becket

2008年02月10日

もくじ

ベケット・ラジオ劇評 川島健(早稲田大学 演劇博物館COE客員研究助手)

ベケット作品におけるラジオドラマ
■作品解説
 『残り火』(演出:阿部初美)
 『カスカンド』(演出:岡田利規)

■『カスカンド』稽古場日誌(TIFスタッフ:増田豪介)
 3月1日
 3月2日
 3月5日
 3月6日

2007年04月19日

ベケット・ラジオ 『残り火』阿部初美 『カスカンド』岡田利規
川島健(早稲田大学 演劇博物館COE客員研究助手)


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『残り火』(c)Hidemi Shinoda


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『カスカンド』(c)Hidemi Shinoda


 ベケットが、ラジオドラマのための台本を書いていた事実はあまり知られていない。今回東京国際芸術祭で上演された『残り火』と『カスカンド』は、全六作ある彼のラジオドラマ台本の中でもマイナーな評価しかされていない。前者は多くの批評家から失敗作とみなされ、また後者は似たようなモチーフを持つ『言葉と音楽』の陰で目立たないテクストである。
 ベケットのラジオ作品の特徴は「見せない/見えない」というメディアの特徴を最大限に生かした手法にある。『すべて倒れんとする者』でヒロインのマディは「黙っているからって、私がいないなんて想像しないでね」という。それは他の登場人物に向けられた台詞であるとともに、ラジオからそれを聴く我々聴衆に向けられたメッセージでもある。視覚的要素に頼らないこのメディアでは、しゃべること、音を立てることが存在の証明となり、沈黙と無音は不在とみなされる。このような「暗黙」の前提をベケットは逆手に取る。黙っているけど存在しているもの、音を立てないけれど存在しているものがベケットのラジオドラマの空間を満たしている。そのような存在と不在のパラドキシカルな関係をうまく浮かび上がらせることができたならば、ベケットのラジオ作品の演出はひとまず成功であろう。
 しかし今回はそのラジオドラマが観客の前で上演され、視覚の対象となる。存在と不在を置換させるレトリックに代わる文法が必要となろう。果たして阿部と岡田の演出は全く対照的なものであった。
 『カスカンド』には鈴木忠志のテクストによく引用される部分がある。SCOTの役者が腹の底から捻り出すように語る『カスカンド』の言葉とは対照的に、松井周(開く人)と増田理(声)の言葉は低く吐き出される呟きと化す。前方に「開く人」、後方に「声」のみが配置されたミニマリズムな空間は否応無しに我々の視線を俳優の身体に誘うことになる。もちろん「ラジオドラマ」という名目上派手な身体表現はない。しかし手前で胡坐をかく「開く人」においては、肉眼で確認が出来ないくらいの微妙な動きがその体勢を侵食していく。同じ台詞が繰り返される眩暈のようなテクストは時間そのものの流れをせき止めるような錯覚を与える中、身体のみが時間の経過を示唆してくれる。極端にゆっくりとした仕草により時間が刻まれる舞台で、日常的なリズムから逸脱した空間を我々は目の当たりにすることができる。
 『カスカンド』が俳優の身体と声の力を最大限に引き出した作品であるとすれば、阿部の『残り火』はテクストの隠れた意味を最大限に利用した上演であった。大きな変化は語りの後景をなす効果音の使い方である。ベケットのテクストでは全編に波の音が流れているように指定してある。それはリアリズム的な空間設定に貢献するとともに、ヘンリーの内向的な言葉を際立たせる効果をも担っている。阿部の演出では、この波の音がラジオのノイズのような音に変えられている。現実的空間はあらかじめ捨象され、全てがヘンリーの頭の中の現象であることがはじめから明らかにされる。
 阿部の工夫が見えるもう一点は、テクストに潜む性的インプリケーションが前面に出されている点である。50年代のベケットの戯曲は多くのダブルミーニングを隠し持っているが、この『残り火』もまた例外ではない。孤独で陰鬱な主人公に、性的な幻想の衣装がかぶせられ、テクストの重層的な意味が発掘させられる。特に白眉であったのは、野村昇史と福田毅の演技である。元来、小難しく解釈され、重厚に演じられることが多かったベケットの戯曲だが、二人の掛け合いは、そのような枠組みを超えて、テクストの再解釈を迫るものであった。

 今回の企画の特色は作品の対照性である。『カスカンド』は、その登場人物「開く人」と「声」の名が指し示すとおり、きわめて抽象的な作品であるが、『残り火』はとりあえずリアリズム的な枠組みからスタートする。ポスト・パフォーマンス・トークで司会の市村作知雄が指摘したとおり、上演に関する限り、『残り火』のほうが難しい。というのも、具体的から抽象性という移行はラジオでは容易に演出しうるが、観客の前で演じられるラジオドラマという今回の状況では、そのようなトリックは困難である。何しろ我々の目の前には俳優の身体があるのだから。
 阿部はこの俳優の身体の処理にやや戸惑っていたようだ。足音、乗馬やピアノの練習など「生音」へのこだわりが伺え、効果音の工夫など感心する部分も多かったが、はじめからヘンリーの頭の中の出来事という設定が明らかになっている以上、生音の効果の程はいささか疑問であった。一方、『カスカンド』は岡田が言うように「簡単」な作品である。「開く人」と「声」の関係は、過剰な解釈を拒み、演出の選択肢を限定しているからだ。岡田自身も冒険をすることなく手堅くまとめてはいたが、その反面、驚きの少ない舞台であったことは否定できない。
 ポスト・パフォーマンス・トークでドラマトゥルクでの長島確の話が興味深かった。ベケットの作品はすでにアヴァンギャルドではないし、また古典とよばれるようなキャノンに数えられているわけではないというのがその主旨である。斬新な演出を可能にするほど、(少なくとも日本では)ベケットの作品は普遍的な価値を得ていないし、またオーセンティックな演出をすれば、保守的で退屈と見られてしまう。そのようなジレンマが今、ベケットを演出するものに課せられることは事実であろう。古さと新しさの狭間にあるベケットのテクストを上演するプレッシャーが演出家にはあったはずである。長年ベケット・ライブでその作品を手がけてきた阿部の作品には、その戸惑いが感じられた。一方、今回初めてベケットに(というか他人の書いた台本に)挑む岡田にはそのようなプレッシャーは無縁であったようだ。
 それでもやはり、演出の迷いがそのままでたような阿部の『残り火』を評価したい。作品が古典となるのは、テクストを死守する番人によってではなく、大胆で極端な解釈により作品を読み替え図ろうとする者の手によってであるからだ。戯曲は演出家と俳優の迷いと逡巡を吸収し成熟する。躊躇いがちに出した一歩目が作品を普遍化へと導くとすれば、今回の『残り火』は確かにそのような一歩であった。

2007年03月15日

『カスカンド』稽古場日誌 3月1日


いよいよ今日からベケットラジオの稽古が始まりました。

今日は、横浜にある「急な坂スタジオ」に、
演出の岡田利規さん、ドラマトゥルクの熊倉敬聡さん、
俳優の増田理さん・松井周さんがそろいました。

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岡田利規(演出)

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熊倉敬聡(ドラマトゥルク)

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増田理(俳優)

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松井周(俳優)

このベケットラジオは、サミュエル・ベケットがラジオドラマのために
書いた作品を東京国際芸術祭で公開収録し、インターネットで配信しようというものです。

写真は、スタッフを交えて稽古場で打ち合わせをしている様子です。

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「え?これが稽古場?」と思われる方もいらっしゃるでしょうね。
急な坂スタジオは元結婚式場で、その和室を使っているので、
なんだか不思議な雰囲気なんです。

今日は台本の読み合わせをして、
『カスカンド』の不思議な世界にそろそろと足を踏み入れていきました。
明日から、この和室でどんな作品が出来上がっていくのでしょうか。

公開収録の本番は3月29日(木)と30日(金)。
阿部初美さん演出の『残り火』と二本立て。
請うご期待、です。

増田豪介

『カスカンド』稽古場日誌 3月2日


昨日から始まった『カスカンド』の稽古ですが、
今日は初めて音楽をつけて行うこととなりました。

この作品、「音楽と言葉のためのラジオドラマ」とベケット本人が表題に書き記しているように、音楽が台詞と同様のテキストを構成する要素として扱われているんです。

音楽は岡田さんが選ばれたアンビエントの楽曲を使用する予定ですが、
今回の演出について共有されているイメージにぴったりと合っていて、
二人の俳優から発せられる言葉と重ね合わて聴いていると、
意識がどんどん拡張していくような感覚にとらわれます。

この『カスカンド』という作品において音楽と共にある言葉。
今回の演出で、岡田さんが俳優のお二人に求める台詞の在り方とは、「言葉の物質性」。
目指すものは、「モノとして、言葉をダイレクトに観客に注入する」ことだそうです。

実際、今回の出演者である松井さん、増田さんはお二人ともいろいろなイメージを
聴く側に喚起させてくれるような多義的に豊かなとてもいい声の持ち主なので、
そんなお二人の声が、言葉が、イメージが、脳の中に直接注射されてしまうと、
時間の感覚が弛緩し始めて、どこかへトリップしてしまうような
「気持ちのいい」意識の解放感を感じずにはいられません。

まるで、夢を見るような感覚。
みなさんもぜひ、ベケットの「気持ちよさ」を体験しに
西巣鴨へいらしてくださいね。

本当の夢は、ベッドの上で見ていただけたら幸いです。

増田豪介

『カスカンド』稽古場日誌 3月5日


実際に稽古していく中で、照明のプランもおおまかに決まって、
西巣鴨の舞台に立ち現れるだろう姿がボンヤリと見えてきました。

身体と言葉の関係性に問題意識を留めつつも、
そのあたりの演出を最小限に抑えることで、
言葉や音楽といった聴覚的な媒体が、
イメージや記憶、感覚といったものをどのように身体に喚起するのか、
といったラジオドラマという聴覚表現ならではの在り方を
追求していくような作業が続いています。

例えば、イメージを捉えつつ、「それを「いま、ここにある」のものとはせずに、
「映画のスクリーンを見る」ような感じで」というように
岡田さんが俳優さんたちへかける言葉は感覚的でありながら、
伝えることが難しいポイントをズバッと的確に指摘していきます。

一方で、そういった演出に対して応えるお二人(増田さん、松井さん)の
演技は、回を重ねるごとに何かしら見えてくるものがあって、
日々変化している様子がまざまざとわかります。

今までずっと座って稽古をしていた増田さんが、
「立って発声するように変えただけでも、
言葉のイメージに対する距離感がぐっと変わってしまった」
と言われていたように、
ほんの些細な変化でも身体には響いてきてしまうもので、
ひいては、作品全体の雰囲気をがらっと変えてしまうことになりかねないのだ、
ということが実感される稽古が続いています。

あと一ヶ月、西巣鴨の体育館にどのような空間が表象されるのか、
また、インターネットラジオというメディアによって、
どんな物語が配信されるのか・・・。

ベケット×岡田の世界が、スピーカーから流れ出る日はもうすぐです。

増田豪介

『カスカンド』稽古場日誌 3月6日


本日で、ここ「急な坂スタジオ」で稽古をするのも最終日となりました。

実際に想定している本番に近い環境で望もうと、
俳優の増田さん、松井さんにマイクを通して発話してもらうなど、
簡単に機材を導入しての稽古となりました。
いつものように、機材準備と心構えがついたところで稽古開始。

・・・「沈黙」の後に、「はい」という岡田さんの声で本日一度目の通し終了。
そして、簡単に反省点を述べられた後の岡田さんの感想は、「ね、眠い・・・。」(一同 笑!!)

というのも、先日レポートしたように、とても心地良いんです、この作品・・・。
ベケットの無駄のない言葉が、点滴の雫が滴って体の中に注入されていくような感じ。
作品が始まるといつもと違う静かな時間の流れが部屋を支配し、
聴き手は湧き上がってくる情景に身をゆだねていると、
ついうっかり眠りの世界に入ってしまいそうになります。
徹夜あけの場合など、特に要注意です。

演出家・ドラマトゥルク・俳優が、稽古という共同作業の中で
言葉とイメージの在り方をとても繊細に取り扱っています。
稽古では語義的な意味というミクロな問題から、
演出全体に関わるマクロな問題までを行きつ戻りつし、
霞んでいる全体に部分的ながら光を当てては輪郭を確認するという
作業を積み重ねる中で、日々を追うごとに、コンセプトや意識、
感覚が共有され、少しずつひとつのカタチが作られつつあります。

明日から岡田さんは大阪でのワークショップに講師として行かれるということで、
稽古はここでひとまず一区切りということになりますが、
稽古場を西巣鴨に移してから、この舞台、またもう一脱皮しそうな予感です。

またレポートします。どうぞ、お楽しみに。

増田豪介

2007年02月10日

[2/10掲載] ベケット作品におけるラジオドラマ

ベケット作品におけるラジオドラマ

ベケットは、57年、グローヴ・プレスの編者に「ジャンルをしっかり区別できなかったり、混乱した状態から抜け出せないくらいなら、家に帰って寝るほうがいい。(Ruby Cohn, Just Play: Beckett’s Theater, 1980)」と手紙で書き送っている。

つまり、小説や演劇、ラジオやテレビといった様々なメディアに対して、それぞれの特性を際立たせる形で作品が作られるべきだというベケットの意見がここではっきりと提示されている。
例えば、戯曲『ゴドーを待ちながら』がテレビ作品として放映されたのを見てベケットが激怒し、広大な空間とその中に居る小さな人間との対比を明らかにするためにはテレビは小さすぎると言い放ったというエピソードは、ベケットがある時期ジャンルの峻別に徹底してこだわっていたことを裏付けている。

演劇には演劇の、テレビにはテレビの、ラジオにはラジオの確固とした特性があり、それらの境界/限界をつきつめようとする点がベケット作品の特徴の一つであるといえる。


ベケットはラジオというメディアをどのように捉えていたのか?

ベケットのラジオ作品は主に50年代後半から60年代前半に集中して執筆、放送されている。
50年代後半以降の演劇作品には、それ以前には見られなかった特徴が散見される。
例えば、ベケットがラジオ『すべて倒れんとする者』を書いた直後に書かれた戯曲『クラップの最後のテープ』では、舞台の主役であるはずのクラップがテープから流れる過去の自分の声にひたすら翻弄され、戯曲『あのとき』や『ロッカバイ』では、舞台はスピーカーから流れる声に支配され、生身の役者が言葉を発する機会はほとんど奪われる。

人が声を発する時、自分が話すのを同時に自分の耳で聞くことで発話が成立するのだとすれば、これらの戯曲は、自分自身から発せられるはずの声を自分の身体の外から聞くという、「話す」私と「聞く」私の分裂が舞台上で引き起こされることになる。
これらは、ベケットがラジオでの作品づくりを経て録音された声への興味を深め、それを舞台に転用したと考えることができる。ベケットは、自身の内なる声/記憶が外在化され実体化するという構図を、ラジオというメディアに対して描いていたのではないだろうか。

 『すべて倒れんとする者』から『カスカンド』に至るまでに、ベケットのラジオ作品は大きく変貌する。前者の時点では台詞の内容から情景を連想するのが可能であるのに対し、後者に至っては何らかの一貫した状況なり物語なりを想像することがほとんど不可能になる。
「言葉」が主な要素であった初期のラジオドラマに対し、後期には「音楽」と「沈黙」が介入してくるのである。ベケットにとってのラジオとは、言葉と音楽のみならず、ノイズと沈黙をも取り込むための装置だったといえるだろう。


岸本佳子

[2/10掲載] 『残り火』作品解説

『残り火』作品解説

物語の冒頭、主な語り部となるヘンリーは砂浜で自分の記憶をあてどなく独白する。数ページに渡る長台詞を延々とつぶやき続けるが、その内容は主に父親への語りかけである。おそらく海で亡くなったらしい父親との諍いを一つ一つ思い出し、自分がこの世に生まれたことへの恨みをつらつらと語りながら、突然妻のエイダの名前を叫び、独白から妻との会話へと移行する。エイダとの会話から、ヘンリーは夫婦関係にも、親子関係にも破綻をきたしていることが伺い知れる。娘のアディーが教師と共に登場してきても、娘と直接会話を交わすことすらない。やがて、最初は献身的だったエイダも、行かないでくれというヘンリーの求めに応じることなく彼の元を去る。冒頭の展開を反復するかのように数ページに渡るヘンリーの独白が続き、海の音と共に物語が終わる。

英語版の原題である『残り火(=Embers)』も、仏語版の原題『灰(=Cendres)』も共に、完全な終わりを迎える一歩手前でくすぶり続けなければならないヘンリーの生の不毛が際立たされる。

ヘンリーが砂利を踏む音や、ヘンリーとエイダの台詞の背後にかすかに聞こえる海の波音から写実的な作品とも考えられるが、ヘンリーがエイダと会話を交わす最中に彼らの娘や娘の音楽教師、乗馬教師がピアノや馬と共に次々と登場することから、すべてはヘンリーの意識の中で起こっていることとも考えられる。主人公と様々な他者が織りなす情景鮮やかな前作『すべて倒れんとする者』から、他者が存在せず明確な状況を思い描くことが困難なベケット最後のラジオ作品『カスカンド』への過渡期に明確に位置づけられる作品である。


岸本佳子

[2/10掲載] 『カスカンド』作品解説

『カスカンド』作品解説

この作品に登場するのは“開く人(Ouvreur )”と“声 (Voix )”の二者のみであり、ときおり“音楽”が挿入される。クライマックスと呼べるような展開は皆無であり、あらすじと呼べるような一貫した物語も存在しない。

冒頭で、“開く人”の「開こう」の一言をきっかけとして、“声”が低くあえぎながら言葉を羅列し始める。台詞を話す、というのではなく、ひとかたまりの単語をぶつ切りにしながらぽつぽつと言葉を連ねて行く。同じ言葉を反復しつつ、少し進んでは後退し、後退してはまた進み、また繰り返すかと思えば跳躍し、またいつのまにかもとの言葉に戻る。言葉が意味を逃れようと試みるかのようでもあり、言葉に雨だれが石を穿つかのような攻撃を執拗に加えていき、そこからしみ出してくる何かを拾い上げようとするかのようでもある。“声”が途切れ途切れにしか言葉を紡ぎだせないとすれば、この作品ではむしろ沈黙が言葉の存在を支えているともいえる。

かろうじて分かるのは、どうやら“声”が「物語」を終えたいと願うが終えられずにいること、「モニュ」と呼ばれる何者かが船に乗ってどこかへ向かうのを“声”が追っているらしいことである。“声”が語る言葉が同じところを何回も行ったり来たりし終わりが見えないのと同様に、“開く人”と“声”とのやりとりも終わる可能性のないまま延々と続いていく。

 “声”による言葉の反復が続く中で、“開く人”は執拗に“声”に耳を傾け続ける。これら“開く人”と“声”とは、2人の登場人物であるよりも、1つの意識の中で分裂した自己と捉えられるかもしれない。

ベケット自身、この作品について次のように語っている。「“開く人”というのは、知覚する側の自己であり、一方で“声”と非言語的な感情の流れである“音楽”は、知覚する部分に知覚される側の自己である(Martin Esslin, Mediations, 1980)」。
このような形での自我の分裂状況は、例えば舞台の上で視覚的に再現することがほとんど不可能な命題である。ベケットは、ラジオの聴衆のいわば完全な盲目性を最大限に利用し、それまでの演劇や小説作品における「自我」のテーマを聴覚のみの次元からさらに掘り下げたといえる。
  
 『カスカンド』は一個の独立した自我、あるいは自律した言葉、完全なる沈黙、耳に心地よい音楽、といった要素とは完全に無縁なラジオ作品であり、それ故に同時代の他のラジオ作品とは一線を画す、独特の形式と内容を伴う作品となっている。


岸本佳子

TIFポケットブック
もくじ
mark_tif TIFについて
mark_sugamo 巣鴨・西巣鴨
mark_ort 肖像、オフィーリア
mark_america アメリカ現代戯曲
mark_atomic
mark_portb 『雲。家。』
mark_ilkhom コーランに倣いて
mark_familia 囚われの身体たち
mark_rabia 『これがぜんぶエイプリルフールだったなら、とナンシーは』
mark_druid 『西の国のプレイボーイ』
mark_becket ベケット・ラジオ
mark_regional リージョナルシアターシリーズ
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