情。それが発生する瞬間にしか私の現実は存在しない。そうだとしたら、そう言い切って、その孤独に耐えられるだろうか。

彼らのもたらす問題提起の根は深い。彼らは、答えのない今をただ共に歩こうとしているように思える。ただ、現実をじっと見据えて。観る者はそれを共有し、自らのエッジにはじめて立ちつくすのであろう。

2007年03月08日

3月1日(土) ポスト・パフォーマンス・トーク


トーク出演者:
高山明(Port B)
林立騎(Port B)
谷川道子(東京外国語大学教授/ドイツ文学・現代演劇)
寺尾格(専修大学教授/ドイツ文学・現代演劇)


林:それではただいまよりポスト・パフォーマンス・トークを始めさせていただきたいと思います。今回、翻訳とドラマトゥルクを担当させていただきました林と申します。私の隣におりますのが、Port B構成・演出の高山さんです。

今回は、毎公演後にゲストの方をお招きしてポスト・パフォーマンス・トークをさせていただくことになっていますが、初日の今日は独文関係からお二方、お招きいたしました。谷川道子先生と寺尾格先生です。

私の方から簡単に紹介させていただきますと、谷川先生は東京外国語大学の教授でいらっしゃいます。ベルトルト・ブレヒトやハイナー・ミュラー、ピナ・バウシュに関する多くの翻訳書・研究書をお書きになられています。今回の『雲。家。』の原作者であるエルフリーデ・イェリネクの翻訳書も出版され、多数の論文も執筆されています。

そのお隣が、専修大学教授の寺尾格先生です。寺尾先生は、ボート・シュトラウスやペーター・トゥリーニの翻訳を出版なさっていて、やはり同様にエルフリーデ・イェリネクに関してとてもお詳しく、論文等を執筆なさっています。

今日はエルフリーデ・イェリネクという2004年のノーベル賞を受賞した作家の、戯曲のみならず小説等も広くお読みになっており、ドイツにおける舞台化にもとてもお詳しいお二人をお招きいたしましたので、そういった観点から、今回の公演『雲。家。』について、まずは率直な感想というか第一印象をお話いただければと思います。それでは、谷川先生からいかがでしょうか。

谷川:(舞台一面に広げられている書を見て)まず、舞台に入った時から、これは何の字だろうと思っておりまして、ひょっとしたら毛沢東の書かなと思ったんですが、これは何なのでしょうか?

林:最初、建築足場の中にいるパフォーマーの暁子さんが、下に降りてきてここに入ってきた場面がありますよね。その時に暁子さんが語るテキストが一面に書かれています。

谷川:これは誰が書いたんですか?

林:今回、この東京国際芸術祭に関わっているボランティアの方々がいらっしゃるんですが、その中に増田くんという人がいて、今回いろいろととてもお世話になったのですが、彼のお母様がたまたま師範の資格を持っていらしたんです。いまは教えてはいらっしゃらないんですが、そこをお願いして書いていただいたものです。

谷川:近くで拝見してもとても達筆ですよね。…えーと、率直な感想ということですが、「なるほど、こうきたか」と思いました。このテキストというのは、いわばイェリネク版『ハムレット/マシーン』だと思うんですが、ミュラーの場合の『ハムレット』にあたる種本が、ここではドイツの歴史をめぐる言説、ドイツの歴史において「わたしたち」を求める言説の引用のみなんですね。24のパラグラフだけから成り立っていて、何のドラマ的な仕掛けもないし、誰がどうやって喋っているかもわからない。本当にどうやってこのテキストに対峙するのか、というのが問われるテキストだと思うんです。それに対してPort Bは、「わたしたち」というキーワード、つまり”彼ら”の「わたしたち」に対して、”私たち”の「わたしたち」を探るというかたちで切り返している。その仕掛けに「ああ、なるほど」と思いました。

暁子さんが語るテキストはすべて引用ですよね。普通、ドイツ語を日本語に翻訳する場合には「である」調か「ですます」調かというのがありますが、今回はそれがそのまま「である」調の引用として語られながら、ああいう多言語・多文化状況の日本と、巣鴨なり池袋サンシャインといった非常にローカルでパーソナルな、モノローグの集積としての「わたしたち」を映像で見せながら切り返していく構造になっている。その対比の仕方が非常におもしろかったですね。ですが、そうやって対比させたまま最後までいくかと思うと、最後は暁子さんの語りのみで終わらせる。

寺尾:まずは2点だけ申し上げることにします。1つはイェリネクの作品としてどういうかたちで表現するかというところだと思うんですが、これはいろんなことが言えると思います。つまり、もともとドイツ語ですし、オーストリアという状況の中で出てきたものですから、その点から「これは違うんじゃないか」ということを言っていくときりがない。

僕が一番感心したのは、高山さんの舞台は常にそうですけれども、単純に向こうのものを輸入するのではなくて、日本という状況の中でそれをどう舞台表現していくかということにおいて、ものすごく先鋭的なことをやっていらっしゃる。それが一番よく見えるのが、イェリネクの一番良いところをどう日本語で表現するかというところだと思います。これは実は非常に難しいところで、イェリネクがノーベル文学賞を受賞したのは皆さんご存知だと思うんですけれども、その場合の一番重要なポイントは、イェリネクの持っている言語の音楽性というようなものが非常に高く評価されたというのがあるんです。これをそのまま日本語にしても、その良さは出ない。そこで文句を言い出すときりがないんですが、その言語の音楽性を、「わたしたち」というテーマのものを、たった一人の暁子さんのモノローグで、それを日本語の持つ音楽性としてどういうかたちに転換できるかというところで、非常に見事にやっていらっしゃると思います。

イェリネク論としてみると、もちろんドイツ語の持っている、もともとのテキストの「わたしたちは、わたしたちの家にいる」というのは、日本語の訳とは文脈のニュアンスが全然違うんですよね。しかし、そういうところで文句を言ってもあまり意味がない。イェリネクの持っている言葉の音楽的な表現というものを、非常に上手く消化して舞台化しているというところは、僕は非常に感心しました。

それからもう1点は、高山さんの舞台は一方でドイツの戯曲があり、前回はアイナー・シュレーフの『ニーチェ』をおやりになりましたが、あのあたりのものを非常にうまく利用されているというのと、もうひとつ高山さんがドイツとは関係なく、高島平だとかの<都市の記憶シリーズ>というものをおやりになっていますが、今回の舞台でもサンシャインを出されていて、「これは上手い!」と思いました。たぶん、あのあたりでこのイェリネクをどう日本で表現していくかということの核が、ご自分の中で見えてきたんじゃないかと思います。その意味でも、高山さんがこれまでやってきた2つの流れがここで交差して、独特な高山ワールドになっていると思います。以上、褒めました。けなすのは今度個人的にします(笑)。

サンシャインビルの映像が墓場の向こうに見えるかたちで撮られていましたが、あれを見るとサンシャインそのものが墓に見えますね。今回はあまり難解にやらないで、ちゃんと墓場を見せて、その向こうにサンシャインを見せるという、誰が見てもわかる作りになっていますね。この戯曲のテーマそのものが、ドイツのナショナリズムが持っている負のものに関わっていると思うので、そこを上手く絡み合わせていると思います。

谷川:先程「なるほど」と言いましたが、それはドイツのバックグランドを持って、日本に帰国された高山さんが、2000年代の日本という現実の中で、それこそ何もないところからひとつひとつ探っていて、スタイルを作っていっていますよね。私たちは最初からずっとPort Bの活動を見ているんですけれども、高島平の団地の中からボルヘス的な空間を立ち上げていくプロセスだとか、一人一人がイヤホンで案内されながら巣鴨の地蔵通りをひとつひとつ発見していく『一方通行路』だとか、つまりパーソナルでローカルで、なおかつこれが演劇として成立するという空間を探っている。それとドイツのテキストとが、やっと交差したんじゃないかなと思います。そういう意味で、イェリネクというテキストを知っていて、Port Bの活動を知っている人間からすると、非常に納得する舞台でした。


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(C)松嶋浩平


林:このままだと高山さんが喋らないで終わってしまうので、折角ですから高山さんがドイツであるとかボルヘスのものを日本でやるということに関して、話していただけますか。

高山:素材は別に何でもいいところがあるんですね。ドイツの戯曲ばかりをやるつもりもあまりないんですが、自分とあまり接点がないようなテキストをやる方が好きなのかもしれません。僕はどちらかというと、物語とかおとぎ話の方が好きなタイプなんです。自分で戯曲を書いていたりもして、自分で言うのも何ですがまあまあの出来だったんじゃないかなと思います。物語を作るんだったら、一晩で百本は作れるなというぐらい出来るつもりではいるんですけれども、そういうのをやると結構おもしろくなかったりするんですね。僕自身もおもしろくないし、舞台もおもしろくない。それはお客さんとの関係でもわりと言えることだと思います。

さっき「わかりやすい」と仰っていただきましたけれども、あの(サンシャインの)映像を撮ったのは宇賀神さんという方で、編集は三行くんなんですけれども、「何かお墓とサンシャインがクロスするような映像を撮ってきて」と僕が言うと、勝手に行ってくれて勝手に撮ってくれるんですね。それで「こんなの撮ってきた」といって持って帰ってきてくれるんですが、僕は自分でやるとすると、もっと地味な、お墓とわからないようなものを使っちゃうタイプなんですね。それが、彼らがやることによってフレームもしっかりするし、イメージとしてもはっきりするようなものが撮れたりする。

自分とテキストの間に溝があればあるほど、自分の方がかきまわされる感覚がありますね。それは人と共有する作業の場合でもそうで、人に何かやってもらって、それが返ってくると、当然自分がイメージしたものとずれる。あとお客さんに対しても、たとえば「ドイツ人!ドイツ人!ドイツ人!」という言葉が来た後に、いきなりサンシャイン60が映ったりしますね。それから「ゲルマン帝国が現れる」という言葉がありましたが、あれを言っているのは皆アジアからの留学生だったりするんですね。だから、舞台の上でも常に溝を作りたいという思いがあって、僕もその溝にはまっていきたいと思います。

寺尾:たぶん、溝というかぶつかり合いだと思うんですけども、ちょっとどうしても言いたいことがありまして、タイトルのことなんです。この「汝、気にすることなかれ」という谷川さんが訳していらっしゃる本がありまして、大変にいいイェリネクの戯曲集なんですが、こちらにも”Wolken. Heim.”のタイトルについてきちっと訳しておりますでお読みいただければと思うんですが…。

それで、いま高山さんが仰ったことを私なりに引っ張ってきますと、この戯曲の原題”Wolken. Heim.”を日本語に直訳すると確かに『雲。家。』となるんですが、日本語で「雲」というと、それは白い雲で、後ろに青い空があるというイメージじゃないかと思います。そして『雲。家。』となると、何となく「雲の家」とか、昔、石井桃子さんの「ノンちゃん雲にのる」という本があったりしましたけれども、何かほわんとした雰囲気があると思うんです。だけどWolkenというドイツ語の持っているイメージは全然違うんですね。もちろん白い雲というのもあるんですが、圧倒的に黒い雲といいますか、暗雲なんです。もしドイツ語をおやりになっている方がいましたら独和辞書を引いていただきたいと思うんですが、後ろ側に嵐を持っている黒雲で、その嵐とのつながりを持った雲がこう覆いかぶさってくるような、そういうイメージなんですね。それがWolkenの基本の意味です。HeimはHomeですから、これは心温まるポジティブなイメージですね。しかしWolkenの後にその言葉が続くわけで、明らかにこの2つの言葉のイメージはぶつかり合っています。

谷川:それから、このタイトルはWolkenkuckucksheimという、アリストパネスの喜劇『雲』と『鳥』に由来する「雲の上のカッコウの家」からきています。『雲』というのは雲の上に桃源郷を作ってソクラテスに喋ってもらうというもので、『鳥』というのは、現実のものすごく荒れた場所を逃れて雲の上に家を作ろうという喜劇なんですけれども、『雲。家。』というのは、もともとWolkenとHeimの間にあった、Kuckuckつまりカッコウというのが抜けているんです。カッコウというのは他人の巣の中に自分の卵を産んで、そして育ててもらう鳥です。だからカッコウというのは「ありがたくない贈り物」という意味でもありますし、Wolkenkuckucksheimという言葉自体がものすごく意味深な言葉なんですね。カッコウというのはつまり他人の中に入れられた自分であり、「わたしたち」と言う人に対する他者であったり、ドイツ共同体の中でもオーストリアであったりとか、カッコウという言葉を抜いたことで、いろんなイメージが考えられる。ホームとは何なのか、他人の巣の中のカッコウとは何なのか、それは他者と自分との間の、空白の部分を意味してるんだと思うんですけれどもね。それをたぶん高山さんたちは、私たちにとって「わたしたち」とは何か、他者とは何か、ホームとは何か、ということに変えられたと思うんです。

どうしてこういう形になったのかということをお聞きしたいなと思うんですが、今回のテキストは林さんが全部翻訳されたんですよね。こういうテキスト構成にされた理由についてお話していただけますか。全部が全部イェリネクではないと思うんですが。

林:暁子さんの語りはすべてイェリネクのテキストですが、一箇所だけ、映像に縦の字幕が映るところがあります。そこだけがイェリネクのテキストではありません。

ざっとテキストを翻訳したプロセスについてお話しますと、このイェリネクのテキスト『雲。家。』は、ほとんどすべてがヘーゲルやヘルダーリン、フィヒテ、ハイデガーといった人たちの文章の引用だったり、その中の数語を変えて使っているわけですね。それをどうやって訳すかという時に、幸運なことにマルガレーテ・コーレンバッハというドイツの学者の論文を見つけまして、それはこのページにはここからの引用があるということをほとんど調べてくださっている労作だったんですね。それが最初に見つかったので、ヘルダーリンとかヘーゲルの、もとのテキストのコピーをすべて用意して、そのテキストを見ながら翻訳しようと思ったんです。そうやって参照しながら、全体の中でどういう意味を持っているのかを理解して訳そうと思ったんですが、それがどうにもうまくいかなかったんです。

それでどうしたかというと、たとえばヘルダーリンの50行なり100行なりの詩から一行が引用されているとしたら、その50行なり100行なりを全部訳す。そして自己引用するというかたちで、『雲。家。』というテキストを翻訳していきました。つまり、ヘルダーリンの詩で引用されているものは、その引用元の全体もすべて翻訳したんですね。そうすると、本文そのものはA4で14枚だったんですが、註が120枚くらいになりました。そういうかたちでやらないと全く歯が立たなかったんですね。このあたりは上手く説明できないんですが、翻訳という作業を便利にやろうとしたら立ち行かないんです。引用されている詩の全体と付き合って、そこから自己引用するというかたちしか思い浮かばなかったんです。だから少し時間がかかってしまいました。

寺尾:そのあたりが高山さんが苦労されているところだと思うんですけど、いわゆるオーソドックスなドラマであれば、さまざまな引用みたいなものは無視しても、ドラマのところだけを追っていけば我々はわかるわけですよ。ところが、このテキストはほぼ全面引用で、前半はヘルダーリンが中心なんですが、真ん中あたりからフィヒテとかハイデガーとか、特に赤軍の、70年代のドイツテロリズムの台詞がぼんぼん出てくる。そういうところにあんまりこだわっちゃうと、舞台の上ではわからないし、たぶんドイツでもそんなにわからないと思うんですね。ましてや日本に持ってきたら全然通じるわけがないんです。だからそのあたりは、何となく雰囲気でわかればいいかなと思います。本来はものすごく政治的なテキストで、ドイツのナショナリズムというものがどんどん作られていく時期、要するにフィヒテが「ドイツ国民に告ぐ!わがドイツ人よ!」とかやっていた頃のことですよね。

谷川:ドイツの統一国家というのはものすごく遅れて、19世紀の末になってできるわけですよね。ヘーゲルだとかヘルダーリンもみんなそうなんですけど、だからこそ、国家への思いがどんどんできていく。

寺尾:だから今見ると、そのままだと結構危ないテキストが出てくるんですが、そこにこだわってもしょうがないと思います。もちろん、こだわらざるを得ないところもあるんですが、そこを前面に出して政治的なテキストみたいにすると、たぶん日本では通じないと思われたんでしょうね。だからむしろこのテキストの持っている政治的なものと音楽的もののうち、むしろ音楽的なものを前に持ってきて、後ろ側に政治的なものをさりげなくほのめかすというかたちにしたんだと思います。いわゆるイェリネク論として言うならば、本来逆だとは思うんですが、それをひっくり返して紗の向こう側は全体が骨組みみたいになっていて、一種の牢獄的なイメージで、そしてこちら側があるという形にしている。これは僕の深読みかもしれないんですけれど。

だからイェリネクのテキストが持っている意味というものを、ただ右から左に翻訳するということではなくて、それを舞台の上で高山さんが上手く処理している。自分のものとして捉えて、表現しているというところが私は感心いたしました。

谷川:私のところにも、ヘルダーリンの訳が付いた、ものすごい量のテキストが送られてきたんですが、あの膨大な量を潔く切って、この舞台を作られたというその潔さに感心しました。だからイェリネクをそこまで突き詰めた上で、それを放り出しているんですね。

寺尾:そうですね。だから見ていると、「あ、いまヘーゲルだ、いまフィヒテだ、いまドイツ赤軍だ」というのがわかるんですが、そういうところを全面に出さずにさらさらとやっていらっしゃると思うんですが…そんなことはないですか?

高山:やっぱりよくわからないところがずいぶん多かったんですね。これが赤軍の話だということも、林さんが調べてくれてわかったんですが、つながりかたが全然わからない。僕らの場合は、プロセスでどういうことが起きているのかなということにわりと注意するんですよ。そこにいい宝が転がっていないかな、という感じで。

林さんから翻訳の本文14枚と註120枚が送られた時、これを一冊の本にした場合、どういうかたちになるのかなと考えたんですね。普通の本だったら、註は脚注みたいなかたちで下に付けますが、14枚の本文で120ページの註ってアンバランスですよね。具体的な内容よりも形式として、このテキストで扱われているようなことって、マラルメが「世界は一冊の書物に到達する」と言いましたが、「これはどう考えても一冊じゃないな」という感覚がすごくあるんですね。

寺尾:たぶんドイツ人であれば、たとえばヘルダーリンの文章にフィヒテが入ると明らかに調子が違いますから、そこはある程度雰囲気としてはわかるんじゃないかなと思うんです。でもそれを翻訳で出すのはたぶん不可能に近いですよね。だからそこはさらっとやっていいと思います。お客さんが日本語で舞台を観たときに、「あれ、さっきと調子が違うな」というところを、実際どのぐらい感じてるのかなというのは、ちょっと知りたいような気もしますね。


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(C)松嶋浩平


谷川:ドイツでの上演を私はビデオで見たことがあるんですが、ヨッシ・ヴィーラーの演出はこれを言葉の塹壕と捉えて、塹壕の中に5人の女性を置いて、その女性たちがテキストを分読するんですね。ところどころにドイツの民謡みたいなものを散りばめながら。まさにコロスのような感じでした。

寺尾:言葉による合唱ですね。谷川さんもドイツでイェリネクの上演はずいぶんご覧になっていると思いますが、イェリネクの作品というのは概ねコロスなんですね。合唱系統で、アンサンブルでやっていくのが多い。だから高山さんがこの「わたしたち」というテキストを、あえてたった1人に語らせるというそのオリジナリティがすごいと思います。

谷川:シャウビューネの女優によるモノローグのCDがあるんですが、一切ヘルダーリンやヘーゲルを感じさせずに語っていて、日常の語りとして恐ろしいほどノーマルに聞こえてくるというものがあるんですが、そのコロスとソロという対極の中にイェリネクがある。今日の場合、ソロとコロスのいろんな段階を映像も含めて見せてくれたので、それが非常におもしろかったですね。こちらにソロを置いて、向こうにコロスが出てきたりですとか、しかも声の演劇が映像の演劇として転換されてくるというところがとてもおもしろかったです。

寺尾:しかも、舞台にテキストを置いて、その上に乗っかってテキストを語るという、言葉と舞台というのをどういう具合にうまくやっていくのか。いま現代演劇というと、どちらかというと言語に対してかなりシビアに見ていて、むしろ身体という方向に行ったりするパターンが非常に多いんですが、そうじゃなくて、言葉が持っている音楽性を前面に出すという、演劇じゃないと出来ない表現というものを、高山さんは一貫してずっと試みている。これがこういう舞台を作るひとつのルーツになっているんじゃないかなと思います。これは意図的なんでしょうか?

高山:結構そこはこだわろうかと思っているところです。僕らの舞台は「身体性がない」とよく言われるんですが、僕は声も身体だと思っています。僕はある演出家の稽古を見させてもらったことがあるんですが、その演出家は人と人とが話しているような感じに見えるとすごく怒るんですよ。「そんな風にやるな」と言うんです。人と人とが話しているんじゃない、声と声とが話しているんだ、と言って修正していくんです。その演出家というのはグリューバーなんですが、それを聞いたときにすごくはっとしたんです。最近は「退屈」とか言われて人気が落ちているんだけども、僕は彼の作る舞台がすごく好きだし、ああいう舞台みたいなものを、動かないんだけども声が動く、声によって空間が変わるということをやりたいと思っています。

なぜ今回の舞台をこういう形でやりたいと思ったかというもうひとつの理由が、ヨッシ・ヴィーラーなんですね。ヨッシの舞台をビデオで観たんですが、やっぱり衝撃的だったんです。こういうモノローグをいろんな人物に振り分けているんですが、振り分けて音楽的に作るだけだったら、そんなに難しい作業じゃないと僕は思うんです。だけど彼の場合は、その言葉が全部内面化されて、人物のものになっているんですね。これを自分ができるかと考えて、たぶん出来ないと思ったんです。ああいう傑作を作った人と同じことをやってもしょうがないし、実際出来ない。だったら何があるかなと考えました。

そうすると、たとえばグリューバーの「声の演劇」のように、声で何かを表現する。たとえば1人であっても、「わたしたち」という主語が単純なモノローグに聞こえたりだとか、あるいはここにある洋服たちが皆で発している声に聞こえたりだとかが出来るんじゃないかと思いました。ヨッシが分裂させたものを、1人の人物にぜんぶ詰め込んで、お客さんの力によって、ある時は5人に見えたり、ある時はたった1人に見えて「わたしたち」という言葉が空しく響いたりだとか、そういう形で、ヨッシの舞台ではない、かすかな隙間みたいなものを違った形で舞台化できるんじゃないかなと思ったんですね。

寺尾:ここらへんは、やっぱり暁子さんが「わたし・たち」というように、通常の喋り方を異化するかたちで、独特な語りでやられていますよね。あれにだいぶ負っているところがありますね。暁子さんの語りは聞いているとちょっといい気分になるんですね。でも語られている内容のほうは、結構シビアな、どきっとするようなことを言っている。しかしそれをある種漂うように語っている、その2つのずれみたいなものがある。いろんなところにずれというか対立があって、イェリネクのテキストそのものがいろんな意味を持っていて、非常に素朴にタイトルを見たときのイメージと、もうちょっと知識のある人たちのイメージは違うし、いろんな深読みができる。ということは逆に舞台に対しても「これはこういう舞台なのである」と絶対に言いきれない。見ている人がそれぞれに感じる、そういうものを作っていく舞台として、この日本で具体的に作られているなと僕は思いますし、そういう意味で非常にいい舞台であると、僕は個人的には高く高く評価しています。

林:話は尽きないんですが、そろそろ時間になってきました。今回このアフタートークでは、質疑応答の時間というのは設けておりません。その代わり、このトークが終わった後に、裏手のロビーでお飲み物と簡単なつまみを用意させていただきました。そちらに、僕らをはじめとしたPort Bメンバーが当分ふらふらしていますし、先生方もまだ残っていただけるとおもいますので、ぜひそちらでラフなかたちで歓談しながら、皆様にも楽しんでいただければと思いますので、ここでポスト・パフォーマンス・トークは終わらせていただきます。今日はどうもありがとうございました。

3月2日(金) ポスト・パフォーマンス・トーク


トーク出演者:
高山明(Port B)
林立騎(Port B)
井上達夫(Port B)
熊倉敬聡(慶応義塾大学教授/文化実践論)


林:本日はご来場いただきまして誠にありがとうございました。それではポスト・パフォーマンス・トークを始めさせていただきたいと思います。まずPort Bのメンバーから紹介いたしますと、私は今回翻訳とドラマトゥルクを担当させていただきました林と申します。一番奥がPort B構成・演出の高山さんです。そして今日から毎公演後は、私と高山さんだけではなく、Port Bの公演に毎回参加してもらっているコアメンバーから1人ないしは2人にこのトークに参加してもらうのですが、今日来てもらったのは、普段は毎回パフォーマーとして活躍されていて、今回は技術監督として参加されている井上達夫さんです。そして、今回のトークのゲストとしてお招きしたのは熊倉敬聡さんです。

熊倉さんは慶応大学教授でいらっしゃいまして、かつてはマラルメを中心としたフランス文学研究、マラルメの社会思想、経済思想の研究から出発なさった後、学問、あるいは大学における知のあり方に対する批判的考察をもとに、芸術と社会であるとか、芸術と教育のつながりについて、文化実践論というかたちで活動なさっています。このにしすがも創造舎の中に入っている、NPO法人「芸術家と子どもたち」の理事でもいらっしゃいます。その熊倉さんをお迎えして、今日の公演をご覧になった率直な感想と、Port Bあるいは高山さんにご質問がありましたらお話していただきたいと思います。

熊倉:時間もあまりないと思いますので、ごく率直に申し上げたいと思いますが、…圧倒されました。いろんなことを考えさせられましたね。先程ご紹介していただきましたように、私は20年前までマラルメというフランスの19世紀末に活動した詩人の研究をしていたんですが、マラルメを代表とした19世紀のある種の思想家や芸術家たちが共通して持っていたテーマと、今回のテキストは共鳴するところがすごく多いですね。

皆さんご存知かもしれませんが、今回元になっているテキストは、18世紀、19世紀のドイツの、ヘルダーリンやヘーゲル、フィヒテなどの言葉が引用されて紡がれているんですが、たとえば「種族」とか「わたしたち」とか「大地」とかの言葉は、僕が研究していたマラルメの作品にもたくさん出てきたり、同様な探求をしていた詩人の詩にも結構出てくるんですね。

このテキストもそうなんですが、おもしろいのが、2つの意味があるということです。たとえば、「種族」といった場合も、文字通りの「ドイツ民族」という種族という場合と、メタファーとしての種族という場合があります。たとえば詩人であれば言語を使って芸術活動をするわけですが、普通は言語というのはあるテーマだとか、ある世界を表象するために使うわけですね。19世紀のある種の芸術家や思想家というのは、そういうためではなくて、言語が言語自体を問題にしていくような文学作品を書いていく人が多かったわけです。そうすると、言語が言語を問題にするわけですので、言語が分裂して解体していってしまうわけです。同時に、言語を操っている人間の自我も分裂して解体していくし、言語が表象していた世界も分裂し解体していく。最終的にそれを突き詰めていくと、今まで言語とか自我を作っていた、目に見えない構造みたいなものが見えてくるわけです。それをマラルメという人は、音楽という比喩を使って言ったんですが、ある種別の言い方をすると、存在が存在に対して開いていくということを深化していった結果なんですね。そういう風に、存在が存在を深めていって、存在に対して内在的に目覚めている状態、そういう自分たちを「わたしたち」と言いまして、その「わたしたち」というのはひとつの精神的な種族であり、場合によっては選ばれた者たちである、という言い方をするんです。でもそれは比喩であって、別にそれが直接植民地主義やナショナリズムに結びつくわけではないんです。

たとえばマラルメを代表とするフランスの場合は、「種族」というのはあくまでメタファーであって、それが直接政治的な、フランス民族の謳歌につながるとか、そういうことにはならないんですね。ところが不思議なことに、ドイツである種同様な探求をしていたヘルダーリンにしてもヘーゲルにしても、なぜかその「種族」という言葉が、文字通りの「ドイツ民族」という意味を持ってしまうんです。

今回のこの作品を観ても、メタファーとしての「種族」と、文字通りの「ドイツ民族」という、2つの意味の二重構造になっているわけですが、それをこの作品では使っておられるわけで、そこは非常に考えさせられました。字義通りに使うというのは、たとえば極端な例でいえばナチズムですよね。字義通りに「種族」という言葉を使って、他者を支配する道具として思想を文学を使ったわけです。

今回のPort Bの場合は、ある種それを字義通りに捉えているわけですが、でもそれはナチズムをやりたいわけではなくて、日本の今の政治主張を代表するようなある種のナショナリズムを批判する道具として使っているところがあるでしょうし、彼らの政治意識を明らかにするために使っている。そこは全然使い方が違うと思ったので、そこは非常におもしろいと思いました。


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(C)松嶋浩平


林:今回のテキストの場合、テキストの中にドイツとかゲルマン帝国といった言葉があからさまに出てきます。そういったテキストを日本という、つまりその言語が書かれたわけではない場所でどうやってやるかという問題があるわけですが、先程皆さんがご覧になったように、今回はそうした言葉をそのまま使っています。ではどうしてそういう風にしたのかということを、高山さんの方からお話いただけますか。

高山:今回のテキストというか、林さんの翻訳をもらった時の印象からお話するのが一番いいかなと思います。これは難しいな、どうやって上演しようかなとまず考えました。もともと、読んですぐ舞台のイメージがわくというタイプでもないですし、逆にそういうのはやらないようにしているんですが。

もともと、ヨッシ・ヴィーラーという演出家から、この作品の上演は外国語では絶対に無理だと言われたんですね。だから「だったらやろうかな」と思ったんですが、実際読んでみたら難しくて「やっぱりできないな」と思ったんですけれども、じゃあたとえば日本語でこれをやるとしたら、どういう利点があるだろうと考えたときに、「わたしたち」という言葉はドイツ語だったら「wir」ですが、日本語だと「わたしたち」とか「我々」とか「僕ら」とかいっぱいあると思うんです。そういう風に分けてやろうかなと思いました。

だけど、ヨッシ・ヴィーラーの舞台との比較で言うと、彼の舞台では5人の女性が出てきて、ある時は一体になったり、ある時はその中で闘争が始まって分裂したりだとかを、一人一人の人物に分けてやっているんです。もし僕が、言葉を「我々」とか「僕ら」とか「わたしたち」という風に分けてしまうと、登場人物が1人であっても、あんまりヨッシのやっていることと変わらないなと考えて、じゃあ最初から最後まで「わたしたち」というひとつの言葉で通そうと思いました。その色合いとか、本当の中身が変わるのは、お客さんにやっていただけたらと考えました。「ドイツ」という言葉も、「日本」に変えるよりはそのままにして、言葉の中にも溝があるし、テキストの意味内容にも溝があるようなかたちを一貫して通した方がいいなと思ったんです。その溝はお客さんの想像力で埋めてもらう。その方が、今この戯曲を日本でやる意味があるんじゃないかなと考えました。

林:今回の舞台では、テキスト自体が観客に提示するような溝はそのまま残しつつも、アジアからの留学生だとか、サンシャイン60だとかが、映像として急に入り込んでくるわけですよね。そういうものをどう見られたのか、まずは熊倉さんからお話していただけないでしょうか。

熊倉:今回のトークをお引き受けするにあたって、まず最初にいただいたのがイェリネクのテキストだったんですが、結構な枚数で、プリントアウトするのが大変でした。それをまず読んだときに、本当にこんな戯曲を日本でやって、それが理解されるんだろうかと思いました。どうやってこんなものを芝居にするんだろうと思ったんですが、おもしろいと思うのは、Port Bは池袋のサンシャイン60について若者にインタビューしたりですとかアジアからの留学生たちと話を聞いたりして、それとの関係でこのテキストを考えていくという発想なんですよね。それがすごくおもしろいなと思いました。

この間の巣鴨地蔵通り商店街の『一方通行路』もそうですが、ある種非常に知的な操作がいるテキストを、ものすごく具体的な現実のところで読み換えた上で、舞台にしていくというところが、普通の劇団ではあり得ないですよね。そこがおもしろいですよね。

高山:『一方通行路』は結構、極端な形で出たと思うんですけれども、わりといたずらみたいなものが好きなんです。そういう発想で考えると、このテキストと一番直接的に結びつくのは靖国だと思うんですが、それだとあまりおもしろくないというか、苦労が足りないと思ったんですね。もうちょっとおもしろいものがないかなと考えていたんですが、サンシャイン60というものに僕は昔からすごく興味があったんです。僕は埼玉出身で、まだ小学校の頃、学校のベランダからあのビルが見えたんですね。「あれが日本一のビルだ」と思いながら見ていました。

熊倉:一時期は「東洋一」と言われていましたよね。

高山:そうでしたよね。たとえばああいう巣鴨プリズンという、戦犯の人たちが処刑された場所というのは、もしドイツだったら絶対に残すと思うんです。あるいは記念碑みたいなものを作るんじゃないかなと思ったんです。それがよく調べていったら、昭和33年まであそこはアメリカの土地で、巣鴨プリズンという形で保持されていたのが、いきなり囚人付きで日本に返却された。当時はアメリカの民主主義が広まっていった中で、戦犯の人たちの話を読むと、どこにも寄る辺がないんですね。死刑になる時に、「やっと大地が歩けた」とすごく感激して死んでいったという話もありました。そこにサンシャインという、日本一、あるいは東洋一の建物を建てた。この戯曲には「大地」という言葉がたくさん出てくるんですが、そこと結びつけたらおもしろいなと思ったんです。ある種のいたずらと共通するところがありますね。

熊倉:僕もダッハウの強制収容所に行ったことがあります。サンシャインと同じくらいの敷地で強制収容所の建物はだいぶ取り払われていましたね。ちょうど僕が行ったときはすごく天気のいい日で、もしかしたら同じいい天気の日を、ここに収容されていたユダヤ人たちも同様に見ていたんだなと考えるとすごく鳥肌が立ちましたね。でも、ドイツの場合はそういうものをあえて残すんですね。だけど日本の場合はあえて残さずに、西武の創業者の方が、もしかしたら意図的にあそこにサンシャインを建てたのかもしれない。民族性といったらおかしいのかもしれないですけれど、日本の戦争への対し方と、ドイツの戦争への対し方というのは対極的ですよね。

高山:名前も結構過激だと思っているんです。闇の部分を闇として残すのではなく、「サンシャイン」、つまり光り輝くという言葉で闇を消してしまう。僕は演劇でも出来るだけ、闇の部分みたいなものを闇としてそっくりそのまま出せばいいじゃないかと思うんです。化粧して、光り輝くものにするのは、今回はできるだけ避けようと思いました。

熊倉:サンシャインを、あえて墓に読み換えているという感じでしたね。

高山:不思議なもので、ずっと見ていると本当に墓石に見えてくるんです。稽古のためにこちらに通っている間、ずっとあちらの方角にあるサンシャインを見ていましたが、だんだん墓石にしか見えなくなってきて、気持ち悪くなってしまいました。


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『Re:Re:Re:place 〜隅田川と古隅田川の行方(不明)〜』(c)Yuichiro Tanaka


林:Port Bの公演を2年以上観ていらっしゃる方はご存知だと思うんですが、昔は「都市の肖像シリーズ」という名前で、高島平の団地であるとか、隅田川をフィールドワークして作った作品だとか、巣鴨地蔵通りをフィールドワークして実際にお客さんにも歩いてもらう『一方通行路』という公演がありました。今回も現実の都市が舞台に入ってきています。いい機会なのでここでお聞きしたいと思うんですが、僕は田舎の出身でして、そこは戦争の影響もなくて、古いままに残っているところなんですね。でも関東や東京はそうではない。高山さんは埼玉の出身ですし、井上さんは東京生まれですよね。だから隅田川や高島平、池袋を調べるというときに、自分たちが生活してきた場所の地下を潜るような、過去を探るような感覚があると思うんです。それは僕が「東京って昔はこうだったんだ」と思うこととずいぶん違うような気がします。そういった調べものをすることについてどう思っていらっしゃるか、井上さんからお話していただけますか。

井上:『Re:Re:Re:place 〜隅田川と古隅田川の行方(不明)〜』という作品を以前やりましたが、実際僕はあの辺りの出身なんですね。皆がいろいろ調べてくると、何だか自分の過去が暴かれていくような感じがして、最初は結構嫌でしたね(笑)。でもだんだん楽しくなってくるんですよね。隅田川について調べているうちに、なぜか海人族とか、そんなところまで話が広がっていく。フィールドワークといってもその土地についてだけの資料を集めていくわけではないんですね。ものすごい量の資料を毎回集めるわけですが、でも舞台で使うのは4、5ページ分だったりして、切り捨てる部分がすごく多いですよね。だから傍から見ると無駄に見えるのかもしれないんですけれども、でもやっている本人たちにとっては、舞台に立って、語るときに、「どれだけの背景を背負っているかわかるか」という自負みたいなものはありますね。それを稽古というのかわからないんですが、毎回必ず膨大な資料を集めてかきまわされて、そこからエッセンスを自分たちで作り出すというかたちで作業を進めていますね。

高山:正直に言いますと、とりあえず最初の段階で何をやるべきかわからないというのがあるんです。ですが、その時に何をやるかというのは結構重要な問題じゃないかなと僕は思っています。これがたとえば、すっごく売れている劇団だったらそんな時間はないと思うんですが、僕らにはわりと時間的な余裕もある。そうすると、最初に形を求められるということがないんですね。僕は、それはすごくありがたいことだと思っています。いつも形は最後の最後まで決めたくないと思っています。だから、最初にいっぱい資料を集めてこちらがかき回されて、何かが出てくるのを待つ必要があるんですが、ただ待っていてもあまり意味はないので、とにかく何かやってみる。そうすると、そのうち自分が考えるでもなく、素材が形を与えてくれるというか、その中間ぐらいに出てくる瞬間みたいなものを掴めたら、それはいい舞台になるんじゃないかと僕は思います。

林:今回もプランは何度も変更していて、最終的にこういう舞台になると決まったのはすごく遅かったんですけれども、資料を集めてこういう舞台にしようと言ったからって、コンピューターのプログラミングじゃないんだから自動的にこういうものが出てくるわけじゃないですよね。たとえばこういう映像が欲しいといったところで、高山さんが撮れるわけでもないので、Port Bの映像班が素晴らしいフレーミングで撮ってくるわけです。そして今回、皆さんがこの劇場に入った時からびっくりしてもらえたかと思うんですが、この一面に敷かれてある布に書かれてあるのは、上演の中で暁子さんが喋っているテキストの一部です。これも、地面に書を一面に書いた布が欲しいと高山さんが言い出したんですね。とはいえ高山さんが書けるわけでもないのでいろいろ探し回りましたが、今日この客席の中にいらっしゃる増田隆子さんという方がこの書をすべてお書きになられました。6時間くらいかけて、その6時間の間全く何も飲まずに書かれていました。僕はずっとついて見させていただいたんですが、素晴らしいパフォーマンスでした。そしてこの布を、また別の方に丸1日かけてミシンで縫っていただきました。コンセプトがあればすべてが生まれるわけではないので、ひとつひとつのものがいろんな技術者といろんな方々の好意で出来ています。

熊倉:この舞台はわりと短期間で集中的に作られたと先程仰っていたんですが、ミーティングなどに結構時間をかけられるんでしょうか。

高山:僕は稽古場で話し合いということ自体、あまり好きではないんですね。できれば喫茶店ですとか、飲みながら話したいですね。ほとんどお喋りになっているんですが。最初に話し合いをして、何となくみんなの間で共通理解みたいなものができると、たとえば「こういう映像が欲しいんだけど」みたいなことを行ってメンバーに勝手に撮ってきてもらっても、自分の狙いから外れていなくて、しかも自分が思っていたものよりも良いものが出来てくるという、奇跡みたいなことがわりと起きるんですね。

熊倉:ある時期のダムタイプの作り方なんかも、演劇出身の人ばかりではなくて、建築やっていたりとか、写真やっていたりとか、いろんなジャンルの人がいて、それぞれ自分の得意技をお互いに出し合っていくんですが、そういう手法は似ているなと思います。

高山:そこはちょっと意識するところがあります。彼らはすごく貴重な活動している人たちだと思うんですが、もうひとつ増やしたいなと思うのが、たとえば今回はこういう風に客席があって舞台があるというものになっていますが、それ以外の活動というのもすごく重要だと思うんです。そういうことをこれからやっていきたいですね。

熊倉:ダムタイプも90年代に、京都という都市空間の中で、今でこそありふれていますけれどオルタナティブな活動を始めたりですとか、アートセンター的な活動を始めたりですとか、演劇活動とは別に文化の調整装置を作っていたわけですよね。Port Bとして具体的に目指す活動というのはあるんでしょうか。

高山:『一方通行路』では少しそういうところに触れた気がしてるんですが、2008年の3月くらいに、今回取り上げたサンシャイン60をもっと徹底してやりたいなと思っています。サンシャイン60の周りを60箇所くらいツアーするようなものが出来たらいいなと思っています。

林:今回のポスト・パフォーマンス・トークでは質疑応答の時間はご用意しておりません。客席裏手のロビーにビールやワイン、簡単なおつまみをご用意しておりまして、そこで私たちPort Bのメンバーや熊倉先生も当分ふらふらしています。感想や質問など聞かせていただける方は、ぜひもう少しゆっくりしていただいて、そこでお話していっていただきたいと思います。

熊倉:最後に宣伝をしていいでしょうか?
この東京国際芸術祭の公演のひとつなんですが、今度チェルフィッチュという劇団の演出家・岡田利規と一緒に、ドラマトゥルクという役割でサミュエル・ベケットのラジオ・ドラマ『カスカンド』という作品をやります。昨日から稽古をやり始めて、自分で言うのも何ですがなかなかおもしろい作品になりそうなので、ぜひお越しいただければと思います。

林:というわけで、ひとまずポスト・パフォーマンス・トークは終了とさせていただきます。この続きはロビーでやりましょう。今日は本当にありがとうございました。

3月3日(土) 昼公演 ポスト・パフォーマンス・トーク


高山:本日はお越しいただきましてどうもありがとうございました。今回の公演では毎回ポスト・パフォーマンス・トークをやるということになりまして、今回はPort Bということでポスト・トークを始めさせていただきます。このトークをやる意味というのも、公演が終わった後に何となくお客さんとコミュニケーションをとれる機会があれば嬉しいなと思っていまして、今回Port Bに関わってもらった人たちにこうやって出てきていただいて、1人1人自己紹介や感想などを言ってもらおうと思っています。その後で、ロビーに飲み物や簡単な食べ物を用意していますので、そちらで皆さんと歓談できればと思っています。
まず僕は演出の高山と申します。何か質問やご意見ありましたら、後で聞かせていただければと思います。では順番に。

内部:今回、衣装を縫わせていただいた内部と申します。今日初めて舞台を見たんですが、話されている言葉というより場面場面にいろんなスケールがあるなということを楽しんで観ていました。

中川:インタビューとコロスに参加させていただいた中川と申します。私は初日にも観させていただいたんですが、初日はただただ圧倒されることが多くて、声とか言葉とか音とか、そういうのがそのまま沁みこむ感じだったんですが、今日は二回目だったのですが言葉をすごく聴いていました。まだ自分の中で反芻されていて整理できていないんですが…。

中田:映像に出演させていただいた中田と申します。今日初めて拝見させていただきました。どういう風に使われるか全然知らずに来たんですが、日常とかけ離れた世界で、何て表現したらいいかわかりませんが、家に帰ってもっと整理することで、また違う楽しみ方があるのかなと思いました。

松本:映像の方で関わりました松本です。映像を撮る前に皆さんとお話をしたんですけれども、なかなかこうやって1人1人と日常のことだとか、ふだん感じていることだとか、そういうことをお話する機会がないので、そうやってお話が出来たことだけでも良かったなと思います。インタビューに出るという形で携われてよかったです。

チョキ:僕はインドネシアから来たチョキといいます。このプロジェクトに参加させていただいて本当に感謝いたします。えーと…。

高山:チョキくんとそのお隣のニケンさんはちょっと遅刻しちゃってですね、自分が出ている場面を観ていないんだよね。

観客:(笑)

高山:また後で、ビデオで観ていただければと思います。では、次どうぞ。

ニケン:インドネシアから参りましたニケンといいます。芸術に興味があるので本当にPort Bの皆さんにはありがとうと言いたいです。

暁子猫:パフォーマーの暁子猫です。今日は皆さんご来場いただきまして本当にありがたく思っています。『雲。家。』について感想を言いますと、テキストと向き合うまでにまず時間がかかりました。すごく魅力のある強いテキストだというのは感じましたし、一気に読んでしまったんですが、そこからどういう風にそれに入っていくかというのに時間がかかって、テキストの周りをぐるぐる回るような時期がしばらくありました。話し合いを何週間か続けていく中で、少しずつとっかかりが出てきて、そのうちにこういったゲストの方にお願いするというアイデアがいろいろ出てきたりしました。稽古も含めて何回かやっていく中で思うのは、魅力が尽きないというか、やるたびにいろんな新しいことを感じさせてくれる、本当に素晴らしいテキストだと、毎回感じています。

三行:Port Bでは主に映像と宣伝美術を担当している三行と申します。今日は本当にありがとうございました。いろんなご感想やご意見を聞きたいと思いますので、この後ロビーの方でつかまえてお話を聞かせてください。

井上:技術監督をやっている井上です。今までは自分が舞台に立つことも多かったんですけれども、今回は初めてスタッフに専念しました。Port Bの舞台を外から観るのは初めてで、「なかなかいいな」と勝手に思っておりますが、ぜひ皆さんのご感想を聞かせていただければと思います。

内藤:音響担当の内藤です。主に音声の製作や編集などを行いました。Port Bには初めて参加させていただいたんですが、こういった形のものは難しい部類に入ると思いますが、私が至らないところもありまして、どれだけこれを表現できて、どれだけ伝わったか心配なところもありますが、後でいろいろ言っていただければ幸いです。ありがとうございました。

宇賀神:映像を担当いたしました宇賀神と申します。演劇での仕事というのはPort B以外ではやっていなくて、普段はどちらかというとテレビや映画などのスクリーンに対する映像を作っていますが、舞台で映像を流して、しかも役者さんと映像が掛け合いをするというのは皆様にどうお感じいただいているのか、後々お話いただければと思います。もうひとつ、サンシャインというのをこの2ヶ月間見続けてきて、結果としてお墓とサンシャインとか、電車とサンシャインという映像を撮ってきたわけですが、高層建築というものがこの5年くらい立て続けに建てられていて、サンシャインだけを撮ろうとすると、他のマンションが入ってきてなかなかサンシャインだけを際立たせるのが難しかったです。それだけ都市が変わってきているというのが、今回の企画を通じて感じたことでした。どこで撮影したのかですとか、もしお分かりの方がいましたら教えていただけますと嬉しいです。

郷田:撮影助手という形で参加させていただきました郷田といいます。撮影したものをずっと見たり聞いたりしていて、それとテキストがどう組み上がっていくかというのを横から見させていただいて、今回はとてもおもしろかったです。舞台を観ていろいろ興奮したりしたことがいっぱいあったんですけれど、また後で考えて話せたらと思います。


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(C)松嶋浩平


大久保:東京国際芸術祭の大久保と申します。今回は制作という形で、Port Bさんと一緒にやらせてもらっています。確か3年くらい前だったと思うのですが、慶応大学の平田先生という方を通して高山さんと初めてお会いいたしました。最初にお話したときに、本校舎で体育館を眺めながら、「体育館の空間を使っておもしろいことが出来たらいいね」という話をしていたのをいま思い出しました。ここは普通の劇場ではないですし、ご覧になっていただければわかる通り、いわゆる普通の体育館です。難しい空間なので演出家の皆さんは苦戦されるんですが、本当にここの持っている良さ、そして西巣鴨というこの土地をも含めた作品を作ってくれる人が現れたというのが、私たちにとってもすごく嬉しいことです。

私は高山さんというかPort Bの方たちの人柄がとても好きで、作品を作るたびに、若い人だったり、留学生だったり、地域の方だったりが自然な形で入ってきているというのがすごく魅力的だと思います。私も今回のテキストを読ませていただいたときには「これは一体どうするんだろう?」と思ったんですが、イェリネクが書いたテキストにいろんな方々がどんどん加わってきて、そしてそれが作品になっていくというプロセスを見せていただいて、本当に良かったと思っています。

林:林と申します。今回はテキストの翻訳に携わりました。あとドラマトゥルクとして制作に関する諸々を担当させていただきました。テキストの翻訳ということに関しましては、暁子さんのお話にもありましたように、僕にとっても、向き合うこと自体が大変なテキストで、翻訳を始めるまでにものすごく時間がかかりましたし、本当に「無理なんじゃないだろうか」と思いながらずっと付き合ってきました。ちょうど1年くらい前に『ニーチェ』という公演を横浜でやりまして、その時にPort Bで初めて翻訳を担当させていただきました。それから11月に、巣鴨の地蔵通りで『一方通行路』という野外パフォーマンスのようなことをやらせていただきまして、それが自分にとってとても大きな経験で、そういったPort Bにおける活動の流れの中でなんとか翻訳することができたと思います。

それからドラマトゥルクということに関してなんですけれども、僕がPort Bのドラマトゥルクとして考えていることは―こういった言い方をすると、舞台に出てプレッシャーをすべて一人で背負っていらっしゃる暁子さんですとか、オペレーションの方々に失礼に聞こえるかもしれませんが、僕は舞台というのはある種の結果だと思っていて、それよりもということではないのですが、すごく大事だと思っていることは「どうやって作るか」ということと、「作った後にどうするか」ということなんですね。今回も、今こうやって前に並んでいる方々がいて、本当はこの倍以上に関わっていただいた方がいらっしゃるんですが、そういう方々といろんなことを話し合いながら進めることができましたし、Port Bのコアメンバーの中でのアンサンブルも、すごく有機的に進めることができましたので、これは絶対結果が出ると信じて制作することができました。

それから、公演の後ということに関しては、芸術祭側に無理を言わせていただきまして、こうして毎日公演後にビールやワインを用意していただいて歓談の時間をいただきましたので、この後テキストに関しても舞台に関しても、何でも結構ですので、ぜひいろんなご感想をいただいて、また演劇という時間の経験を、僕らも皆さんのお力で豊かにしていければと思います。今日はどうもありがとうございました。

高山:さっき林さんも言ってましたけれど、ここにいる人たちの大体倍くらいの方々が関わっているんじゃないかと思います。いま実際僕らがこうやって立っていても、後ろでは江連亜花里さんと小川信濃さんが音響と照明をやっていて、江連さんなんかは、後ろの建築足場を組むデザインもされています。舞台で見えるものというのはごく一部なんですね。何となく、演出が全部やっていて、役者さんがいて、それだけで舞台が成り立つみたいな感じに思われてしまうところがあるんですが、実際は全然そうではなくて、いろんな関わりの中で、皆の間くらいに作品が立ち上がってくる。それがすごくおもしろいから、自分は演劇に携わっているんじゃないかと思うんですね。

今後の方向性としては、林さんが先程言ったようにプロセスが大事だと思うんです。もちろん僕はやっぱり結果を残したいという思いもあるんですが、そのプロセス自体が作品となるような、逆に作品と呼べなくなるような方向でも、これから活動していきたいと思っています。たとえばスタッフやキャストとお客さんという切れ目がもう少しなくなるような、それでも何となく「作品」になるような形にしていきたいと思っていて、そっちの方向にいくために少しずつ準備をしているような段階です。ですから今後も見守っていっていただけるとすごくありがたいですし、いろんな形で参加していただけると嬉しいなと思います。

それでは、このまま後ろのロビーでゆっくり皆さんとお話させていただきたいと思います。どうもありがとうございました。

3月3日(土) 夜公演 ポスト・パフォーマンス・トーク


トーク出演者
高山明(Port B)
林立騎(Port B)
宇賀神雅裕(Port B)
三行英登(Port B)
藤原敏史(映画監督)


林:本日はご来場いただきましてどうもありがとうございました。これからポスト・パフォーマンス・トークを始めさせていただきます。今回はPort Bから4名が参加し、ゲストの方を1名お招きしたのですが、まずはPort Bの側から紹介をさせていただきます。私は今回、テキストの翻訳と、ドラマトゥルクとして制作上の諸々を担当させていただいた林と申します。一番奥がPort B構成・演出の高山さんです。本日のゲストは映画監督の藤原さんということで、Port Bからも、映像に関わっているメンバーに来てもらいました。今回は映像を多用した舞台でしたが、そうした映像をひとつひとつ、手仕事的に作ってくれているお二人です。

まずこちらが宇賀神雅裕さんです。宇賀神さんは、演劇と関わるようなお仕事はPort Bだけで、普段はテレビや映画の方で映像の制作・編集をなさっています。それから、高山さんの隣が三行英登さんです。三行さんは映像作家であり、またグラフィック・デザイナーとしての活動もなさっていて、僕らのチラシや当日パンフレットなどのデザインをすべてやってくださっています。また、今回の映像オペレーションなどもすべてして下さっています。

そして今日お招きしたゲストが藤原敏史さんです。藤原さんは映画批評から活動を始められ、バスター・キートンの自伝を翻訳されたり、また映画に関する共編著も多数刊行なさっています。そして2002年から映画監督業に進出されました。2006年には初の劇映画「ぼくらはもう帰れない」がベルリン映画祭で上映され、新進気鋭の映画監督として注目を集めていらっしゃいます。
まずは今日初めて舞台をご覧になった藤原さんに、率直な感想とご質問などがあればお話いただきたいと思います。

藤原:実は大変に恐縮なんですが、ここにいる観客の皆さんにぜひお聞きしたいことがありまして、池袋のサンシャインが建つ前にそこに何があったのか、この舞台を観る前からご存知だった方はどのくらいいらっしゃいますか?僕はあそこが始まったところから「これはとんでもないものを観ているな」という気がしはじめたんです。

ご存知ない方も多いようなので言っておきますと、あそこはA級戦犯と呼ばれる人々が処刑された巣鴨プリズンの跡地に作られたんですね。我々の世代はこれは常識だと思っていましたら、そうでもないことが非常にある種ショッキングでした。また、その後で映し出されたお墓の向こうにあるサンシャインの映像というのが、あたかも墓石のように見えてました。しかも、そこに記念碑がどうのこうのというテキストが出てきて、「そこまで言っていいのか」と思ったんですが(笑)、あの墓地はどこだったんですか? 僕がいま構想している劇映画のロケ地のひとつとしてぜひ使いたいと思うんですが(笑)。

宇賀神:まず最初に、高山さんの方から「お墓を映しながらサンシャインも見せる」という課題があったんですね。ですが僕の生活圏に池袋という都市がなくて、どちらかというと文芸座に通っていたぐらいで、サンシャインの方向にはほとんど行ったことがなかったんです。撮影助手として参加されている郷田さんという方がいて、池袋の駅に近い大学だったということで、南池袋の辺りを提案していただきました。その前に護国寺の辺りの交差点から始まって、雑司が谷、鬼子母神と、どんどん駅に近づいていったんです。そうすると池袋駅の南側に、南池袋公園というのがあるんですが、実はそこにはずいぶんお寺があるんです。あの映像よりも近い位置にお寺があったりして、こういうのはたぶん新宿とか渋谷にはないんじゃないかと思います。

藤原:実は新宿西口の高層ビル街の近くにもお寺があるんですよ。だけど別に新宿の副都心の向こうに墓地があっても別に何とも思わないんだけれども、巣鴨プリズン跡地の巨大なビルが墓地の向こうにあるというのは……あれは高山さんのアイデアだったんですか?

高山:サンシャインを使えるかなと思ってずっと考えていたんですね。でも実はあれだけじゃなくて、何十種類とサンシャインの映像を撮ってもらったんですね。高速道路とサンシャインとか。それをすべてお二人に撮ってまわってきてもらって、最終的にあれに決めたんです。

藤原:一番ベタなものを使ったわけですね。

高山:そうですね。もうこれは一番強くいくしかないなと思いました。

藤原:あともうひとつこわいのは、日本語というのは「わたし」という一人称の言葉を、ほとんど使わないですむ言葉なんですね。僕は普段から、英語・フランス語・日本語という三ヶ国語を使っているので、日本語というのは「わたし」、英語で言うと”I”という言葉をほとんど使わないなと気づくんですが、日本人が日本語だけで生活していたら、「わたし」という言葉を使わないという事実にはほとんど気がつかないと思うんです。それが、ここまで「わたしたち」という言葉を繰り返される気持ち悪さはすごいものですね。ドイツ語の戯曲を無理やり日本語に翻訳したことで、私たちが「わたしたち」という言葉をほとんど使わないということが明らかになる。私たちが「わたしたち」でいることにきわめて無自覚でいられる民族であるということが突きつけられてしまう。逆に言うと、だからこそ我々は「わたしたち」と言われることにすごく弱くて、コロッと参っちゃうんですよね。

「外国語では翻訳できない」と言われていたものを、あえて日本語でやろうという発想がすごいんだけど、それは単なる思いつきではなくて、私たちの日本語が持っているある種の危うさを突きつけられてしまった怖さがありました。
逆にこういう翻訳上演みたいなものをやると、どうしても我々日本人の受け取り方としては、その国の事情を知るために翻訳劇を観るというところがありますが、ここで突きつけられているのは実は日本人についての問題ですよね。しかもそれが、きわめてタイムリーである。「美しい日本の国」と言いながら美しい日本語も使えない総理大臣がいるこの時代に(笑)。

高山:ドイツ語で「わたしたち」というのを日本語に訳すとしたら、普通は「我々」だと思うんです。最初は文章のトーンによって、「我々」「僕ら」といった感じに言葉を分けようと思ったんですが、最終的に「わたしたち」に統一したんですね。「ドイツ人!ドイツ人!ドイツ人!」などの言葉もそのまま残しました。それによってお客さんが、「わたしたち」という言葉の怖さを自分で考えてコンタクトしてくれたりですとか、「わたしたち」という言葉と普段できないようなコミュニケーションをしやすくできるようにしました。

パフォーマーを1人にしたのもそういう理由です。「わたしたち」といっても実はその中に分裂があったりだとか、あるいはファシズムやナショナリズムを思わせるぐらいにまとまっていたりする。それを、1人の声と身体だけで表現して、あとはこういうオブジェだとか洋服だとかだけでやりたいなと思いました。

藤原:実は、僕がこれを観ていた時にふと思い出したのが北一輝なんです。知らない人も多いと思いますが、2.26事件の思想的支柱となった、いわゆる国粋主義の思想家なんですが、きわめて興味深い人物でもあります。実は北一輝の思想って、天皇がいるということ以外はほとんど共産主義なんですけれど。

この「わたしたち」の怖さ、しかも女性にしたというのが僕はおもしろかったんですが、ほとんど幽霊にしか見えないんですよね。普通、演劇というのは「生身の人間の躍動を見せる」みたいなのがあって、実は僕も基本的にはそういう演劇の方が好きなんですけれども、この舞台ではパフォーマーが幽霊のようで、しかもその声というものが、本人が喋っているときもあれば録音のような時もあって、その区別がつくのかどうなのかよくわからない。それがますます「わたしたち」という言葉の何とも不気味な空虚さ、そしてその空虚さの中に、ともすれば我々がするっとそこに吸い込まれて、その「わたしたち」であるという居心地の良さにはまってしまうということの怖さが感じられて。途中でパッと客席に光が当てられた時には、もう高山さんを殺したくなりました(笑)。一歩間違えればヒトラーの再来になれるんじゃないでしょうか、この男は(笑)。

高山:僕は演劇というと、「生き生きと躍動する身体」よりは、むしろ幽霊っぽいのが結構好きなんですよね。もう少し言うと、身体と声の間に何となく溝があって、そこが分離しているような感覚というのがすごくいいなと思います。

藤原:演劇という制度自体がきわめて虚構的な制度だから、それはそれで許されることなんだろうと思うんですけれども、そもそも演劇で「生き生きと躍動する身体を生身で体験する」というのがリアルな体験なのかというと、全然そんなことはない。実はすごく作られたイメージを見ているだけじゃないのか。特に我々のように、作られたイメージを映像というものに定着することで表現している商売だと、より観客が見ているもの、我々が観客の皆さんにご覧いただくものというものの真実がどこにあるのか、というのは堂々巡りにならざるを得ないんだけど考えざるを得ないというところがあります。

少なくとも、今日観た舞台では、幽霊であることが一番真実なんですよね。なぜなら「わたしたち」ということはある意味で単なる幻想にすぎない。もちろんその幻想はある意味で必要なものだし、幻想といってもある種現実に根ざしている部分も相当ある。実際、「わたしたち」日本人は日本語という言葉を喋り、日本という島国で共同体を作ることによって生活している。そしてその共同体がなければ私たちは生活していくことができないというのは厳然たる事実で、そういう意味で決してナショナリズムを否定するものではないけれど、ただそれが幻想であることは確かなんですよ。その幻想が今、気持ち悪く日本社会の中に増殖してしまっている不気味さというのがあります。単に日本というナショナリズムの幻想だけではなく、家族という幻想もものすごく広がってきてしまっている。その裏にあるのが、家族が崩壊しているだとか、日本という民族の中心であるはずの日本語という言語がきわめて危機的であるとかいうことです。何しろ「美しい国日本」と言っている総理大臣が、所信表明であそこまでカタカナを使って、あげくにナショナル・アイデンティティと言うべきところを、カントリー・アイデンティティというわけのわからない造語まで使ってしまったという(笑)。

実はそういう時代の危機感を皆が感じているからこそ、「わたしたち日本人」という言葉は使っていないにせよ、それをすごく押しつけられている気持ち悪さというのを、無意識に皆さんも感じてしまっているんじゃないかなと思います。しかし一方で、それが欲しいという無意識もあると思うんですよ。その無意識を、こうして見事に舞台として見せられてしまうと、正直言いましてきわめて不愉快ですね。いや、いい意味でですよ(笑)。途中で本当に逃げ出そうかと思った時が何度もありました(笑)。

林:そう言っていただけると非常に嬉しいですね。演劇というのは、劇場という閉ざされた空間で、これから皆さんが見るものは作り物ですよという前提のものに行われるわけですよね。でも藤原さんがこうやって、そういうものを見ている中で、劇場の外のことをたくさん考えてくれて、いまの日本や社会のことについてすごく考えていただけたというのは、やはり作品のそこここに、「生き生きとした役者の身体」だとか、そういうものではない生の現実というものが出てくるからでもありますよね。アジアからの留学生だとか、池袋のインタビューだとか。あの池袋のインタビューというのも、このお二人をはじめとした映像・音響スタッフがサンシャイン周辺でいろんな人に声をかけて集めてもらったものなんですが、サンシャインの脇がいまは公園になっていて、処刑台跡地が石碑になっています。そういうところでスケボーしてたり自転車乗って遊んでいる人たちや、いろんな若い人たちにインタビューしていて、どういう感じだったのかということを三行さんからお話してもらえますか。


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(C)松嶋浩平


三行:これまでの舞台で、実際に今回のようなインタビュー映像を使うこともあれば、インタビュー的なことを舞台に挟んでいくということもあったんですね。いろんな形でそういった外部性というものを使っていて、その外部性のようなものが、映像を使うもっともな理由だと思っています。『Re:Re:Re:place 〜隅田川と古隅田川の行方(不明)〜』という舞台をやった時も、同じような形でインタビュー映像を使いましたが、今回インタビューを進めていく中で、僕自身がある変化を生じたことがありまして、それが建国記念日の日だったんです。

サンシャインのすぐ脇に、東池袋公園という元処刑台だったところがありまして、そこに石碑が建っているんです。それまでそこには誰も寄りついていなかったんですけれど、その日だけはそこに手を合わせたり拝んでいったりする人が結構いて、僕はそれを見た時に、民族だとかを超えた、人間の太古からある営みみたいなものを見た気がしました。消えていく、無くなっていくものを記憶するために石に刻むということですね。

僕はそのインタビューをしている時に、まだ観たこともない映画が気になっていたんです。ミシェル・クレフィという監督の「石の賛美歌」という映画なんですが、テレビでミシェル・クレフィが「石というのは現実であり、インティファーダである」というようなことを言ってたんです。僕はその時それがよくわからなかったんですが、その光景を見たときに「あ、なるほど」とわかったんです。消えていく、無くなっていくものを、現実に残していくためのものとして石がある。

藤原:「石の賛美歌」はパレスチナの映画で、第一次インティファーダが始まって2、3年後に作られたものですよね。
ちなみに私はその映画を観ているんですが、日本だと山形国際ドキュメンタリー映画際で91年に上映されています。そして補足すると、パレスチナ人にとっては、石というのは奪われた大地そのものになってしまうんです。これはこの芝居のテーマとすごく関わってくる話なんですが、日本人は幸いにして、めったに国土を奪われたことがないのでそういうことを考えないのですけど、象徴的な意味での「大地」という言葉がある一方で、そこで何十年何百年、先祖代々生活してきた土地という意味がある。その二重性というのが、一歩転ぶと大変に怖いことになってしまうという、今のパレスチナもちょっとそうした状況を感じます。

三行:だからお墓とサンシャインの映像というのは直接的ですけれども、やっぱりこうやらなきゃいけないと思いました。インタビューということで言えば、普通こういうのはインタビューする側が聞きたいことを聞くはずのものなんですが、僕にとってそれが自分が聞きたいことなのかというと、そうでもなかったんです。でもやっぱり聞いていくとおもしろかったですね。

宇賀神:最初は、僕らの世代というか、若い人たちは巣鴨プリズンのことはほとんど知らないんじゃないかと思ったんです。そうしたら、実はそうでもない。それは僕にしてみると結構驚きでしたね。明らかに地元の人は知っているというのがありますね。
そしてその公園でインタビューをしていたりしたんですが、実はその石碑を避けるように撮影していたりしたんです。

藤原:そうですね。そこがまたいいなと僕は思いました。

宇賀神:そこは何度も議論したんですけれども、あんまり直接的すぎるのもどうかなと考えたんです。

藤原:そこが表現というもの難しさで、あまり直接的なものを入れてしまうと、説明だけで終わっちゃうんですよ。だけどそれだったら舞台とか映画という形でやる必要はなくて、テレビのニュースでやればいいんですよね。

宇賀神:サンシャインビルの入り口の、隅っこの方に石碑があるんですね。表に「永久平和のために」と書かれてあって、裏面を見ると「軍事裁判によってA級戦犯の刑が執行された」という文字が書いてあるんです。それを読んだ時には、大げさかもしれないですが僕もちょっと歴史を背負ってしまったような、「えらいものに会っちゃったな」という感じがしましたね。もしサンシャインに行かれる方がいらっしゃったら、ちょっと覗いてみていただきたいなと思います。

藤原:考えてみたら「A級戦犯が靖国でどうこうした」という時、「A級戦犯」という言葉は知っていてもそれが何なのかということがほとんど知られていないんじゃないかと思います。日本人の歴史の受け取り方というのは考えてみたらものすごく不気味で、「A級戦犯が靖国でどうこう」というニュースは流れていますが、じゃあA級戦犯が何なのかということをちゃんと認識したうえで報道しているかどうかも怪しい。そういう風にすごく曖昧だからこそ、「わたしたち」と平然と言えるんだろうなと思います。そういう意味で、この文章は本当にいやらしい文章だと思うんですが(笑)、そもそも何でこれをやりたいと思ったんですか?

高山:『雲。家。』というこの戯曲を素晴らしいかたちで演出した演出家がいまして、彼が「これは日本語では絶対不可能だ」と言ったんですね。それで「そうかな?」と思ったんです。

藤原:彼らはたぶん、我々が同盟国だったことを忘れているんですよ(笑)。

高山:でもさっきの話に戻ると、僕は右か左かという区別でいえば、たぶん左寄りの人間だと思うんですよ。それで巣鴨プリズンを調べていくと、あそこはA級だけじゃなくて、B級、C級戦犯と呼ばれる人たちも処刑されているんですね。僕はそっちの方も問題だと思っていて、裁判の仕方にしろ、どういう人が選ばれて処刑されたかというと、ほとんどくじ引きみたいなものなんですね。そこを、彼らは戦犯だから別にいいんだと言って、私たちの外部に切り離していいかというと、なかなかそれは難しいぞというのは、今回本当に考えさせられました。しばらくは態度保留という形でいくしかないなと思っています。

藤原:僕自身は、基本的に自分は極左だと思っているんですけれども、一時期靖国神社にしょっちゅう通っていたんですよ。実は特攻隊の生き残りを取材するという企画がありまして、いま宙吊りになってしまっているんですが、そもそも天皇制のことをやろうと思って皇居に取材に行った時、たまたま皇居の喫煙所で会ったおじいさんが特攻隊の生き残りだったんです。月に一度、特攻隊の生き残りの人たちが集まる会というのがありまして、それは世田谷区の世田谷観音というお寺なんですが、そこに特攻観音というものがあるんです。毎月18日に縁日があるんですが、そこで特攻隊の生き残りだとか遺族だとかが集まるから、来てごらんなさいよなんて言われて、のこのこ行ってみたんです。そうしたらおもしろいから、しょっちゅう行っていたんですね。僕は軍国主義はとんでもないと思っている人間だから、ある意味で居心地が悪いんですね。でもその人たち自身はすごく真面目でいい人たちなんですよ。じゃあその時代の日本人が全員狂ってしまっていたのかというと、そんな単純な話ではない。

僕が最初に会ったおじいさんは、「天皇のために死ねって言われたんですよね」と聞いたら「そんなことは後から格好つけて言っただけで、なんとなくその場の雰囲気で行くことになってしまっただけだ」なんて言うんですね。
後でその方に詳しく聞くと、当時17歳くらいで、ある日司令官に会いに行くと「お前を特攻隊に選んだ」と言われた。その方は司令官と同郷だったらしいんですね。「悪いけどちょっとお前やってくれや」と言われて、「世話になってるからしょうがないか」と思って受け取っちゃった。

学徒動員で特攻隊になって生き残った人たちの会話も聞いたんですけれど、「日本もこんなとんでもない戦争のやり方をやるからには、これはもう絶対負けるに違いない。でも負けるんだったら、日本人がいかに気が狂っていて危ない民族であるかということをアメリカに見せつけなければ、負けた時にお袋や妹が何をされるかわからないから、講和条約を少しでも良くするために、この際俺たちは死のう」ということだったらしいんですね。狂ってはいるんですけれど、筋は通っている。

だから決して「神国日本」とか言っていたわけではないという、その妙な乖離や、靖国神社ということも含めて、最近考えざるを得ないのは、その時代についてものすごく健忘症になっているということです。なぜああいうことが起こったのかということを、軍国主義のせいであると言ってしまうことのやばさを感じます。それは実はわたしたちの問題であるのに、それを「軍国主義」でごまかして、日の丸君が代の問題だけにしてしまうということはすごく不健全なことで、その不健全さを改めて突きつけられたような気がするんです。

日の丸君が代というのも、あんなものは幽霊なんですね。A級戦犯だけが悪いわけではないというのは当時の人たちは皆気づいていたし、A級戦犯自身の人たちも、この際誰かが処刑されなきゃしょうがないから俺たちは人身御供になるんだと、特に東条英機はそう考えていたふしが相当にあるんですね。もちろん彼の責任は相当大きいんですが、あの人は無能なお役人であったということが最大の罪であって、別に彼が戦争をやると言ったわけではない。実はすごく集団的な責任であることが、それを誰かに押しつけることによってごまかされている。それを日本人は「軍国主義」ということで自分たちを許してしまったし、日中国交正常化の時も、要するに軍国主義が悪かったので日本人は悪くないという屁理屈を周恩来先生がひねり出してくれたから、日中国交正常化したわけですよね。それで総理大臣が靖国へ行ってA級戦犯に拝んだから「それはいくらなんでも約束が違うだろう」と怒っているだけなんです。しかしそのことすら忘れている私たち日本人というのがいて、だけど「美しい国日本」とか、そういう空虚な、実体験ではない言葉だけはものすごく氾濫してしまっている怖さをすごく感じます。

それが戦後60年で変わるかもしれないと僕は思っていたんですね。僕がその特攻隊のおじいさんと付き合っていたのは戦後60年の時だったんですが、その時に、これまで語らなかった人たちが出てきたんです。それで特攻隊の企画をフジテレビのプロデューサーのところに持ち込んだら恐ろしいことが起こったんです。会いに行く日に福知山線の脱線事故が起こって、一週間後にやっと面会に行ったんですね。それで、特攻隊のひとつの大きなテーマになるのが、生き残ってしまったということとどう向き合うのかということだと言ったんです。そしたら、深夜放送を見ている若者にはそんな難しいことはわかりませんよと言われてしまったんです。生き残った者の罪悪感なんて、現代の若者にはわからないし通じるわけがない、と言ったその三日後から、福知山線の事故で生き残った人たちが「生き残って申し訳ない」ということをテレビで言い始めたんです。あれは気持ち悪かったですよね。というのは、特攻隊の生き残りにしてもホロコーストの生き残りにしても、大体2、30年かかってからようやく言い出すんですよ。それが、そういう言葉が直後に出てくるということが、そのことを演じなければいけないと思われているいうことですよね。

先程「躍動する身体」ということを言いましたが、演劇において実は「躍動する身体」というイメージを受け取っているだけじゃないかという気がします。すべてが表層的な言葉に集約するイメージだけで消費されていく時代になってしまっているような感じがして、僕はそれがすごく怖いんです。しかしそういう傾向に反対する映画を作ると、映画祭とかではそれなりに評価していただけるんですが、配給会社が全くつかなくて「君の映画は商売にならない」なんて言われてしまうんですが(笑)。だから僕は、高山さんがこれを幽霊の話にしたのが賢いと思うんです。まさに一見我々がリアルだと思っていることが幽霊だと思ってしまっている。

林:思わぬ方向におもしろく話が進んできたと思うんですが、この舞台ではとりわけあからさまに政治的な問題のみを扱っているわけではないですよね。もちろん、合間合間にサンシャインや留学生の映像が入ってきているんですが、80分間政治的な問題を全面に扱っているわけではないと思うんです。そういったことについて、高山さんにお話していただきたいと思います。演劇をやるうえで、そうした社会的な問題をどう扱うのか、どこまで扱わないのか、お話ししていただけますか。

高山:さっきのお墓の話でもあったんですけれど、政治的な問題を扱うか扱わないかというところであまり線を引きたくないというのがあるんです。ドイツでは特に、政治的な問題を扱っていたら○(まる)、扱っていなかったら×(バツ)みたいなところがあるんですね。

藤原:しかも、その扱い方がある種規則みたいになっているところがありますよね。

高山:そうですね。何だかアリバイ作りみたいな気がして、そういうのはよくないなと思います。さっきのお墓とサンシャインと映像ですが、「これいいな」「これ使えるな」という基準というのは、フレームも含めた強度なんですね。

藤原:あれは言われてみないとわからないけれど、見た瞬間に、ほとんど笑えますよね(笑)。

高山:そのぐらいの感覚がないと、本当に説明だけで終わってしまうんです。政治的な説明だけで終わるんだったら、本を書いたり政治運動した方がいいんですよ。そういう問題を扱う扱わないとは別に、またもし扱ったとしても、それを演劇でしか体験できないような強度というかおもしろさで見せたいと思います。

藤原:今は特に政治的言語と呼ばれるものが、ものすごく上っ面なんですよね。だから政治を語ること自体、我々がどう生きるかとかどう生活するかということと直結しているはずなのに、すごく上っ面な言葉になってしまっているし、言葉自体がすごく力を失っているということを、最近僕はつくづくと感じています。

僕は映画監督なので、言葉よりも映像というところはあるんですが、映画にだって音がありますからね。その時に本当に心に響く言葉、上っ面ではない言葉をどう取り戻すのかというのはすごく重要な問題だと思うんです。特に日本語という言葉は、我々は誰も気がついていないんですが、すごく人工的な言葉ですよね。その人工的な言葉を、しかも翻訳したものとして舞台でやるというのはどういう意識からだったんでしょうか。翻訳をされた林さんは結構苦労したんじゃないかと思うんですが。

林:苦労しましたね。「翻訳不可能性」とか、格好いい言葉をパンフレットに書いてあったりするんですけれど、翻訳というのは基本的には不可能なわけですよね。「わたしたち」という言葉は英語だったら「we」ですが、「わたしたち」という言葉と「we」という言葉は、見た目の感じも違うし、音の長さも違うし、意味だけだったらイコールになるのかもしれないけれど、本当は絶対にイコールじゃないんですね。だから基本的に翻訳というのは不可能なんです。「we」という言葉を「わたしたち」とした時に、「we」は一音節なんだけど「わたしたち」という言葉は五音節あって、非常にまだるっこしくなる。ドイツ語でいえば「wir」なんですが、これがたとえば、もしドイツ語で「wir, wir, wir」という言葉があるとすると、日本語だと「わたしたち、わたしたち、わたしたち」になる。そうするとまだるっこしさが倍加されるわけですね。

エルフリーデ・イェリネクというのは、演劇学とかドイツ文学だけじゃなくて、ウィーン市立音楽院でオルガンと作曲を修めた音楽家でもあるんですね。そして彼女の文体というのは、その政治的な内容や凝った技法というもの以上に、そういった感覚的なところが素晴らしいんです。なのでドイツ語を意味の上でわかりやすい日本語にするのではなく、多少日本語が変形しようが奇形になろうがかまわないで、むしろ日本語がドイツ語に出向くような翻訳をした時に、もしかしたら日本語でしかできない言葉の可能性があるんじゃないかと思ったんです。つまり翻訳が不可能であるが故に、翻訳の可能性というのがあるんじゃないかということです。だからそれを体感していただけたというのはすごく嬉しいですね。

藤原:体感しすぎて気分が悪くなってしまいましたね(笑)。

高山:(床に広がっている書を指して)この文字も、これがドイツ語から翻訳されてここにあるという感じになっていて、たとえばこれをドイツ語に翻訳できるかというと、絶対できないと思うんです。こういう字体とか書体とか濃淡というものを舞台に反映したいなと思って、これをお願いしました。

林:今回のアフタートークでは質疑応答の時間というのは設けておりません。今回は毎公演後、裏のロビーにビールやワインを用意しておりまして、私たちPort Bのメンバーも藤原さんも当分残っていますので、ご感想やご質問を聞かせていただける方は、是非そちらでゆっくりとお話していっていただきたいと思います。とりあえずトークの方はこれで終わりとさせていただきます。どうもありがとうございました。

3月4日(日) ポスト・パフォーマンス・トーク


トーク出演者
高山明(Port B)
林立騎(Port B)
佐伯隆幸(学習院大学/演劇批評・フランス文学)
藤井慎太郎(早稲田大学/フランス語圏舞台芸術・表象文化論)


林:本日はご来場いただきまして誠にありがとうございました。これからポスト・パフォーマンス・トークを始めさせていただきます。今回テキストの翻訳とドラマトゥルクを務めさせていただきました林と申します。
まず本日のゲストをご紹介させていただきたいと思います。こちらが藤井慎太郎先生です。藤井先生は早稲田大学の助教授でいらっしゃいまして、フランス語圏の現代舞台芸術と、文化政策や芸術政策ということに関心を持たれて、多数の論文を発表なさっています。また、舞台上演のために多数のフランス語戯曲を翻訳なさっていらっしゃいます。そしてその奥が、佐伯隆幸先生です。佐伯先生は学習院大学教授でいらっしゃいまして、現代演劇に関する多数の著書を刊行なさってます。それから、ベルナール=マリ・コルテスの戯曲の翻訳も出版なさっています。そして一番奥が、Port B構成・演出の高山さんです。

高山:今日はどうもありがとうございました。今日は実は楽日であまり時間がないので、こちらで20分くらいポストトークをやった後、後ろのロビーにビールやワインを用意してありますので、そこで続きをやりたいと思います。
早速トークを始めさせていただきたいと思いますが、まずは今回の舞台を観た率直な感想を聞かせていただけますか。

佐伯:私はとてもおもしろかったです。以前に「舞台芸術」でも書きましたが、私は日本の芝居は「演ずる演劇」で駄目になっているから、「読む演劇」というのをやった方がいいと思っているんです。
今日の芝居は読む演劇でしたが、つまり読む演劇がどうしていいのかというと、どこを読んでもいいわけですよね。頭から最後まで読む必要はなくて、途中開いたところから読んでもいい。そんな風に舞台を拵えたほうがいいと私はこの頃思っています。

基本的にはリーディングでいいし、下手な俳優が舞台でかさばるなと私なんかは思います。私の昔の友人である津野海太郎が「芝居は品である」と言ったんですけれども、今の芝居は品がない。つまり肉体が無意味にかさばっているんです。ここで怒り出すときりがないので、藤井さんにお願いしたいと思います。

藤井:初日も拝見したんですが、初日は腑に落ちる部分と腑に落ちない部分がはっきりしなかったんですね。ただ、今日もう一度拝見して、それから先程の佐伯先生のお話を伺って、だいぶはっきりしてきました。先程、佐伯先生が「読む演劇」ということを仰いましたけれども、読むだけじゃなくて「聞く演劇」という部分で、非常に深く感じる部分がありました。フランス語で「ささやく」というのをスフレモという言い方をするんですが、言葉を息にのせてそっと吐き出すという意味なんです。言葉を息にのせて吐き出しながら、それが暁子猫さんの息遣いを聞くようなそういう瞬間でもあるというのを感じました。言葉というのは、書かれた文字はなくならないわけですが、聞く言葉は聞く瞬間に消えていってしまう。消滅する部分、消えてなくなる部分、空虚に還元されていく部分というのが、今日は非常によく聞き取れました。

先程の佐伯先生のお話に引きつけると、日本の現代演劇全体の身体というのは、無理に身体をいっぱいにしようとして失敗している部分があると思うんです。しかしからだというのは「から(空)」なわけですから、その空の器として存在している部分が非常によく見えてきた。このテキストで繰り返されている「わたしたち」という言葉を空なものとして、うつろなものとして読んだときに、「わたしたち」というのがそれほど強固なものなのか、家というのがそれほど強固なものなのか。高山さんの演出だと、家というのが非常に隙間だらけの、家というよりも空っぽの空間に近づいていくような感じがあります。それが巣鴨プリズンであったりとか、消えてなくなるものと重ね合わされたときに、初日には引けなかった一本線が引けたような気がして、非常におもしろかったです。


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(C)松嶋浩平


佐伯:家というのは、第一世界の典型であるドイツということじゃないんでしょうか。家はつまり世界史の中の文明だと思うんです。ぼろぼろになっているけれど、原理としては依然として残っている。私たちのいる世界というのが、映像に出てきた若い子たちも含めて強固に文明というのは存在している。しかし「ここにいる」と繰り返しているところを見ると、どうやら「ここ」ではない、文明から遠い世界も存在している。それはドイツの中のトルコ人かもしれないし、フランスの中のマグレブかもしれない。だから高山さんの舞台を政治的に読むことは可能ですが、私はそうは読まなくて、記憶というものをめぐるヘルダーリン的な芝居だと思いました。藤井さんの話で言えば、音声ですね。「読む演劇」というのを提唱したときに私が考えたのは、言葉に回帰するということではないんです。

数日前にチェーホフの『プラトーノフ』を観たんですが、私はあの作品が他に比べると好きなんですが、結局「私は誰なのか」ということばかり話しているわけです。時間つぶしの演劇だと思うんですが、チェーホフというのは「私は誰なのか」ということに初めてつまずいた時代なんですね。そして最後の時代だと思うんです。「私は誰なのか」というのは今だったら出来ないと思うんです。私はいまここにいて喋っているわけですが、喋っている音声があるのであって、私が思考していることが喋られているわけではないと思うんです。佐伯隆幸という人が喋っているわけですが、純粋な音声だけである。ささやき、つまり息にのっている音声というものがどう音楽的に聞こえてくるかというものの中に記憶が入ってくるのであれば、言うことはないと思うんです。記憶と世界史というものが両方あるとして、世界史というのは私たちが学校で教えてきた、私たちを縛っているものですよね。私たちは世界史の中で決して自由ではない。記憶というのは私たちの身体がおそらく持っているものだと思います。

「読む演劇」「聞く演劇」というのは、コルテスでもあるしクローデルでもあるし、アルトーでもある。アルトーとクローデルは両極ですが、実は問題は「息」なんです。音声をやれない人間が俳優をやってもしょうがないと私は思うんですが、そういう意味ではトークやシンポジウムというのも演劇的だと思うんです。ついでに言えば舞台よりも何よりも、表方が一番演劇的でなくてはいけないと思います。

高山:佐伯さんが仰ってくれたことはすごく大事な問題で、僕が声ということを考え始めたのは佐伯さんの本がきっかけなんですね。15年くらい前になりますけれども、佐伯さんがパリで観た芝居について書かれていて、最後のシーンで舞台にラジカセがおいてあって、ヴェルディが流れていて感動したということが書いてあったんです。それがすごくいいなと感じたんですね。その後にグリューバーの稽古を見る機会があったんですが、彼は人物と人物が話しているように見えるとすごく怒るんですね。違う、声と声が話しているようにやるんだ、と言って、そういうのをやりたいなと思ったんです。そこから少しずつ、人物とか身体というよりは、藤井さんが仰ったような声と人物が分離しているようなものを探求しはじめたんですね。

佐伯:新国立劇場の研修で喋ったことを一言だけ言わせていただきたいんですが、男と女がたとえば抱き合ったときに、これを男と女の関係だと思うのは間違いなんです。これはただ皮膚と皮膚が触れ合っているに過ぎないというのを、表現としてどう取り戻すかというのは、実はすごく難題なんです。男と女がこうやったら、男と女の関係があると自明に思う、私はそれは違うと思うんです。肌と肌が触れ合ったにすぎないという質感をどう出すか。これは言語でも同じだと思うんです。言語が自明に背負わされている質感、近代的な約束の中での意味というのを、どうやって外した質感をもてるかというのが、僕は言語に限らず表現にとっては一番大事なんじゃないかと思います。

高山:まったくその通りで、僕もそこに賭けたいなと思っています。藤井さんのお話ですごくおもしろいのが、最初に天文学をやられていたんですよね。それが、どうも自分は文系の方がいいと思われて、フォーサイスの舞台を観てそちらに転向された。フォーサイスの舞台も、そういった質感というのを僕はすごく感じるんですが、そこを絡めて最後をまとめていただけますか。

藤井:やはり、観てておもしろい舞台というのは、そこに見えないものを感じさせる舞台であったりとか、見えないものを見ようとする、不可能なものへと導かれていくようなものだと思います。だから高山さんの仕事を拝見して、おもしろいと思うし、応援したいと思うんですね。これは観客に受けないかもしれない、それに理解されないかもしれないという題材をいつも持ってきていて、だから完全に「わかった」とは言いきれない舞台が多いのだけども、それでも何とかしてそのぎりぎりのところで観客とコミュニケーションをとろうとする、その姿勢が日本の演劇界に決定的に欠けている部分のような気がするんですね。

常々僕が思うのは、演劇などの舞台芸術というのは、フランス語でスペクタクルヴィヴォンと言って、ヴィヴォン、つまり「生きている」という言葉を使いますが、実はそれは違うと思います。むしろ生きているそばから死んでいく、死に支えられている芸術だと思うんです。そういう消えていくもの、その場に永続しないものというのを感じさせてくれる舞台芸術というのが少ないと常々思っていますが、今日の舞台は映像を見ても、確固たるものというよりはうつろなもの、移り変わっていくもの、空虚なものを孕んでいますね。ドイツのものを扱いながら、日本的な原点にも立ち返っているような。主人がいなくなった衣服があったりだとか、誰が書いたかわからないけれど痕跡として残っている書があったりだとか、俳優の身体でさえも、この紗幕に遮られて、映像として映っているのか本物なのかわからない、うつろなものとして出てきた。現代芸術の中で、僕が一番おもしろいと思っているものに通じる部分が出てきたと思います。

佐伯:うつろな一瞬を徹底すれば永遠なんですよね。同時代の特定のショットを捉えれば、それは永遠のものになりますよね。演劇が抱えている不純さと強さと弱点がそこにあるんだと僕は思います。文字は残るけれど演劇は残らない。だけど残らないが故に永遠を照らすんだと私は思いますし、そういう場所から自分や他の人の仕事を見たいと思います。

高山:ありがとうございました。先程佐伯さんが、表方が重要と仰ってましたが、公演やトークが終わってから展開していくものもすごく重要なことだと思うんですね。そういうことを、ドラマトゥルクの林がかなり考えてやってくれていて、もちろん他の方の協力も得ながらですが、これからもこういう形で展開していきたいなと思います。それでは、これから場所を移動する形でロビーで続きをやりましょうか。今日は本当にありがとうございました。

2007年03月05日

谷川道子(東京外国語大学教授) 『雲。家。』


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(C)松嶋浩平

 Port Bを(ベンヤミンが1940年に服毒自殺したスペイン国境の町Port Bouを連想させるけど、由来を尋ねたことはまだありません)最初に観たのは、2002年の『シアターX・ブレヒト演劇祭における10月1日/2日の約1時間20分』だったか。「何、これ?」と思った覚えがある。それで顔を背けるというのでなく、むしろ頭を突っ込まされてしまったというか。主宰者の高山明氏がドイツで数年の演劇修行を終えて帰国後に結成した、これまでとは一味違った演劇的実験を志向する集団の最初の公演と聞いて、なるほどと、何となく納得。 
 その後、高島平団地の今昔をボルヘスのテクストと不思議に交錯させた『Museum:Zero Hour〜J.L.ボルヘスと都市の記憶〜』に『ハイナー・ミュラー原作:ホラティ人』、謡曲『隅田川』で隅田川を探索する『Re: Re:Re:place〜隅田川と古隅田川の行方〈不明〉〜』に、ミュラーの弟子のようなしかしすでに故人となった『アイナー・シュレーフ原作:ニイチェ』に、「巣鴨地蔵通り、および庚申塚周辺の”出会い系” ツアー・パフォーマンス」といううたい文句の『一方通行路〜サルタヒコへの旅〜』…。1年に2作くらいのペースで(これは粗製乱造でないちょうどいいペースだと思ってます)、ドイツ物の演劇的テクストを土台にしたものと、ことさらに日本のロケーションにこだわったものが交互に重なっていくから、今度はイェリネクだろうな、そのときはきっと『雲。家。』だろうなと思っていた(実は事前に相談は受けてましたが)。
 ポストトークで高山氏は「テクストは何でもいいんです、自分から遠ければ遠いほど、その距離を考えられるから」と語られていたが、そうだろうなとも思いつつ(それはそれでとてもいいことですが)、彼のその道程には、やはりそう来るかと思わせられるところがあって、しかも今回は、これまでの交互のダッチマン・スタイルが交差したというか、ドイツ物(実はイェリネクはオーストリア出身ですが)と日本のロケーション化が、テクストを軸に折れ重なっていたのだ。なるほど、そう来たか、と今回も思わせられてしまった。嬉しい裏切りでありつつ、ただし負けず嫌い的に付け加えると、想定内でもあったけれど。

 そもそもこのイェリネクの『雲。家』は、ト書きや登場人物の指定、台詞割りなど何もないどころか、いったい誰が何をどう語っているのかさえ定かでない、まるで散文のテクスト・コラージュ。「一体これは何なのだ」と思わせられたハイナー・ミュラーのあの『ハムレットマシーン』のレベルをもはるかに超える。ミュラーの場合は『ハムレット』という下敷きがあったけれど、こちらは「使われているのは特にヘルダーリン、ヘーゲル、ハイデガー、フィヒテ、クライスト、ドイツ赤軍の1973〜77年の手紙のテクストである」と作者自身に明記されたまさに引用の織物で、いわばドイツ近現代国家史を構成した言説の網の目だ。しかもどこがどういう引用なのかも、「我々」とあるのが誰なのかも、それが何人なのかも、分からない。さて、これにどう対峙するか。
 日本でもお馴染みとなった演出家ヨッシ・ヴィーラーは1993年にこれを死者たちの言葉の塹壕(?)とみてチューリヒで6人の女優に演じさせ、ペーア・ラーベンは1992年にラジオ劇としてバルバラ・ニュッセのきわめて日常的な一人語りで演出、ともに絶賛をあびている。
 日本ではこれにさらに言語のレベルでの邦訳化という位相が付け加わる。イェリネクの訳し難さは『汝、気にすることなかれ』の訳者解題でも触れたけれど、のみならず『雲。家。』にはほぼ全篇が上記のテクストの引用という足枷が付け加わる。ニイチェ研究者でもあるという翻訳者の林立騎氏は、引用箇所をそれぞれ特定して原典からパラグラフ全体を訳して(それはイェリネクのテクストの何十倍にもなったとか)、邦訳台本にその該当部分をさらに引用するという手順を踏まれたというが(その位しなければこのテクストはとうてい翻訳不可能です)、そんなこんなは上演パンフにさらりと引用文献だけ記されて舞台では潔く抹消されていた。それに演出家の高山氏は、さらに潔く手を入れる。
 タイトルの『雲。家。』のドイツ語は“Wolken. Heim”。これは古代アテナイの風刺作家アリストパネスの喜劇『雲』と『鳥』に由来する神々と人間の間の雲井に浮かぶ「カッコウ鳥の国」=”Wolkenkuckucksheim=英語でCloudcuckooland“から来ていて、今日なおそれは「理想・空想の夢の国、ひいては空中の楼閣、現実喪失や世界逃避のメタファー」にもなっているが、タイトルではその雲と家の真ん中のカッコウが“.=句点”に置き換えられている。しかも、カッコウは周知のように自分の卵を他の鳥の巣に産んで育てさせ、しかも雛になると他の雛をその巣から追い払うという恩知らずな故郷喪失の寄生鳥…そんなこんなもさまざまに解釈可能だろう。
 ともあれ、雲井の家=Heim(英語のhome)= Heimat=故郷=国=Landを求めるテクストの声は、舞台上では暁子猫だけを登場させて紗幕の前後や上下でマイクや歌や語りで分読させつつ、その紗幕にとつぜん巣鴨の学校でアジアの(留)学生同士の言葉をめぐる会話や、サンシャインビルの前での通行人への「ここは昔どこだったか知ってますか」のインタビューなどのビデオ映像が映されて、語りを分断しつつ語りに介入してくる。しかもビデオ映像で同じテクストがさまざまな人数の群読でも映されて、テクストの語り/「雲井の家探し」は、虚実皮膜の間で(?)、独白/分読/群読へと多層化/多義化/曖昧化していく。
 この調子で最後までいくのかなと思ったら、後半はもっぱら暁子猫のテクストの語りで続いていったが、これは、どこかで何かでまた中断されるのかなというこちらのかすかな期待を見透かしたかの、裏切りだったのかな(未確認で答えは定かではありません)。

 という次第で、今回も「何、これ?」と思われたのだろう観客の皆さんは、それで顔を背けるというのでなく、むしろ頭を突っ込まされてしまわれたか、ポスト・シアター・トークにもほぼ全員残って下さったし、その後のロビーでの会話も尽きず、TIFの市村さんに「明日の公演もあるのでそろそろお帰りください」と言われてしまって…。
 イェリネクって、けっこう面白いでしょ、ということで、この劇評も切りがなくなりそうなので、この辺りでお開きにさせていただきます。翻訳もいろいろ出ますので、他の演劇人のかたもさらなるチャレンジを! とは、蛇足です。

2007年03月04日

熊倉敬聡(慶應義塾大学教授) 『雲。家。』


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(C)松嶋浩平

 イェリネクのテキストが演出家からファイル添付で送られてきた。18ページ。プリントアウトして、読む。ヘルダーリン、ヘーゲル、クライスト、ハイデガー・・・。それら抜粋された言葉たちが、イェリネク自身の言葉に織り込まれ、存在の存在への開かれ、探究が、ドイツ精神=国家の建立に向け讃えられる強烈な謳歌を編み出していく。こんなものを、はたして、現在の日本の人々に投げかけて、理解されるのだろうか?という素朴な疑問。Port Bは、今回、どう料理するのだろう?という不安まじりの期待。

 18世紀から19世紀、さらには20世紀に入ってまでも、ヨーロッパのある種の思想家・芸術家たちは、各々の方法で、この存在の存在への開かれを探究した。たとえば、私が昔研究していたステファヌ・マラルメも、その探究を最も深くまで推し進めた一人だった。彼の場合、詩を、言語が言語へと開き、言語の生まれくる本源を明かすものとして究めていったが、その自己言及的な過程で、言語が解体するとともに、それを発話する「自己」とそれが表象していた「世界」も解体していき、狂気の淵へと限りなく接近しながら、辛うじて宇宙を生成しているダイアグラム(彼はそれを大文字の〈音楽〉と呼んだ)を観じつづけていた。そして、生涯、そのダイアグラム=〈音楽〉を要約しうる一冊の(大文字の)〈書物〉を書こうとした。

 上記の「ドイツ」の作家たちも、大なり小なり同種の探究を推し進めたが、奇妙なのは、そうした探究が、大いなる〈家〉の、大いなる〈大地〉の獲得・建立へと歌い上げられ、挙句の果ては、「ゲルマン帝国」あるいは「ドイツ国家」の希求へと高揚していってしまう点だ。少なくとも、イェリネクの毒は、その高揚を意図的に増幅している。存在が存在へと開かれていく先に辛うじて見出される〈大地〉、その探究の精神的強度を倒錯的に閑却し、字義通りの「大地」=「帝国」へと読みかえってしまったのが、もちろんナチズムである。「わたしたち」が「わたしたち」の「大地」に「家」にいるために、「わたしたち」以外の人間たち=「彼ら」を文字通りに蹴散らし、抹殺しなくてはならない。芸術というメタファーを理解できなかった無能者たちの、あまりの腹いせ。

 Port Bもまた、ある意味、イェリネクの毒により読み替え・書き換えられたテキストを、字義通りに用いようとする。ただし、ナチズムとは逆の利用法だ。彼らは、字義通り性を、現代の日本の現実に接続し、「美しい日本」の只中に響き渡らせる。アジアの様々な国から来た留学生の口から直接発せられる「わたしたち」とは、いったい誰なのか?そして、「彼ら」とは?何重にも交錯する排除の構造が、劇的空間を困却させ、豊かにしていく。A級をはじめ多くの戦犯が裁かれ、処刑された「巣鴨プリズン」。その跡地に建てられた(当時東洋一高いと謳われた)「サンシャイン60」。しかし、その地でインタビューされたほとんどの若者たちは、その事実を知らない。国民的記憶喪失か。いや、記憶喪失による「国民」の創出か。いまや「ドイツ」となった地で、昔訪れたダッハウ強制収容所跡を思い出す。抜けるように青い空の下に広がっていた、広大な記憶の露出。記念碑とは、歴史的記憶の深みを辛うじてこの地に明かす痕跡だとすれば、サンシャイン60は、まさに負の記念碑ではないだろうか?

 それにしても、最初から最後までひたすらイェリネクの(ヘルダーリンの、ヘーゲルの?)テキストを読み上げる女性パフォーマーの存在感は圧倒的だ。荘重に空間を満たしていく「わたしたち」「大地」「家」「民族」「帝国」の賛歌は、しかし、その〈声〉のパフォーマティヴな強度ゆえに、字義通りの意味を存在論的な倍音により揺さぶり、もう一つの〈大地〉、もう一つの〈家〉、もう一つの〈わたしたち〉へと、連れ去っていく。〈声〉の力への陶酔が、存在の存在への開かれへと覚醒していく。

 マラルメの晩年の作品の一つに、「対決」という散文詩のようなテキストがある。そこで、マラルメは、人間と宇宙の秘密を蔵した〈書物〉の探究にまたもや夜を明かしてしまった「詩人」と、朝陽に向かいひたすら大地に穴を掘り続ける「労働者」との(非)関係を模索している。世界のダイアグラムに目覚めつづける「わたしたち」と、いまだ眠りつづける「彼ら」。しかし、彼らにも〈音楽〉は本来的に埋蔵されているがゆえに、千載一遇の機会にかすかながらも共鳴しあわないともかぎらない。「私の眼差は彼のに晴れ晴れと注がれて〔・・・〕一個の敬意を確認する。おお、握手がそこでは無言のうちに、見てとれるように」*。

 抹殺する代わりに、はたして握手に賭けることは可能なのか?


*『マラルメ全集U』筑摩書房、334ページ、豊崎光一訳。

2007年02月14日

『雲。家。』作品紹介


2001年のカンヌ映画祭グランプリ受賞作『ピアニスト』の原作者として、そして何よりも2004年のノーベル文学賞受賞者として知られる作家、エルフリーデ・イェリネク。彼女が1988年に発表した僅か40ページばかりの作品『雲。家。』は、通常の意味での「戯曲」からはかけ離れている。登場人物の指定や舞台設定への言及、また作中のト書きといった、いわゆる「戯曲」の特徴たる一切をこのテキストはもたない。ただ「わたしたち」という主語をもつ言葉が、24に区切られた断片をひとつまたひとつと紡ぎ出すだけである。

そこには「対話」もなければ「物語」もない。一貫した筋のようなものさえない。だが問題はその「わたしたち」の独言が扱う内容にある。それは人種差別、外国人排斥、自民族の優性の強調、隣国に対する侮蔑、郷土愛、愛国心、そして祖国のための死といった、かつてのファシズムか、あるいは今日の極右のアジビラを思わせるようなものを含んでいるのである。そして、例えばこれがたんに1988年の状況に対してイェリネクが突きつけた言葉であったなら、彼女による現代批判として片付けることも可能になるのだが、そのような身振りを許さない根深さをこの作品は秘めている。

この極右思想を連想させるテキストは、実はその大部分を高名な詩人や哲学者たちの言葉の引用、あるいは「使用」(部分的に言葉を変えること)によって織りなされている。近年殊に評価が高い詩人ヘルダーリンや、ドイツ観念論哲学を代表するフィヒテとヘーゲル、そして20世紀哲学最大の巨人ハイデッガー。ドイツ語圏の人間であれば誰もが偉人として認識しているであろう人物たちが、それぞれに祖国を思い、郷土を思って発した、美しく、思慮深く、そして心から誠実であったはずの言葉が、文脈を移され、またその中の一語を変えられて組み合わされただけで、全体として極右思想を思わせる文章になっているのである。希望として生み出されたものがここに悪霊として回帰する。『雲。家。』は当然右傾化に対する批判としても読めるが、さらに深いレベルにおいて問題となっているのは、こうして夢と悪夢が常に背中合わせにならざるをえない人間の言語と思想そのものだろう。

イェリネクは、この『雲。家。』によって1988年、ドイツの演劇専門誌『テアター・ホイテ』が選ぶ年間最優秀劇作家賞を受賞した。(彼女が同賞を受けたのはその時点ですでに二度目だったが、以後今日に至るまで、通算五度の受賞歴を数える。)従って『雲。家。』は、発表当初より極めて高く評価されていたと言ってよい。しかしより一般的な意味でこの作品が注目され、名声を得たのは、1994年にハンブルクでヨッシ・ヴィーラーが演出した際だった。日本でも二度(1997年/2005年)の演出歴をもつヴィーラーが舞台化した『雲。家。』は、その年のベルリン演劇祭に招待作品として出品され、1994年の年間最優秀演出に選ばれた。そしてのちにこの舞台はドイツ・フランスの合同出資で成り立つ教養専門チャンネルARTEによって独仏でテレビ放映され、その際には作家イェリネクとヴィーラーの『雲。家。』舞台化プロセスを紹介する30分の特集番組が合わせて制作されている。イェリネクの『雲。家。』は、テキストとして、また舞台として、極めて深刻で根深い問題を考えるきっかけを与えつつ、しかも専門家と一般の観客とを問わず最高の評価を受けてきた作品と言えよう。


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ノーベル賞作家 エルフリーデ・イェリネク Elfriede Jelinek


1946年オーストリア生まれ。ウィーン市立音楽院でオルガンや作曲を学ぶ。ウィーン大学では美術史と演劇学を専攻するが、不安障害のために1967年中退。その後一年間、完全に自宅に閉じこもり、この時期に創作を始める。作品の内外で社会の保守性や男性中心主義を糾弾し続ける姿勢のために政治家やマスコミから非難を浴びる一方、様々な文学賞・戯曲賞では極めて高く評価される。2004年、「社会の不条理さや強制的な力を、比類ない言語的情熱で暴露する小説や戯曲において、複数の声とそれに対置される複数の別の声によって音楽的な流れを生み出した」功績によりノーベル文学賞を受賞。


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演出ノート  高山明


『雲。家。』は、通常の意味での「戯曲」からはかけ離れている。いわゆる「戯曲」の特徴を何一つ持たず、ただ「わたしたち」という主語をもつ言葉が、24の断片を紡ぎ出していくだけである。そこで「わたしたち」が狂ったように追求するのは、「わたしたち」の「家」はどこにあるのかということ・・・ 母語はわたしたちの「家」になりうるのか。 身体は、民族は、国は、故郷は、歴史は、大地は、生は、死は、そして「わたしたち」自身はわたしたちの「家」になりうるのか。

こうして「わたしたちは眼を見開き、常にわたしたち"だけ"を探し求める」のだが、その途上で「わたしたち」は何を捏造し、何を排除するのか? その行く末に「わたしたち」は何を見出し、何になるのか?

『雲。家。』にあるこうした批判的問いかけをわたしたちに向けられたものとして受けとめ、「家」としての答えを追い求めず、敢えて問い続ける姿勢を共有することにこそ、"外国"での上演は不可能といわれる言説を逆手に取り、この戯曲を"外国語/日本語"で舞台化する可能性があるのではないか——


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Port B 高山明ロングインタビュー


演劇以外の活動に携わるアーティスト・職人・批評家らを中心に演劇的実験を繰り返し、「演劇とは何か」を問いつづけているPort B。今回の東京国際芸術祭では、「外国での上演は不可能」といわれるエルフリーデ・イェリネクの戯曲を日本初上演する。
Port Bの演出家・高山明は何者なのか? Port Bは何を企んでいるのか?
Port B出演者の暁子猫、ドラマトゥルクの林立騎とともに話を伺った。
(聞き手:TIFスタッフ宮崎・増田)


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ヨーロッパでの放浪生活
自分たちが素材にかきまわしてもらう
人に任せた方が絶対にいいものができる
東京でしか作れない演劇を作りたい
人が集まる場として演劇を機能させたい
お客さんに作っていってもらいたい


ヨーロッパでの放浪生活


宮崎:高山さんのプロフィールを拝見すると、20代のときに渡欧されて放浪生活をされていたと書かれてあります。どういういきさつでヨーロッパに渡ろうとされたのか、またそこでどのような経験をされたのかをお話いただけないでしょうか。

高山:最初に渡欧したきっかけというのは、実はドイツ語なんですよ。ドイツ語を勉強していて、僕が習っていた先生の紹介で、フライブルクという、スイスとフランスの国境ぐらいにある小さな学生の街に行きました。そこに行って、ドイツ語を勉強するためにとりあえず語学学校に入ったんです。フライブルク大学という結構優秀な大学があったから、そのまま大学に進んで、ドイツの哲学を勉強しようかなと思ってました。それが語学学校に入って3ヶ月後くらいに、たまたま街を歩いていたら、ピーター・ブルックの『妻を帽子と間違えた男』のポスターがあってですね。おもしろそうだなあと思って、シュトゥットガルトに行ってその舞台を観たんです。

そもそも演劇なんて大して関心がなかったんです。だけど、書くことがすごく好きで、戯曲を書いてたんですね。戯曲の形式みたいなものがすごく好きだったので、演劇ってどういうものなんだろうなとは思ってました。あと、日本にいたとき、ピーター・ブルックの「何もない空間」という本がすごくおもしろかったっていうのと、大学の授業で見せてもらっていた、タデウシュ・カントールの『死の教室』、それが僕にとっての「演劇」で、あとはあんまり興味なかったんです。

だけど、そのピーター・ブルックの芝居がすっごく良かったんです。本当に衝撃的でした。で、たまたまその晩に、ちょうどパリに行く予定を立てていて、夜行列車に乗ってパリに行ったんです。パリに着いて駅でふらふらしてたら、同じ電車に乗ってシュトゥットガルトからパリまで帰ってきてた人がいまして、それがブルックのところで役者やってるヨシ笈田さんだったんです。「あれ、あの人昨日舞台にいたな」と思って話しかけたんです。「すごくおもしろかった」とか。それでホテルまで一緒にタクシーに乗って、演劇の話をしました。演劇やってるのかと聞かれて、やってないけど戯曲は書いてる、いい機会だから見てくださいみたいなことを図々しく言って、あとから戯曲を送ったんですね。そしたら手紙をもらって、いまちょうどベルリンのシャウビューネ劇場で稽古してるから、もし興味があったら見に来ないかみたいなことが書いてあって、まあちょっと覗いてみるかな、みたいな感じでベルリンに行って、そこから足を踏み外したというか・・・。

その後はもう、語学学校も大学も一切行かないで演劇の世界に入っちゃったんですね。笈田さんがやってらしたシャウビューネでは、一本演劇を作るといろんな人が集まるので、そういう人たちとあまり当時できなかったドイツ語で話したりして、「こういう企画があるんだけど、覗いてみないか」と言われて行ったり。
今思うと、ドイツ語があまりにもできなかったから、逃げ場が欲しかったのかなという気もするんですけどね。ドイツの新聞を読むと、文化批評や文化欄の一番トップに演劇がくるんですよ。だから「演劇で結果が残せれば、ドイツ征服かな」みたいな感じで…。

一同:(笑)


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高山:ただ、あまりにも演劇のことを知らなかったから、それから3ヶ月半くらい、ヨーロッパ中の演劇を見て回ったんです。ベルリン各都市、ドイツ、フランス、スイス、イタリア、イギリスに行って、フライブルクのアパートにもほとんど帰らずに年間400本くらい観ましたね。演劇祭に行けば、一日3本、4本観れるから、そういうのを観て、照明や音響の仕組みなどをノートをとって勉強しました。そのうちに、「これは結構簡単に作れそうだな」と思ったんですね。

それで、皆に「自分は演出家なんだけど、演出させてもらえないか」と嘘を言ってまわったんですけど、なかなかやらせてもらえない。しょうがないから、たまたま学生劇団で演出家が問題起こして辞めちゃったというところがあって、そこでマックス・フリッシュの『ドン・ファンあるいは幾何学の愛』を演出することになったんです。それが登場人物が15人くらいいる大変な劇で、ものすごく難しかったですね。それがうまくいってたらまた別の展開があったのかもしれないんですけど、うまくいかなかったんですよね。簡単にできると思ってたのが、実は難しくて、下手すると舞台がめちゃくちゃになるんだ、というのを肌で感じました。本当に恥ずかしくて、穴があったら入りたいというのはこういうことだと思いましたね。でもお客さんの中で、部分的に面白いと思ってくれた人がいて、次の仕事が入ってきたんです。「次はうまくいくだろう」と思ってやる。ちょっとましになった。そうやって何となく繋がっていったんですね。僕が良かったのが、フライブルグという小さな学生ばっかりの街にいたことですね。勢いだけで何とかなっちゃうところもあるし、街の演劇人とか、わりとみんな知り合いになっちゃう。いい場所でやらせてもらっていたこともあって、結構お客さんは満員でした。これがベルリンだったらたぶんダメだったと思いますね。

それで1年半くらいやったんですけど、さすがに限界を感じたんですね。これは真面目に勉強しないとダメだなと思いました。勉強していないと、同じことを繰り返すしか出来なくなっちゃうんですね。新しいことがなかなかできない。失敗したくないという変な根性もついて、毎回同じような舞台作っていたんですね。

その頃に大きな出会いがあって、当時会った、ハンブルクのドキュメンタリーの映画監督から本が送られてきたんです。その本をちょうど開けるか開けないかの時に、また郵便が来たんですね。同じ日に2つの郵便物があったんです。映画監督から送られてきたのが、ベンヤミンの「ベルリンの幼年時代」。もう1つは、京都にいる僕の友人から送られてきた「『ベルリンの幼年時代』を読む」という修士論文だったんです。それが同じ日に来たんです。お互い全く知らない人から。それで「これはたぶん読まなくちゃいけないんじゃないだろうか」と思って読んだら、それが僕にとってすっごくおもしろかった。

年間400本とか芝居を観ても、自分が本当におもしろいと思えるものってそんなにないんですね。それは僕の語学力とか、演劇を観る力のなさに関係しているのかもしれないけど、自分の正直な感覚はなかなかごまかせない。「あんまりおもしろくないなあ」とか思いながら観てたし、自分が作るものもおもしろくない。

だけど、その本を読んでいたら、こういう演劇だったら作ってもいいなと思ったんです。「ベルリンの幼年時代」というのは、ベンヤミンが幼少時代にすごしたベルリンのことを個人的なものとして書いているんだけど、その個人的なものが社会につながっている、あるいは時代を映す鏡になっている。しかも構成が僕にとってすごく魅力的で、コラージュなんですね。断片を自分で組合わせて積み木を作っていくような本の読み方ができた。そういえば、最初に衝撃を受けたピーター・ブルックの『妻を帽子と間違えた男』も、積み木細工みたいなものだったんじゃないかと思ったんです。それで、僕の中で演劇をやり続ける動機が見つかりました。


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それからまた演劇をやり続けるんですけど、それが難しくて。いろんなところに「演出させてくれ」と100本くらい手紙を書いたけど、ほとんどダメでした。でも1つだけ、子ども劇場から返事が来たんです。すごくいい劇場で、やってもいいなと思ったんだけど、面接で落ちちゃった。
それが不思議な面接で、ある日「来い」って言われて行ったら、そこに役者が全員揃っていて、舞台の上に乗せられて「何か喋れ」と言われたんです。実はちょうどその前の晩に、大衆の前で死刑になる夢を見まして。その夢というのが、台に上がっていったら死刑執行人がいて、僕の首に縄をかけるんですよ。そしてその人が「旅先では、手紙を書けよ」と一言言う。それで綱をものすごい上げられて、でも全然苦しくないので「あれ、これ抜けられるんじゃないかな?」と思って縄を抜いて、30メートルくらい上から落ちて、着地するとそこは舞台なんです。で、大観衆が拍手喝さいしてるという夢でした。「これはいい夢みたなあ」と思ってたらそれは正夢で、その翌日に正に舞台に立たされていたわけです。で、その夢の話をしたら、見事に落ちた。

一同:(笑)

高山:それで行くところがなくなっちゃって、演劇もダメだな、自分は何も作れないんだなという感じになった時期がありまして…労働ビザもとれなかったし、全然行ってなかった大学からも電話がかかってきて、「テストを受けなかったら、もう退学だ」と言われて。嫌で嫌でしょうがなかったけど、ビザの問題もあったからテストを受けて…。

そのとき、何か変な病気にかかっちゃったんです。まず眠れない。それから精神的なものだと思うんですけど、喘息。たぶん寝てないからだと思うんですけど、妄想まで出てきて。幻覚、幻聴がすごかったんです。そこらじゅうにいろんなものが見えるし、いろんなものが聞こえるし、電車なんかに乗ってられない。たとえばリンゴの袋なんか持った人見ると、爆弾持ってるんじゃないかなんて思い込んだりね。体重は減っちゃうし、栄養失調みたいになっちゃうし。

それで何かのきっかけでパリに行って、ホテルに泊まったら、外に出られなくなっちゃったんです。妄想がひどくて、幽霊もいっぱい見ました。すごく苦しかったですね。ホテルに窓があるんですけど、ちょっとでも動いたらそこから飛び降りちゃうって思い込みがあって、動きがとれなくなっちゃったんですね。でも、ある時とにかく窓開けてみようと思って、パッと窓開けたんですね。
そしたら日の出がもうすぐという時間で、窓の下に修道院みたいなのがあるんですよ。その屋根が八角形で、何となく丸いんですよ。その丸いところに日の光が少しずつ当たっていく。壁を見ていると「あ、これは壁だ」という感じがある。自分が立っている目の前に窓枠があって、その窓枠を見ていると「あ、これは窓枠だ…」という感じがある。自分の妄想や幻覚・幻聴の強度よりも、そういう「ものの強度」というのをすごく感じました。「そこにものがある」ということが、自分の幻覚や幻聴の強度よりもはるかにすごかった。何かある種の神秘体験みたいな感じでしたね。

たとえば演劇でストーリーとか、物語の豊かさとか演技だとか、そんなものよりは、そこにただあるものを出現させる。普段はベールに覆われて見えないんだけど、そのベールを取り払って「あ、コップがある」とかそういうことの強度というものを演劇で探りたいなあと思ったんです。

僕らの演劇はよく動きがないとか身体性がないとか言われるんだけど、そこに何かある、人がいる、時間がある、そういう感覚を舞台上に出したいなと思いました。それは僕の中で、『妻を帽子と間違えた男』や「ベルリンの幼年時代」、それから後にすごく影響を受けることになるグリューバーの舞台における「声」や、マルターラーの舞台における「時間」ともすごくつながっていて、そういう体験を舞台上でちょっとでも実現させることができれば、ああこれは演劇やっていてもいいかな、という感じがしたんですね。

ただ、自分だけで続けるのは無理があるなと思って、演出助手になりました。もうかなり歳の人だったんですけど、すごくキャリアのあるパリの演出家がいまして、そのドイツ人について勉強させてもらったんですね。で、大きな劇場でオペラやったりしたんですけど、そうすると「あ、なるほど演出ってこうやるのか」とかわかってきました。そこで自分の課題として思っていたのが、テクニックとか方法をそのまま真似るのは絶対やめようと思ってたんです。何がおもしろくないのかとか、どういうことに自分が不満を感じるのかということ注意してみようかなと思って、ノートにいっぱい書き出してた。でも、ずっと演出助手やってると、さすがに飽きてきちゃうんですね。それで自分で作ってみようと思って作ると、不思議なことにその演出家と同じようなものしかできない。もう発想からして完全にコピーなんですよ。テキスト読んだ瞬間に、こういう形で舞台にしようっていうイメージが完全に先生の色に染められてる。しかも本人よりも出来が悪い。いつの間にかにものすごく吸収しちゃったんでしょうね。逆にそれくらいやらないと学べないのかもしれないんですけどね。でもとにかくそれが辛くて、もうその人のところで演出助手をやるのは辞めようと思いました。

その後、これまで自分が書き溜めていた問題を整理しないとどうにもならないと思って、戯曲を書いてみようと思ったんです。おもしろくなるための方法みたいなノートはいっぱいあるので、それを全部ぶちこんだ戯曲を、大体二週間くらいで書いちゃったんですね。
そしたらまた新しい展開があって、それを笈田さんのところに送ったら、プロデューサーを紹介されて、そのプロデューサーから連絡があってロンドンでやろうとかいう話になりました。結局それは断っておじゃんになっちゃったんですけど、そのプロセスの中で、「あ、これはもしかしたらまたやっていけるかな」みたいな感じが湧いてきたんですね。

その後しばらくドイツにいたんですけど、なかなか労働ビザとれなくて、パリに引っ越そうかなと思ったんです。先生がもともと主にフランスで活動していた人だし、そっちに行こうと思って、荷物を全部パリの友人宅に送ったんですね。それで、一時帰国のつもりで日本に帰ったんです。そしたらそのまま日本に居着いちゃった。あの荷物はたぶん全部とられたんじゃないかなあ。


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自分たちが素材にかきまわしてもらう


宮崎:それからはずっと日本で活動をされているんですよね。

高山:そうですね。ドイツにいたのは通算5年くらいかな。帰国したのは98年くらいだったんだけど、それでゼロの状態に戻ったような気がしました。でも、ゼロからでも全然できるなという感触をすごく強く持ったんですね。それはたぶん戯曲を書いたせいだと思います。逆に、何もないところからいろいろやっていこうと思えました。で、最初シアターXで俳優ワークショップをしばらくやって、ついてきてくれた人たちと2002年にPortBを結成したんですね。

ワークショップをやると、最初はいっぱい人が来るんですよ。だけど、だんだん「いつ舞台に立てるのか」という話になってくる。これは日本の演劇事情にも通じるところがあるんだけど、俳優の問題というのは結構大きいですね。彼らはあまり時間がないんですよ。舞台に立つことが次の仕事につながっていくから、すぐにでも舞台に立ちたい。だから1つの舞台を長い時間をかけて作っていくというのがなかなか難しい。テレビや映画に興味のある人も多かったし、舞台に立つのが1年、2年先ということになると、あまり残らないですね。やってることもかなり特殊だったし。それでPortBを結成するときに思ったのが、いわゆる「俳優」じゃなくて、一緒にプロセスを共有してくれるような人と、プロだろうが素人だろうが関係なくやっていこうかなということでした。そうしたら、残ってくれた人が特殊技能を持ってる人だったんですね。映像だとか、音楽だとか。彼女(暁子猫)ももともと歌手だったし。

最初から「Port Bとしてこういう活動をしたい」というのではなくて、与えられた状況、あるいは与えられた枠組み、予算的な条件に合わせて、こういう中で何ができるだろう?と考えていくのが、僕にとってはすごく良かった。
思い通りのことなんて出来るはずがないんです。役者にこうして欲しいと思っても、全然違う答えしか返ってこない。こういうことをしたいなと思っても、予算的には全然出来ない。そういう、普通だったら足かせと感じるようなことがすごく新鮮だったし、おもしろかった。
その中でいろいろ工夫すると、自分がイメージしていたもの、こうしたいと思っていたものよりも、上手くいった場合に、もっともっとおもしろいものが出来るんだなという発見をさせてもらって。これはもう、この方向でいこうと思いましたね。上手くいかない、不自由な状況を逆手にとるような方向でいこうと。

よく「演出」というと、全部知ってて、皆に指示を出してという、教える立場みたいに思われるけど、そうじゃなくて、たぶん状況の中で一番最初にかきまわされる側じゃないと、やっててもおもしろくないんですよ。たぶんかつて僕が同じことの繰り返しになっちゃったというのは、僕のイメージみたいなものを、誰かにやらせるとか、何かを使って実現しようとしていたから。そうなると、個人の力なんてたかが知れてるから、同じことの繰り返しになってしまう。そうじゃなくて、役者さんとか状況とかドラマトゥルクが、僕を組み立てる。僕がかきまわされて毎回違う形で演劇を作って、それが舞台に反映される。だから今は「ネタが尽きる」とかいうことは全然ないですね。やればやるほど違うものが出てくる。素材が違うので当然違うものが出てくる。ただそれを最終的にまとめなくちゃいけないので、そこでちょっとした個性が出てくるのかもしれませんね。

枠組みとか状況とかすべてひっくるめて、自分たちがかきまわされている。毎回新しい発見があるし、「こんなの出来ちゃったぞ」という感じがありますね。この間の『一方通行路』もそうなんですけど、最初からああいう企画をしようとは思ってなかったんですよ。街を歩いていて、この店おもしろいな、いいな、そういう風に自分たちのほうが刺激を受ける受容体みたいになる。そうすると、街を見てそれを自分で組み立てていくんじゃなく、街から自分たちが組み立てられたという感覚になる。そうすると、そんなに悪いものにならないし、わりとおもしろくなるんじゃないかなと考えているんです。


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『ホラティ人』(c)Yuichiro Tanaka


宮崎:暁子猫さんと林さんは、どういういきさつでPortBに関わることになったのでしょうか?

高山:まず彼女は、前に劇団みたいなのに関わっていたときがあって僕もたまたまそこに関わって、出会ったんですよね。僕がちょうどドイツから帰ってきてちょっとしてからだったかな。

暁子:そう。確か一時帰国暮らしのときかな。私は大学時代からなんとなく演劇との関わりがあって、当時は興味があった歌の活動を中心にしていたんですが。98年くらいかな。

高山:ドラマトゥルクの林さんの場合は、僕らが『ホラテイ人』というのをやっていたときに、たまたま当時いろいろと協力してくれていた平田さんという慶応の人に、僕がドイツ語のできる人が欲しいって言ってたら、林さんを紹介してくれたんです。最初は、彼はパフォーマーだったんです。

そうしたらね、やっぱり彼は相当できる人で、もちろんドイツ語もできるんだけど、それ以外のほうが演劇には結構重要だったりするんですよね。
ドラマトゥルクというのはとても誤解されてて、たとえば翻訳者なんて思われていたりするけれど、翻訳者は他にちゃんといて、それでドラマトゥルクがいるっていうのが普通なんですよ。どういう仕事をやるのかというのも曖昧でね、僕はなんとなくドラマトゥルクとかそういう仕事の経験も多少あるけれど、十人いれば十人なりにいろいろいるんです。それで僕が感じたものを「こういうのもありだよ」みたいな感じで林さんに伝えると、彼が勝手に自分でいろいろやってくれる。まだドラマトゥルクってもの自体確立されていないけれど、それを彼は活動のなかで、自分で作っている感じがあるから、そういう能力をもっている人こそドラマトゥルクなんですよね。そうじゃないと本当に務まらないし、型があってこの型の中で何かやるっていうことじゃないんです。彼はすごく向いていて、『ニーチェ』から本格的にドラマトゥルクをやってもらっています。


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『ニーチェ』


宮崎:林さんは、それまで演劇活動などはされてたんですか?

林:いやいや。いまだに劇場でお芝居みたのって10本ないくらいですよ。全く演劇とか関わりがなかったんですけど、もともと人から「こういうことしてみない?」って誘われると断るっていう習慣がなくて、最初に高山さんに声をかけてもらったときも、いきなりメールがきて、「出てください」と言われて、「じゃあ出ましょう」という感じでした。それで稽古場に行ったら、これはこの人たち面白いことやってるなって思ってびっくりして、すっごく急な参加だったんですけど、ついでだからと思って結構厚かましくちょこちょこ口出したりしてたんです。でも別に煙たがられることなく、そういうの受け入れてくれる態勢なんですよね。それで関わるようになっていきました。

まあドラマトゥルクといっても、ドイツでのドラマトゥルクの歴史的な意味も現代的な意味も、もともとそんなに詳しくないですし、日本で今どういうふうに受容されているかとか、どういうふうに求められてるかってことに関しても特に詳しくはないんですが、Port Bにおけるドラマトゥルクというのはどういうものであったらいいのかということは常に考えてます。

今のところ僕が考えてる一番おおまかな定義というのが、出来上がったものに関して責任を持つのは演出の高山さんなんですよ。でも出来上がらせるのは僕の責任。
Port Bって本当に沢山いろんな人がいて、もうしっちゃかめっちゃかなんです。高山さんがこれやれって言って、じゃあ皆がこれやりますというのじゃなくて、もう皆がいろんなアイディア出すし、これも出来るしあれも出来るとか、これがやりたいとかいっぱいでるんですよね。いろんな方向性にぶつかりあいが起こってる。
皆にはやりたいことをいっぱい言ってもらって、それを初日までにどうにかお客さんに観てもらうかたちに仕上げるのが僕の責任。でもお客さんに観てもらったものに関しての責任は高山さん、みたいな感じ。今はそうやって取り組んでます。

高山:例えばスケジュールについても、ここが今遅れてるとか、ここを詰めてかなきゃまずいよとか、そういうのを彼が全部チェックしてます。今日の稽古は僕ら3人ですけど、映像の人とかはまた別の活動してるわけですよ。今日もたぶん池袋とか行ってインタビューや映像を撮っているし。僕はそれに全然立ち会わないし、彼らは勝手に考えてやって、こういう成果が出たとかいってそれを持ってくるんですよ。そういう感じだから、全体の進行がどうなっているか、僕はわからないんですよね。それを彼は今、全部分かってる。

暁子:今回、「出演」となってるのは私ひとりだけなんです。でも今回は特に、すごくいろんな要素が多層的にある。

高山:ドラマトゥルクってきっとプロデューサーでもあるんですよ。各プロジェクトごとにその制作状況がいかにどういう状況でって判断していく、そして最終的な舞台の出来に関しても、こういうとこが弱いからあそこはちょっとまずいんじゃないかなあとか、わりと少し全体を引いて見渡してくれる。今回の公演はものすごく多様な要素があるので、ドラマトゥルクなしには絶対に成り立たない感じですね。


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『一方通行路 〜サルタヒコへの旅〜』(c)読売新聞


人に任せた方が絶対にいいものができる


増田:僕は前回の『一方通行路』のときにお手伝いさせてもらって、Port Bの中を見させてもらったんですが、内部でもすごく有機的に人が結びついてるっていうのが凄く印象にあります。それがPort Bを象徴する高山さんだったり、繋げている林さんだったり、もしくは看板女優の暁子さんだったり、もしくは誰に象徴されるかわからないけどいろんな人たちをまとめて「Port B」という感じは強いですね。わりと演劇とかアートとかでありがちなのが、アーティストが自分を中心としてやっていく集団だと思うんですが、Port Bは集団のありかたとしても独得というか変わっているなあと思います。

林:毎回作るときに、キャストというのかメンバーは10人程度なんですけど、途中のプロセスでもうその倍どころじゃない人に関わってもらってて、今回も本当にいろんな人と一緒にやってるんですよね。だから「僕らがつくってます」とか「僕らがアーティストです」というのではなくて、本当にPort Bというのはひとつの流動的な場所みたいなもので、そこに毎回いろんな人が集まって、結果として作品というのが閉じられたものじゃなくて、場所としての公演が生まれる、そしてお客さんがいてまたそこに場所が生まれる。そういう活動なんじゃないかと僕は思います。

高山:あと、人と人との結びつきというのはね、媒介がけっこう重要だと思うんですよ。集団のありかたとしてね。これが僕だったらだめなんですよ。物でもないし作品でもない・・・皆の間に何かがあって、それを通じてこの人と結びつくという感じ。人と人との間に空間がすこしあると、組織として集団として、あるいは人間関係として距離をとれますよね。ここで作るんだっていう皆の共通の理解というのもできるし、それはすごく大事じゃないかなって思ってます。
もちろん素材として『雲。家。』というテキストがあるんだけど、テキストと自分たちがやってることのその間くらいにPort Bがあるんじゃないかな。だから皆が何か関わってくれるんじゃないかと思います。中心になるのが結構空っぽなのが可能性みたいなところですね。それが個人になったりしないのが結構いいんですよね。大体どんな劇団とかでも中心が個人になっちゃうんですよ。あれはどうしてなんだろうね。

暁子:Port Bは「プロジェクト方式」だというのをプロフィールに書いていた時期もあったけど、一個一個でかなり新しいものに変わったりしています。ひとつひとつ、新しいプロジェクトにしっかり向かいあって・・・例えば今回だったら、私はこういうのやりたいからこういうふうにやってるとか、それに向かってすっごく調べたりする人もいるし、素材に対してそれぞれのアプローチをしていますね。

林:皆、職能というか専門があるんですけど、それでもその専門しかやらないというわけじゃない。専門を持ちつつ他のものに手をだしたりね。そうしながら公演ができあがっていくのを皆が楽しんでるんだと思う。もともとのフィールドにとどまっているんじゃなかなかできないようなことってすごくあって、皆が専門からちょっと出て、はみだしながらひとつのものを作っていくのはなかなか新鮮で。毎回皆新しいことをやってるんですよね。だから毎回面白いんだと思う。

増田:本当にプロセスを共有してるってかたちで実現してるから理想的ですよね。

暁子:演出がそういうのを固定してないからというのもありますね。

林:いや、それが一番大きいですね。演劇といえば、誰だって「演出家が中心になるものだ」って前提がありますよね。だから高山さんがたった一点の中心になるのではなくて、あえてそういうやり方をとってるからいいんじゃないかな。

暁子:演出というものがどういうものかというのを探りながらやっているだろうし、皆がそれぞれの仕事を作っていっているし、私自身も毎回これっていうのはなく、毎回作っているような感じですね。探りながら作っていって、それでなんかみんなが共有してって。

増田:そういう意味では特別なコラージュができあがっていってるんですね。

高山:それは自然にうまくいってます。人工的にやろうとすると失敗する。それは自分でもわかってます。運とか偶然というものが大事なんです。

宮崎:高山さんの発言を伺っていると、本当にそういうものに導かれていますよね。

高山:本当に大事だと思いますよ。何かね、良い作品を作りたいってあんまり強く思いすぎると、絶対コントロールしたくなるんですよ。そうじゃなくて、本当は人に任せたほうがいいんだよね。人に投げた方が絶対にいいものができる。そうしたら偶然とかいろいろ生まれてくるから、それが生きるんですよ。Port Bを始めてからは、そういう意味でちゃんと然るべき時に然るべき事件が起きたりだとか、ハプニングが起きたり偶然が起きたり出会いがあったり、ちゃんと機能していると感じますね。こちらがそれを排除しないで、それに流されてればいいかという態勢になっていれば、マンネリに陥ることもなくできていくんじゃないかなって気はしますけどね。


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『Museum: Zero Hour J.L.ボルヘスと都市の記憶』


宮崎:PortBの公演をみると、一方で高島平や隅田川をフィールドワークしてつくった舞台や、11月に大好評を博した巣鴨地蔵通りでの“ツアー・パフォーマンス”『一方通行路』のような作品があり、一方でブレヒトやハイナー・ミュラーの「演劇(的)テキスト」に取り組んだ舞台があります。なぜ、非常に対照的なこの2つ方向性に並行して取り組んでいるのでしょうか?

高山:それは偶然という要素が強いですね。『一方通行路』にしても、『隅田川』をやる時に、たまたま猿田彦の本を参考で読んだんですよ。読んだ瞬間に、「これは街歩きのパフォーマンスだな」という感じを持って始めたんですね。最初に直感のようなものがあって、それをフォローしていくと作品ができちゃう。だから今、形として一応二つに分かれているけれど、どっちにしても僕が「こういう路線を作りたい」というよりは、何か出会いみたいなもの、その出会いに対する反応が、一個は前衛的な舞台、もう一個が街の中でのインスタレーションみたいなことをやるということになってますね。

暁子猫:結果的にこういう形になってきたというか、最初からこういう風にいくと決めてたわけでは全然ないですね。

林:やっぱり、僕らは素材を「支配する」というよりは僕らの方が影響を受けてかきまわされるというのが好きなんです。そう考えたとき、「街」もいわゆる「難解なテキスト」も、僕らの力じゃどうにも支配できない。いろんな刺激を受けて、僕らが思ってもみなかったようなものが立ち上がってくるという部分があるんじゃないかな。だから偶然のようで、僕らの基本的な考え方が反映されているのかもしれない、という気もしますね。

暁子猫:最初に『Museum: Zero Hour J.L.ボルヘスと都市の記憶』をやったときに、「ボルヘスをやろう」ということは決まっていたんですけど、それをどういう風にやるかはわからない。それが、急に「高島平だ」ということになって。私は行ったこともなかったんですけど、「高島平をぶつけたらおもしろいことになるんじゃないか」ということで、フィールドワークをすることになったんです。

高山:ボルヘスをやるときにも、なぜボルヘスなのかという理由はあまりなくて、ただ夢を見ただけなんですね。ある日夢におじいさんが出てきて、「次は何をするんだ」と聞かれたんです。僕は夢の中で「ボルヘスをやる」って答えたんです。今までそんなことは全然考えたこともなかったんですけど。それで目が覚めて、「あれ、じゃあ次はボルヘスかな」みたいな感じで・・・。

一同:(笑)


東京でしか作れない演劇を作りたい


高山:たぶん、高島平というのが何で思いついたかというと、ルネ・ポレシュという演出家がいて、彼が日本に来たら、東京を案内するという約束をしていたんですよ。どこを案内しようかなと考えていたんですけど、あまり思いつかない。自分は東京で演劇を作っていながら、あんまりそういう意識はないんだなと感じましたね。逆に東京でしか作れない演劇みたいなものを、どれだけ意識して作っているんだろうと思うと、全然ないなと自分で思ったんです。それでボルヘスに高島平をぶつけようと思ったんですね。何で高島平なのかはよくわからないし、忘れちゃったんだけど。

でもPort Bの活動は、僕がドイツで勉強していたこともあってドイツ的と思われているかもしれないけど、僕の気持ちとしては日本でしか、あるいは東京でしか作れないような演劇を作りたいという気持ちはすごく強い。逆にドイツの状況はある程度わかるので、ドイツだったらもっと上手くできるというようなものがいっぱいあるんです。これは一番のネックなんですけど、日本の現代演劇の状況は貧しいんです。これはお金的にもそうだし、もしかしたら人材的にもそうかもしれない。でも、だからこそ出来ることがあると僕は思ってます。J演劇…ジャンク演劇ですよね、僕はそういう言葉で括るのはあまり好きじゃないけれど、でもあれは一面ではすごく真理を突いてるなと思っていて、感心するところもあります。日本でやっている以上、ジャンクじゃなきゃ絶対ダメだぞ、というのは僕もすごく共感しています。でもその出し方みたいなのはだいぶ人によって違うし、その出し方を「ゆるいシーン」とか「だらだらした感じ」とか、そういう風に一元化してほしくない。だけど、その根本的なコンセプト自体は賛成してます。


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『一方通行路 〜サルタヒコへの旅〜』


宮崎:日本において、演劇が「ジャンクでしかありえない」というのはどういうことでしょうか?

高山:そうですね・・・、たとえば制作面で言うと、「いい舞台」と言われるもので、ドイツの劇場から日本にくるものはお金がかかっているように見えるし、実際すごくお金がかかっているんですね。それと同じ土俵で作ってもね・・・。それから彼らには教育システムがあって、公共劇場や私立劇場に入る役者は限られている。そういう役者が朝9時から17時まで稽古して、ほぼ毎晩公演がある。そういうのを繰り返していたら上手くなるんですよ。そういう、本当のプロの俳優というのが学校で作られて、劇場に入ってからもどんどん成長していく。しかも演出家が次から次へと交代して、どんどん新しい役をふられて、3ヶ月に1本は新しいものをやる。それはやっぱり役者は育ちますよ。しかも1回作って終わりじゃなくて、レパートリーシステムだから何回も繰り返し出来るわけですよ。悪い面もあるんだろうけど、「製品を作る」という意味では、日本に比べたらかなりいい環境です。日本の場合はなかなかそうはいかない。それを真似して、ジャンクじゃないものを作ろうとしたら、たぶんヨーロッパというかドイツには絶対かなわないと思う。100年経ってやっと追いつけるかなと思うけど、その時はやっぱり向こうも進んでるだろうから、たぶんいつまで経っても追いつけないですね。

でも全く発想を変えると、彼らが豊かだからこそ見えないものというのがきっとある。たとえばチェルフィッチュのような身体だとか、あれも一つの方法だと思うんですよ。

僕らの場合は「リサイクル」みたいな感じで、あるものを全然違うものと組合わせると、日常とまったく違う姿を見せてくれる。身体だとか、声だとか、たとえば街もそうだと思うんです。巣鴨の商店街はいわゆる「綺麗な街」という感じでもないし、商店街なんて普段見慣れてるように見える街が、ちょっと仕掛けを作って、多少能動的にお客さんが動くようにすると、街が化けてくれる。それを化かしているのはお客さんなんですよ。そういう枠組みさえ作れば、パリやウィーンみたいな美しい街には全然追いつけないけど、ああいう巣鴨の商店街でも、演劇的にすごくおもしろいものに化けさせることができるぞというところで、ジャンクという言葉を使いたいなと思います。それは舞台でも同じだと思うんですね。舞台装置にしても、役者の身体にしても、声にしても、全然向こうの人と違う環境で、東京でしか生まれないものを作れるんじゃないかな。


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『一方通行路 〜サルタヒコへの旅〜』(c)読売新聞


人が集まる場として演劇を機能させたい


宮崎:今のお話と関連しているかわからないんですが、以前に高山さんが仰っていたことで、非常に印象深かったのが、「自分は一個の完成した作品として観るなら、演劇よりも映画の方が好きだ」ということです。

高山:それは大事なことなんです。この間の『一方通行路』のようなパフォーマンスなんですけど、よく街頭パフォーマンスというと、パフォーマーがパフォーマンスをしているところをお客さんが観るだけですよね。それはただ場所を外に移しただけであって、やっていることは全然変わらないじゃないかと思うんですね。だったら劇場でやればと僕なんかは思います。だとしたら、お客さんの参加によってがらっと変わる、お客さんに喋ってもらったりとか、お客さんが見る、聞く、歩くというのが演劇の実質になるような体験って、もしかしたら普通の演劇を観ているときでも、起こっていることなんじゃないかと思うんですね。というのは舞台上の作品が完結したものとしてあるんじゃなくて、それをお客さんがその場でしかも同じ時間を共有して体験するというのが演劇の特殊性だと思うんですね。映画だったら同じフィルムを世界各国で見られる。それは撮られた過去だと思うんですよね。それが演劇の場合、生身の身体がそこにいたりだとか、いろいろあるわけですね。

演劇というものはかなり古いと思うんですよ。これだけインターネットが発達していて、いまロンドンやニューヨークで何が起こっているのかリアルタイムで観れる時代に、わざわざ同じひとつの場所に足を運んで、いなくちゃいけない。しかも動けない。それってかなり時代遅れの形式じゃないかなと思うんだけど、逆にそこに可能性が在るんじゃないかなと思います。いまインターネットなどを見ててたまに思うのは、近い人と、すごく遠くの人しかいないんじゃないかな。たとえばmixiとかですごく近くの友達とコミュニケーションして、それ以外見ない。あるいは、ニューヨークとかものすごく遠くの街が好きだけど、逆に近くものに対して関心が薄いとか。裏を返すと、ベルリンは素晴らしいといったって、ベルリンに住んだら素晴らしいことばっかりじゃないわけです。隣の人の足音がうるさいとか、いろいろある。だけどインターネットだとそういうことは感じないですよね。そういう距離感が狂った世界に僕たちは生きてるなと思います。僕はそういう距離感を大事にしたいなと最近思っています。

すごく近い身内でもないし、すごく遠い人でもないし、わりと近いんだけど身内じゃない人が集まるような場として演劇を機能させられたらと思うんですね。インターネットの世界とは違った距離感覚、肌が触れ合わないんだけどわりと近くにいるというところで、どういう共同体、集団が生まれるのかなというのは、これからの演劇活動で大事にしていきたいところですね。

だからお客さんってすごく大事なんです。『一方通行路』はそういう意味で、お客さんと一対一でコミュニケーションできる貴重な機会でした。本当はお客さんって一人一人考えていることも違うし、みんな違うはずなんだけど、つい演劇を作っていると「お客さん」って集団で捉えてしまう。それが嫌で、「作品」があって「お客さん」がいて、という変な二項対立を崩したいなというのがありますね。


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『Re:Re:Re:place 〜隅田川と古隅田川の行方(不明)〜』(c)Yuichiro Tanaka


宮崎:もうひとつ、印象に残ったことがありまして、これもまた以前に高山さんが仰っていた、「橋がかかりそうでかからないところに演劇の可能性を見る」という言葉です。それは今回の作品にも関係していますか?

高山:関係しそうですね。今回の『雲。家。』のキャッチコピーとして「ポルト・ビー、”翻訳”不可能性の溝に挑む」というのがメインパンフレットに書いてあるんですけど、僕は本当は「ポルト・ビー、”翻訳”不可能性の溝にはまる」としたかった。

一同:(笑)

高山:普通「溝」というと、そこに橋をかけるとか、つなぐとかが多いんだけれど、僕らPort Bが意図していることはそれとはちょっと違っていて、「溝」があったらその「溝」に「はまる」という方が合っているんですよ。

たとえばヘルダーリンという詩人がいて、彼は詩人としてだけでなく翻訳家としても非常に評価が高かった人なんです。当時の文脈で言うと、ヘルダーリンがギリシャ悲劇をドイツ語に訳したものは、ドイツ語としてはめちゃくちゃで、構文も変で、僕なんかいまだに読めない。でもそれをベンヤミンはすごく高く評価したんです、ドイツ語の新しい可能性を開いたって。それを知って、なるほどなあと思いました。
普通、翻訳という作業は、ドイツ語を日本語の文脈に移していかに美しい日本語にするか、あるいは日本語らしい表現にするかということが評価の基準になりますよね。でもそういう翻訳だけじゃなくて、逆に日本語をドイツ語の文脈に移すことによって、今までの日本語になかった表現に生まれ変わらせることになるし、きっとベクトルが逆になると思うんですね。

素材のほうに僕らがかきまわしてもらうっていう僕らの創作姿勢と同じように、ドイツ語に日本語をかきまわしてもらうほうが生産的かなあと。そういう意味で溝を上手く接合したりつないだりっていうよりは、溝に「はまる」。溝にはまったら、なにか出てくるかもしれない。そっちのほうがたぶんやってておもしろい。


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『シアターX・ブレヒト的ブレヒト演劇祭における10月1日/2日の約1時間20分』


宮崎:この『雲。家。』という戯曲は、チラシの記載によれば外国人排斥や愛国心といったテーマを扱っているとのことですが、今回このテキストを舞台化しようと決断なさったのは、日本を含む世界各国で若者を中心とした右傾化が進んでいるといわれる状況や、あるいは日本におけるさきの教育基本法改正と密接なつながりがあるのでしょうか?また、今回の作品の中でもそういった政治的な問題がクローズアップされることになるのでしょうか?

高山:たぶんそういう問題はすごくあるんですが、僕らのスタンスとしては政治的な問題をいわゆる大文字の問題としては扱いたくないということがあるんです。例えば演劇体験というものを、これは演劇じゃなきゃ体験できないというものにするためには、大文字の政治で「こういう問題を扱っています」ってお客さんに伝えるだけで終わっちゃったら勿体無いと思うんです。それだったら論文を書けばいいし、それだったら僕だって社会運動を仕事にします。

そうじゃなくて、僕らはあくまで演劇を通して何かをやっていかなくちゃいけないと思うし、演劇をどういうふうに利用するかというのは、本当に真剣に考えていかなくてはいけないと思います。僕が一番安直だと思うのは、社会的な問題をテーマにしてそういう舞台を作って、「これが問題です」で終わったら、たぶん何も変わらないんじゃないかなと思うんですよね。

たとえば今の日本人という言葉で表現するとしたら、日本人から見たら、アメリカ人とかヨーロッパとかアフリカ人とかのほうが、まだ僕らも寛容だと思うんですよ。逆にやっぱり関係が難しいのが隣の国、例えば中国だとか韓国だとか北朝鮮、あるいはもろもろのアジアの国だと思うんです。実際問題になっているのはアジアの国との関係の方じゃないでしょうか。

じゃあそういう人たち、そんなに遠くはないんだけれども身内ではない人たちと、こういう戯曲やこういう製作の場を使ってコミュニケーションをとるほうが、ここで作品として政治的な問題をアピールするよりも重要なことなんじゃないかなと思います。実際、若者はひとりひとり差があるわけですが、今回はそういう人たちにも何人か実際に来てもらって、「どういうこと考えてるの」とかそういう話し合いを持つ、演劇ってそういう場として機能する余地がどうやらまだあるみたいなんですよね。

だからそういうものとして利用する気持ちはすごく強くあって、そういうのが小さい意味での政治じゃないかって僕は思うんです。できるだけ大きな物語としての政治に回収されないようなかたちで、最終的に見えなくてもいいから、途中のプロセスでそういう政治的な問題をちゃんと扱っていく活動ができたらいいなと思いますね。そういうプロセスが全然無いまま、最終的な舞台で政治的な問題を扱っても僕は全く無意味だと思うし、それだったら社会運動をしたほうがいいと思います。


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お客さんに作っていってもらいたい


宮崎:PortBのこれまでの公演をみると、高島平や隅田川をフィールドワークしてつくった舞台や、11月に大好評を博した巣鴨地蔵通りでの“ツアー・パフォーマンス”『一方通行路』のような、とても親しみやすく身近な作品がある一方で、非常に前衛的で難解なテキストに取り組んだ『ホラティ人』や『ニーチェ』のような舞台があることがわかります。今回の『雲。家。』は明らかに後者に属しているようで、チラシを拝読してもかなり難解な作品になるのではないかという印象を強く受けます。
そうしたときに、たとえば『一方通行路』のような企画には気軽に参加してくれたお客さんが、今回は観に行っても難しくてわからないかもしれないと考えて、行こうか迷っていることもあるかもしれません。そのような場合が仮にあるとして、そういった方に何かメッセージをいただけますか?

高山:それは本当に大事な問題ですね。僕らは同じ問題を扱っているつもりなんですけど、ただお客さんが参加してそこでやるっていうと、そもそも歩かなくちゃいけないし、聞かなきゃいけないし、見なきゃいけないし、そうじゃないとパフォーマンスが成り立たないって前提があるんですね。本当は観劇行為はそもそもそういうものかもしれないんだけど、でもそれが劇場の舞台になった瞬間に、もう答えがあってわかるもの、あるいはわかりやすいかわかりづらいかどっちかだ、みたいなのがあると思うんです。

でもたとえばこの間の『一方通行路』は、わかるわからないってあんまり問題にならないんですよ。自分が作りゃいいんだから。本当は観劇ってそういうものだと思うんです。だから『雲。家。』を観てくださるときも、別にわかるわからないじゃなくて、お客さんが作ってもらえたら楽しいんじゃないのかなっていう舞台は作れるような気はしているんですよね。観て、わかるわからないとかっていうよりは「あ、この音とこの音が結びつく」「こういう感じだなあ」とか勝手に自分でイメージを作ってもらったりね。今回はお客さんは動かないけれども、座りながら作っていってほしい。

たぶんね、これは意味はわからないですよ。僕らも必死になってテキストを読みましたけど、とても全部はわからないし、訳わからないところもいっぱいあるしね。でもそれを精一杯の形に、これだったらいけるって形にしてお客さんに提示したい、共有したいと思うんですよ。でも料理をするのは、お客さんなんだよね。料理・・・料理と言うより食べるのかなあ。

暁子:私たちは素材を出すのかな。

高山:でも料理してないって思われたらやだなあ(笑)。難しいところだな。

一同:(笑)

増田:僕は前回の『一方通行路』で、Port Bを好んでるお客さんたちを多少垣間見れて、お客さんたちもスタッフと同じように、Port Bに愛情を注いでるのを感じました。高山さんの先輩がいらっしゃってて、そのときに高山さんとお話されてたのが印象的だったんですが、いつもわかんないなあって思ってて毎回勉強してから行こうかなって思うんだけど、まあでも毎回わかんないんだよね・・・でも今回はまた全然違った趣向で面白かったというようなことを仰ってて、わかりづらさや難解さというようなものを超えてお客さんに伝わってるものがあると思います。

暁子:私たちのパフォーマンスは、難しいと言われることもあるんだけど、そうじゃない見方をしてくれるお客さんも結構いて、ふだん演劇を観ない方たちから、おもしろかったと言ってもらったりしています。だから、わかるわからないじゃないところで観てもらえたらなと思います。それがまたひとつの演劇の可能性というか・・・。わりと日本だと、演劇の可能性というのが一般的に思われてるよりも、もっとあるんじゃないかなと私自身感じたりするんです。

高山:そうですね。僕もそう思います。

宮崎:ありがとうございました。


●Port B『雲。家。』公演詳細はこちら
●Port Bオフィシャルサイトはこちら


(2007年1月31日(水) にしすがも創造舎にて)

「空間を作る」(『詩学』2002.8月号掲載)  高山明


パリの安ホテルに滞在していた時のこと、ひどい妄想のせいでしばらく外出できずにいた。妄想という渦の中に街全体が雪崩れ込み、あらゆることが結びつき、勝手に負の物語が出来上がってしまう。物語にどっぷりと漬かり、神経をすり減らす状態が続いた。終いにはベッドの上で体を動かすのも怖ろしくなった。へたに動いたら窓から飛び降りることになる(五階にある部屋だったが)と確信されたからだ。ベッドで強張っている間に夜を迎え、そして再び明るくなり始めた頃、窓のところに行ったら自分は何をするのか、という好奇心が湧いてきた。ベッドから起きあがり窓の方へ行く。カーテンを開き、鍵を外し、窓を開けた。そこには明け方の街があった。空気は吹き出したくなるほど新鮮で、立ち並ぶアパートの壁は影を作り、八角形の形をした寺院の屋根は朝の光を映していた。壁は壁、屋根は屋根、それぞれが本来の居場所に戻ってゆき、表面に帰り着いたところでさりげなくキメを作っている。妄想やそれが生む物語などよりはるかに強いモノたち。私は今ここに自分の身があることを感じながら、ただただ壁や屋根の存在に目を見張っていた。即物的なのに神秘的で、集中しているのに醒めているような感覚。この感覚は初めてではなかった。以前にも一度経験したことがある。確かにあの時も、この空気と同じものを感じた。あの時とは、私をパリに導いた一本の舞台である。
 
 ドイツに来てから二月が過ぎた頃、シュトゥットゥガルトの劇場でピーター・ブルック演出「妻を帽子と間違えた男」を見た。オリヴァー・サックスによる同名の小説に材を取ってはいたが、そこには名のある役も一貫したストーリーもなく、様々な神経症患者がゲームのような治療を受ける様子を、四人の俳優が切れ切れに並べていくだけの舞台である。一つ一つの断片が堪らなく面白かった。それは私の身体感覚を変えるほどのもので、強いて言えば、目の前で繰り広げられる断片以上に、自分の身体に生じた感覚の変化を、また、身体感覚に変容をもたらした空間を楽しんでいたように思う。俳優がそこにいる、自分がそれを見ている、舞台に集中していながら、それを見ている自分がここにいる。あんな観劇体験は初めてで、「これが演劇か!」と目覚めてしまった私は、そのまま夜行列車に乗り込み、彼らが活動の拠点とするパリへと向かうことになる。「妻を帽子と間違えた男」を振り返ると、あの時肌で感じた空気を想い出す。それはパリで迎えた朝についても言えた。想い出すたびに同質の空気が蘇り、身体感覚が変わるように感じられるのだ。異なる二つの出来事はかけがえのない経験となり、私の記憶に残る事となった。

 衝動的にパリに行って以来演劇に携わり続けて今に至るわけだが、演出家という作る側に身を移せば、今度は観客の経験になるような演劇を作るにはどうすればよいかと考えることになる。観劇体験が一つの経験になりえたのは、その内容でもなければ舞台の出来でもなく、観客の身体感覚が変わってしまうような空間が出現したからであった。しかしここで言う「空間」とは、装置やオブジェを置いたり、演出家の解釈やイメージを書き込んだりする為の空間ではなく、更には、俳優の身体によって作られる空間でもない。それらは舞台作りに欠かせないものではあるが、舞台の空間造形という域に留まるならば、舞台の上にある鑑賞物に過ぎない。私が問題にするのは、舞台と観客の間にある空間、観客によって知覚される空間のことであり、むしろ空気と呼ばれるべきものなのだろう。しかしそのような空間なら常に身の回りにあるわけで、「空気のような存在」という表現もあるように、あまりに当たり前すぎて普段はその存在が忘れられているだけだ。すると問題は、日常では忘れられている空間をいかにして気づいてもらうかということになる。

 それが課題ではあるが、実際私たちに出来るのは舞台上の舞台を作ることだけである(上演する場所の選択も大切な要素になってくるが、今は取りあえず置いておく)。しかし、空間がそれ自体で認識されることはなく、従って作ることも出来ず、身体感覚を媒介にした外界との関係性においてはじめて知覚されるものであるとすれば、舞台を閉じたものとして作ることは出来なくなる。つまり舞台は、観客に共有されるものとして意識されねばならず、また観客との関係において、既知であるが故に未知であった空間を気づかせる機能を持たねばならない。その為には観客が持っている空間との関係性を変化させればよい。その方法を検討する前に、まずは劇場の“主役”たる観客に目を向けておく必要がある。

 日常生活において、人は自分のいる空間を意識することはない。家も学校も職場も、慣れた場所ならば自分の身体の一部のようになっている。どんな時に意識するかと言えば、人の家を訪ねたり、職場が変わったり、旅先で宿に泊まった時などである。あるいは、停電になって何も見えず、真っ暗闇のなか移動するような時は、身近だった場所がよそよそしく感じられる。いずれにせよ束の間のことで、よほどのことがない限り、しばらくすれば何とも思わなくなるであろう。空間との然るべき関係性が見出され、主体のなかに取り込まれてゆくからだ。別の言い方をすれば、すべては「内面化」されるのだ。現代社会を生きてゆくには、とりわけその種の能力が必要に違いない。脇を通りすぎる車を怖れたり、ホームに入船して来た電車に震えたり、ネオンライトのチカチカに瞬いたり、いちいち空間に反応していたらとても生きてゆけない。想像される空間についても同じ事が言えそうだ。テレビからは様々なニュース映像が流れるが、映像は文字通り平面として消化されねばならず、その一つ一つに空間を想定し関係性を作っていたら人事では済まなくなる。これは「内面化」の運動と矛盾するように見えて、実は同じことなのだ。教会が魔除けとして異形の怪物を飾るように、人もまた他人の惨事を護符として身につける。すでに関係性は見出されたり作られたりするものでなく、ただ「これしかない」という形で与えられ、突きつけられ、距離を奪われたところで「内面化」されるべき制度になってしまったようだ。「内面化」の道を地でいったように見えるオウム真理教は、向こう側の最高神をバッジという表面に固定した。それを身に付けた彼らが何をしたかについては言及する必要もないであろう。また、神戸で殺人を犯した少年は、自ら神を捏造し、その命令とは、彼と世界を取り巻いているアメーバを切り裂けというものだった。一方は「内面化」を極限まで押し進めたところで外を否定する方向に向かい、他方は「内面化」された世界を切り裂こうと人を殺した。二つの事件は異なるものだが、両者ともに「内面化」の背理というものを象徴しているように思えてならない。想像される空間も含めて、空間が「内面化」されればされるほど、外界は遠ざかり、隠蔽されることになる。だからと言って、内面が豊かになるわけではない。ここで言う「内面化」とは、経験として沈殿するような運動ではなく、与えられた関係性を受容する制度に過ぎないわけだし、そもそも外界との関係の中でしか内面などというものは存在しないからだ。この時人は、いわゆる「心に空虚を抱えたまま現実世界からも孤立している」ような状態になるのではないか。オウムや神戸の事件に関する報道で、さんざん言われたことである。しかし、訳知り顔でコメントしていた人たちは、そして私自身を含めた現代人の多くもまた、彼らからそう遠く離れたところにいるわけではないように思う。そうした観客が身に付けている空間との関係性を変えるにはどうすればよいか。その方法を模索している時に出会った話を紹介したい。

 シュヴァルツヴァルト(黒い森)の奥地へカヌーを借りて遊びに行った時のこと、人気のない川岸に古めかしい建物が見えた。一緒に行った友人の話によれば、自給自足をしている修道院だそうで、修行僧の幾人かは無言行を行っているらしい。人に会うことは禁じられ、独房に籠もったまま生涯言葉を発してはならないという。対話するのは神のみというわけだ。ただし、彼らに唯一許された他者との出会いがあって、それは定期的に催されるゲームだそうだ。無言行を行っている修行僧が集められ、二チームに分かれる。言葉を発することの出来る僧が片方のチームに問題を出す。例えば、Bを頭文字に持つ都市の名前。修行僧たちは制限時間内に書けるだけのものを書き出す。審判役の僧の手元には答えが一定数書かれたリストがあって、リストの中の答えと幾つ重なったかで得点が出る。それを各チーム交互に行い得点を競う。この話を語ってくれた友人によれば、神との関係のみで人は生きられないということになり、ゲームは独房での生活に対する潤滑油と捉えられる。だが果たしてそうなのだろうか。私には、このゲームが彼らの信仰にとって欠くことの出来ないものであるように思われた。

 独房のなかで神を思い、神と対話する「独白」のなかで、彼らは神を中心とした述語群を無限に増殖させていったはずである。それがゲームの場になると、与えられた問題に対する答えを要求されることになる。答えは名詞なのだから、紙の上には具体的な名前が並べられることになるだろう。人間を見る・人間に見られるという非日常的な空間のなかで、独房における「日常生活」で築かれた内面の塊が、現実世界にあるモノの名前という断片に向かって拡散し、その表面に落ち着いてゆく。この転回のさなかに、修道僧たちは何を感じたのだろう。見ている方も見られている方も、その場の空気に「神」を感じたのではないだろうか。

 この話には、私が追い求めてきた「空間を作る」方法が、シンプルかつ強烈な形で出ているように思う。もちろん、「神」を見出そうなどという気持ちは毛頭ないし、この方法がそのまま使えるわけもない。しかし修道僧たちのそれは言葉遊びというゲームであり、私から見ればプレイ、すなわち演劇なのだ。彼らの場合は、場所と状況を変えることで日常生活に中断を入れ、言葉の向かう先を転回させただけで空間を出現させたのではなかったか。私にとって一番のヒントは、「空間との関係性」にせよ、「内面化の運動」にせよ、それを担っているのは「言葉」に他ならないという視点であった。神との対話も、言葉遊びにおける名前も、勝手に出来上がる妄想も、舞台を見ている時に思うことも、すべて言葉、言葉、言葉なのである。舞台の上で語られる言葉だけが演劇の言葉ではない。実際に演劇を作っているのは、声にならない観客の言葉かも知れないのだ。彼らの日常生活が築いた言葉の群れを、そして客席の今ここで紡ぎ出されている言葉同士の関係を、あらゆる手段を用いてずらし、ゆがめ、切断し、向きを変え、ひっくり返し、宙吊りにし、中断を入れ、あるいは言葉を失わせることができるならば、それだけで「空間との関係性」は変化し、「内面化の運動」には亀裂が入るのではないか。その時空間は気づかれ、肌で感じられるものに化けるのではないか。

 そう考えてこれまで演劇に携わってきた。しかし決まった方法やシステムがあるわけではなく、その場その場で考えたり、工夫したり、耳をすましたり、作っては壊したりの連続である。その過程にゲイジュツ的雰囲気が入り込む余地はなく、常に具体的な厳密さが要求される。では演出家の仕事とは何なのだろうか。正直これが今一つ分からない。やることは無限にあっても、掴み所の無さが消えることはない。落ち着かない感じは虚しさに変わり、するとついつい作っているという実感が欲しくなる。それでモノのように舞台を扱うと、充実感は得られてもよい演劇にはならない。最近よく思うのだが、この落ち着かない感じと虚しさの感覚こそが、「空間を作る」唯一の道標なのかも知れない。私は演出家として、そこに身を晒しつづけたいと思う。


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『Re:Re:Re:place 〜隅田川と古隅田川の行方(不明)〜』(c)Yuichiro Tanaka

『ブレヒト教育劇』ノート(2003.10)  高山明

ブレヒトは権力構造のモデルを舞台に提示した・・・その典型としての『教育劇』は既にアクチュアリティーを失っている・・・等々、よく耳にすることではある。が、本当にそうなのだろうか? ブレヒトがその程度の人ならば、もはや演劇史的な価値しか持たないし、今更改めて取り上げる意味もないであろう。人物であれ事象であれ何であれ、与えられた決まり文句で括ってハイッ了解!という“消費者的態度”こそ、ブレヒトが突き崩そうとしていた「受容」の一形態なのである。というのも、ブレヒトは、舞台によって“生産”された作品を観客が“消費”するという「受容」の在り方を問題にしていたのであり、その二項対立を“止揚”するような「受容」形態を模索していたからである。つまり、ブレヒトの演劇においては、舞台上で生起する事柄が作品なのではなく、舞台と観客との関係が作品の質を決めるのだ。(異化効果や叙事的演劇といったブレヒト特有の方法も、舞台と観客の関係性そのものを変えるための手段として考案されたものに他ならない。)「受容」を問題としたブレヒトを「受容」するのであれば、まずは当の「受容」に対する批評意識を持つことが大前提になると思う。

この「受容」の問題に関して、ブレヒトはとりわけ初期の『教育劇』で実験を繰り返したわけだが、ハイナー・ミュラーがブレヒト演劇の核心と評価し、また、ブレヒトの不徹底を批判したように、『教育劇』は最も革新的な演劇であったにもかかわらず、ブレヒトの転身によって十分展開されぬまま終わった。私たちに残された課題は、従って、諸々の事情があったにせよブレヒトが中途で投げ出してしまった『教育劇』の「その後」に挑戦すること、歪んだものになることを承知で、現代における『教育劇』の可能性を探ってみることではないだろうか。もちろん、そこで問われるのはブレヒトではなく、ブレヒトの何をどのように「受容」し、今、ここに、現代の観客相手に新しい「受容」の形を創造できるか、という私たち一人一人の在り方である。

モデルを与え観客を一つの方向に持っていく演劇、と近代的な誤解を受けかねない『教育劇』であるが、実は、その可能性は全く逆の方向を向いているように思う。これは自分の頭で『教育劇』に取り組んだ者ならば実感できる事柄であろう。一見単純に見えるテクストが、舞台化を前提としたところで付き合い始めると、矛盾の束のような様相を呈してきて、どうにもならないような気持ちにさせられるのだ。そこで気付くのは、本来の『教育劇』は上演不可能なのだという事実、つまり、舞台があって、その上に作品があって、客席には作品を消費する観客がいて、というような上演を成立させない為にこそ、『教育劇』は書かれたのである。劇場ではなく学校や工場で、プロの役者ではなく生徒や労働者によって、役は入れ替わるべきものとされ、演じる側と見る側の区別はなく、相互の交換可能性が求められる「演劇」。これは、差異を生じさせながら反復されるプロセスそのものが「上演」であるような「運動」と言ってもよい何かであろう。しかもブレヒトは、観客が一つになることを望むどころか、逆に、分裂すべきものと考えていた。ここまで来れば、上の誤解がいかに的外れなものであるかがはっきりするだろう。『教育劇』は一本の線に従わせることを意図した「中心化された演劇」ではなく、観客に「観客」であることを止めさせるような「運動」のなかで、多くの線が交錯することを可能にするような“場”であり、そのテクストは、新しい「受容」形態を作る為の、文字通りの台・本なのではないか。『教育劇』におけるこの「受容」形態が、あるいはそこを突こうとした姿勢が、『教育劇』を“教育劇”たらしめた要因と考えられる。私たちはそこにもまた、ブレヒトの更なる可能性を読まなければならない。

ブレヒトの『教育劇』がいかに観客の存在を重視しているか、これは上に述べたことからも明らかだろう。そして行き着いた先は、逆説的なようだが、観客の否定、正確に言えば、「観客」という在り方の否定であった。(しかし観客という存在は保持される。)「観客」の否定とは、単純に演じる側への移行という事もあれば、考える人として舞台作りに参加するという場合もあろう。しかし、それらはブレヒトの野心からすれば大したことではなく、究極的には、一人一人の日常生活にまで「演劇」を拡張し、連鎖させることを目指していたように思えてならない。その為の「異化効果」であり、その為の「引用可能な演技」ではなかったか。つまり、当たり前と思われる事柄を距離をもって捉える方法を学び、引用することのできた「演技」を自他の行動に関係させることで外側から観察する視点を確保すること。観客には、劇場を出た後の日常において“も”、観客的な在り方を排し、「演技者」として生活することが求められている。更に進んで、この姿勢は日常生活内部で「演劇」を作り/観察することへと連鎖していくべきものだろう。(各人が「観客」であることを止め、日常生活での自他の行動を「演技」として作り/観察していたならば、例えば“ナチズム”という“演劇”はあそこまで興隆しなかったはずである。大衆一人一人の無意識な観客的態度が“アウシュヴィッツ”を生んだとは言えないだろうか。)ここで問題になっていることを社会的な観点から捉え直すと、生産者・消費者という二項対立のなかで、常に消費者に留まるような観客的在り方から、二項対立を“止揚”したところで、作り手/批評家を同時に兼ねるような在り方への転換である。この転換を誘発するものとして「演劇」が機能するならば、確かにそれは“教育的”であると同時に“政治的”な『教育劇』と呼ばれるに相応しいものだろう。消費されるものとしての大文字の「教育」や「政治」ではなく、それらの概念が上のような意味で「異化」された時はじめて、ブレヒト『教育劇』は真に“教育的”/“政治的”な「運動」となる可能性を持つのだ。もちろん、ここにも根っこのところで「受容」の問題が絡んでいる。つまり、「劇場」での新しい「受容」形態は、「劇場」外での「受容」の際も引用され、応用されうるものでなければならず、その「受容」の内実とは、通常受け身のイメージで捉えられているようなものではなく、「わたしが世界との関係をどう結ぶか」=「世界を、わたしを、どう創っていくか」という極めて批評的/創造的なものなのである。

「ベルリン演劇祭」−若手演劇人のための国際フォーラム−での発表原稿 (2004.5)  高山明


 まず初めに国際フォーラムに参加できたことをうれしく思います。また、日本の演劇について、私の活動について、ここで発表する機会を頂けたことに感謝します。今日はせっかくの機会なので、日本の演劇事情について触れた後、ドイツの演劇人であり、現代演劇に大きな影響を及ぼしたブレヒトに関連して、私が行なった一つの試みを紹介します。


2.私の演劇活動
3.ブレヒト教育劇
4.今後の活動について


1.日本の演劇事情

   (略)簡単な日本演劇史と現状について


2.私の演劇活動
このような状況の中、私は東京で演劇を作っている。私達の劇団は、全く売れているわけではないし、日本の演劇界とはほとんど関係のないところで活動している。また、私が演劇教育を受けたドイツ語圏の演劇をモデルにすることも出来ない。なぜなら制度やシステムが違いすぎるし、私自身の身体や言語は「日本」と深く結びついてしまっているからである。かといって日本の伝統演劇に直接的に結びつくことは難しいし、私自身興味もない。(伝統演劇は父子相伝を基本とする極めて閉じられた世界である。あの恐ろしく豊かな演劇形式は何百年もかけて洗練されたものであり、そう簡単に触れられる対象ではない。そして、私の感覚では、伝統演劇はすでにアクチュアリティーを失っている。)つまり、私達は日本の伝統演劇から切り離されてしまっており、また西洋演劇をモデルとすることも出来ない「根無し草」なのである。その意味で、一部の批評家が言う「ジャンク演劇」というキーワードは的確である。的確どころかそれは希望の言葉でもあって、自分たちは「根無し草」であり「ジャンク」であるという認識を徹底することから出発しなければならないと私は考えている。絶望的とも思える状況だが、出来ないところ、不可能な地点に留まり続けることで生まれる演劇もあるはずだし、伝統演劇や西洋演劇を創造的に受容するためには、まず、その他者性を自覚する必要があると思うからである。
以上が私の演劇活動の基本スタンスである。実際の演劇制作における私達の劇団の特徴としては、@長期にわたるプロジェクト方式(スピードが遅く、無駄の多い活動)。A音楽・美術・映像・ダンス・文学・哲学など演劇以外の異なるジャンルから集まったメンバー。B非職業俳優の“養成”(いわゆるプロ俳優も非職業的になることが求められる)。C既成の演劇に囚われない越境的志向。D劇場に留まらない活動。E詩や散文をテクストに使用したモノローグとコロスの探求。Fパフォーマンス性の重視。G「引用」や「翻訳」といった「受容」方法の検討などがあげられる。


3.ブレヒト教育劇
 制度的な不備が絶望的なせいで、その状況を逆手に取り、かえって面白いことが出来る可能性が東京にはあると思っている。そうしたスタンスを探っていくなかで、私はブレヒト演劇から多くの刺激を受けるようになった。中期以降の大作戯曲や理論的著作より、むしろ初期における「教育劇」の試みや詩のほうが私にとって重要である。私がどのようにブレヒトに取り組んだか、一つの具体例として、「ブレヒト教育劇」を上演した記録をここに紹介したい。
まず初めに、私の「教育劇」解釈を簡単に述べる。ちなみに以下の解釈は、今回紹介する試みの前に行なったプロジェクトを通じて得たものである。そのプロジェクトでは、ブレヒトの教育劇「イエスマン・ノーマン」を、カフェやライブハウスといった劇場以外の場所で上演した。


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 ブレヒトの「教育劇」においては、舞台上で生起する事柄が作品なのではなく、舞台と観客との関係が作品の質を決める。ブレヒトは、舞台によって“生産”された作品を集合体としての観客が“消費”するという「受容」の在り方を問題にしていた。生産者・消費者という二項対立があり、観客が常に消費者に留まっている演劇に対し、二項対立を“止揚”したところで観客が作り手/批評家を同時に兼ねるような演劇への転換が目指されている。この転換によって、「受容」の内実は通常受け身のイメージで捉えられているようなものから、「“わたし”が世界との関係をどう結ぶか」=「世界を、“わたし”を、どう創っていくか」という極めて批評的/創造的なものになる。こうした転換を誘発するものとして「演劇」が機能するならば、確かにそれは“教育的”であると同時に“政治的”な『教育劇』と呼ばれるに相応しいものとなるだろう。現代における『教育劇』の可能性を探る為には、消費されるものとしての大文字の「教育」や「政治」を扱うよりも、それらの概念を上のような意味で「異化」することがまず必要になるのではないか。今「教育劇」に取り組むならば、その結果はブレヒトの教育劇とはまるで異なるものになるはずである。そこで問われるのはブレヒトではなく、「ブレヒト教育劇」の何をどのように「受容」し、今、ここに、現代の観客相手に新しい「受容」の形を創造できるか、という私たち一人一人の態度なのだと思う。私達の目標は新しい「教育劇」を作るというよりは、むしろ「ブレヒト教育劇」をどのように受容したかという一つのモデルを提示することにあったと言える。


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 まず舞台構造を説明したい。この写真を見てもらって分かるように、客席だけでなく、舞台上にも観客が座っている。彼らは舞台中央にいることに加え、お互い見合うように座ることで自他を意識せざるを得ない。人の多い広場などを歩くとき、見られていることを意識するあまり、うまく歩けなくなることがある。それと同じ原理で、見る・見られるという関係の中に身を置いてもらうことで、自分が劇を見ているのだということ、また、向かいに座っている人達から、更に通常の客席にいる観客からも見られているのだということを彼らに意識してもらう。言い方を変えるなら、普段無意識に観劇している状態を宙吊りにすること、つまり「観劇」という行為を動名詞化する試みであったと言える。また、彼らの目の前に吊られた巨大なプラスチック板が、窓や鏡や額縁の役割を果たし、「観劇」の動名詞化をいっそう強めた。俳優の演技は主に舞台上の客席背後でなされ、各俳優にそれぞれ居場所が与えられた。しかし、同じ俳優がずっとその場所に留まり続けるわけではないし、他の俳優がいる場所と入れ替わることもあった。客席の前にある狭いスペースは基本的に俳優が移動する通路のように使われる。この舞台構造では、舞台上の観客が俳優の全ての演技を見ることはない。異なる位置に座る全ての観客に同じように見える舞台を作るというのが一般的であるが、私達はその逆を行った。つまり、座る場所によって見えるものが違うわけである。更に、音響的にも座る位置によって違いが出るよう工夫した。こうした差異を強調するために、舞台上には十数個の額縁が吊られており、「フレーミング」や「フォーカシング」といった観劇行為の恣意性を意識化する仕掛けを作った。こうした舞台構造にした理由は、第一に“個人”の観劇体験を重視したかったから、第二にそれが観客という集合体の解体につながると考えたからである。
 キャスト及びスタッフについて。キャストはいわゆる「俳優」ではなく、ほとんどが「素人」である。「素人」といっても、各分野におけるスペシャリストが多かった。歌手、ダンサー、学生、仏教の僧侶、大学教授、能楽家、俳優と言った面々である。技術スタッフのほとんどは学生であった。彼らの多くにとって劇場で仕事をするのは初めての経験だったため、学習のプロセスを皆で共有するよう努めた。音楽はコントラバス、トロンボーン、アコーディオン、薩摩びわという通常では考えられないアンサンブルで行なった。いろいろな問題が生じて大変だったが、それが狙いでもあり、トラブルにどう対応するかを重視した。


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 次に全体の構成について述べる。上演は三部構成をとった。第一部が「ブレヒト演劇祭を祝うセレモニー」、第二部がブレヒトの第一詩集「家庭用説教集」を素材としたパフォーマンス、第三部が「観客」による第一部・第二部受容の記録である。第一部と第二部がいわば「上演」であり、公演のタイトル「シアターΧ・ブレヒト演劇祭における10月xx日の約1時間20分」はこの部分をさす。xxには上演当日の日付を観客自らが入れる。実際、第一部・第二部の上演に要した時間は1時間20分ほどで、それから後の15分ほどが第三部にあたる。第三部はいわゆる「上演」からはみ出した部分である。「観客」が自分の体験した「上演」を個人的な受容として発表する、あるいは今終わったばかりの「上演」を自分なりに想起する、そのような非「上演」部分として第三部はあった。この意味で、第三部は観客一人一人がそれぞれに作るものであったと言える。(しかし、私達はそのモデルを示したに過ぎず、実際には「上演」の枠を出ていなかったと言わざるを得ない。)全体の構成を押さえてもらったところで、次に第一部、第二部、第三部の具体的内容を説明していきたい。

第一部。この作品はシアターΧの「ブレヒト演劇祭」で上演された。「演劇祭」で「教育劇」上演というのはとても矛盾しているように思われたため、「演劇祭を祝うセレモニー」で上演の枠組みをパロディー化した。枠組みを茶化すだけではあまり意味がないが、第一部のポイントはむしろそれが「セレモニー」であることにあった。まず司会が挨拶をする。それからゲストの大学教授が演劇祭への祝辞を述べた後、ドイツ・リート(ブラームスの恋の歌)を歌う。続いて第二のゲストである本物の仏教僧侶が登場、日本における仏教の受容史を語り(仏教はインドから中国・朝鮮を経由して日本に入った宗教である)、私達の生はかりそめのものに過ぎず、死こそ生の内実云々といった説教をする。セレモニーの明るい雰囲気に不協和音が生じ、「家庭用説教集」にある詩“Grosser Dankchoral”(「大いなる感謝の讃美歌」)の朗読とともに、セレモニーは死者を想起する「儀式」へとその性質を変えていく。

第二部。これが「上演」の中心となった。「教育劇」というブレヒトの戯曲ではなく、「家庭用説教集」をテクストに選んだ理由をまず述べたい。「教育劇」のテクストは政治を直接問題にしており、東京の文脈ではアクチュアルさに欠けると感じた。私が注目したかったのは先ほど述べたような「教育劇」の理念である。「家庭用説教集」は親しみやすく、私にとって大変面白い。これが最大の理由である。詩を素材とした舞台に興味があったことも一因であった。加えて、「家庭用説教集」には「教育劇」の理念に通ずる革新性があると思う。「家庭用説教集」というタイトルはルターの同名の本のコピーであり、形式的に説教の文体をパロディー化している部分も多いようだ。ブレヒトは宗教儀式の力を利用して逆に宗教を批判したと言える。演劇祭という「セレモニー」でブレヒト教育劇を上演する矛盾を考えるならば、「セレモニー」の比重を宗教的儀式の方へ傾け、その力を利用して逆に「セレモニー」から演劇を解放する試みがあってよいと思う。また、「家庭用説教集」に登場する人物には、寄る辺がなかったり、神から見放されていたり、あるいは神に背を向けていたりといったように、安定した基盤というものがない。安定しているように見える状況や信仰や地位などが、実は安定したものでもなんでもなく、常に揺らいでいるのだという事実が露呈する“裂け目”が彼らなのである。(従って、彼らはあらゆる意味でアナーキーに見える。)これはブレヒト演劇の核に連動する事柄に思われる。更に、彼らの多くは虐げられている者であり、一般的には取るに足らない存在である。大道の歌のような野性味で語られる彼らは、私達「ジャンク」にとって手本とすべき人物であった。以上が「家庭用説教集」をテクストに選んだ主な理由である。

続いて演技論に話を移す。この詩集で取り上げられている者の多くがかつて実在した人物であり、すでに死者である。死者とは私達にとって他者のなかの他者と言うべき存在である。その死者という他者を「演じる」ことが、更に言えば、死者との関係の中でいかにパフォーマンスを成り立たせるかが演技上の課題となった。これは日本の現代演劇界の課題でもあり、というのも、役と役者とがどれだけ同化しているか、役者が役を生きているか否かが、未だによい演技の基準とされているからである。その結果、妙に情熱的でベッタリとした演技ばかりが無自覚に反復されている。「家庭用説教集」では、「他者」は想起されるものであり、彼らの他者としての独立性が保たれている。それは例えば“Apfelboeck oder Die Lilie auf dem Felde”(「アプフェルベク、または野の百合」)や“Von der Kindesmoerderin Marie Farrar”(「あかんぼ殺しのマリー・ファラーについて」)や“Vom Mitmensch”(「人間仲間について」)やといったタイトルから明らかなように、一人称で人物に一体化するのではなく、「xxについて」という具合に三人称で語られる。一人称もあるが、それらは引用された言葉として括弧でくくられている。以上の語りの構造を演技に反映させること、これが私達の出発点になった。そうは言っても、単なる詩の朗読は、演技の課題としてつまらないし、舞台上に血肉を持った人間がいるという事実を軽視するようでやりたくなかった。私が特に注目したのは「声」である。すでに死者となっている人達が、やはり死者であるブレヒトによって語られる。その残余が文字として残っているわけだが、その文字は舞台上で声に変わる。テクストを飼い慣らした結果ではなく、かつ、今ここにあるモノとして声を出現させること。私はそれを「死者の声の残余」として響かせたかった。その為に、以下のような工夫をした。日本人特有の口から出るベッタリとした発声を極力排し、声が独立して目の先から出るような発声を模索した(全員が出来たとはとても言えないが)。テクストを断片化する。マイクを使用し、生の声の響きと8個のスピーカーからの響きとを交錯させる。文章を不自然に分節化し、意味と音にズレを生じさせる。独特のイントネーションと儀式的で単調なリズムを繰り返す。感情を排した棒読み・・・etc。(こうした試みをするにあたり、以前のプロジェクトで行なった詩や散文のパフォーマンス、文楽の劇作家・近松門左衛門の古い日本語を用いた語りの実験が役に立った。そしてストローブ・ユイレの映画を検討することも有益だった。)ここで語りのサンプルを見て頂きたい。俳優は複数の詩を担当し、更にそれぞれの人物(「役」)との距離を刻々と変えていった。


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それから言うまでもなく、俳優の身体性も問題だった。これに関する演出上の工夫を幾つか述べたい。話は前後するが、第一部の終わりで死者が呼び戻されて第二部が始まった。俳優が舞台に上がり、隅に設置された「定位置」につく。そこには額縁が吊るされているが、初めは白い布で覆われている。俳優が白い布を取ると、額縁の中には俳優自身の白黒写真が遺影のように貼られている。その背後でこれから演じる人物についての詩を語る(映像で見てもらった部分)。語り終わった俳優が写真をはがす。写真と同じ俳優が額縁の中に見える。この時点から俳優は死者を「演じる」ことになるが、「演じる」といっても彼らはむしろ死者を「想起する」人であり、従って役と完全に一体化することはない。はがされた写真が彼らの「定位置」の一角に吊るされるように、俳優の身体は自分と役との間で、また、別の役や他の労働との間で宙吊りになっている。(ちなみに十数個の詩を用いたが、主な役としてはMarie Farrar、Jakob Apfelboeck、Olgeなどがあった。)第二部の最後は“Legende vom toten Soldaten”(「死んだ兵隊の伝説」)を用いた。詩の文句にあるように、皆死んでいく。これまで唯一「生きている人」として舞台を司っていた司会者も、兵隊になり死者の仲間入りをする。他の死者は「死者の死」を迎え、皆で「死者たちの行進」をする。やがて行進の隊列は崩れ、個々の動きは緩慢になり、最後は白い布を頭から被った状態で、吊るされた額縁の前で静止する。白い布により各俳優の個性は消え、彼らは額縁の中で見られるだけの「死体」のような存在になった。そして第三部へ。


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第三部は『「観客」による舞台受容の記録』だった。第一部・第二部を体験した観客一人一人が、それぞれのやり方で作るものであったと言える。その意味で非「上演」だったが、しかし、私達はその一モデルを「上演」したに過ぎない。私はかねがね、上演が人の記憶にどう残るか、また、上演はどのように想起されるのか、ということに関心を抱いてきた。同じ上演に接しても、一人一人の体験の質は違うはずだし、記憶のされ方も想起されるところも異なるだろう。通常「作品」と呼ばれる舞台上で繰り広げられる出来事よりも、観客の体験のほうが、更に彼らの記憶や想起のほうが、むしろ演劇の内実を作っているのではないか。極端な事態を想像してみる。目の見えない人、耳の聞こえない人、身体の一部が麻痺している人、精神が錯乱している人、そのような人が同じ上演に居合わせた。彼らの演劇体験がそれぞれ全く異なることは明らかだ。この観点を発展させ、演劇的な体験を聴覚的なもの、視覚的なもの、触覚的なもの、言語的なもの、という極端な形に分化してみた。私が予め選んだ人に「記録者」という「役」を担当してもらった。彼らは観客の代表であると同時に、「観劇」という行為をデフォルメしてみせる「パフォーマー」でもあった。舞台に立つ者や制作者はある意味「素人」であったが、この「記録者」には各分野の「プロ」を選んだ。ここには、舞台上に「素人」、観客に「プロ」という通常とは逆転した構造がある。視覚的な受容は映像作家が、聴覚的な受容は音楽家が、触覚的な受容はダンサーが、言語的な受容は小説家や劇作家がそれぞれ担当した。記録する媒体の種類、編集および発表の方法は極力各人にまかせるよう努めた。「記録者」の「役」に共通するのは、身体や言語を含めた“メディア”の使用と、リアルタイム編集という方法である。それは「観客」による「上演」受容の記録であると同時に、第一部・第二部の「上演」を素材とした、異なるアーティストによる「即興作品」であった。これら各人の「記録」はそれぞれ異なるメディアと方法で、第三部で一気に発表された。もともと散漫に構成された「上演」が更にバラバラになった。そこに統一的なイメージは認められず、ただ各々に異なる複数の「記録」/「想起」が交錯するだけである。しかし、考えてみれば「集団の単一的な記録/歴史」など幻想に過ぎぬわけで、「ブレヒト教育劇」はそうした歴史の在り方を批判する機能をもっていたはずだから、アナーキーでカオスな時空間の出現は喜ぶべきことだろう。理論的にはともかく、“複数”の記録のほうが私にはずっと面白く感じられるし、演劇における新しい感覚の活性を意図するならば、それがはじめは多くの人に違和感や退屈しかもたらさなかったとしても、勇気を持って継続すべき試みではないかと考えている。

ここで、第三部における俳優の身体性について一言述べておきたい。第二部において、彼らは観客に受容される存在であった。しかし第三部においては、彼らは白い布を頭から被り、身動きせず突っ立ているだけの“オブジェ”にすぎない。白い布には「記録者」による映像が映り、音や言葉が浴びせられた。つまり、ここでの彼らは「観客」による記録を受容する「面」あるいは「器」として機能している。オブジェと化した彼らが額縁の中にいるのはある種のイロニーである。メディアのなかで“ジャンク”のようになっていく舞台上の生身の身体は、額縁の中で展示されることで、逆説的にその身体性を際立たせる。
最後に第三部で使われた映像をお見せしたい。音と言葉がこれに重なっていたのだが、用意できなかったので単独で流す。映像作家・三行英登による「上演」の「記録」であり、彼個人の「即興作品」である。(映像)
以上、「ブレヒト教育劇」受容の一つの試みを紹介した。


4.今後の活動について
記憶と想起のテーマを発展させるべく、アルゼンチンの作家ホルへ・ルイス・ボルヘスのテクストと「忘却された東京」とが出会うパフォーマンス作品を準備している。今回は新しい試みとしてフィールドワークを「稽古」に取り入れた。稽古の在り方を問い直し、そのプロセスをどう舞台に反映させるかが課題の一つである。その後はハイナー・ミュラーの「ホラティ人」を演出する。このテクストは想起と言葉と身体の問題を、更に割り切れないものや都市の無意識を扱っている。いずれのテクストもジャンルへの懐疑、基盤となるタブローそのものの安定性を突き崩すような姿勢において、「ブレヒト教育劇」に通じるものがある。私もそれらと関わることによって、演劇そのものの基盤を問い直すような活動をしていきたい。東京で演劇を作ることの意味はここにあると思うし、ジャンクとしての私の興味もここにしかない。

今日は最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。


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“Museum: Zero Hour”制作プロセスに関するノート(2004.11)  高山明


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まえがき
1.フィールドワーク
2.裏方・表方の分化を廃止
3.素人性
4.「演技」


※ この原稿はIn Transit演劇祭(ベルリン)参加に向けて提出した資料です。

 公演パンフのなかでも述べられていることだが、“Museum: Zero Hour”を制作するにあたり、その出発点にはボルヘスのテクストがあった。個人的に好きな作家だったことも理由の一つだが、次のような夢を見たことが直接のきっかけになっている。その夢のなかで、私は書店で本を探していた。すると見知らぬ老人に話しかけられる。次は何をやるのかと尋ねられた私は、ボルヘスに材をとった「エクスターシス」という舞台を作ると答えた。

 夢のお告げではないが、私は早速その準備に取りかかった。しかし、公演パンフに述べられているような理由で、ボルヘスの作品そのものを舞台化することには興味を失った。そのことで、逆に、今回の舞台制作を貫く方法が決まった。つまり、ボルヘスの作品を舞台化するのではなく、ボルヘスのテクストに内在する「イデー」やボルヘスの「身振り」を抽出し、それに私たちなりのアクション(広い意味での)をぶつけてみる。全く異なって見えるものでもいい。というより、異なったもの同士のぶつかりあいこそ尊重しなければならない。そこに何が生まれるのか。(これはPortBの制作においてこれまでも実際にやってきたことだ。今回はこの点を意識的に追求したと言える。)

 制作プロセスには幾つもの出会いや偶然があるものだが、次に述べる出会いは“Museum: Zero Hour”制作に一つの転機をもたらした。ルネ・ポレシュの来日である。私は彼に東京を案内する約束をしていた。しかし、ステレオタイプな東京のイメージをなぞってもらうのは詰まらないし、ならばどこを案内すべきか? 正直私にはよく分からなかった。東京は茫洋としていて、雲を掴むようなのである。私は、東京という大きな流れのなかでそれを相対化する視点を持っていない自分に気づいた。また、東京で活動しているのに東京でしか出来ない舞台制作の在り方を模索していない自分に情けなさを覚えた。この経験が、ボルヘスのテクスト中にある「都市」、「忘却」、「記憶」といったイデーの幾つかと、「東京」とを結びつけるきっかけになった。私たちは、ボルヘスのイデーと東京との出会いを実現させる為に、東京という都市で、「フィールドワーク」という名のもとに、「収集」、「分類」、「旅」、「探求」といったボルヘスの身振りを「模倣」/「演技」することを課題に据えたのである。 

 しかし、東京と一口に言っても巨大な都市である。全体を扱おうとすれば抽象論に終わる。そこで「フィールドワーク」の対象として私たちが具体的に選んだ場所は、東京郊外の「高島平」という地域だった。高島平は1970年代の高度経済背長期に開発されたニュー・タウンである。その中心には巨大な高層団地群がそびえ立ち、一時は3万人が居住していた。ホワイトカラー憧れの住居、都市計画の成功モデル、自殺の名所、幽霊の出る所など、様々なイメージが交錯し、かつてはマスコミも頻繁に取り上げる特別な場所であった。しかし、建設から30年が経過した今、高島平は、団地住民の少子化・高齢化が著しく、建物の老朽化も進み、もはや特別でなくなっているどころか、忘れられた場所ですらある。そんな土地を「フィールドワーク」し、その成果を「稽古」に反映させていくなかで、初めに抽出したイデーが解体されるほどまでに私たちは試行錯誤を繰り返すことになった。そうした作業を振り返り、今回の制作プロセス特有のポイントを以下にまとめたい。


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1.フィールドワーク

 この方法は前回の「約1時間20分」を批判的に発展させたものでもあった。「約1時間20分」では、「記録者」という受容者/創作者を設定し、第三部で第一・二部を受容した成果を発表してもらった。しかし、これは「上演」という枠組みのなかに収まった演出上の仕掛けであり、その意味で受容と創造が結びつく在り方をモデルとして提示したに過ぎない。(※ベルリン演劇祭「国際フォーラム」での発表原稿を参照のこと。)今回はそのモデルを「上演」の外に、つまり制作プロセスにまで広げた。単なるモデルを生きた活動に変容させる為である。「上演」という在り方への懐疑は、必然的に、既成の「稽古」への反省を促す。というのも、このような姿勢で演劇に臨めば、上演と稽古の関係を変える必要に迫られるからである。つまり稽古は、上演という本番に向けての単なる準備であってはならない。目的のための手段という発想を逆転し、上演という口実のもとに準備プロセスそれ自体を充実させていくのだ。(もっとも、最終的には目的・手段という図式をさえ無効にするような「上演でない上演」が理想だろう。)そこで制作に関わる者全員がまず何より「受容者」/「探索者」になることを目標とした。

具体的には、まず高島平へ車で出掛け、辺りを走り回ることから始め、大体の地理をつかむと、今度は地図とカメラを手に町中を歩き回るようになった。何度も足を運ぶうちに、見えなかったものが見えてくる。すると自然に私たちの好奇心も刺激された。町はずれの公園に立つ石碑、訪ねる人も疎らな資料館に保存された文献や地図、休憩で入った喫茶店にあった地元住民向けの新聞、それから街角の広告に至るまで、私たちにとってはすべてが資料になった。古今にわたるいろいろな情報を得たわけだが、これを直線的にたどれば、高島平のいわゆる「歴史」になるだろう。団地という箱を並べただけののっぺらぼうの町に見えていた高島平が、幾重もの見えない時間の「地層」を含んでいることが分かった。そうした資料を「記憶」、「忘却」、「身体」、「住居」、「死」、「痕跡」、「建築」といった様々な観点から解体・分類し、ボルヘスに留まらずフーコーや日本の民俗学者や社会学者の著作を参考に、それぞれの観点を深めていった。

こうした知的な作業に併せて、私たちは団地の内部に入っていく。はじめは入居希望者の振りをしてモデルルームを見学したり、団地の構造の特徴などを実地に見て回ったりした。それから団地住人の何人かにコンタクトをとって、彼らが実際に生活している「家」を訪問した。何度か訪ねるうちに信頼関係が出来てくる。それからビデオカメラを置き、彼らにインタビューを行った。(この時の映像の一部は上演で用いた)。粘り強く交渉して出演も了承してもらった。それが決まると、今度は高島平団地内の集会所を「稽古場」として利用する機会を設け、住民の方々を交えて舞台の方向性を探っていった。こうしたプロセスは、外側から見ているだけでは分からない、また、資料に接しているだけでは掴めない「高島平」の肌触りのようなものを感じるのに大変有益だった。こうした生の感覚は、しかし、上記の知的作業による「組み立て」を裏切ることも多く、そのたびに私たちは掻き回され、混乱し、そのことで逆に、「高島平」を知的作業による枠組みの中に閉じこめてしまう過ちを避けることができた。そのような作業を初日直前まで、約4ヶ月間続けたわけである。


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2.裏方・表方の分化を廃止

 1のフィールドワークを行ったのはいわゆる「裏方」ではない。制作に関わる全員が参加し、幾人かの例外を除いて、すべて舞台に立った。(制作に関わっていない人も何人か出演したが、彼らは「ゲスト」であり、いわば「レディメイド」であった。)今回のプロセスでは、そもそも裏方・表方という区別を設けなかった。フィールドワークもそうだが、公演のプロデュースも宣伝も装置や衣装の製作も、それぞれに中心となるリーダーはいたが、それだけやれば済むというものではなく、皆いくつかの役割を掛け持ちしていた。テクストの作成、美術、演出に関しても、私が方向性を出し、最終的には責任を持ってまとめたにせよ、皆のアイデアや作業の成果があって初めて成立したものだ。また私自身、テクストの作成、美術、演出などという分野にこだわらず、ほぼすべての作業に関わった。

分業制の進んだドイツほどではないにせよ、こうしたやり方は日本でも珍しい。通常アンサンブルを持たない日本の劇場では、俳優は公演ごとに集められ、役とテクストを与えられ、過酷な日程の中でセリフや振りを覚え、舞台に立ってまた次の制作へというのが普通だし、裏方は裏方で職人的在り方に終始している。無数にある小劇団の場合も同じメンバーによるアンサンブル形式はあっても基本的な在り方は変わらないように思う。私はこうした演劇の制度をなぞることに満足できないし、そもそも活動として面白くないと思う。これはまた個人的な問題ではなく、日本の演劇をつまらなくしている大きな構造的要因でもある。俳優や演出家を養成する教育システムもない。劇場や劇団に対する助成も不十分。かといってビジネスとして機能しているわけでも全然ない。このような状況なのに、欧米から輸入したシステムや演技を上っ面だけ真似したり、劇団特有の「伝統芸」が然るべき批判的検討の跡も見られぬような形で踏襲したり、なかには“自己流”に勝手をやって面白い成果を挙げている人達もいるが彼らは例外的な存在で、似たり寄ったりの演技や演劇が増殖を繰り返していく。いわゆる演劇人は、演出家、俳優、舞台監督、美術家などといった「専門家」であることに安住し、演劇制作のなかで(実は演劇「生産」のなかで)、例えば演出家は「演出家」という「役」を演じ、俳優は「俳優らしい演技」に自己を同一化することに躍起という状況。日本の演劇界においては、「専門家」という安住すべき居場所などイリュージョンに過ぎないのに、大抵の人はそれに気付かず(あるいは気付こうとせず)酔っぱらっているように思われる。だから「演劇」という制度をなぞる舞台ばかりがシミュラークルに「生産」されることになる。何もなければ何もないなりに、ゼロから始めるからこそ、「生産」から離れたところで、いろいろと工夫しながら作れるチャンスがあるのではないか。せっかく現代演劇などという、制度的に未完で、経済的に無価値で、芸術的にも「ジャンク」なものに関わっているのだから、社会全体を覆う「生産」や「仕事」の在り方をなぞるのではなく、制作プロセス全体を各個人が引き受けるような試みが要請されるように思うのだ。だいいちその方が面白い。こうした制作プロセスへの関与、そこでの創意工夫は、「受容者」であることを目標にした各人に、結果的に「作り手」としての自覚を促した。そういう人達こそ、私にとっては「パフォーマー」なのである。 


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3.素人性

 1の「フィールドワーク」、2の「裏方・表方の分化を廃止」、いずれも日本演劇界の常識から外れたものだ。そのうえ時間もかかるし、労力もいる。するとただ舞台で自分を表現することを望むような「俳優」からは敬遠される。日本の俳優のほとんどが社会的に見れば「フリーター」、つまり失業しているのに、彼らのほとんどは自分が俳優であるという自意識を手放そうとしない。(言うまでもないが、彼らの中にもすばらしい俳優はもちろん存在する。)しかしそもそも「俳優」という専門的な在り方自体を疑問に付す私たちにとって、「パフォーマー」の条件は以下のようなものだ。@上のような制作プロセス自体に興味を持ち、自分で考え、工夫し、探求する姿勢があること。A自分が舞台に「在る」ことに対しても責任を持てること、少なくともその資質が認められること。(ただしAに関してはトレーニングが必要で、その内容に関しては後述する。)この条件では、いわゆる「俳優」ははじかれる場合が多い。私にとって台詞や振りの上手下手などどうでもよいのだ。実際に今回の舞台に立った者のうち、「俳優」は1人だけ、その人も全くのアマチュアである。他は文芸批評家、木工職人、歌手/ヨガ教師、ダンサーといった人達だった。意図して集めたわけではないが、一芸に秀でた人の方が先の条件で問われている姿勢を身につけているのかも知れない。この5名に私を加えた6名が「パフォーマー」で、「ゲスト」として迎えた高島平団地の居住者(60代〜80代の女性に日替わりで登場してもらった。尚、ゲストが女性のみだったことには訳がある。彼女たちは主婦であり、高島平団地内で真に生活してきた人達である。男達は東京中心部に働きに行くため、高島平団地は生活の場というより寝に帰る場所であった。)、ボディービルダーが1名という内訳であった。つまり、出演者全員、一般的には演技の「素人」である。しかし、1、2のプロセスを全うした人は、「受容者」/「創作者」という在り方をすでに実現しているわけで、いわゆる「素人」と呼ぶべきでないだろう。「演技」を専門としていないだけの話だ。しかし、未だに役への同化がよい演技の基準とされるような日本の状況からすれば、そんな技術もないし、既成の演技など意に介さない彼らの方がよほど新しい演技の在り方に開かれていると言える。逆に、彼らの在り方は無言のうちに「果たして演技をする必要などあるのだろうか?」という問いを私に突きつけてきた。また、「ゲスト」に至っては演技をする・しないということは問題にさえならず、舞台上にそのままいるだけで「高島平に住む人」や「身体を建築する人」という「記号」と化し、舞台上に引用された「レディメイド」として機能するのである。従って、彼らもまた「素人」という範疇には収まらない。


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4.「演技」

 フィールドワークや資料・文献の探求や話し合いや地元の人達との交流といった作業は、私たちにとって舞台制作の要になるものであった。しかし他方で、一般的な意味での「稽古」もまた重要であったことを付け加えねばならない。それは私たちの「演技」の在り方を問う実験であった。

「果たして演技をする必要などあるのだろうか?」という先ほどの問いは、実は前々から抱いていたものである。実際のところ日本には演技の為の伝統も教育システムもないし(少なくとも確立されているとは言い難い)、例えば欧米の演技をモデルにしたところで大した成果が得られるとは思えない。いくら日本が欧米化されても、身体や言語や生活習慣の違いは決定的で、いくら頑張ったところで地に足のついた表現にはならないだろう。かといって能や歌舞伎といった伝統演劇における演技は閉じられた世界のもので、私たちには無縁である。それは基本的に古い形の継承だから、すさまじく見事ではあっても、ショーケースのなかの美術品を見るようなもので、皮肉なようだが、欧米化された私たちの生活まで揺るがすような力はない。(演技や演劇が抱えるこの問題は、根本的には、「近代化」/「欧米化」された日本社会に内在する問題の反映に過ぎない。)私はどちらにも組みすることができないので、根無し草のように漂わざるを得ない。私はこれをプラスに捉えている。というより、本当はプラスもマイナスもなく、これが現実なのだ。この現実に向き合うことで、初めて欧米や伝統といった私たちにとっての他者を他者として「受容」できる可能性も出てくるだろう。真の「受容」は輸入や物真似ではなく「創作」に他ならない。だとすれば、この地点から出発してこそ、真にグローバルであると同時に、日本の現実との対決を通してしか生まれない演技なり演劇なり文化なりが実現するのではないか。話を演技に限定すると、だからこそ私は演技というものを一から洗い直す必要を感じるし、「新しい演技」を見つけたいとこだわるのだ。これが私の試行錯誤の出発点である。簡単にその内容を振り返ってみたい。

一般的に人が演技というとき、プロセスを通じて積み重ねてきたものを「同化」し、それを外に向かって表現するというイメージがつきまとう。あるいは、与えられた素材を「同化」して、自分自身が変容する技と言ってもよいだろう。だから「同化」されたものの豊かさとそれをどれくらい自分のものとして表現できたかという技術レベルが常に問題になる。私はこうしたイメージに従わない。むしろ逆の方向で行きたいと考えている。プロセスのなかで出会った人達を含めて、自分が収集した素材は外部のモノであり他者である。その他者性を出来るだけ自覚する。素材を「同化」して表現する必要などない。ただし同化は生きていく為に必要な「技術」であり、避けようもなく身に付いた習性だろう。例えば普段暮らす部屋を部屋として意識することがないのは、私たちが部屋を「同化」し、それが身体に内化されているからで、いちいち違和感をもっていては普通に生活できなくなる。だからこそ私たちは意識して「同化」することを避け、外部の素材とどのような関係を結べるか、また同時に、他の人が共有できるように、どのように素材を提示することが可能かを探る。そこで私たちは「引用」や「展示」というドキュメンタリー的方法を「演技」の要とした。素材は高島平の地図や資料や人やボルヘスのテクストであったが、私たちパフォーマーの身体や身振りや声も動くオブジェとして舞台上に「展示」される。二つの「間」を結ぶ関係性こそ観客によって知覚されるべきものだろう。では「間」には何があるのか? 舞台上の空間や時間がある。それらは実体ではなく関係性そのものであるから、何らかの接触や抵抗やといったきっかけがなければ姿を現さない。引用され、展示される素材とパフォーマーの身体や身振りや声がそれぞれ独立しながら関係を結ぶとき、空間や時間はそれとして際だつことになる。関係性の結ばれ方によって、それらは観客に変容するものとして知覚される。そのとき舞台に立つ人の「存在」も際だってくるという逆転が生じる。逆に、豊かで自然で違和感のない「上手な演技」はかえって舞台の時空間を覆い隠してしまいかねないように思え、私たちの目指す舞台にはそぐわない。

しかし、ただ舞台にいるだけでは何も生まれない。上に述べたことを実現するため、私たちは「トレーニング」に半年の時間を費やした(これは以前よりPortBが継続してきたことだ。)特別なことをやったわけではない。まず、立つ、座る、歩く、声を出す、呼吸するという日常的な動作を徹底的に洗い直した。メンバーの中にヨガの教師がいるので、主にヨガを参考にしながら自分の身体に意識を集中し、各自が試行錯誤を繰り返した。並行して、そうした日常的な身体の動きを空間や時間との結びつきのなかで探っていく。厳密には分けられないが、空間的には配置や方向や重心やスピード、時間的にはリズムやテンポやタイミングや中断といった要素に関係づけて、身体やその動きをマテリアルに確かめていくのだ。それから声を出来るだけ独立させる為の発声練習。以上の作業には、身体の内部・外部を敏感に感じる「受容体」としての身体感覚が不可欠で、その点でヨガや舞踏の発想が役立った。舞台上での身体運動は、こうしたプロセスの成果をささやかながら形にしたものである。

こうした作業は、日常生活の延長であると同時に、日常生活での身体やその動きを異化する側面を持っている。いわば、「演技」によって日常生活における身体や身振りを洗い直し、また、日常生活における身体や身振りによって「演技」を試験するのだ。こうした作業を通じて、パフォーマーの身体は「生活」と「演技」が交差する場所になる。しかも私たちの制作プロセスは、見方を変えれば、稽古を「現実」に開き、「生活化」する試みにほからならず、フィールドワークも分業の廃止も素人性もそれゆえになされた。展示や引用といったドキュメンタリー的方法によって高島平やボルヘスが報告されたが、それは同時に、プロセスを含めた私たち自身のドキュメンタリーでもあった。そこでは、パフォーマーは彼らのままでありながら、彼らではないような在り方で「存在」した。演技そのものが絵柄として立派な表現になることよりも、展示や引用といったミニマムな行為のなかで、「表現」を極力排除した貧しさやむき出しの存在感こそが重要なのだ。 

「ゲスト」についてはどうだったのか。最後に補足してこのノートを終わりたい。彼らには私のある合図によって6つのテクストを朗読してもらうことにした。彼らにはその部分しか練習してもらわなかったし、全体像を見せることもなかった。どのゲストも一回きりしか出演しない。しかし、彼らは最初から最後まで舞台上に居続けなければならない。全体像をなぞることが不可能になることで、いつ来るか分からない次の合図が出されるまでの「間(あいだ)」、彼らはその場その場をどう過ごすかというところに投げ出されることになる。つまり「間」を埋めるのではなく、その「間」にどう「存在」するかが焦点となるわけだ。その意味で、彼らは「レディメイド」であると同時に、私から見れば「演技」するパフォーマーなのであった。


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Port B(ポルト・ビー) プロフィール


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『ホラティ人』(c)Yuichiro Tanaka


2002年東京にて結成。高山明がドイツで培った演出メソッドを叩き台に、演劇以外の活動に携わるアーティスト・職人・批評家らを中心に演劇的実験を繰り返す。活動の基本方針は二つ。ブレヒトの第一詩集『家庭用説教集』を素材に「教育劇」の理念を探った『シアターX・ブレヒト演劇祭における10月1日/2日の約1時間20分』や、ハイナー・ミュラーの散文戯曲を「生政治」の問題に絡め"翻訳・解剖"した『ホラティ人』などの、「演劇(的)テクスト」に取り組んだ舞台が一方にあり、高島平をフィールドワークし団地で暮らす人達を舞台に招き入れドキュメンタリー性を模索した『Museum: Zero Hour 〜J.L.ボルヘスと都市の記憶〜』、隅田川をフィールドワークした成果と謡曲『隅田川』をクロスさせ、失われた「都市の夢/個人の夢」を弔った『Re:Re:Re:place 〜隅田川と古隅田川の行方(不明)』といった舞台が他方にある。いずれの方向においても、「演劇とは何か」という問いが根底にあり、「きたるべきなにか」としての現代演劇を追求している。

『雲。家。』公演メンバー プロフィール


高山明 [構成, 演出]
1969年生まれ。1994年より渡欧。放浪生活の後、ドイツにて演出活動および戯曲執筆。並行して演出助手として研鑽を重ね、多数の舞台、オペラ等に携わる。1999年に帰国。その後も演劇テクストの執筆、実験的な演劇制作に取り組み現在にいたる。一年半にわたり携わってきた自らのプロジェクトを発展させ、2002年ユニットPort B(ポルト・ビー)を結成、現代演劇の可能性を模索している。2004年ゲーテ・インスティトゥートの招きにより『ベルリン演劇祭・若手演劇人のための国際フォーラム』に参加。2005年ベルリンの『InTransit演劇祭』に招聘されパフォーマンス作品を構成・演出。『ポストドラマ演劇』の著者H=T・レーマンとの共同プロジェクト(フランクフルト/ベルリン)が始まるなど、ドイツでの活動も積極的に行っている。


林立騎 [翻訳,ドラマトゥルク]
新潟県栃尾市生まれ。2005年『ホラティ人』よりPortBに参加。


暁子猫  [パフォーマー]
1973年東京生まれ。早稲田大学第一文学部仏文学科卒業。'97年より、即興チェロのライブ活動。一方、アルバイトでシャンソンを歌い始める。その後アルゼンチン・タンゴに出会い、 '98年よりタンゴ歌手中川美亜に師事、多数のライブ活動を重ねる。2002年Port B立ち上げ当初からパフォーマー・制作として参加。現在は主としてPort Bにて異色のパフォーマー/俳優として活動している。


宇賀神雅裕 [映像]
映像制作者。中央大学文学部社会学科卒業。ドラマ・VP・ミュージックビデオの撮影助手等として、近年は映像編集者として、映像制作に参加する。編集作品として、清水崇監督・映画『稀人』(2004年)などを担当。2005年からPortBの活動に参加。


三行英登 [映像, 宣伝美術]
1979年生まれ。映像作家、グラフィック・デザイナー。
2003年よりPort Bの活動に参加。


江連亜花里 [照明]
2000年より舞台、映像の美術に取り組みはじめる。主に、『白日』(三宅流監督作品、2003年・16ミリ)、『float』(三梨朋子監督作品、2003年・DV)など。現在は舞台の裏方の仕事をしながら、人形アニメーションに挑戦中。


井上達夫 [技術監督]
プログラマー、バンドマン、工作家。Port Bの作品への参加は今回の『雲。家。』で7回目。

Port B作品集 『シアターX・ブレヒト的ブレヒト演劇祭における10月1日/2日の約1時間20分』

『シアターX・ブレヒト的ブレヒト演劇祭における
10月1日/2日の約1時間20分』

2003年10月1日(水)─2日(木)
シアターX(カイ)



観客をひとつの方向にアジテートする演劇、と誤解を受けかねないブレヒトの『教育劇』だが、その可能性は全く逆を向いているように思える。ブレヒトは舞台の観客による「受容」を問題にしていたのであり、その「受容」の内実とは、「“わたし”が世界との関係をどう結ぶか」=「世界を、“わたし”をどう創っていくか」という極めて批評的/創造的なものなのである。

Port B作品集 『Museum: Zero Hour 〜J.L.ボルヘスと都市の記憶〜』

〈都市の肖像シリーズ Vol.0〉
『Museum: Zero Hour 〜J.L.ボルヘスと都市の記憶〜』

2004年9月15日(水)─16日(木)
シアターX(カイ)


都市の記憶と喪失、想起。東京。J.L.ボルヘスの分類の身振り。都市に空いた記憶の迷宮。取るに足らないものの収集。見捨てられた記憶。積み重なる時間の層の不連続。過去の唐突な出現。唐突な出会い。再会。また忘却、想起。



 本作品は、アルゼンチンの詩人J.L.ボルヘスを出発点としている。だが、この作品の意図は、ボルヘスのある作品を形象化することではなく、むしろ「ボルヘスという身振り」を取り上げることにある。ボルヘスの身振り、例えば、それは積み重なった時間の層の中で、忘れられたもの、捨て去られたもの、取るに足らないものを収集し、分類する身振りである。ボルヘスの、あり得ない出会いを促す分類の手付きによって、基底となるタブローそのものが狂わされ、時空間は変容し、私たちは迷子の感覚を味わう。「ある都市で道が分からないということは、大したことではない。だが、森のなかで道に迷うように都市のなかで道に迷うには、修練を要する。」W.ベンヤミンが「ベルリンの幼年時代」で語っていたこんな体験へと、ボルヘスは私たちを導いてくれる。
 他方でこの作品は、東京周辺のとある街としての高島平へのフィールドワークを軸としている。かつては延々と広がる原っぱだった徳丸ヶ原、そこに屹立する現在の高層団地群、またそれを取り囲むようにある街道筋由来の多くの旧跡・・・
 J.L.ボルヘスと高島平。このどうやっても出会いそうにない二つをぶつけてみる。そこに何が生まれるのか。問題となるのは「都市の記憶」、あるいはそこに内在する「死」であろう。高島平という「地層」を発掘するなかで、また住民の方々との幸運な出会いのなかで、私たちもまた、とるに足らないもの、捨て去られたもの、虐げられたものの収集に努めた。東京という都市の一郭に眠る記憶の地層が、どんな形をとって現れ、私たちを迷子にするのだろうか。
 記憶への旅。Museum: Zero Hourへようこそ。

Port B作品集 『ホラティ人』

『ホラティ人』

2005年3月16日(水)─17日(木)
シアターX(カイ)


つるっぺらと 無痛覚なトウキョウの痛み



ローマを救った英雄であり、かつ実の妹を殺した殺人者でもあるホラティ人は、
民衆の厳格な思考と言語によって判定され、賞賛されると同時に処刑される。
そこに生じる二項対立のメカニズム──切る、分ける、裁く、絶つ…その行き着く先は?
割り切っても割り切れない残余とは?
〈言語/思考〉と〈身体/共同体〉の問題に対するミュラーの問いに挑む。


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ブレヒトの批判的継承者にして20世紀最大の劇作家の一人、ハイナー・ミュラーの『ホラティ人』は、古代ローマを舞台とし、1968年に東ドイツで執筆されたテクストです。
それをどのように現代の私たちの状況に接続するか。
このあからさまに暴力的で政治的な物語を、今の東京でそのまま上演しても空回りするだけ、かと言ってそこで問われている問題を完全に捨て去ってしまってはハイナー・ミュラーのテクストをやる意味が無い。「つるっぺらと無痛覚な」ように見えるトウキョウに潜んでいるはずの「痛み」や「亀裂」や「割り切れない残余」に注目することで、また、言葉と格闘した成果を舞台空間に「翻訳」する術を探ることで、難攻不落といわれるこの散文戯曲にPort Bならではの形を与えられたらと思っています。
(当日パンフレットより)
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Port B作品集 『Re:Re:Re:place 〜隅田川と古隅田川の行方(不明)〜』

〈都市の肖像シリーズ Vol.1〉
『Re:Re:Re:place 〜隅田川と古隅田川の行方(不明)〜』

2005年12月14日(水)─16日(金)
アサヒアートスクエア(アサヒスーパードライホール 4F)



 この舞台の出発点である謡曲「隅田川」は、出会えない能だといわれる。人商人にさらわれた息子を探し、東(あづま)の果ては隅田川に辿り着く母。対岸に築かれた塚では大念仏の法要がとり行われようとしており、去年同月同日人々がそこへ葬ったという幼い迷い子こそはまさしく自分の探す子梅若丸であったことを知る。民衆の唱える大念仏のなか母にはわが子の声が聞こえ姿も見えたのだが、それは一時の幻であった。
 ところで、この能の舞台としての隅田川、そして梅若伝説は、実はこの東(あづま)の地でも鐘ヶ淵と春日部という二つの土地に根を下ろしている。それぞれに隅田川と(古)隅田川が流れており、どちらにも梅若塚やゆかりの碑などが存在しているのだ。
 歴史上いく度かの河川(線)の引き直しを経て、もはや連絡することなく、いまこの瞬間も同時に流れている二つの隅田川を巡り、書き換え、置き換えられ、移植され、映し重ねられてゆくさまざまな夢、「都市の記憶」が浮かび上がってくる。産業革命とともに紡績と鉄道がさまざまな“糸”と“線”を川筋に交錯させてゆくこの土地に、吸い込まれていった無数のウメワカ(梅若/埋若)丸の、さて行方やいかに‥

Port B作品集 『ニーチェ』

『ニーチェ』

2006年3月18日(土)─22日(水)
BankART Studio NYK ホール


百 年 後 の  ニ ー チ ェ 。



哲学者ニーチェと思しき人物とその家族を描いた『ニーチェ 三部作』は、稀代の哲学者が晩年に精神を冒されて戻った実家を舞台とし、ニーチェ、母、妹が登場する。気宇壮大な哲学思想は、実家での生活のなかで歪められ、書き換えられ、その「継承者」となった妹により次の世代へと「伝達」されていく。時は十九世紀から二十世紀への変わり目、家族という私的な時空間を舞台にした『ニーチェ 三部作』だが、二十世紀から二十一世紀への転換を経験した私たちは、この作品をどのようなアレゴリーとして読み解き、書き換え、今の時代に切り開いてみせることが出来るのだろうか。

Port B作品集 『一方通行路 〜サルタヒコへの旅〜』

『一方通行路 〜サルタヒコへの旅〜』

2006年11月2日(木)、3日(金)、5日(日)、6日(月)、10日(金)、11日(土)
[追加公演:11月23日(木)、26日(日)]
東京都豊島区巣鴨地蔵通り、および庚申塚周辺


Port Bによる“出会い系”ツアー・パフォーマンス


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(c)読売新聞

巣鴨地蔵通り商店街をイヤフォンガイドに従い一人一人歩いていくツアー・パフォーマンス。受付場所の喫茶店を出発し、時計店、人形館、はんこ屋、商店街事務所、中庭、補聴器店、たいやき屋、美術館、CDショップ、時計店を巡り、“道案内”の神サルタヒコを祀る庚申塚が終点となる。途中、人形館で人形を見る自分の姿が隠し撮りされその映像をたいやき屋で見せられたり、前に語った出会いの話の録音を、補聴器店で行われる「聞こえ診断」で聞かされたりする。CDショップで歌のライブを聞いたりもするが、商店街事務所における夢の話も中庭における出会いの話も参加者自らの物語であり、それぞれの「旅」を通して自分だけの「筋」が紡がれていく。

TIFポケットブック
もくじ
mark_tif TIFについて
mark_sugamo 巣鴨・西巣鴨
mark_ort 肖像、オフィーリア
mark_america アメリカ現代戯曲
mark_atomic
mark_portb 『雲。家。』
mark_ilkhom コーランに倣いて
mark_familia 囚われの身体たち
mark_rabia 『これがぜんぶエイプリルフールだったなら、とナンシーは』
mark_druid 『西の国のプレイボーイ』
mark_becket ベケット・ラジオ
mark_regional リージョナルシアターシリーズ
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